幕末の土佐藩主「山内容堂」…再評価へ [902666507]
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幕末維新史を変えかねなかった、「鯨海酔侯」山内容堂の隠された生涯
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88235?page=2
15代土佐藩主山内豊信(1827〜72。本書では、以下退隠後の雅号である容堂を用いる)は、幕末維新政治史上に登場した特異な封建支配者である。
むろん、人によって評価は異なるが、孝明天皇・岩倉具視・徳川慶喜・西郷隆盛・大久保利通・高杉晋作といった最重要クラスに準ずる人物の一人であったと位置づけてよかろう。
ただし、それは、幕末史上で重要な役割を実際にはたし、大きな足跡を残したということではなく、大きく時代を動かしかねなかった人物だったという意味においてである。
つまり、当該期にあって、容堂は、政局を自分の思う方向に導ける立場に何度もたった。
だが、容堂を生涯にわたって苦しめつづけた体調不良に加え、ごく普通人の眼から見れば、なんとも理解しがたい、
その独特のありようによって、みすみす自分に与えられたチャンスを逃すことが再三におよんだ。
もし容堂が健康に恵まれ、かつ粘り強く物事に取り組む真摯な姿勢を一貫して保持しえていたら、幕末維新史は、われわれの知るそれとは、大きく異なるものとなった可能性がある。
すなわち、強烈な尊王(皇)精神の持ち主ではあったものの、冷静に天皇のありようを眺められた容堂ならば、天皇は国家の最高機関であるとする天皇機関説や象徴天皇制に近い考えを、
新しく成立した国家のもとで提唱しえた可能性がかなりあったように思える。
しかし、そうした容堂の存在は、これまで幕末維新政治史上で正当に評価され位置づけられてきたかといえば、そうではない。
そして、これには長年にわたって幕末維新史研究が幕府対薩長両藩の対立を軸に振り返られてきたことが大きく関わった。
薩長両藩のことを研究しておけば、王政復古にいたる政治過程は解明しうるとされたなか、土佐藩の容堂などは顧慮する必要がない存在だと考えられたのである。
それに、人気者の範疇にとうてい入らないことが重なって、これまで本格的に研究されたことは、一部の例外を除いてはなかった。
以下略
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88235?imp=0 >>159
他藩の人間を他国の人間に置き換えれば今もよくいるタイプじゃね
外国人に対しては良い顔して平等ぶってるけど同じ日本人に対しては差別的で攻撃的な連中
たとえば鳩山由紀夫みたいな まあ土佐山内家は薩摩や長州みたいな経済力も軍事力も無かったし、親藩でも譜代でもない田舎の外様大名だからな
出来る事に限りがあったのはやむを得ないだろう 山内ほど「良い話」の無いヤツも珍しいがよく大河になったな 土佐藩といえば三菱創業者の岩崎や龍馬
山内はなにしたかよくわからん 土佐の国ではバッカス的な立ち位置なんだぞ?
武田鉄矢の思想に侵された人がこうも多いとは驚きだよ。 >>139
乾退助は土佐藩士当時から下士との交流が多い人物で、中岡慎太郎とやり取りした手紙がたくさん残ってるよ。 ちなみに山内容堂や土佐藩にまつわる認識がここまで歪んでしまった原因に司馬史観を挙げている人がいるけど、司馬作品はまだマシな方なんだよ。
あくまで、おーい竜馬の嘘松っぷりと比べての話だが。
「功名が辻」では、いちおう長宗我部旧臣を、重臣と一領具足で分けて扱っているし、「竜馬がゆく」の剣術試合のくだりは、「山内容堂のような出色の人物でさえこうだ」というエピソードとして語っている。
吉田東洋の先祖が長宗我部旧臣であることも書いてるし、史実では竜馬と直接の面識のない乾退助をわざわざ出してきて、竜馬に対して「自分はあなたを尊敬している」と言わせている。
司馬遼太郎の小説を中途半端に読んじゃうと、おーい竜馬みたいなおかしなものが出来上がる。 なんで賢いって言われてんのか分からん。
なんか特別な事したか? >>178
(おそらく前藩主の正室の実家繋がりで)薩摩藩主らとつるんで幕閣に対する政治活動を活発に行っていたから。 >>179
雄藩の指導者だから(容堂は前藩主だし、島津久光は藩主ではない)
全国250藩のうち、幕末のかなりの時期を通じて独自の動きをした藩(例えブレブレでも負けでも)を雄藩という。 山内容堂らの四賢候の場合、賢いとか藩政の面で実績があるとかよりも、そういう名前の政治ユニットだと思っておいた方がしっくり来るかも。 容堂は死ぬまでアル中で借金しながら酒飲みまくってたしな。 隣の蜂須賀も山内と同じくええかっこしいで主義を行ったり来たりのアル中だったが、早死にしたのでアホ弱虫という評価しか残らなかった >>66
本当は拷問でアッサリ吐いたんだが、武田鉄矢解釈だと
武智に暗殺されかけたから吐いたとなる >>187
松平春嶽は孫が戦犯合祀勝手にやってしまった大馬鹿者なのがな >>187
その3人全員江戸っ子
高知出身の酔鯨の殿様は大河でも土佐弁だった >>191
ヨーロッパの王侯貴族がみなフランス語で喋ったように、大名がみな江戸言葉ってのは笑えるな〜 >>192
大名なんてほとんどが江戸生まれ江戸育ちじゃない? >>190
あれは大きな瑕疵を作った昭和天皇がS級戦犯だと思う
神道的にはなんの問題もないしね
下手に御霊触った天皇家は祟られて男子ができなくなったし >>184
容堂は徳川擁護で改革志向という点ではそれなりに一貫してるぞ
その方向性を望んでる流れはどこにもなかったけど 伊達宗城は生まれながらの旗本育ち
祖父が伊達家から旗本に養子に入ったとはいえ、この経歴でよく大名の養子に望まれたものだな
当時なら将軍の息子か孫達を押し付けられても不思議では無いのに >>193
正室と世継ぎは江戸住まいだからね。
期せずして江戸言葉が大名の共通語になった。
庶民のロシア語がよくわからなかったロシアの貴族みたいに、国元に帰ったら話通じない殿様もいただろうな。薩摩とか津軽とか。 >>196
家斉殿の55人が片付いてたんじゃないの? >>194
松岡洋右への個人的な恨みでしかないからな。
そもそも松岡は裁判中に死んだから「戦死」でもないし。 >>66
小説やいろんな読み物で、武市に毒を差入されて失望して吐いた、とか、差入される事の意味に以蔵が吐くことによって他の皆が救われると悟って、とか事実は一つなんだけどそこから色んな意味が受け取れる興味ある出来事だね。 吉良の娘の人気に嫉妬
脱藩して正解だったね。受け入れた東京人の懐の広さに脱帽。 >>2
なんだっけ
勤王か佐幕フラフラしてるから
何かあだ名ついてたよな 一豊は所詮成り上がりだから国持ち大名つっても治めるの大変なとこを押し付けられただけだよな
できなかったら取り潰しで別のを入れるか土佐国を分割するか
どちらにせよ一豊は終わりだ 幕末の土佐藩の微妙な動きは山内容堂の陽動作戦だった。 小御所会議で山内が徳川擁護したと言うことは、
小身から国持ち大名にしてくれた徳川への恩義を山内家は代々持ってたんだろな
土佐みたいな難治の国であっても >>66
毒を盛られても白状しなかったけど、
武市に竜馬は薩摩に庇護されてるから大丈夫だと言われて絶望して吐いたんだよ 世間で坂本龍馬と言われている人物は武市半平太だからね
実際の坂本龍馬という人物は斎藤一を名乗って新撰組に入り、大正まで生きた >>199
色んな意味で松岡は靖国に入る自体間違いだよ。広田も気の毒 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています