8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
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太平洋戦争の終戦前後を生き抜いた市民ら6人が語る「戦争体験談の集い」が10日、明石市の市立勤労福祉会館であった。
特攻隊、引き揚げ、学徒動員などを体験した80〜90歳代の市民らは戦後74年を前に「なぜ、あの戦争が起きたのか」「今、どうすべきなのか」と体験を交えて訴えかけた。
会館で開催中のイベント「第15回ピースフェスタ明石」(11日まで)の一環として開かれ、約80人が聴き入った。
豊岡市出身の元特攻隊員、伊原昭さん(92)=明石市=は旧制豊岡中学(現豊岡高)在学中の1943年、…
https://mainichi.jp/articles/20190811/ddl/k28/040/200000c 戦争終わってからが日本にとって本当の地獄だった
終戦の混乱時に三国人と共産党がありとあらゆる
犯罪を犯した。
たくさんの日本人が殺され、暴力を受け女性は犯された
我々日本人は決して忘れてはいけない 亡き祖父が中国で中国人と銃撃戦やったって言ってた
足撃たれて傷が残ってたわ 戦死したおじさんの遺骨が送られてきたので葬式を出したら
終戦後おじさんが帰ってきた、恐る恐る埋葬した骨壺の中を調べたら
石や木が詰められていたらしい 学校から帰ってくると海に食料を求めて漁に行ってたらしい
小学生なのに船を持ってたとよ 死んじゃったじーちゃんはアメリカ兵から貰った缶詰のハムが美味くて驚いたってよく言ってたな ばあちゃんが、戦時中の看護婦(あえてこう書く)だったが、えぐいぞ ソロモン宙域で遭遇したガンダムは鬼神の如く強かったらしい 応仁の乱の時は大変だったって。
当時尻軽兵だった祖父が言ってた。 爺さんがイケメンは海軍になってブサイクは陸軍って言ってたけどマジ? そりゃ聞いたわい 爆弾で首飛んだとかだぜ 今でもトラウマだわ 死んだじいちゃんは両方とも出兵してたが戦争の話はついぞしなかったな
ただテレビにアメリカ人が出た時に気持ちわりぃ…って呟いたのは普段そんな言葉使ったりしない人だったから印象的でよく覚えてる 南京で仕事していた、おじいちゃんが虐殺なんて一切無かったって言ってた。便衣兵が、盗みして追っかけられたのしか見てない。TV は、嘘ばっかりと言ってた。 アメリカ軍の捕虜になった時に毎食出されたチーズが生死を分けたと言ってたな
食えた上に乳糖を分解出来る体質の奴が生き残り、食えない、食えても腹を下す奴は弱って死んでいったそうだ 母親の父親は通信兵、父親の父親は陸軍で東南アジアに行ったらしい。 父方のひいおばあちゃんからきいたんだが台湾征伐のときに中国人の首跳ねたといってたな!
ひいおばあちゃんの旦那のことだとおもうけどこれガチの話だぞ >>25
南京虐殺はGHQが作り出したプロパガンダだからね
米国こそ非戦闘民を大量虐殺した張本人だから
その罪を覆い隠すために作り出したプロパガンダ コモドオオトカゲは鶏1匹でひと月餌やらなくて済む
コモドオオトカゲは臭い 母は新潟のド田舎の農家出身で普通にご飯食べてたって
少しだけ工場動員行ったけど、ギスギスしてて疲れたそう 朝鮮人は日本兵の言うこと聞かず暴れまくってたってさ 大和造船に携わってたそうなんだけど、祖父はスクリュー担当だったそうだ。
何年か前に大和が引き上げられた時に「大和は4枚だった」ってボソっと言ってたのは覚えてる。
元来スクリュー3枚羽だったのを、推進力をあげる為に4枚羽を取り付けたんだけど、一部構造的な欠陥でトラブルに遭って結局3枚に戻したと。
その時はふーんとしか感じなかったけど、もうちょい聞いておけば良かったなと後悔。 俺の婆ちゃんの弟が広島の原爆で死んだ
「水をくれ、水をくれ」とずっと言っていたそうだ
婆ちゃんの夫の爺ちゃんは満州に派遣され終戦後、無事帰国したが戦争の話をするのはタブーだったと父ちゃんが言ってた おじいちゃんがインド洋で戦死
父親が呉から原爆のきのこ雲見てた 戦時中特高に居た親父の叔父の所に戦後米軍将校(パイロット)が訪ねてきて、捕虜になってた時お世話になりましたと言って食料等を持って来たって話を聞いた事がある 父方の爺さんが兵隊だったが、戦死してるからイタコの力を借りないと話聞けんわ 朝鮮で仲間と一緒に現地人をレイプしまくったんだって。
日常だったみたい。 おもしろい1だな、俺の叔父貴は大正10年の生まれで、富山の出身、母のお姉さんが嫁いたから
血の繋がりはない。ああ、俺は今56である
おれが18歳の頃、1980年だ。叔父貴は58歳だった。まあ今の俺と2歳違いだよな
叔父貴は昭和16年当時、陸軍の商業軍曹でラッパ兵だった
中国戦線の話をしたがらない叔父貴におれは相当酒飲ませて話聞いた
どれも悲惨なものだったな。中国人は軍服を着てない。便衣兵なんだな
だから民間人が突然機関銃打ったりしてくる。日本軍は相当ナーバスになって
行く先々で反動分子=日本軍の言うことを聞かないやつ、を殺したんだね
おじが渋るの戦争の話すげえ面白いから、してして!とねだって叔父貴は渋々話したが
中国は疑わしきは処刑してたみたい。その中でも面白かったのは
新米の大卒の見習い少尉が来ると、当時大卒なんてほとんどいいとこの坊っちゃんだろ?
いい軍刀を佩いしてるんだって。名家の武家階級だったから、ひ弱な大卒でも名刀を持ってる
で、叔父貴ら下士官が新入りの少尉の度胸試しをするんだってさ
少尉殿!スパイを処刑いたしますので、御刀で首を廃してください!
すると新米少尉は、よしわかった! というのだが、ブルブル震えてゲロはいてなかなか斬首できないのを
陰で見て笑ってたとか、相当きつい話もあったよね
ちなみに叔父貴は死ぬまで中国人のことをチャンコロと言っていたのが印象深い 長崎の五島にいた母親は、今でも船で避難してきた被爆者の話をする
ケガ人の異常な姿を見て普通の爆弾じゃなかったのはすぐわかったそうだ じいちゃんが自費出版で戦記出してた なかなか面白かったよ 戦後1ヶ月たっても
広島の太田川には死体が浮かんでたそうな 3: 名無しさん@英語勉強中[sage]
1987/08/12(木) 22:27:35 AAS
前スレの
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俺の祖母も体半分蒸発させられ死んだ。
目の前で妻が形半分になったのを見た爺さんは、自分も重傷なのに、
婆さんの半分を抱きしめて、自分が息絶えるまで婆さんの名前を呼び続けてたらしい。
三日後に、その爺さんも亡くなった。
当時子供の親父は、そんな爺さんの最後と半分になった婆さんを正座したまま二日間見とったんだと。
日本人は我慢強いから、過去の恨みを滅多には表には出さない。
本にも映画にもしない。でも、その痛みと悔しさは、親から子、孫へと受け継がれて行く。
アメリカは真摯に謝罪すべきだと思う。
大日本帝国にではない。
俺の祖父母に対してだ。
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こういった先祖から子孫へ語り継ぐ行為は非常に大事だと思う。
朝鮮系民族とは対照的に、惨状を噛みしめ耐えるというのが日本人の特徴。
だが世界に出てみるとわかるが、黙っていると悪人に仕立てられ果ては加害者にさせられている事すらあり得る。原爆に関しては、日本は唯一の被爆国であり、その惨状を
世界に向けて発信する義務があり権利も有している。
当時の事を知る人々が生存してるうちに、少しでも話を聞きそれを後世に伝えるべきだ。
ガイドの仕事をする際に、国益に反する反日行為は論外だが基本的に「もてなしの心」も必要。だからと言って反日を口にする客に媚びる必要もない。報酬は得ても魂を売る必要はない。 もう生きてる人ほとんどいないからなあ。
確か曾祖父さんが満州に行ったとかなんとか ムカつく上司のご飯にフケをみんなで入れて食わせて次の日の下痢をフッて笑ってたって
蛙も蛇も食べたとか
同期の桜は聞きたく無い歌とか >>37
いや至る所で
ロリが多いのは間違いなく戦時中の影響らしい 馬は世話をすると世話をした人になついてくれて、
夜居眠りをしていても、誰かが来ると教えてくれるようになる サハリンから終戦直前に帰国したらしい
残ってたらシベリア送りで、俺は存在してない 祖父が満州帰りだったけど結局他界するまで一言も戦争の事は話してくれなかった 婆さんが空襲の中、防空壕に逃げ込もうとしたが
既に満員で仕方なく別の防空壕に向かった
その満員の防空壕に焼夷弾が落ちて全員死亡 祖父の形見で当時の海軍手帳みたいなのがあった
日本の領土が大東亜共栄圏まるっと囲われてて
日本sugeeeeeer!って気持ちになる
指揮刀や軍服も出てきたけど捨てちゃった しかし鍋もない
鉄というものはあらゆる物が没収だった シベリア帰りの隣の爺さんは戦争の話は一切しない、
めっちゃ拝金主義の嫌なジジイだった 稲佐橋で被爆するもふっ飛ばされた先が反物屋だったのでその時は助かったらしい
でもその後は原爆症でずっと寝たきりでそのまま他界
同時に被爆した親父は健康なまま今も存命
体質で影響に差があるんだろうな 呉の街はずっと景気悪いから、もっとみんな遊びに来て金を落としていってくれ
駅前のそごうが廃墟だぞ
笑えねえ 叔父さんはいつもニコニコしている温厚な人格者なんだけど、衛生兵やってて軍隊時代は血の気が多くて部下に鉄拳制裁とかもしてたらしい グラマンの機銃掃射が怖かったって
良く言ってた。遠いな。ばあちゃんの弟
F6Fか PS3のころのゲハ大戦は酷かったな
色んな板が被害受けてたわ NHKスベシャル見終えた。
カダルカナル島のは戦略ミスで日本敗北。
あれで日本が勝ってれば他の状況にも影響したかもな。 現地で病気だか怪我だかして日本人医師は「足落とさないと死ぬ」と行ったが中国人かなんか外人の医師が「治す」って言って漢方だかなんかの治療したら完治したらしい。
あと「天皇陛下万歳」って死んだやつを見たことがないとも言ってた。 海軍で通信下士官だった爺さん
ふねが沈められて漂流時はサメよけでふんどしをほどいて長くしてたって言ってた
サメは自分より大きいものには食いつかないからって 去年じっちゃん亡くなったが子供の時はあまり聞いちゃいかん事かなと一切聞かなかったけど大人になってから少し戦争の話を聞けて良かったと思う 今の中国あたりで憲兵をやっていた
写真見せてもらった 爺様は従軍したけど娘や孫にも体験を話さなかった
こっちも子供だったから聞こうともしなかった
自分から話さなかったんだから多分辛い体験だったんだろうなと察することしか出来ないわ きのこ雲なにあれ怖い
その後広島市内行ったらキチガイか死にかけだらけだった シベリア抑留組だったとはきいた。
どういうことやってたの?ときいたが、ほとんど話をしてくれなかった。大叔父さんからは、辛い思いばかりしたから、話をしたくないんだと言われた。
けっこー前だけど、郵便がやってきて、それを観て血相を変えた。冗談ひとついわない静かな人だったけど、その時ばかりはものすげー興奮してた。
庭先のたき火に郵便物をくべてしまって、仏壇から出してきた写真を数枚ちかくにおいて、ずっと敬礼してた。写真は集合写真だった。たぶん抑留してた戦友なんだとおもう。
もーちょっと大きくなってから、あのとききた郵便は政府からのお詫び・記念品の案内だったと知ったよ。
おれたちを見捨てた政府がどのツラさげて、という想いが強かったんだと思う。複雑な心境だったよ。
葬儀の時は戦友の人たちが遠くからやってきくれてた。その時に何をしていたのかどういうつらい想いをしたのかを沢山きいたナ。
まあ、今は近隣国とモメてるようだけど、戦争はできればしない方が、ええねえ。 >>43
近所の人の爺さんも女は抱き放題だったと言ってた どんな山奥にも朝鮮人はいてバカにされていたと母から聞きましたが
ひどい事されたってのはその事を言ってるんですか。 農場で朝鮮人を雇ってたがサボってばっかで役に立たなかったそうだ
そこで一番仕事をした人に多めに給料を払うと言ったら互いに足を引っ張りあって結局何人かをクビにしたってよ
農場は戦後接収されたって言ってた 父ちゃん樺太出身なんだけど
子供の頃空き地で遊んでて便所行きたくなって駆け込んだら空き地に爆弾落ちたって
うんこに助けられた運が良かったって毎年言ってた 畑仕事してた若き日のばあちゃんが上空からマスタングに機銃掃射されたらしい 大正15年生まれの祖母が満州に行ってたらしいんだけど、馬を使った股裂の話と腹切り裂きの話をしてたんだけど、実話なのかな。
トラウマになってるから日本軍がやったのか詳しく聞けてない。 中国人は国土が広いから、ちょっとでも不利になるとどこまでも奥地に逃げていくんだってさ
女子供は殺されないって知ってるから女子供も置いて容赦なく逃げていったらしい
こんなの国の戦記が本当なわけないって爺ちゃん言ってたよ じーちゃんがシベリア抑留されて食えるものは人以外何でも食った
革靴の皮は硬くて無理だったネズミなんかご馳走だったって 軍事教練で本物の日本刀で孟宗竹切ったそうだけど
本当にきれいに切れたらしい。 親が介護していた老人が元南京戦の参加者。
「中国が言っている大虐殺は大嘘」だという証言あり。 親戚の爺ちゃんイタリア戦線で少尉やってたって聞いた
ドイツ系アメリカ人だけど 飛行機の機関銃の前では蓋して入るような防空壕は貫かれて無駄だったのと
さつまいもと麦ご飯を混ぜたやつばかり食わされてさつまいもが大嫌いになったって言ってたな 満州で鉄道の運転士してた爺ちゃんが線路を枕にしてる人をガンガン引いてたって言ってた
朝鮮にもいたらしいけど日本に帰る時に感謝の気持ちを伝えつつ卵を山ほどくれたって言ってたな
教育一つで人は変わるんだなぁと今では思うね 祖父が軍曹でビルマに行っていた
重症を負った兵士を救って日本に帰国したとか
祖父の命日には毎年線香あげにきてたがその人ももう亡くなった >>90
それは昔からの中国大陸の死刑のやり方ですわ 祖父、レイテに送られ、魚雷で沈没
200名の乗員で4名の生存者のうちの1人
その後、インパールへ行ったが無傷で帰還
義祖父、士官で戦艦大和に乗船するものの、沖縄戦前に人事異動で終戦を迎える 今で言うネトウヨみたいな思想の持ち主だった
賞状?飾ってた
足撃たれたって傷をよく見せてくれた
逃亡兵を斬ったことあるっぽいけど、そこはあまり語りたがらなかった 満州の冬は寒いし乾燥してるしで赤切れができて辛かった
餃子はマジうまかった 死んでく戦友数十人見てきたけど
天皇陛下万歳って死んでいったのは2人だけだったってさ 戦闘機から機銃掃射、田んぼのあぜ道が急角度で隠れてババアやり過ごす 戦争の話を聞く前に、爺さんは亡くなってしまった
戦時中の写真がまとめられたアルバムを貰ったから、海軍の機関兵だってことは分かったな >>90
実話です
満州で
祖母の元夫が逆さまに釣られて虐殺されたそうです じいちゃんは
満州でソ連と戦ってたらしい
戦車を落とすための落とし穴掘ってたって >>102
うちはロシア兵としきりに言っておりました >>27
うちの爺様も通信兵だった。
何してたんだろうな 呉で空襲後に防空壕から外を覗いた人が機銃掃射でしぬのを見たらしい
あと米の買い出しにしょっちゅう府中まで福山から延々歩いていたとか
呉で被爆者を看護中に二次被爆 必ず日本が米国に原爆を落とし返すと皆信じていたらしい 朝鮮で橋や道路を造ってたってさ。
今でも使ってんだろうな。 >>35
君の身内は、戦後、朝鮮は戦勝国だと暴れ回った朝鮮人だな。 >>92
爺さんの弟がシベリアに抑留されたが都会もんはすぐにしんだと
逆に田舎もんは何でも食べるから生き残れたと語ってた 大牟田市の海沿いから長崎原爆のきのこ雲が見えたって話を聞いたことあるけどそういった体験談を聞いたことある人いる? ひいじいちゃんがこれから戦争になると上の二人は千葉の歩兵学校に入れたおかげで即外地で軍歴重ねて太平洋戦争後半は内地勤務できてて助かったが下の小さい二人まで後で赤紙くるとは予測してなくて戦死した 爺さんが戦地に行く前に戦争が終わっちゃったと悔しがってたっけ・・・。
早く次の戦争が起きないかと常日頃から待ちかねている様子だった。
親父は学校出たら予科練に行って航空兵になるつもりだったって言ってたな。 フィリピンで銃弾が腹を貫通したけど生き延びて帰ってきた祖父。 工学部在学中学徒出陣 東條と握手したのが自慢 今度やったらアメちゃんには負けんと言ってた親父 >>108
そろそろお盆やからね、
帰ってきてるだけかもしれんぞ 小さい頃の話。
死んだ祖父の法事で親戚一同集まりました。男集はみな出兵していて、笑いながら(酔っ払いながら)戦争について話していたそうな。
母方の祖父は、満州に出兵。前線に出る直前で、終戦。必死に日本に帰ってきたそうな。その時の手紙が残っていて、祖母に無事に帰ってきたら、結婚しようみたいなことが書かれていた。
生きていたら、今年で100歳。
自分の中ではすごく穏やかで、優しい祖父だった。祖母の兄が、近衛兵だったり、戦死したりしていて、意外に戦争については話を聞いていた気がする。 刀で首斬る時に、迷いがあると顎の骨に当たって、せってー斬り落とせないんだってさ。 朝鮮から女の子が強制連行されて慰安婦にされた(´・ω・`) 学校の先生が担当クラスの男達(うちの爺さん他)にしつこく海軍行きを勧めてたが、
同年代の先生の息子は戦争に行かなくて済むよう、自治体のえらい人に根回しをしてた。
その事が村中にバレた時、丁度終戦になった。 >>8
前にそれ書いたら当日は曇りだから見えるはずない嘘乙て言われた わりと悲惨な目にあった人もいれば、のんびりやってたところもあったとおもうよ。
父方じーさんはシベリア抑留されてたけれども、母方のじーさんは国内の兵器工場にいたから戦地に行くことはなかったし、
その兄弟も戦地にはいったが前線ではなく後方補給部隊の人もいて、敵兵を何人やっつけたって話はきけなかった。
細かい数字はわからんけれども当時の全体の戦力から死者の割合からしたら、実はそんなに日本軍は壮絶な方じゃなかった…だったりして 祖父はフィリピンで銃弾を受けた
構えたライフルが飛ばされて左薬指をなくし
左肩に飛ばされた指ごと銃弾がめり込んだみたい
ふいりっぴんって発音してたな オレ秋田の生まれなんだけど、あまり知られてないが秋田空襲ってのが有って、家の爺さんは小学3年生の時に空襲にやられて死んでしまったって婆ちゃんに聞いたことがある 小学1年の時に「学校行きたくないな」と
言っていたら戦争経験者の爺さんが「戦場に行きたくない人はフケをご飯にかけて食ったんや。熱が出るから」と聞いたが流石に試せず審議も不明 韓国人が原爆の写真使って商品にして煽っても
何一つ言わない県や市、被害者団体がいるって聞いたことがあるわ 対潜用のヒコーキに乗ってたらしい。
末期には米軍機に追い回され大変だったそうな。 東京大空襲で都内の高スペックが死にまくったのが痛かったと言ってたな
原爆が広島と長崎で良かったとも 私133です 死線を乗り越えた人は本当に強いよ ある意味怖いものナシ それこそ「狙われてるのは川重だから公園なら大丈夫」と大挙して逃げ込んだ明石公園に爆弾落とされて
木に人の皮やらなんやらぶら下がってたとじっちゃんが言ってた 空襲する前日にアルミホイルみたいな物を空からばら撒くらしい それを目印にして空爆するらしい
だから巻かれたらみんなで回収したらしい なんとか生きて帰って来れたのにMPが迎えに来て巣鴨プリズンにイン
なんかよくわからんまま裁判受けて「あなたはノットギルティね!」といわれて帰って来れたそう しかし妙な事に気がついた。
間違いなく敵機B29であるのは確かであった。
四発あるエンジンのうち三発から煙を吐いている満身創痍のようだ。
それよりおかしいのは機体中央部から機関銃を上空に向けて撃っている。
そもそも敵機の上空には機影はない。
それ以前にB29の機体中央部には機関銃の砲塔は存在しない。
さらに接近を試みた。
そして祖父は見た、見てしまったと話していました。
B29は機体中央部を激しく損傷しており天井装甲が剥離しており中はまる見えであった。
おそらく旋回砲塔から取り外した機関銃を機内から米兵がなにかに向けて撃っている。
銃口の先にはありえないものがいた。 呉に住んでたばあさんが広島の原爆目撃してるわ
そのばあさんもつい先週亡くなってしまった 祖父:
誰かが戦争をやめようやろうじゃなくて、社会全体が戦争に突入していった、そういう雰囲気だった。
(中略)あれだけ中国国土を荒らしまくったんだから、中国人が日本人に良くない気持ちを抱くのは分かる。
祖母:
アメリカは山本五十六が憎くて、(山本五十六の出身地の)長岡はそれほど大きな街ではないのに空襲された。長岡のほうの空が真っ赤だった。
剣道の先生:
匪賊の首を斬るときは、血がバッーと上に立ち上るから、斬ったら1、2歩下がった。
自分の部隊は100人中、2、3人が帰れた程度。
引き揚げの船でカネを渡されたが、国に報いるのは当然だと思っていたので、受け取りは固辞した。
受け取った戦友も札を破いて海に捨てていた。 近所のじいさんが爆撃だかで手首吹っ飛んでフック船長みたいな義手つけてた 祖父の弟、南洋で島の地形が変わるくらい艦砲射撃くらって全滅したから骨も還ってこなかったそうだ 隣のじいちゃん屋根の上から二人で狙撃してたらしいけど、となりの人がヘルメットからダバーって血を流して倒れてヘルメット取ったら頭半分無かったって言ってた…隙間から銃弾ヘルメットの中に入ったらしい。
じいちゃん二人日本刀でアメリカ兵切ったって言ってたけど、死ぬまで夢に顔が浮かんでくるって言ってたなあ…ずっとすまないって供養してた 東京襲撃するためにニコニコしながらアメリカ兵が飛行機に爆弾つんでるYouTubeあるよな
あと日本が降参してアメリカ大にぎわいのも おれが神田のものすごい古い居酒屋で知り合った爺さん、知り合ったときもう80代後半だったが
もと中央大学の教授、日立製作所の顧問だった。この爺さんインテリでさ、群馬の生まれなんだが
東京帝大のロシア語学科出てるんよ。ドイツ語も英語も堪能だった。
爺さんが酔って歌う「カチューシャ」とか「ラインの流れ」は実に見事だったわ
その爺さんは徴兵で軍隊に入ったのだが、内務機関がその経歴に注目して、満州のラジオ部隊に送ったそうだ
そこはソビエトのラジオを傍受して、毎日ロシア語の放送の翻訳を上層部に報告するのが仕事だったという
昭和20年2月、ソビエトの放送は、ヤルタでチャーチルとスターリンとルーズベルトが会談を行ったと
ソビエトは戦後処理で日本の進出を強権したが、イギリスとアメリカに強行に否定されたと
爺さんはそのニュースを上司に伝えたが、ふーん、と無反応だったという
でも爺さんはこら日本は負けると思ってびびって荷物をまとめていつでもスグに逃げられるようしてたらしい
それで助かったよ。誰よりも早く日本に帰ってこれた。帝大の村田先生のおかげだとか話してた
2008年、爺さんは92歳で死んだ。入浴中に風呂の中でね 学徒出陣で少尉任官は良いけれど
現役の兵長とか伍長とか本当に人間のクズみたいに言ってた 旦那が戦地へ行ってる間、女房が近所の男と浮気して子供産んだ 爺さんは詳しくはわからないが中国のほうに行っててこの戦争勝つはと本気で思ってたらしい
終戦になってえっ?なんで?ってなったとか
南方に行ってたら母ちゃんも俺もこの世にいなかったかも ばあ様は疎開船の対馬丸に乗船して避難する予定で並んでいたが
途中で那覇の住民が押し寄せて田舎者は後回しだどっかいけと割り込まれ乗れなかったらしい
そんで次の船に乗ったそうな。結果対馬丸が撃沈さればあ様の乗った船は無事だった
那覇の横柄な住民がいなかったらばあ様は対馬丸に乗って死んでいたかもしれない
そしてばあ様が死んでいたらおれはこの世に存在していない
田舎は後回しだとか言って順番を割り込んだ那覇市民ざま〜と言いたい
対馬丸記念館なるものができたがこの事実は書かれていない 爺さんが南方に行ってた
幸い戦闘らしい戦闘を経験せず返ってきたんだけど
一度だけジャングルの川で一人食器だかなんだかを洗ってたら
12〜3メートルの向こう岸に同じく一人でジャバジャバやってる若い米兵がいて
バッチリ目が合った
お互いしばらく見つめあってたがどちらからともなく引き上げた
何だか上官に報告する気になら無かったので黙ってた
その後何も起きなかったので
「アイツもきっと黙ってたんやなあ」
「どっちかが報告してたら死んでたかも」
って言ってた 俺が幼少の頃から、うちの爺ちゃんが亡くなってからも戦友の方が、うちに尋ねてきていた
このキズナというか何というか凄いと思った。戦争は、それ位のハードなもんだったんだな うちのじいさんが船に乗りたがらないのは船乗って戦地にいく途中、敵の攻撃で船沈められて漂流したことかあるからだと親に聞かされた 25年前に亡くなったおじいちゃんの背中、弾に撃たれたあとがあったよ
ケロイドになってた うちの祖父が正露丸を頼りに生き残ったって話なら聞いた
正露丸マジぱねぇ 今年亡くなったじいちゃんは17歳で終戦を迎えたが予科練から知覧へ配属される寸前だったと聞いた
戦中戦後の話を全くしない人だったが亡くなるちょっと前から昔の写真を整理し始めたり、福田総理から送られた銀杯を大事にしていた >>103
どっちもすごい強運の持ち主だな
大和なんて乗れるのエリートだろうに 死んだ叔父の話
終戦前で小学生だったんだっけ
学校で授業受けてたら自分の机で広げてた教科書に焼夷弾が直撃して階下まで落ちてった
直後に空襲警報が鳴ってクラスの皆で避難
直撃したその焼夷弾は不発だったらしくみんな無事だった
後から机のあった場所を見たら座ってた席は椅子以外粉々だったそうだ >>90
現地の自警団とか警防団ならやってるかと
現地のやり方ですね うちのじいちゃんは南方(シンガポール?だったか)に行ってたんだけど洪水で人やら牛やらあらゆるものが流されて大変だったらしい
赤痢にもかかって死ぬ思いもしたと
あと現地でネコ食ったらしいけど肉が少なくてあんまり美味しくなかったらしい ニコニコしながら東京爆撃準備するアメリカ
アメリカは戦争大好き
戦争を仕掛けたのはアメリカなんじゃないかと思えてきた
http://www.youtube.com/watch?v=d9ecz5doCMI 戦争体験たって太平洋戦争末期の一方的にやられまくり状態のことしか知らない人ばっかりだしな
今はもう日露戦争や第一次大戦のことを語れる人もいなくなったし
こんなんで戦争のこと知ってますみたいな顔されても困るわ >>68
観光してみたくなるところ教えて
二歳の頃に自衛隊官舎に住んでたけど記憶ないから 祖父はインパール作戦で戦死。
遺体は未帰還。
戦没者名簿見たら、部隊の9割以上が「病死」と表記されてた
おそらく大部分は病死ではなく餓死だったんだろうと思うが 隣の家の婆さんは旦那が戦死して再婚したので恩給は貰えないと言っていた 本人はシベリア抑留
奥さんと子供は終戦後満州から日本に戻る際に半島で惨殺 ばーちゃん埼玉で、
どーーーーーん!
って音が聞こえたって広島の 嫁の父は戦後すぐの産まれ。北摂の東海道線でMPと娼婦が乗った列車に駆け寄ってキブミーチョコレートしてたらしい
きったないガキに向かって笑いながらパラパラとチョコレート蒔いてたのを拾ってたって インパールから断作戦、イラワジ川会戦、ラングーン撤退戦に従軍してた。
シャン高原から北上して中国へ攻め込むか?タイに逃げ込むか?迷っている内に終戦。
捕虜収容所でタイでクーデターを起こそう、と誘われたけど断って帰国。 うちの爺さんは当時既にじじいで戦争には行かなかった。その代わりに炭鉱で捕虜の白人連中を働かせていたようだ。
この爺さん血の気は多いが義に熱い男で、捕虜同士の喧嘩があると飛び込んで行って、言葉も分からないが、啖呵を切って喧嘩両成敗。
爺さん小さいもんから、飛び上がって、下駄で捕虜の頭を殴りつけてたらしい。
一方で、病人が出ると、夜中にこっそり水とか手ぬぐいとか、婆さんに作らせたオニギリを差し入れてやっていたらしい。自分の食い物も厳しい時代だけどな。
ちなみに何度か軍人さんにバレて怒られたようだけど「年下が偉そうに!」と気にしなかった模様。
戦争が終わってからしばらくして、外人数名が爺さんを捜しているとの噂が町内から伝わってきた。
「捕虜の連中か!あれだけ下駄で殴ったのだからこりゃあ殺される!」そう思った爺さんは慌てて裏山に逃げ込んだらしい。
婆さんが腹を決めてでんと家にかまえてたら、そのうち件の外人さん達が訪ねてきた。
外人さんはリヤカーいっぱいの毛布や缶詰を持ってきてくれたそうだ。爺さんがいないことを身振り手振りで婆さんが伝えると、外人さんは手紙を残していった。
mr.xx
私たちが生きて祖国に帰れるのは、xx あなたのおかげです。どうかお元気で。 今の沖縄みてると想像もできないけど
沖縄決戦の時に自ら志願して民間兵になる住民が多かった
嫌々だとか無理矢理戦場に行かされたんじゃないのだよ
あの方たちのおかげで今の優遇された沖縄がある シベリア抑留中は酷い扱い話が多い中、うちの爺さんの所は全くそういう事がなかったそうだ。
労働だけはそれなりに厳しいが、休みはちゃんとあったし、三度の飯は日本人には多いくらい出たし、夜の寒さはむしろ暑いくらいガンガンストーブがたかれて逆に風邪引きそうになったとか。
こんななので戦争の話を聞いて書くという宿題にどう書こうか困った思い出。 陸軍の施設で働いていたから食い物に困らなかったとか
東京の大空襲の時、周りの逃げている方向が危ないと思って違う方に逃げたら助かったとか 戦争を体験した人の話を生で聴いたのは俺たち世代までだな
俺たち死んだら日本は戦争始めるかもな B29かっけーと父が言ってた
祖父は中国で、中国人捕虜を訓練で銃剣突きしたと言ってた
穴に遺体を放ると、夜中中国人が遺体を引き取りに来るのを
警邏は見逃していたって うちのじいちゃん調達班で周りみんな死んだのに自分だけ生き残ってたのが後ろめたかったみたい。
その話してる時は悲しい顔してたな
ってもう30年前の話だけど うちのばあさん、空襲でもうダメだと思い諦めて友人達と店で寝てたらすぐ近くに落ちた爆弾が不発弾だったんだとさ
それで我に返り防空壕まで逃げて生き延びたんだとさ 爺さんが満鉄、婆さんが満鉄病院のナースで炭坑の街撫順に住んでた。
列車の爆発事故で運び込まれた人を治療したらしいがもっと詳しく聞いておくんだったな。
三才の父ちゃんを連れてどうにか帰国できたので今の俺がいる。 父親が海軍の通信隊、九州の航空基地を転々として玉砕電報受信してた。 爺ちゃんの部屋は戦争本、当時の写真、勲章、天皇からの(?)感謝状で埋め尽くされていた ばーちゃん(当時7歳)の叔母さん(当時22歳)が、上野公園にいる
米兵さんに「ぎぶみーちょこれーと」というと、チョコレートが貰えるらしい
という話を聞いてきて、ばーちゃんと一緒に行った
そしたらものすごく大きな米兵さんがいて、叔母が声を掛けたら
凄い勢いで近寄ってきて、ばーちゃんはあまりの恐怖にギャン泣き
したそうだ、米兵さんが抱っこしてくれたが、それがさらに怖かったってw
チョコはちゃんと貰えたらしい、占領政策で配ってたんだな 実話ぽいから面白いな
奇跡的に生きのびた人は神に選ばれた人たちだ 親父の数メーター先で、同級生がグラマンの機銃掃射食らって真っ二つになったそうだ。
がまだ小学生だった ハラボジは戦争中に満州国で警察官になり宗主国様の支那土人を棒で叩いて朝鮮棒子と恐れてられたニダヨ。
光復節からは引き揚げしてる日本人を追いかけて幼児から老人まで男女関係無しで犯しまくったニダヨ。
そうして日本との独立戦争を戦いながら釜山から日本人のふりして日本に潜り込んだニダヨ。
日本では朝鮮進駐軍を名乗って犯す殺すとかなりムチャしたニダヨ。
駅前の一等地に住む日本人家族に背乗りして日本人を名乗ったのもこの頃ニダヨ。 ・乱視がひど過ぎて招集されなかった
・戦闘機で出陣したが九州の海岸に不時着し、東北沿岸の某所まで徒歩で帰宅した
・戦艦武蔵に乗船したが、アセチレンガスボンベを抱いて大海原へ飛び込み助かった >>92
うちのじいちゃんもシベリア組
周りの人たくさん死んだって
カンパン食べて生き延びたって言ってた
あと若かったのも良かったって 去年亡くなったじいちゃんは通信兵でずっと本土で傍受の任務やってたな
英語が得意だったわ じいちゃんが中国で上官に命令されて捕虜を銃剣で刺し殺したって言ってたよ度胸試しだ!やれ!って言われて逆らったら殺されるからみんな仕方なくやってたって
戦争は狂ってるよ 戦争なんて
知らない方がいい
平和ボケ?
結構です 陸軍飛行第19戦隊の関係者かその遺族の方いらっしゃいませんか 浜で漁りしてたら頭上でグラマンがロケット弾+機銃掃射
原爆の閃光
爆撃穴の溜まり水の中に死体 子供の時、親戚の爺さんに聞いた話
上官の将校で部下をいじめる悪名高い奴がいた
皆の恨みを相当に買ってたんで終戦後復員船内でボコボコ袋叩きの刑
日本についた時は顔がすっかり変わっていたそーな
めでたしめでたし シベリア抑留された祖父
向こうで教育されたらしく
帰国してからはガチガチの共産党員として活動してたそう >>207
爺さんは終戦時に武器が安く買えたから記念に!?買っておくべきだったと言っていた 空襲警報が鳴ると近くの山に登って近隣市街地が空爆される様をいつも眺めていたそうだ。 叔母は長崎で被曝して生死の境をさ迷ったが回復
ケロイドなくガンにもならず子供も孫も健常者で死ぬ数日前まで元気で先年89で死去
終戦直後で薬も何も無くてドクダミ煎じたのを飲ませてたらしいけど
果たしてこれが効いたのかはわからない >>214
通信兵っていろんなパターンがあるのね
祖父も通信兵だったけど馬に乗ってたって
伝令? 死んだ親父が朝鮮人を凄く嫌ってて不思議だったけど今ならその理由がよく分かる じいちゃんシベリア帰り
ばあちゃん東京大空襲経験者 赤いワンピースを来てたら、贅沢するな非国民みたいなこと言われたと教師の先生が教えてくれた。
定年間近の先生で、戦争の事を少しでもわかってもらえればとそばがき作ってくれたり、いい先生だったなぁ。
水が貴重品だから、ご飯>食器洗い(簡単な水洗浄)>洗濯みたいに使い回すので、食事の時に食器に食べ残しをつけまくると、
後日も残ったものを食べなくてはならなかったそうだ。 >>129
その頃大牟田は8/7の大空襲でそれどころじゃない
火葬が間に合わないほどに瓦礫に生き埋めになった犠牲者がでた
戦術目標だった三井の工場は壊滅し
一角に慰霊塔が建っていたが今は遺族も寂れる一方の町を捨て忘れ去られていく
しかし、世界遺産申請の際に特アがイチャモンつけてきた対策に
立派な特ア向けの慰霊塔が作られた
やるせない うちの爺ちゃんは原爆が落ちた数日後に広島市内に知り合いを探しに行ったらしいわ
被爆者手帳の申請したけど、広島に行ったことを証言出来る人が2人必要だったらしくて、一人で行ってたから認められなかったって言ってたな うちの親父から爺ちゃんの話を聞いた
東南アジアに出兵されてたらしい
食べ物飲み物が乏しく、
川の水、雨水飲んだ兵は皆んな死んでいった
爺ちゃんは一切飲まなかったらしい
後は話たがらなかったみたい 爺さん呉の海軍工廠に勤めてたのに徴兵されて中国に行ってたって聞いたな
何で海軍工廠の人が陸軍に行ったのか聞いとけばよかったな >>164
戦争って殺されるけど殺してるんだよな
戦後半世紀以上経つのに謝罪しろっておかしいわ 無口だった爺ちゃんからは足に銃弾を受けた話しか聞けなかったな
けど当時の写真は沢山見せてもらった
笑顔 1人も無し。当たり前か うちの顔を見たことない爺さんはインパール作戦で人間の盾になって死んだな 親父家族は戦前台湾に住んでて終戦後日本に戻ってきたが親父の一番上の兄は満州で捕虜になってしまい解放されて日本に戻って来ても家族の連絡先がわからなくて戦後15年以上たってやっと再会できたらしい ばあちゃん、友達横一列3人で機関銃から逃げてて両翼から撃たれた玉が左右の子に当たって亡くなった
ばあちゃんが真ん中だったから助かったって聞いて、素直に喜べない複雑な気持ちになった お母さんとおじいちゃんが闇市で米を買って帰る途中で見つかって没収されたって言ってた 中国で攻城戦に毒ガス弾使った話してた記憶がある
シベリアにも逝ってるはずだがそこの話は聞いた事無い 母親は防空壕の逃げ込んだ話
父親は満州にいた話
しか聞いてない 漁師やってたから爺さんは東南アジアの海上輸送の任務についたけど一度だけ撃沈されて近くの島に泳いで難を逃れたらしい。戦後は漁師に戻ったが韓国の海域主張で拿捕され捕虜になったが無事帰還出来た まだ戦えるって思って
宮城いったら
うなだれてる人ばかりでしらけた >>225
うちは傍受の部隊で向こうの電信を傍受解読してた
どこの部隊かな
騎馬なら騎兵連隊の通信手かも もう一人の爺さんは職業軍人で将校で駆逐艦に乗ってたらしいが詳細は婆さん含め娘全員が知らない
生前聞いておくべきだったよ >>144
そう。ウチの叔父貴もふいりっぴんやったわ シベリア抑留されたじいさんは適当に理由つけてサボりまくって帰還した
真面目な奴から死んでいったそうだ ホント遠くから戦友の人がうちに来た
これだけでも戦争を察すれる 近所の爺さまのはなし
南方で衛生兵してたとき部隊で赤痢が大流行した
どんなに要請しても薬は補給されなくて死人もだいぶ出た
軍医先生があれこれ試した結果、バナナの葉っぱの煮汁を飲ませたら症状が緩和されたそうだ お前ら平均年齢高いなw
俺40歳で、うちのじいさん昭和2年生まれだけど戦争行ってないわ。 爺ちゃんが徴兵検査とやらで不合格
戦争中はずっと農業やってた、村の近くを軍用機工場爆撃の為にB29が
よく飛んで行ったそうな。一度、村の近くの原っぱにB29が爆弾を一発落として村中大騒ぎになったそうだ 伯母さんの話だが、伯母の近所の人が空襲で銀行の地下室に避難したら銀行に焼夷弾が落ちて炎上、地下室の扉が開かなくなり中の人が蒸し焼きになったと聞いた
伯母さんは別の防空壕にいて助かった >>249
田舎で頭が良くて海軍系の学校に行ったらしいが、どこの学校が分からん
海軍兵学校ではないと思うが、どうやって調べれば良いか今となっては分からんよ 朝鮮耳安倍晋三の糞ジジイ岸信介はのうのうと90まで生きたけどな
腐れ外道岸信介A級戦犯 >>248
毎年お盆にはこの手のスレが立つ
そしてお前みたいに名スレ宣言するやつがいるのも例年通り >>249
そうそう、おれも口渋る叔父貴に「おじさん、話してくれれば次の世代に話しますよ。おれの子や孫にも
日本が中国大陸で何してたか」
じつは叔父貴の話す残虐行為がすげえ面白くてワクテカしてただけなんだけどな
でも1980年に聞いた話を40年後の今、おまいらに話すだけでも、なんかその当時、叔父貴との約束果たした気がする 爺ちゃんが戦地に行って留守の家で婆ちゃんも大変だったようだ
そらぁ婆ちゃんも逞しくなるわ >>264
身内の残虐行為が面白いってお前おかしいんじゃないのか 親父が子供の頃、機銃掃射から逃げてると、近所の朝鮮人のおっさんが自転車に乗ったまま頭吹っ飛ばされるのを見たらしい 船を撃沈されて必死に漂ってたのに
助けられた時に安心したのか気が抜けたのか
そのまま何人か逝ってしまったと言ってた
あと樫の棒でケツ叩かれるとウンコ漏れるって 戦争反対してたのに戦争勝手にしたから恨みつらみは相当だったな
負けてよかったろう おれの父親が学徒動員で川崎の工場で働くために、川崎大師のあたりに下宿したんだと
東京大空襲の夜には、どのくらい爆撃機がいて隠れてたか知らんが、
爆撃機いなくなってから見たんだと思うが、多摩川の向こうが川崎からでも赤かったのが見えた、って 博多に住んでた当時理系の青年だったじいちゃんは軍の命令で広島へ行くはずだったが、その汽車が故障をしたためその日に広島へは行けなかった。
次の日、広島行きの汽車に乗り込んで向かっている最中に原爆が落とされ、じいちゃんは無事だったという話をガキの頃聞いたことがある。もっと詳しく話を聞いておきたかった 亡き祖父は、海軍の船の中で兵隊さんの髪を切る理容師をやっていた
幼い頃に両親を亡くして、手に職を付けようと独学で学んだらしい
そのおかげで戦争に行かずに済んだと言っていた
当時18歳だった祖父は、自分と同じ年代の子の髪を切りながら、申し訳ない気持ちでいっぱいだと言っていた 前線で相手の弾が顔の近くを通過した時の音は、テレビで聞くような弾丸の音とは異なるそうだ。 原爆の悲劇が良く言われるけど
東京の空襲も酷かったぜ
終わった後も、もう立ち尽くすしかない状態
警報無しで殺られたりもしたし
あと人の噂で広島に新型爆弾が落とされたって耳にしたり 空襲警報代わりに半鐘を叩いてた小学3年生の親父はP-51の低空飛行を間近で見とる
太陽の帝国かよ 取りあえず、子供にはひめゆりの塔、はだしのゲン、ガラスのウサギは読ませてる >>19
白いマフラーが巻ける海軍の航空隊に入りたい人が多かったんだっけ? 田舎の農家だったので 食糧難はなかった
体が悪かったので 戦争に行かなかった 茨城県にいた祖母は、太田の飛行場を爆撃に行くB29の護衛のグラマンに機銃掃射され
田んぼに飛び込んで首だけ出したら
その脇をピチョピチョピチョと水しぶきが上がったと >>135
メットは曲者で庇に地面からの跳弾当たると兜の裏側を螺旋状に弾がぐるぐる上まで走って頭皮ズル剥けになるらしい
胸は鉄板ぶら下げて保護 腕を見せようと敵基地上空で3回転してたら後で上官に怒られた じぃちゃんがシベリア帰りだった、というだけで驚いた。
まだ健在。 ばあちゃんは広島市内から今だと高速使って1時間くらいの距離だけど朝畑仕事してたら一瞬光ってキノコ雲が見えたって言ってた。
島出身だけど焼夷弾一つだけ島に落とされたと。
近所のおばあちゃん看護師で原爆後、市内に行ったが地獄だったと言ってた。 子供ながらそれ以上は聞かなかった ばあちゃんに聞いた話しだがアメリカの戦闘機が墜落して見に行ったら
大人たちが乗っていたアメリカ人をボコボコに殴っていたんだって 機銃掃射はマジで怖いみたいだな
婆ちゃんが艦載機は突然だからヤベえって言ってた 原爆が落ちた時
ばあちゃんは三菱にいたと言っていた ロシアの捕虜になって石切りの仕事しながらカチカチの大きなパンをもらって食べてたそうだ。 学生の時の先生の話2つ
1、学生の時、手榴弾を投げる練習があって、沢村栄治が模範演技に2回来たとの事。
1回目の時は物凄い距離投げてびっくりしたが、2回目の時は自分たちと
大して変わらない距離しか投げられなかったらしい。
野球経験者の先生は肩壊したんだなって分かって悲しかったとの事。
2、名古屋帝国大学に進学後、学徒動員に取られて中国に行ったが
1回も戦闘せずに終戦となり名古屋に帰ってきた時、名古屋駅から
焼失した名古屋城の石垣だけが見えて、敗戦を実感したとの事。 ワシの爺さんもシベリア抑留組だが、ソ連に捕まったのが8月27日
なーにが8月15日が終戦記念日だよアホくさ
そのあとカザフスタンかどっかの収容所に送られ、
次に北朝鮮に送られた
死んだのは1947年らしい ガダルカナル島では仲間の死体肉を食ったとかなんとか >>269
うちの爺さんもだ。ビルマで弾が肺を貫通
コスモス畑で何かあったらしく、コスモスは見たくないと言ってた 亡くなった祖母から聞いた話
昭和17年、宇品の港から陸軍軍人だった夫の出征を見送った。軍事機密でどこへ向かうかは知らされてなかったが、戦後になってから聞いた話ではガダルカナル島だったらしい。
この時、祖母のお腹の中に私の母がいた。
その後、夫からは音信不通で、目的地で戦死してジャングルの中に遺骨があるのか、あるいは撃沈されて太平洋の海底にいるのかは不明。
今も骨壷の中には氏名を書いた一枚の紙だけ。 JKだった婆ちゃんは町内の防空班員だった
隣町の飛行機工場が狙われるから空襲がある度に人員報告するために真っ暗な街を走った
B-29はターゲットまでの航路の途中で、ランダムに焼夷弾を巻いて飛んでいた
家は燃えずに運良く生き残った うちの爺ちゃんは戦争中に外人の捕虜に日本語を教えたり芋などの食事を与え傷の手当てをしてあげたりしたらしい
日本が敗戦後、戦時中捕虜に酷い扱いをした家は焼かれたりかなり酷い目にあったと聞かされたわ
逆に爺ちゃんちには戦時中に良くしてくれたお礼として捕虜だった人達から大量の食料が送られてきて凄く助かったって言ってたな >>257
30代後半だが爺さんは明治生まれだ
親父は末っ子で一番上の兄とは20歳以上離れてた昔は子沢山だからそんな人も多いでしょ >>297
黒パン俘虜記 by 胡桃沢耕史
面白いからぜひ読んで欲しい 戦争中、空腹に耐えかねて隊長の飼い犬をこっそり食べたと言ってた 爆弾が家に落ちてきて屋根に穴が開いたことくらい
父方母方とも特に深刻な被害はなかった
>>272
うちも 弟とその女友達と逃げてたけどシェルターには子供たちでいっぱいで2人までしか入れなかった 以前職場にいた今年はもう80歳になる北海道在住のお婆さんがいきなり語りだした引き揚げ船とかの頃の話。
引き揚げ後、北海道の北の方から年の近い姉と幼い妹を背中におぶり、何里も歩きある長屋に避難する。
その長屋には露助がしばしば現れたらしい。
女らしい女は露助に髪をひっつかまれ犯されていたという。
手当たり次第やられている場面を目撃していた知恵から、周りの女は髪をショートカットにし、男装をして身を守ったそうです。
それを語るベリーショートのお婆さんの話。 >>199
うちの爺さんは室内だったから生きて帰ってきたけど外で働かされた戦友たちはほとんど亡くなったって聞いた記憶があるよ >>197
戦場のメリークリスマスのたけしもそうだったけど
当時の日本人は強かったね、メンタルが
世間知らずってのもあったんだろうけど 昭和20年の終戦直前ぐらいに戦闘機の部品作る工場へ招集されたって
うちのばあさんから聞いたな
空襲警報で何回か走って避難したらしい 大叔父が、終戦一か月前頃にもう戦争終わったと勝手に思い込み
基地から実家に帰ってきたらしい。
捜索から逃れる為に
屋根裏に隠れてしばらくやり過ごしたって聞いたかな 父ちゃんがベトナム戦争行ってた
とは言っても空軍でファントムに爆弾くっつけるだけの仕事だったけど ドーンときてピカーと光ったらしい
これは爆撃受けた本人がイタコに乗り移って話した真実の体験だ 東海テレビの動画にもあるけど、戦争経験者は今やボケてても当時の事話そうとしてくれないのよな。
実際のところを聞きたいし後世に残したいとも思うが、第一はご本人の意思次第だわな。
残念でもあるが無理に話させる事もねぇ。 マラリアに罹って死線をさまよったが、
そのおかげでインパール作戦に参加せず済んだと言っていた
人感万事塞翁が馬
上官はクソでベルトのバックルでブン殴ってくるらしい 戦争に行った爺さんたちの話を聞くとたいていは楽しかったって言ってたな
20歳くらいの若者が集団で行くんだから楽しい事も多かったみたい
戦争は悲惨だという売国マスゴミの捏造レッテルにだまされるな 選挙でとんでもないやつを選ぶとこうなるよいお手本や うちの祖父はタダ同然の金で慰安婦で筆下ろしをしたらしい シベリア帰還組は洗脳されてて港で
兵士たちがインターナショナルの合唱したり
家に戻っても共産主義の素晴らしさを
熱く語ったり家族は大変だったみたいだな
しばらくすると嘘のように治るのが殆どだった様だが じいさんの話。夜中、家の周りを「ザッザッザッ」って、兵隊が装備を担いで歩くような音が聞こえたんだと。
その数日後、兵隊に行ってたじいさんの弟が死んだって通知があった。 満州はひたすらに寒くて鼻息でまつ毛が凍りつくっていってた
そういう経験しているからか、
灯油は大量に買いだめ、
冬は部屋の中暑いくらいにポカポカにしてたな じいちゃんの中国での話
井戸を見つける→そこらにいる犬を捕まえてその井戸の水を飲ませる
→犬が悶えて苦しまなかったら自分たちが飲む
理由:村を破棄した中国人が復讐の為に井戸に糞尿や農薬などを投げ入れるので 南洋庁の応募に東北中心に貧しい家庭はサイパンやグアムに移住。ようやく生活基盤も固まり土地も大きくなったのだが戦争が始まり泣く泣く避難。サイパン上陸間近に島民を避難させる船の第一便が出港するも敢え無く撃沈。そして最期の第二便の募集がされる うちの爺さんは
竹槍の一投でゼロ戦を3機落としたそうな… 威張った将校さんが田舎の村に来て農民に竹やりの指導をするって
よくテレビの描写であるけど、おばあちゃんの話では、
若い将校さんだったから農民が馬鹿にして誰も真面目にやらなかったら
「なぜボクをバカにするのか!」って将校さんが超キレた話を笑いながらしてた。 小学生のとき、友達の爺ちゃんがむかし海軍の船に乗ってたと聞いて
仲間と一緒に話を聞きに行った事がある
ところが聞いてみると、その爺ちゃんの乗ってたのは、
大和とか翔鶴みたいな有名な奴じゃなくて
なんつか聞いたこともない船だったもんだから、皆すぐに興味を失ってしまった。
ガキどもが既に興味を失ってることには気付いてたと思うが
その爺ちゃんはボソボソと話を聞かせてくれた。
訓練のこと、前線に赴いたときのこと
必死に戦ったこと、炎上する船からの脱出。
色々と話してたと思うけど、如何せん内容を全く覚えてない。
ただ一つ覚えてるのは、その船の名前
確か「あやなみ」って名前だった じいちゃんが東南アジアのどこかの島で鉄砲撃つ練習してたら戦争が終わったって言ってたな
たいした話しじゃなくてスマンが うちの死んだじいちゃんは銃撃うけてとかで片足切断していたが場所とかどういう過程だったかとかは一切話してくれなかったわ
義足つけて大変そうだった 亡くなった祖父からは戦争の話しは聞いたことなかったけど、親父は聞いてたらしくてマラリアにかかって死にかけて助かる見込み無しってことで死体置き場に放置されてたのを同じ部隊の友人が探し出して看病されて生き残ったらしい。
戦後は今で言うPTSDになってたようで風の強い日のピューピューって音が銃撃の音に聞こえて押し入れに閉じこもってガタガタ震えてたそうだ。
酔って戦争の話しするといかに過酷で仲良かった戦友が次々戦死してくのを思い出してよく泣いてたそうだ。 ラバウルで芋作ってた。
1回も飢えたことなかった。 戦争の話を聞いてこいという夏休みの宿題で、フィリピンとかに隊長かなんかで行ったじいさんに話を聞こうとしたが
何も話してはくれなかった
婆さんいわく、相当辛い経験をしたようで、戦争の話はしないとのこと
婆さんにちょっとだけ聞いたが、とても宿題ごときで出せないので封印した
人それぞれだけど、特に戦場にも行ってないのに又聞きで語り部みたいになってる年寄りには違和感がある うちのばーちゃん小倉に住んでて
あの日天候不良で小倉に落とされる予定の原爆は長崎に落とされるわけだが
もし小倉に落とされてたらあんた産まれてないのよと言われたな
最近の研究だと八幡から煙幕焚いてたらしいな >>300
三菱重工だろうな
今の海自の潜水艦や護衛艦も造ってるのも三菱
すげーぞ日本の潜水艦 長いです
満州鉄道職員だった爺さんは現地で召集された。
支給品としてタバコが配られてたそうなんだけと、爺さんタバコ吸えないからドンドン貯まって邪魔になるくらい。
まとめてヘビースモーカーの上官にあげてたみたい。
お返しにこれまた支給品の金平糖を山ほど貰ったそうな。
聞けば上官甘いものが苦手だったとか。
大の甘党だった爺さんは移動中(何日も歩くのね)も歩哨中も金平糖を食い続けたもんだから、虫歯だらけになっちゃった。
たま〜に起きる肝心の戦闘のときも歯が痛くて、銃に頬付け出来ないもんだから、全く当たらないうえに、反動で銃が顔に当たって悶絶。
あまりに痛くて失神したらしい。
戦闘はすぐに終わって、回りの人たちは爺さんが撃たれたと思ったらしく
、軍医のところに運んだら、ちょうど意識が戻ったところで、虫歯が原因てバレて大目玉。
その場て無理やり(麻酔無しで)二本抜かれたらしい。
でも懲りない爺さん
金平糖を食べ続け、終戦までに更に三本抜くことに。
敵よりも虫歯(っていうか金平糖)に負け続けた爺さんでした。 ばあちゃんからはB29がどうたらとか
アメリカの人にチョコをねだったとか
あと戦後、朝鮮人が近くに来てるから気をつけろって注意されたとか言ってた
当時は韓国とか北朝鮮って呼んでなかったみたいだからどっち側の人のことだったんだろう >>4
ウチのじじいも満州でマージャンしてたって言ってた。
大勝した次の日に爆撃されたんだけど、マージャン勝った金で当時の最先端医療を受けて助かったって言ってた。 つか戦争の話なんかするか?
父方は、父が高齢での子供だったから祖父母は早くなくなったのと、母方も祖父が小学生くらいに急病で亡くなったから
話聞く機会自体無かったけど、母方の祖母や、祖母の兄弟姉妹には可愛がって貰ったけど
戦争の話なんか、直接は勿論、離れた場所で俺関係なく当人達だけで話てるのも聞いた事無いわ >>340
何か近いものを感じたわ。
うちのじーちゃんは怪我とかは特に何も無く、ハゲてたぐらいだけど
とにかく何も喋らなかった。
でも夜中はうなされるレベルじゃ無く「うー」とか「うぉー」とか毎晩叫んでた。
昼間は無口だけどすげー良いじいちゃんだった。 特攻を拒否した奴が上官から角材でぶん殴られてるのをよく見たと
うちの爺さんが言ってたな >>335
第二便に応募したものの父親は今迄の血と汗の結晶の土地を捨て難く避難を拒否、母と当時16歳の娘と島で唯一写真館を営んでた兄は避難を決める。そして船の出港日に俺も一緒に帰りたいと大泣きの父、しかし締め切りをとっくに過ぎていた。 >>254
興味深い、おれは医者だが、バナナの葉っぱにわずかにおそらく含まれる、
タンニンが少量混じったのではないか。
柿の渋い味の素がタンニンだが、おれらが普段食うバナナの実であれば、
もっとタンニンも含まれていたと思うが、
実にふんだんある食物繊維(水溶性と難溶性だと確か難溶性のがすごく多い)が
逆にかえって下痢に良くないかも知れない。
お茶的な発想だが、、葉っぱだと煮汁に繊維質も溶け込んだと思う
あまり大量の繊維質だと逆に腸が動き出し(動きすぎて刺激になって)ダメだと思うが
そこで実で無くて葉っぱだと絶妙だったのかもしれない >>309
思い出したくないと言って教えてくれなかったよ >>352
小学校の授業でそういうのがあったんだよ
おじいちゃんおばあちゃんに聞いてこよう!ってのが
もちろん自分で調べるだけでもOKだった うちの仏壇の花立てはお爺ちゃんが中国から持ち帰った砲弾の薬莢だ >>356
そこで島で唯一写真館を営み顔が広い兄は南雲中将に乗船の許可をもらい、父は辛くも第二便に乗船。そして出港した、途中で魚雷を避けながらの航行であった。そして16歳の娘には理解できない夜が始まる >>353
おー そういう他の書き込みで結構あるし
いろいろあるんだろうな戦友の死もたくさんみているだろうし
うちのじいちゃんはハゲてなかったので勝ち 爺ちゃん、海軍に入ってすぐに終戦なったって言ってたな
お風呂で戦艦の話を嬉しそうに話してくれたのを覚えている
また、軍で車の運転を覚えたから凄くモテたって言ってたw
そして軍で人を殺す訓練も受けたよってね
厳しいけど優しいお爺ちゃんだったなぁ おじいちゃんのお尻にえぐれた跡があったから、どうしたの?って聞いたら戦争の時に撃たれた傷痕って言ってたな 当時の主食であろうサツマイモを爺、婆ちゃん達はおやつ代わりによく食べてたけど
親父は芋食ってるのを一度も見た事ない
戦争は当人だけじゃなく周りもキツイね
ん?年齢?私は39 親が7人兄弟の末っ子の末っ子 アメリカ兵の捕虜で刀の試し斬りしてたんだって。そのアメリカ兵は連れていかれるときすげー泣いててそれを見た爺ちゃんはかわいそうだなあって思ったって言ってた よく考えると戦闘の話は結局聞いた事無かったな
コモドドラゴンの話以外だと
空挺部隊だったって話と
安全な潜水艦で帰った弟が亡くなって、危険な船で帰ってきた自分が生き残ったって話とか
浦賀ドックと海軍で給料が2重に払われてて婆さんが貯金してて山買ったとか
終戦時に基地の物資分けて基地から近かった祖父の家はあった油で天ぷらあげまくって周りに配ったとか
そんな話だったな じいちゃんは慰安所に隊ごとに連れて行ってもらったが、わしゃおしゃべりして金平糖もろて帰っただけじゃって言ってた
家族一同絶対嘘やつって笑ってた
戦争でも楽しかったことはよく話してくれたよ 隊によって状況が厳しかったところとそうでもないところがあったんだろうと思う ばあちゃんは、
終戦直後町にいたアメリカ兵に赤子である息子を抱き上げられて血の気が引いたと言ってたな
何されるのか気が気じゃなかったと
アメリカ兵は可愛い赤ちゃんやね、的に抱っこしただけだった模様 >>363
命の危機を感じた護衛?若しくは同乗してる兵隊さんが夜に婦女子に襲ってきたではないか。父は私の上に乗り毛布を掛けずっと腰を動かしていた。当時は保健の授業が無い私には父が何をしてるのか意味がわからなかったが、父はひたすら私の上で腰を動かしてるふりをした >>346
戦時中の話しでも時々面白じーさんが出てくるなw 焼夷弾の不発弾から燃料抜き出して炊き出しに使ったと申しておりました >>358
小学生の時の夏休みの課題で祖父祖母親戚に戦争体験を聞く奴があったんだけど
秋田の西目村じゃ標的にもならず、電話の婆ちゃんが米が不作だった、芋は豊作だった、駄菓子屋は不謹慎だから閉めてたみたいなイマイチな話しか聞けなかったの思い出した。。 ここに防空壕
ここに防空壕って曾祖父さんが散歩の度に言うから困る 実家の前の道を牛車が戦闘機の部品載っけて運んでるのを爺ちゃん(当時小学生)が見ていた
実家は愛知県江南市で各務原へ行く途中だったらしい
何回も見てるんで多分零戦だけじゃないと思う あと知人?から聞いた話だと
神奈川県三浦半島の三戸浜の海岸にある丘の上空をグラマン機が無数に飛び海上はアメリカの艦船で覆い尽くされてその光景を見てその人は絶望したそうな
実は霊感があった時期に防空壕を探索中に実際に戦争中に亡くなった人から聞かされた話 中学生のころ文化祭の演劇で戦争モノやったんだが「天皇陛下の赤子であります!」というセリフを「あかご」って読んでたら草むしってた校長が飛んできて説教されたわ。 海の向こうでやってた実感の薄い時期もあるとはいえ、ガキから成長する頃、自分も強制的に軍隊にってなかで
15年も戦争やってる時代とか、なかなか想像出来んよな うち各務原だけど、墜落した戦闘機のキャノピー拾ってきてちっさい温室みたいなので野菜作ってる家あるで
戦時中からずっと使ってるんだそうな >>375
先約がいれば襲われないと父がするフリをしてたのが理解出来たのは結婚してからである。無事に本土入港船は入港し、その後は京浜工業地帯で働いた、空襲も当然あったが工業地帯は焼夷弾ではなく200キロ?ボンド爆弾が降ってくる 亡くなったじいちゃん、海軍所属の満州駐在で、戦況悪化して関東海域の駆逐艦乗ってた。
千葉沖でドンパチやって船沈められて、北極星と星座を観ながら一日がかりで帰還した。
亡くなる直前まで、海軍式の垢すり体操を孫たちに教えまくってた。
現在、孫たちは多分、誰も垢すり体操してないと思うし伝えてもいない。 親の言いなりで爺ちゃんと婆ちゃんは結婚したけど、戦地に行っていて顔も見たこと無かったと。手紙のやりとりだけだった
後に顔を見た婆ちゃんは安心したそだw 差別されてるはずなのに、駅前の一頭地にパチンコ屋や焼肉店があるのはなぜなんだ?朝鮮進駐軍の歴史もちゃんと伝えて欲しいわ。 婆ちゃんが米軍機の機銃掃射で追いかけられたらしい
多分嘘だわ 東京大空襲の時母は6歳 祖母がもたもたして近くの防空壕に行けなかった 仕方なく違う防空壕に行って助かったが 近くの防空壕は焼夷弾直撃して誰も生きて無かった そのおかげで今俺は生きている 爺さんの弟が傷病者らしい
どこか戦地に行って真横で起きた爆発で下半身不随と脳にもダメージあったらしく喋れなくなってたって
戦後は爺さんが面倒見てた
爺さんなくなったあと家で引き取ったけどまともに意思疎通できなくてあの頃は地獄だったな
長年あぐらかいて生活してた影響で足もそれで固定されて車椅子も乗れない
歩けないからトイレまで間に合わずほぼ垂れ流しで臭かった あとばあちゃんは軍服のカーキ色と白熱球の照明が苦手だったな
ばあちゃんがいるときの照明は白い蛍光灯が暗黙の了解だった >>387
その爆風は上に持ち上げる爆発をする、同級生の女学生は爆風で片脚が千切れて死亡した。また大規模な空襲の際(川崎だか横浜大空襲だかは俺は忘れた)は死体が小学校に集められるが死体の判別方法は足で蹴飛ばして転がす 長崎県の南部(雲仙の方)に親戚がいるんだけど
当時12歳くらいだったおじいちゃんから聞いた
現在の雲仙市の家でも原爆の凄まじい音が聞こえ外に出ると
きのこ雲が見えたらしい
音は雷が落ちた?と思う感じだったけど地面が揺れる地響き付きで
何か大変な事になった…って分からないのに凄く焦ったって言ってたよ
この話しは割と聞くけど、そのおじいちゃんが強烈に印象に残ってるのは
その日の夕方
まるで色褪せた白黒写真のようなセピア色の暗い緑がかった夕暮れだったらしく
あんな夕暮れの空はその後の長い人生でも見た事がない独特の色で何とも薄気味悪かったって 地獄を見て帰ってきたらラブ&ピースとかで人殺しと罵られたよ >>395
皮膚が焼けてても着てた衣類の一部が皮膚にめり込んでるから、それで判別するらしい。そんな貴重な体験した婆ちゃんは、船での兵隊が襲ってきた出来事については、男ってのは死ぬ間際には生存本能が働くんかねぇ?女には分からんwって言ってた。 仏壇の間に戦時中亡くなった若い親族(じいちゃんの兄弟?)の写真があるけど詳しい話は全然知らないんだよなぁ
じいちゃんも糖尿病で早くに亡くなったから話を聞く機会がなかった
ばあちゃんしか情報源が名井や 戦争経験者の方は逆モヒカン ハゲ率が高い気がすると幼少の頃から思っていた
ヘルメットで焼けたんかなと もう一人のじいちゃんは島津で働いてたけど徴兵に応じて陸軍に行ったって話で
後から聞いたら軍関連の仕事だったから別に徴兵に応じる必要なかったってぼやいてたって話しか知らんな… 戦争体験語る連中は何で被害者ポジなの?
戦争に突き進む道を止められなかったどうにもならかった癖に後世に対して上から目線なのおかしくね? 高校の時の社会科の教員が棺桶に片足突っ込んでるヨボヨボなんだが、事あるごとにロスケロスケ、ロスケは鬼畜、ロスケは死んでしまえ。そればっかりで授業が進まなかった思い出。 高松空襲のとき
丸亀で居たが空が赤かったと
ばあちゃんが言っていた
一昨年死んじゃったが ガキの頃顔合わすと戦争の話するから嫌やったわ 今思えば実体験した世代だとわかるけど苦痛だった 空襲避けるために蔵ごと引っ越しして、終戦直後は蔵の中の刀や甲冑を売って
食料買ってた。位しか聞いたことないな。
最後は蔵も売っちゃったみたいだけど。 >>398
後は島での生活で一番嫌だったのは飲み水。天水をタンクに溜めるが蛇口のフィルターが脱脂綿で、隙間にトカゲが挟まっても暫く気付かないからフィルターにトカゲがグジャグジャになってるのを見て本当嫌だったてさ じいちゃんが中国大陸を転戦してた。
国民党も中共も逃げ回ってばっかだったから、戦闘よりも食糧不足が堪えたとのこと。
でも、略奪は軍法会議にかけられるんで、食糧は中国人と賭け麻雀とかチンチロで勝負して確保してたらしい。 知人の親が子供の時に両親が大阪は危ないと思い広島に
そして原爆に合ってしまったと話してた うちの爺さんが満州の戦車の整備兵してて、戦車で曲乗りやったりレースしたりしてたらしい
偉い人も混じってかなりエキサイトしてたって笑顔で話してくれたな 大叔父が傷痍軍人で戻ってきたのにまた志願して行ってニューギニアに
おそらく餓死か病死20歳
生きてればその人が家を継いでたけふど妹である自分の祖母が婿とって継いだから
生きてたら自分は存在してない >>391
美輪明宏が言ってたわ遊びで民間人を掃射してくるのがいるんだと
コックピットの米兵の笑った顔が忘れられないって 昨日のNHKで紹介されてたお婆ちゃんの
思い出話が何かよかった
好きだった男性が駆逐艦に乗っていて
寄港したが上陸はなく会うことも叶わなかった
どうしても逢いたかったお婆ちゃんは伝馬船で駆逐艦に横付けして
大声でその人の名を呼んだらしい
駆逐艦の艦長さんがこの娘いい度胸だと言って
逢わせてくれたらしい
その後結婚、爺ちゃんは婆ちゃんが
船できたのを見た時この人と結婚しようと
思ったって 考えてみれば焼夷弾って日本家屋焼き払うのに最も適してたんだな ヒデー話だ 何年か前ににもアップしたけど
祖父が中野の電信隊にいたらしく仮装大会とかしてたみたい
私の生まれる前に死んだから詳細はわからないけどhttps://i.imgur.com/xV0fwk0.jpg >>418
日本にいた事がある建築家に日本の家を再現させて、
どうやれば効率よく殺せるか実験した成果やで >>381
当初は牛だったらしいね、後半は馬だったみたいだけど >>421
あーしかも風向きやら天候も考慮してたんだってな 鬼かよ Eテレで来週放送される「ひろしま」は絶対観た方がいい 広島にすんでたけど空が光ったどしか思わなかったらしい 親戚の長男が東京大空襲の時に猫を探しにいきそのまま行方不明
何日も探したが見つからなかった
ご両親二人で手を繋いで泣いたって
何回も聞かされた >>424
東京大空襲は下町の周りを囲むように爆撃したんやで
住民が逃げ出せないように
悪魔やで、あいつら
10万人焼け死んだ 爺さんは戦地でお偉いさんだったそうだ
爺さんは会社員時もお偉いさんだった
俺→無職期待にこたえれず
ゴメン爺さん 母方の祖母が樺太から引き上げてきた時に北海道に頼れる伝手がなかったけど
祖母の妹が軍で働いていたから内地となんとか連絡つけて急場をしのいだって言ってたな
その妹さんはその後GHQの軍人と結婚してアメリカに移住して生涯を終えたな おばあちゃんは当時満州で看護士をしていたまだ若い頃で負傷した男性は怖かったが一生懸命看護したって言ってた >>431
ヒデ〜話だな戦争は人をおかしくするな 民間人とか考えてないんだろうな >>425
2,3日前に深夜やってたやつかな?BSか総合か忘れたが
もうね、やっぱり原爆日本が持つべきではないと意見が変わったわ
一般市民、女子供いるとこ狙うのは戦争ではなくて殺人や 片方の本家長男は陸軍航空隊所属、昭和17年にタイで送り狼でタイで戦死。本家では後継に養子とったがその養子の孫が俺、戦死してなかったら俺は産まれてなかったのかと思うと、不思議な感じがする 学徒動員で川西航空で働いていた親父はP51ムスタングに機銃掃射され、井戸に飛び込んで助かったと言っていたw 戦争直後の話でもいいかな?
外国人名が珍しかった戦後当時、中学受験の入試問題に「マッカーサー元帥」が出るかも知れない、けどそんなハイカラな名前覚えられない、と心配されていた。
そこで当時の受験生に流行ってた覚え方は、「松笠」(まつかさ)。
松ぼっくりという意味なんだけど、マッカーサーを音の似てる松笠と紐づけて連想して覚えてたんだとさ。 うちの爺さんは日中戦争出兵だった
前線で死なない方法を教えてくれた
一番最初に突撃するやつは弾が当たりにくいんだと
あと現地の中国人とは仲が良かったらしい ばあ様が女学校から徴用されて行った先で海軍のイケメン爺さんをゲットしたって話は聞いた >>438
あいつら日本人は猿ぐらいにしか思ってなかったからな
日本人の頭蓋骨インテリアに飾るぐらいやで
気色の悪いもんよ毛唐なんて 東京大空襲で猫探しにいきそのまま行方不明
本当の話
その当時は指環貴金属全て国に差し出したそう アメ公が基地いっぱい作ったよな
基地はいいんだけど
基地の外の川とかにゴミいっぱい捨てやがって 東京大空襲は半端なく爆弾落とされたとこ逃げたってよ 海兵74期で終戦間際に卒業して戦艦大和と言う著名な船に一瞬乗ったが
出撃するとき「足手まとい」として同期全員降ろされたそーだ >>445
リンドバーグの手記とかその辺の話が出てるらしいな
捕虜を管理するのが面倒だからって投降した兵士皆殺しとか 1週間分の食料を渡されて次の補給は3ヶ月後という無理ゲー 曽祖父が軍服にバッジをジャラジャラつけて社交会みたいな場所でヨーロッパ系の人と写った写真がある
あとは演習の時なのか小さい戦車が写ってたりライト兄弟が乗ってそうな形の飛行機の写真があったりする オカンがカボチャを出すたびに実はカボチャがあまり好きではないという話をしてた
戦時中カボチャばっかり食ってたかららしい
あまりに毎回言うから今ではカボチャを見るたびにその話を毎回嫁にするようになったw やっぱりアメリカは許せんよな
いまは仕方なく付き合ってるが >>396
このおじいちゃんに歳の離れたお兄さんが居て、当時は20代
当然戦争に取られて家族は皆暗鬱な雰囲気になっていたそうだけど
本人は地元では名前の通った古い家の長男、情け深く穏やかな人柄、実直で品行方正、色白で顔立ちも整った美男…何より尋常小学校しか出てないのに物凄く頭が良かった
軍でも細かいキッチリした仕事が上手いので、上官が試しに事務仕事を任せたら完璧以上に工夫のある仕事をしたため
頭の良さから戦地に出すのを惜しんで
軍学校の事務方に回してくれたらしい
戦争が終わった後、きっと周囲の人が助かるからと生き残らせたいと
そこでも評価が高く扱いが良かったようだが
終戦の後、進駐して来た米軍の仕事も手伝わされ重宝されたとか
結局、実家へ帰るのが遅れたらしいが
かなりの金銭を持って帰る事を許されたらしく現在の価値で4000万程度貰って帰って来たらしく家族は相当驚いたらしい
しかし、同じ職場でちゃっかりした人はもう2000万ずつくらい上乗せでぶん取って来たって近い所で働いてた人から3年後くらいに家族は聞いたみたい
当のお兄さんは「もう十分頂いた」と固辞して受け取らないで帰って行ったと
その話しを聞いて
皆「この人らしい話しだなぁ」と納得したって 母方の爺ちゃんは浜松で飛行機のプロペラの図面描いてたわ飛行機にすげえ詳しかった
父方の爺ちゃんは二回出征してる
軍刀下げて馬に乗った写真を見たって母ちゃんが言うてたから騎馬隊にでも所属してたのか
背の高い人だったのを覚えてるわ 行った人は全て戦死してるから話は何もないな
聞きようが無かったって事らしい 毎日同じもの食ってたという人は多いが
全世界見ると毎日同じもの食ってる民族の方が圧倒的に多いのである
日本人贅沢 当時6歳だった親父の話
河原で遊んでいると、米軍戦闘機が低空で迫ってきて
通り過ぎる時にパイロットが振り向いて笑っていたのが見えたらしい
銃撃はなかったという >>451
やさしいな
沖縄特攻だからな
座礁して死ぬまで大砲打ちまくるという特攻作戦だったらしいな >>455
横須賀の高齢のお客さんは農林1号ってサツマイモが不味くて散々食べたからサツマイモ嫌いって言ってたな 母の兄は最後の特攻隊
行かなくてすんたけど寡黙な叔父さんだった
本当の話 父が祖母に背負われて逃げている最中
夜空が赤く染まっていくのを見たと言っていた
空襲の記憶
戦後の食糧難をよく覚えてる
辛かったろうな 戦前京城帝国大学に行ってあっちの貴族と一緒に勉強したらしい
卒アルがどっかにあった 東京は(都心って意味)、真っ赤になってったと。
数十キロ離れてる多摩の田舎の方から見えたんだと。 戦地で病気になった祖父を陸軍の仲間がおぶってくれたから
日本に帰って来られたって言ってた 私の今居る親友も
爺ちゃんの戦友が、度々訪ねてくるのを見ていて子供ながらに何か思ったからだと
思っている
爺ちゃんが亡くなった後に訪ねて来た方は
爺ちゃんは中佐だったか中尉だったか
だそうだが、やれと命令するだけでなく自分が、まず最前線に出て見せた
とだけ聞いた事がある。
爺ちゃんは戦争の話は何もしてくれなかった 皆おもしろおかしく書いてるけど大空襲で長男がなくなつて次男が跡継ぎになって人生が末代まで変わってしまった家もたくさんある 昨日のNHKの話でもう一個
泣けたお婆ちゃんの思い出話
当時お互いに意識してた男性がいて
ある日、その人に呼び出され
ドキドキして行ったお婆ちゃん
なんと特攻隊に行かなければならなくなったので
自分の写真を貰って欲しいとの事
泣きながら帰ってお母さんにその事を話たら
当時なけなしのお金をはたいて、写真館で写真を
撮らせてくれてその男性に渡したらしい
男性は戻ってこられなかったと思われる 祖父さんは陸軍航空隊所属の兵学校出身で陸軍大尉だった。
本国と満州の関東軍へ航空補給部隊の輸送飛行中隊長で終戦。
あと1年あれば少佐への昇進で佐官になれば家がかなり大きくなり給料が跳ね上がるらしい
現場から陸軍司令部へ配属の道も出てくるんだそうだ
30手前で大尉だったから60歳まで勤めて大きな失敗しなければ少将ぐらいはなれた道だったらしい >>462
うちの親父の話と似てる
小学生低学年の親父とその弟兄弟が、線路の近くで遊んでいると、低空飛行で急に戦闘機が銃撃してきて、走って電車の下に逃げ込んだって
あと近所の民家の納屋に爆弾が落ちて燃えたんだけど、中にあったサツマイモも焼けて焼き芋になったのを近所の人と食べたとさ うちのじい様は終戦をサイゴンで迎えたらしい
じい様は仲間からマンゴー伍長って呼ばれてたらしい
理由は毎日毎日マンゴーの実を見ていて、落ちたら速攻で取りに行ってたからだそうです >>357
子供の頃に聞いた話だから赤痢だかマラリアだかごっちゃになってる。間違ってたらごめん
あと薬をつくるために硫黄が必要になって、電線にくっついてる陶器を集めて回った話も聞いた >>396
うちの爺ちゃんは島原で見たって
その後曾祖母と親戚探しに長崎市まで
歩いていったらしい うちのじいさんは陸王ってバイクに軍のお偉いさんを乗せて橋をは渡ったら崩落してそのままダイブしたと言っていた
腕と脇腹に大きな傷が有ってその時に付いたらしい
あと手榴弾の投げ方をやたら語っていた 虫の居所が悪かったらしい上官から突如暴力振るわれて怪我して帰ってきた兵隊がいて間もなく死んだそうだ
頭の良い優しい子だった様で母親が非常に悲しんでたとさ
何で同じ国民で何もしてないのに棍棒で殴るとかするんだ?敵兵隊を殴る蹴るならまだしもさ 鹿児島の志布志でひたすら穴掘ってたら終戦になったらしい。 うちの爺さんは昭和一桁生まれ
学者になれるくらい凄く賢い人が「戦争なんかするもんじゃない」とぽつり掠れ声でこぼしたのは強烈に覚えてる
親戚から聞いた話によると上海の小学校に通って工場で働いたらしい
ある日工場に爆撃機が来て自分が隠れてた10cm隣に銃弾?が着弾、命からがら逃げたって
後日見たら、10cm横に落ちたと思った銃弾は数メートル先に着弾してたって
プチエピソードなんだろうけど余計リアルに感じた もう鬼籍だが三菱で酸素魚雷開発してた人居た。わからんが先端の硬い金属を開発してたと。戦後は三菱でトラック開発。その頃は自衛隊?に納入テストの際は校庭みたいな所でひたすら周回してたが三菱が圧倒的に優れてたと。三菱が技術を教えていすゞや日野がマシになったと 大学出身は生意気だと早稲田のじいちゃんは上官にいじめられたらしい 親の実家が長野の山奥で、都会から逃げてきた人たちがよく食べ物わけてくれって泣きついてきたと
その辺はのどかなもので食べ物にも困ってなかった
んで曾祖母ちゃんが良い人だから着物等と交換してくれって言われても
受け取らないでただで食料配りまくったらしい 赤紙が怖くて醤油を一升瓶飲んだとか何かの映画で見た >>344
うちの爺さんも召集されて小倉で働いてたらしいが
長崎に変更されて生き延びた
親父は生まれてたんで、小倉に落ちてたら爺さんがいないだけだった
八幡でそんな事してたんだ >>129
玉名あたりで見たって話はあるし
うちの場合は山(といっても低いが)があっても見えたって話だから
海沿いなら普通に見えたんじゃないか?
空が明るくなったって言ってた 野比のび助(パパ)が戦中生まれで大原部長と同期という衝撃の真実 爺さんは明治生まれ
終戦時はそこそこ爺だったので
大阪の陸軍工廠で兵器を作ってた
空襲の後に米軍機からビラが撒かれ
それを隠れて見てたって聞いた
軍人にバレたら怒られるらしい 子供の親父が外で遊んでたら飛行機(グラマンて言ってた)飛んできて機銃掃射するんだと
地面に銃弾が当たると地響きがしたと
民家のトタン屋根に薬莢がバラバラ落ちる音が耳に残ってると言ってた
その薬莢拾って役所持ってくと鉛筆だかなんだかと変えてくれたんだと うちの爺は学徒動員でゼロ戦を作ってて、試しに乗ってみたら、ふわっと浮いたとか。
どんな状況なんだろな。 前の彼女のお爺ちゃんは被曝の際に造船所の船の中に居たから助かったと言ってたな。 小学校の図書室にあった古い古い本の話しで1つどうしても忘れられない話しがある
小学校の若い男性の絵が得意な担任の先生が出征するために乗った汽車を
一人見送りに行った女の子の話し
その汽車で自分を見つめながら遠ざかって行く先生の姿を忘れ難く思っていた
そうしたら先生から郵便が届いて
戦地から送ってくれた絵で
その女の子が先生を見送る姿が周辺の風景の中に描かれている物を描いて送ってくれた
最後に別れた時の情景
文章はなく、ただ絵が一枚だけ
結局、先生は戦死されて二度と帰って来なかった
という話し おい まとめサイトのバカども こういう話は嘘にしろ口伝だぞしっかりまとめて残せよ 親なり親戚なり祖父なり貴重な話しだ ちゃんと残せよ >>482
その穴掘りを指揮してたのはウチのじいさまかもしれない うちのじいちゃん 大阪大空襲で命からがら 焼夷弾の雨の中 ばあちゃんと逃げ延びた話がリアルだった。じいちゃん ばあちゃんが生き残ってくれたから俺がいるんだよな。 日本は本土決戦になればアメリカにも勝てた
ただし、ベトナムと同じでボロボロになっての勝利 >>493
婆ちゃんもグラマンが低空で飛んでるの見たって言ってたわ
とりあえず米軍の戦闘機はグラマン呼びなんだな >>5
お前ええかげんにしろよ
戦争に負けたんやからその展開は当たり前やろーが
負ける戦争をした奴を裁くのが日本国民のやる事やろ。
三国人がやりたい放題になる状況を作った奴らこそが肝心要の忘れてはいけない相手やろ。
アホちゃうかお前 >>477知り合いの叔父さんが戦地でマラリアになって子供出来なくなって養子もらった >>501
あの当時の日本人の気質では
ゲリラ戦は向いてないと思う 俺の爺の弟は
某特攻部隊の隊長だった
まぁ玉砕しましたがね 戦闘機の影が目の端にチラついたと思って
機銃掃射される!!って物陰に飛び込んだら
それはオニヤンマの影だったって話もあったな
間違えるくらいそんだけ切羽詰まってたんやなって 戦争関係なく、朝鮮人が日本で暴れてた時に自分の親族殺されてるからな
これで朝鮮人を批判してヘイトスピーチ言われてたらどうする? >>499
熊本県出身だからマジでそうかもしれんw 今の日本人だってゲリラ戦なんて出来ない
口だけ達者 爺さんが横須賀近くで中型艦幹部の長期滞在用宿を営んでいた。皆、驕ることなく爽やかな紳士であったと惜しんでいたよ >>511
お前の家教えてくれればお前殺すくらいできるだろ
だりぃからやらんけど >>511
戦闘のノウハウが
まったく身に付いてないからな 子供の時に近所の爺さんから聞いた話
戦地で食べ物無くなって敵を食べたらしい 小さい頃は、この洞穴は何だろうと思って遊んでいた。防空壕なんて想像も出来なかった 私の母が小学校入学前の年に神戸大空襲があった。湊川トンネル(長さ20m程の短いトンネル。上は公園。)に避難した。
祖父は絶対に此処を動くな、と祖母に厳命し、自らは他の若い衆と共に消火活動の為に火災現場に戻った。
湊川トンネルは、後から後から人が避難して来て、半パニック状態に。
その時、神鉄地下線路を歩いて長田方面に逃げろ(湊川トンネルの地下に神鉄の湊川駅が有り、長田方面に地下線路の出口がある。)、っていう声がしたらしいが、
祖母は祖父の命を頑なに守り、朝まで動かなかった。祖父や若い衆の努力虚しく大開の街は全焼。
しかし湊川トンネルのお陰様で命だけは助かった。
後に分かった事だか、神鉄の地下線路に逃げた人は、煙に巻かれて全員亡くなったそうです。 慌てて逃げた空襲が止み自宅へ帰ると逃げ遅れた半身のない隣家の住人が屋根からぶら下がってたそうだ 子供の頃からずっと防空壕だと信じてた穴が縄文時代の横穴だったと最近知った 遺骨見たことあるわ
頭を銃撃されて頭蓋骨に穴あいてた 即死で良かったのかもしれん >>100
祖父は満鉄の技師をしていたらしいが、帰らなかったな
シベリア行きになった可能性はあるのかな 俺が小さい頃はまだ高射砲の跡があった ちなみに中嶋飛行場近く 既に亡くなった祖父は海軍で戦艦に乗っていて撃沈された
海に投げ出されて沈む中、必死に水面に向かって泳ぐが泡に巻き込まれてどんどん沈んでいく
まぁ何とか生還したお陰で俺が産まれたんだが
この時の体験談を戦友と話しているのを、幼稚園児の俺が横で聞いていたと言う話
強烈な記憶として残っているよ 憲兵とかクズ上官って今だとDQNとか犯罪者なんだろうな 戦後、朝鮮人が嫌われる対象でなかった理由が欲しい
永遠に見つからんけど じいさんが空襲にあい家に焼夷弾が刺さって慌てて裸足で家飛び出したらアスファルトが焼けて熱かったので近くに転がってた死体の下駄拝借して逃げたって生前言ってたわ。 海老名香代子さんは戦争孤児で苦労したから次女の泰葉に厳しいのかな
三平さんだったら家に置いてるかも あんまり戦争の話は聞かなかったけど
うちのじーさんは名前が女みたいだったんで不思議に思ってたら
当時は男に女の名前をつけて少しでも徴兵を逃れさせるためだったとは聞いた >>526
気に入らなかったんだろうが そんな余裕なかったんだろうな 緊急脱出でパラシュートで降りてきたアメリカ兵を
集団で殴ってボコボコにしてたらアメリカ兵は命乞いした
でも村人は止めず叩き殺し
その後、埋葬したって聞いた 詳しくは聞いたこと無いが、じいさんは乗るはずだった船が沈んで延期になり終戦を迎えたそうな >>525
体育会系パワハラ上司が一番近いと思うわ 艦載機の機銃掃射で、子供背負って逃げた若いお母さんの上半身が血煙とともに消滅して
二本の脚だけが走っていった
なんて話を聞いたことがある
ちょうど射線が集中する点に位置してしまったんだろう
法螺も交えた話だったが俺は恐ろしくて鳥肌がたった 空襲か震災か忘れたが朝鮮人の人が暴動合って逃げてきてじいさんが知り合いでもないのに家に入れたと聞いた 腐っても当時は仲間だろ
民間で殺されてんだよなウチの親戚は
ありえんわ 沖縄戦はヤバかったと聞いてる
島の真ん中から攻めてきたから逃げるのが島の端っこになって最後は自決で崖から飛び降りとか自爆とか色々だったらしい
上陸初日にばあちゃん置いて逃げれないから逃げずに捕虜になったから助かったて父ちゃん言ってたよ >>68
そごうが廃墟なんはゆめタウンが繁盛してるからやろw
呉は海自や軍需の幹部が居るから結構リッチ感がある。 >>522
シベリア抑留中の死亡者なら、ロシア側から提供された名簿が厚生労働省のサイトで見れるよ
完全なリストではないけど、その中に名前がある場合、問い合わせればさらに詳しい資料を見せてくれる 俺もあんまり戦争の話は聞かんかったな
病弱のじいちゃんは戦争ではなく若くして亡くなって
終戦時ばあちゃんだけで子供5人育ててた
終戦の混乱時には男1人でも苦しいのに
女手だけで子供五人とか
想像もできない事があったに違いないが
何も語らないまま永眠されたな じいちゃんは臆病者だから生き残った、兵役逃れだね(´・ω・`)
だから戦争で亡くなられた方を批判するような事は一切慎む事にしている、
後出しマウントして負ける戦争が無駄とかいうカスはさっさと死んでほしい 爺さんたちが多数集まる会合等に出席した際に何度か「お宅は海やったか空やったか」のやり取りを目撃している
こんだけ聞いただけでも何か複雑だった 近衛師団で伊勢神宮警備
陸軍曹長
病死したが、戦病死扱いになった
祖母の兄 祖母が庭に埋めて無事だった高級な食器が今もある
縁が銀で素敵
残してくれてありがとう いつも思うんだけどさ、時折上から目線でスレ立つだろ
ふざけんじゃねーよ
と思いながら書かせて頂いてます >>503
だからって三国人のやったことは免責されねえだろ
話ごっちゃにして逸らすなんて朝鮮人みたいな奴だなおまえ >>526
原爆ドーム生成後の広島では日本人を優先的に治療したって話だがな
真相は知らん
朝鮮やらから奉公へ来てた人達への待遇はどうだったんだろうな あのさ、工作したくて異見書いてる馬鹿もいるだろうけど
市役所から送られてくる選挙用紙で自分が日本人だと納得できちゃうからな >>522
満州で戦闘機整備士だった死んだ爺さんは終戦後シベリア抑留組で3、4年くらいかな
体の大きな兵隊から栄養失調と寒さで眠るように死んでいったとか
配給がみんな同量なので体の大きな人は空腹に耐えきれず、水で黒パンふやかして量を増やすから栄養失調になりやすかったのではないかな
帰ってきたときは完全に栄養失調状態で1年くらいボーとして過ごしたらしい 祖父が満州と日本を輸送機で行き来してたとか聞いたな
無事終戦迎えて戦後は刑務所の工作機械の整備士してたとかなんとか >>68
呉と舞鶴は行ったことあるが呉はまだ活気あるよ
舞鶴は 戦車が一番怖かったらしい
結構速く 弾を無駄に撃たず 追いかけ回すらしい
壕に逃げても 上でぐるぐる回って生き埋めにされるらしい 空襲の時
親に言われて川の側に逃げたらしい
なんで川の側?焼夷弾浴びても
すぐ飛び込めるかららしいけど >>550
どうでもいい
好きに思ってりゃいいよ 真実はひとつだし
お前らかしらんけど、日本を嫌いと言えば仕事あるだけで 俺のじいさんは空襲の時に機銃から逃げるために近くの消防車の下にもぐったらしい
アメリカの飛行機が凄い近くまできたって言ってた
その時パイロットの奴は手を振ってやがったって
酔うたびにはなしてくれる >>100
韓国は建国時点では台湾と同じく親日国家やったからな。
それを見てアメリカがガチガチの反日の李承晩を担いで親日派を粛清して今の韓国がある。
だから日韓関係が上手くいっていないのはアメリカのアジアが纏まらないようにする狙いで
日韓がうまくいかない事をアメリカが憂慮してみせるのは嘘。 >>557
道路や建物はぐちゃぐちゃになってるから
すぐ方角わからなくなるけど
川だけは残ってるから
方角わかるじゃろ うちのじいちゃん耳たぶが米兵に撃たれてなくなった
シベリア抑留されて三波春夫と一緒の施設にいたらしい そういや、ウチに配達に来てた本屋のおっちゃんが片腕なかったな。
直接聞いても「うーん、まぁ、ちょっとな」で教えてくれなかったけど、
親に聞いたら、戦争で吹っ飛んだって言ってた。と教えてくれた。 >>562
悪いけど根本的に朝鮮人は あかん奴やで今も昔も変わらない 親戚の爺さんが立川飛行機でA-26(キ-77)担当整備士で
ドイツに向けて離陸するのを見送ったと言ってた
子供の頃はふ〜ん・・・としか思ってなかったが、後にA-26の事を詳しく知って
あぁ、あの時もっと良く話を聞いておけばよかったなぁ・・・と後悔 九十九里浜に穴掘ってなんか演習してたとか
粘土爆弾とかそんなのは本番でただ打ち方の真似事だったか
生きていたら95歳のじいちゃんが80歳のとき入院中にきいた 福井だが、爆撃機が川面の光、たぶん月明かりの反射だろうな、
それ目がけて川に爆弾落とすのを避難先で笑いながら眺めてたそうな
「あいつらどこ落としとんにゃ〜」って
こういう、戦時中の笑いの記録って残してる人いないかね
湾岸戦争の時はイスラエルで「マスタードが降ってくるぞ!
ホットドッグを用意しろ!」ってジョークがあったそうだが 俺の婆さんは畑仕事してたらB29の編隊が来たから木陰に隠れたらしい
もちろん畑なんてある田舎に爆弾落とすわけもなく
隣接市にある海浜工業地帯に空爆してたと
あと爺さんは20キロ離れた県都が空爆されて赤く燃える空を見て
婆さんに握り飯をたんまり作ってもらって自転車で1人支援に行ったそうだ 祖父は長崎の海岸線の高射砲部隊。
性能的に届かないからできることは無かったという。
きのこ雲は目視したとかなんとか。 小さい時に広島のなんか催しやっていて
モノクロの火傷だらけの女の人の写真みてトラウマになって
夜になると思い出して怖かった じいちゃんが学徒出陣で戦争行くことになって陸軍と海軍と空軍どれにするかってときに
陸軍は汚れるからイヤ
空軍は落ちるの怖い
海軍は制服ステキ
で海軍選んだって話好きだった
結局行く前に戦争終わったから行くこともなかったらしい うちの爺さんが配属された部隊にたまたま爺さんのいとこもいてびっくりしたらしい
とかそんな話しか知らん 小学生の時に亡くなったじいじが義足だった
別世帯だったので詳しいことは聞いたことないけど
父に聞いてみようかな >>559
ワイもどれが真実か知らんが眉唾物的な話はたくさんあるよ
戦後に土地を奪い賭博や春を売り汚い事をして生きてきたって意見が多いが
身寄りのない異国ではそうするしかないよね トラック乗ってたら銃撃されて隣に乗ってた人が死んだって聞いた事があるようなないような
敵兵を殺したって話だけは聞いた事はないな 戦争の話は聞く機会は無かったけど
近所のお爺さんが片腕がなく、幼少の頃に母親に何でか聞いたなぁ
車の運転もするし畑仕事もバリバリやるし
何でもこなす姿に感心した 探偵ナイトスクープのレイテ島からの手紙をみんな見ろ ばあちゃんが満州引き上げで子供は一人以外置いていけっていうのを聞かずに
後の叔母を腹に隠して日本に帰ってきたってよく聞いた
この叔母を満州に置いていけば親戚関係がすごく丸く収まったのに、余計なことをしてくれたもんだと今となっては思う じいさんが軍の工場で兵器の開発だかしてた時
お腹がすいてるだろうと爺ちゃんの両親が
山梨から神奈川の工場まで芋とか米がいっぱい入った弁当を作ってきてくれた
だけどその時じいさんは工場の食堂で結構いいもの食ってたから
ひいじちゃんとひいばあちゃんはビックリしたらしい
結局工場の食堂で両親と一緒にご飯を食べたっていってた
お弁当はおにぎりにしてその日両親が帰ったあと食べたって >>143
当時の日本の人口8000万人で犠牲者300万人やからな。
普通じゃない。日本史上最悪の事をやらかしたのが東條英機。
こいつを日本国として裁いていない事が
権力はあるが責任は取らなくて良い歪みが治らず
東電の清水勝俣が捕まらず、無能経営者が続出し、飯塚幸三が未だに普通に生活できる歪んだ社会の原因になってる。 近所の時計屋の爺さんが、愛知時計で高射砲の時限信管を開発してたと言ってた
子供の頃は、ふ〜ん・・・としか思ってなかったが、
今になってみると、もっと詳しく話を聞いておけばよかったなぁ・・・と後悔
記憶に残ってる話では
・日本の物は発射時の衝撃で壊れて不発が多かった
・工場の屋上から地面に投げ落として作動テストをしたが、いくら頑張ってもすぐに壊れる
・一方、鹵獲した米軍の信管は、何回地面に叩きつけてもビクともせず普通に動いてた
・口には出さなかったが、もう既に負けてる・・・と思ってたらしい 知人ではないが小学生の頃、図書室に置いてあった「はだしのゲン」を読んで気持ち悪くなり、給食が食べられなくなった。 うちのばばあやっとこさ今年90歳なのに女学校時代に中島飛行機に勤労動員とかしか ばあちゃんが満州から引き揚げる時に父親の形見の刀を盗られないように庭に埋めて来たらしい
子供の頃は俺が絶対探してくるって良く言ってたけど叶わないままばあちゃんは死んでしまった
形見の万年筆は露助に持ってかれたって怒ってたな
殺されたりレイプされんだけマシだったんだろうが 東京は疎開やらなんやらでさんざんだったらしいけど
地方の農家は結構白米とか食べてたんだな あまり被害にもあってない地域もあるようだね 爆撃機に高射砲を撃つも、とどかなくて上官?に
弾の無駄ですと言ったら、ぶん殴られて歯が数本飛んだと。
本当にとどかなかったのか、ただ精度不足なのかは聞いてない。 介護やってるけど利用者さんから戦争の話をしてくる人はほぼ皆無だな
自分語りが大好きな人でもまず戦争の話題はしてこない 日本軍は強かっただの南京で殺しまくっただの妊婦すら殺しただの聞かされて育った俺
奇跡的にパヨクにはならず 子供の頃、初詣に行くと傷痍軍人が物乞いしてた。
多分インチキだと思うけど 10年くらい前に亡くなった伯父は、特攻に志願して日々訓練に明け暮れていよいよ、って時に突然終戦になったそうだ
仲間が何人も亡くなっているのに自分は生き残って恥ずかしい、申し訳ないとずっと言ってた >>592
孫だからかな知らなくていい話なのに聞かされてたわ
ばばあなんか入院してないしボケ出る前に勝手に話してた 俺の親父と母親は83歳だが、当時山口県に住んでいて小学生の頃、B29はよく見たらしい。 終戦直後に在日が「一等国民じゃ」とやりたい放題、国は警察の数が全然足りないから地元の顔役やヤクザに治安を
守るように話をつけてたって。 ロスケは怠け者
シベリア強制労働の監視役すらまともにできず、メシもロクに配給できない
だからいつも監視の目を盗んで釣りをして飢えをしのいで、何とか日本に帰国
その後、俺のかーちゃんが産まれる >>150
こんなレベルの低い奴らが高スペック呼ばわりされてたから負けたんやなと思う
本当に関東は歴史的にクズの集積で笑える。
因みに京都が原爆投下候補から外されたのは知識層が集まった都市やから。
NHKスペシャルで数年前にやってた。
一方で東京は全員が死ぬように効果的に爆撃された。
つまりアメリカ人から見てもあれで戦争始め出した関東人を高スペックとは思っていないという事。
高スペックと思ってるのは関東人だけ。 戦後にもしばらく駐留軍いたみたいだね
母の後をつけてきた駐留軍にノ-パンパンって逃げたって
本当の話 うちの祖母は長男と二男が戦死したのがわかっていても夜中に玄関で音がすると跳び起きて玄関に行ってたらしい。 じいちゃん赤紙もらって逃亡して終戦まで山籠りしてたそうな 知恵袋にハニートラップにかかってアドバイス求めてる与党議員いるから誰かアドバイスしてやってくれ
ハニートラップにひっかかりました。私は与党所属の衆議院議員です。… - Yahoo!知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14211882804?fr=and_other >>600
文化破壊が目的じゃないってアメリカ側が判断したからだろ
ノイマンが執拗に徹底的につぶすべきとか言ってたのを止めたってかそんなような 日本で最高齢の現役パイロットのお方は一式陸攻のパイロットだったのを番組で見たな
何度も味方機が落ちてくのを見てきたんだろうか 配達の仕事やってるが
田舎の古民家だと戦争経験の高齢者がいる
あっちの空が真っ赤になってねぇ
食べ物なんか新聞紙に包まれたサツマイモ1個だったよなんて聞かされた >>103
すげーな。
ラバウルで取り残された日本軍も稲作やったり島の鉱石から弾薬作ったりして自活して結構充実した生活してるしな。 >>1
徴用工の話はかなり真面目に
地元の爺さんにインタビューした
単なるブラック就職だった
毎朝、韓国人労働者は行列を作って
徒歩で通勤していたが、引率は少なく
武装もしていなかった
但し韓国人労働者は、身綺麗ではなかったそうな
文化や言語が違うため、彼らには専用の
住居があったらしい。
そこに接近した人には会えなかった
彼ら専用の遊郭まであったらしい。
そういう話はタブーらしく、詰めて聞く事が
出来なかった。(今では取り壊されているとの事)
彼らは食文化が違うので、
彼らが必要とするニンニクの栽培が
地元で始まり、最近まで特産品だった うちのじいちゃん2人は両方徴兵検査に落ちたので戦争に行かず、体験談がなかった 福岡県に原爆を落とすはずが天候が悪くて長崎にしたらしい 大叔父は父親が経営する上海の娼館で幼少期をすごした。
娼婦の7割は日本人女性。あとの3割に朝鮮人、中国人が半々くらいいたとのこと。
アットホームな感じの店だったらしく娼婦同士は仲が良かったという。
盆踊りとか楽しいイベントもあったらしく、まだ幼げな朝鮮女性に日本人あねさんが甲斐甲斐しく踊りを教えたり面倒みたりして可愛がっていたらしい。
中国人女性たちは近郊出身の者が多くその後も長く勤めだが、朝鮮人女性たちは、年期が明けると故郷に帰って行ったという。 祖父終戦時40 くらい「撃っても当たったかわからなかった」
2回出征してる 本人は夢で見ることもあったらしく多くは語らなかったな
義父(終戦時8歳)「米軍機が機銃撃ってるのが怖かった」「食料無くて農家が羨ましかった」 私の祖父は、大戦前、大陸や半島で手広く商売をしていました。
日本人にもシナ人にも顔の効く祖父は身元保証人になる事も多く、
憲兵とかに捕まった人物の引受人みたいなこともやっていた様です。
終戦まで大陸で商売をつづけ、明日はいよいよ引き揚げとなった日、
雇っていた朝鮮人達がやって来て、略奪をしまくった挙句、
祖父を他の経営者と共に拉致同然で連れ去り、
新六軍(国府軍)へ引き渡そうとしました。
祖父を連れ去った朝鮮人の中には、保証人として助けた者も多くいて
中には十年以上付き合いのある者もいたのですが・・・・。
この時ばかりは流石の祖父も死を覚悟したそうです、ところが、
対面した新六軍の将校は、かつて身元引受人として助けた人物だったのです。
祖父は即日釈放され、なんとか無事に家族と合流できました。
引き揚げ後、祖父は再び商売を始めましたが、
その新六軍が揚子江越えで全滅したとの報を受けたのは、
国共内戦が再び激化した頃だったと言います
祖父はその後リタイアすると新六軍の将校の行方を捜して
中国へ行ったり、世界各地を旅行したりして悠々自適の暮らしを続け
やがて亡くなりましたが、
それでも、あれほど親交のあった半島の地には
二度と足を踏み入れることはありませんでした。 俺が初めてアメリカに行く時、出不精なじいちゃんが珍しく見送りに来てくれて、普段は競艇のことしか頭にない人だったのに、その日だけは俺の目をじっと見ながら
いいかゆうちゃん、白人は信用するな
とマジ顔で忠告してきた。他人をディスる人じゃなかったから驚いたな ああ、そうだ母親が昭和20年生まれなんだが、都市部の人に
「子供なんか作ってる場合じゃないと言われなかったんですか?」
という話をされたことがあるらしい
もちろん本人には何の責任もない話だが、都市部と田舎とで
たぶん食料事情の違いなんだろうな、空気がかなり違っていたようだ 桜のなんとかっていう爆撃機乗りだったらしく、アメ公の駆逐艦3隻撃沈させたって自慢してたわ。
なんでもロケットがついてて強かったらしい。 俺のばあちゃん
浅草の近くに住んでた
1945年3月9日に群馬県へ疎開
その日の夜に東京大空襲、実家消失 ひいじいさんとひいばあさんは疎開先の防空壕の中で出会ってその10数年後に結婚したらしい
俺の親父が「それが無かったらお父さんも生まれてなかったね」って言ったら
「それはないよ。だってお母さんとは何百年と言う前から出会って別れてを繰り返しているんだから何があっても出会う運命なんだよ、この先何百年という時が過ぎてもね」だってさ 親父方の爺さんは亡くなって
母親方の爺さんは怪我したが帰ってきた
物心付いた時から俺の爺さんは1人きり
それだけでも悲しかった 親戚のおじちゃんも右目なくなってたけどどこでなにしたんだろな
もちろん戦争いって何かあったんだろうけど生きてりゃ120歳くらいのひと
働かなくとも十分お金もらえるんだから片目なくてもいいんだと父親に言ってたとか 今年死んだ母方の祖父は戦争の話全く話さなかったな
あまり話したくなかったんだろうと身内と話してた
父方の祖父は後方部隊にいたとか話してたけど そう言えば、昭和50年代くらいまでは、街の祭りで、軍服を着て軍歌をかけてるおもらいさんが居たな。
片脚なかったりして、ずっと頭を下げてるの。子供心に怖かった。 俺が中学生の時、授業で遠泳やっててたら機銃掃射されたわ
同級生27人死んだ
その時の光景は死ぬまで忘れられんかったわ 陸軍の一兵卒だった爺さんは「戦争はイカン」とだけで何にも語ってくれなかった。
爺さんは南方だったか大陸だったかだけど、戦争体験語らない兵士は結構多いと思う。 じいさんたちの話聞くと良く生きてたなって思う話ばっかりだわ
死んだ人からはそんなこと聞けないから
結構ギリギリの所で生きて来てくれたんだな じいちゃんの軍隊の話って寿司屋のカウンター席で酔って一回だけ話してくれたのがあったけど
上官に取り入るのが上手くて気に入られてたんで配給係任されて色々得した話とか
終戦後はゴタゴタして 現地解散で何人かついてきたのと一緒に黙って汽車のって帰ってきたとか
子供心に聞きとーなかったわwてな話がポロポロ出てきてた GHQによる略奪
金色だからか知らんが位牌をよく取っていってたって聞いた おふくろが広島から岩国に疎開してたんだけど
原爆の当日ちょうど学校にいて屋上から広島のきのこ雲を見たそうだ
あと、空襲の時に避難してたらすぐ近くの倉庫が爆発して妹を抱え込んでうずくまってやりすごしたそうな
って話を孫(俺の姪)にもしてたら学校の先生に話したらしく
先生から「是非学校に来て生徒達に戦争体験を聞かせてください」
って言われたらしいけど
「やだよそんな小っ恥ずかしい」って断ったそうだ 戦地の大陸派兵されてた祖父二人は両方アラフォーで後方支援だったからか、全く戦場の話は聞いて無いわ...
本土に残った父親は「焼夷弾の爆撃機から逃げてたら、超低空飛行で、道逃げてるとこに迫って来て、焼夷弾落とされて、爆風で後ろに居た人の肉片が前方の電柱にくっついた」って話は聞いたわ
街もあちこち燃え出してたっていうから
戦争末期の制空権失った剥き出しの本土に居た方が、後方支援の大陸派兵戦地組アラフォー爺より、直に聞いた話の限りでは、危なそうだった 満州にいた人は帰還するときに大変だったらしい
満鉄関係の人が多いね あとあれだ
逃げてる最中他の奴が焼夷弾に当たった話 親戚のおじさん以外は少年兵とか女学校工員で終わってるんだな
だから惜しげもなくきかせてもらったのか 韓国人はその当時から迷惑掛けて巻き沿いで日本人が逮捕されたりしてた
同じ事何度も繰り返す自分さえ良ければ他人を無実の罪に落とし込んでも平気なド屑でしたとさ
田舎でも浮浪児も沢山居て橋の下とか沢山居て家に食べ物貰いに来てたって 父方祖母は内地にいたらしいが祖父は朝鮮銀行の副支店長だったとかで引き揚げ以外の実体験はないんだったかな
だから俺の伝聞は主に母方からのものだ
ちなみに…その福井は昭和23年に大地震があって結構大変なことになった
その時死んだ父の兄弟(年上か年下か忘れた)の戒名を墓碑に刻むのが
上京して墓を買って最初にしたことだった
福井の地元と本山の三重にはたぶん納骨してあったと思うが、
俺が生まれるより遙か前、30年以上前に亡くなった顔も知らない叔父を
供養するある種の執念に、一つ信仰の形を見た気がした >>329
慰安婦って、6〜9割は日本人女性だったからね ひーじーさんが江田島の兵学校で山本五十六と同級生
卒業席次はひーじーさんはかなり下だったけど… >>640
若者が遣られたんだよね
アラフォー子持ちは大陸でも後方支援だったって。戦略ガイで。 〒819-0371
福岡県福岡市西区飯氏983-1
ウエストキーファーII 203号
坂梨 明美 >>628いたいた。アコ-デオンひいて
話によると手とか足あって縛って詐欺っぽいらしいよ
本当か嘘か知らないけど聞いた話 >>647
うちのじいさん戦力外だわ アルバムの写真に「ロートルなれども〜」とか添え書きがあった もう二人の子持ちだったし 母方の爺さんが東南アジアのどっかの島で戦ってたとか
その時に弾薬運びしてたら襲撃されて持ってた弾薬が破裂、大怪我して帰国したそうな
まぁ、とにかく肚の座った爺さんでヤー公と大喧嘩するし
ドスで刺されても逆に刺し返して自力で病院まで行った兵隊ヤクザみたいな人だったらしい 満州から引きあげてくる話は結構怖かったわ
よく帰ってこられたなと >>643
スレチだけど関東大震災時だったかに、母方祖父が東京東北間の汽車に乗ってた時、親戚の同年代の青年が「朝鮮人をやっつけろ!」ってマスヒステリーに陥った集団に追い掛けられて、同じ車両に逃げて来たし、次の車両に走り去って行った、って話は聞いた。
「あいつ、ああいうそそっかしいとこがあんだよ」って笑いながら同郷出身者の祖母に言ってた
笑えるネタだったみたいだから、頃されたりはして無かったと思う。。。
皆様も、災害、戦災時等の大混乱時には、マスヒステリーには、十分お気をつけ下さい。 戦後に土地召し上げられたって
恨み事ばっかり聞いたな >>653
聞いた事無いけどね?
夢と現実の区別つかない病気の人?
医者逝って。 バアさんの兄貴が某戦艦に乗ってたらしい
もちろん沈んで戻らなかったそうな
淡々と話してくれたけど、当時はとんでもなくつらかったんだろうな 俺のじいちゃん、陸軍54師団でペグー山系での功績で宮崎繁三郎から賞書をもらってた 普段は戦争の事を話さない爺さんだったが、晩年に戦争はもういいとポツリと言っていた。
ちなみに、朝鮮人は信用してはいけないとも言っていた。 知り合いの英語教師(アメリカ人)の爺さんはオールアメリカンとかいう空挺部隊で、マーケットガーデン作戦でオランダに降下したらしい。
英軍はヘタレ、映画の影響で101空挺師団が有名になってムカつく、と言っていた。 戦死し形見も遺骨さえ戻らなかった話と戦艦大和の第二主砲司令官だった親戚が戦地に向かう途中寄港した小島で急遽下ろされて生き残った話
この夏以前図書館で借りて読んだ本を手元に置いておきたくて購入した
「きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」(岩波文庫)
「第二集 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」(岩波文庫)
「「わだつみ」現場の証言 或る傍観者の記録」(東京新聞)
戦場で帰らぬ者となった当時の若者に思いを馳せ、生き残りし者の言葉に耳を傾けた もう死んじゃったけれど両親と祖父母の戦争体験は、空襲のサイレンで消灯した事と、もう死ぬと思った程毎日腹ペコだった事だね。
米糠をマジで食っていたそうだわ。 戦争未亡人が
亡くなった兄弟の弟とか結婚してる人わりと多いと聞く
今では考えられない話
生きていくには仕方ないだね 友達のじいさんが戦地で人食ったと話して
何しろ子供だったので怖がらせようとホラ吹いてるよと当時はそんなに気にしなかったが
事実なんだろうな ひいじっちゃんの墓にレイテ島にて戦死て書いてあったわ アメ横戦後は砂糖が売れたらしい
皆さん甘いものを欲してた
メチルアルコール飲んで失明した人もいると聞いた >>659
母の従兄弟が特攻隊に志願してて搭乗前に終戦だったって聞いた
田舎の長男なのに、弟も居るから大丈夫、って本人が志願したらしい
寸止めで戻って来たけど...
母方の祖父の妹と小さい子が、空襲で巻き込まれて亡くなってたわ
まだ子どもだった母の同級生も、空襲で亡くなってた
戦地で戦死した人より、本土空襲で亡くなってる親戚友人の方が多いみたいだわ
直接戦闘員同士の対戦で死亡するより市街地への大規模空爆の方が死亡率高い時代だったんじゃ?
原爆だって、1発で10万人が亡くなったって云われてるし
2発で20万人の一般人が死亡してるんだから
もしかして非戦闘員の方が亡くなって無いかな? シベリア抑留から命からがら逃げ帰って命は助かったが戦線から逃げた扱いで軍人恩給は与えられなかった話
シベリア抑留で同胞は過酷な環境で抑留所でどんどん死んで行き脱走者は撃ち殺されていた 母方の祖父から聞いた話は
中国大陸をとにかく歩いて、そこら中に人間の死体があった
父方の祖父は慶應卒でシベリア抑留で周りは沢山しんだらしいが祖父は麻雀が得意だったらしくロシア人に麻雀教えて生き延びたと言っていた 爺さんが特攻隊志願で出撃前に終戦。帰還。
「志願者は前ぇ!」って言われて全員が前に出たそうだ。
国が滅ぼされて自分たちの家族が蹂躙されそうだとなれば
若い男なら特攻で一矢報いようとするの当然だろ、だってさ。
今の旧帝大を卒業したインテリだったけどね。 ウチの爺ちゃんは飛行機乗りで中国(重慶だったかな)の爆撃にも行ったって言ってた
原爆が落ちた後に広島上空を飛んで見た風景を新聞社に投稿して新聞にも掲載された
自分が猛勉強して飛行機乗りになった人だから、オレもよく頑張れよって言われた 空襲で亡くなった人には慰霊金とか貰え無いんだよね
戦争で亡くなった人には国がだしたらしい 当時の特攻隊とかってさ、映画やアニメでヒーローたちがやってることを、
そのまんま本当にやってたわけだから。すげーと思うよ。 戦争はあかん言うだけで具体的に何があかんのか聴かんかったな 言ってたのかもしれんけど(´・ω・`) 特攻隊って尊敬するけど国全体が洗脳されてたんじゃない 今とは逆の洗脳なんだろうな。
戦後は「武器を捨てれば敵は攻めてこない」という洗脳なわけだけど
そういう教育を受けた俺らから見たら、戦前のはまた別の洗脳に見えるんだろうね。 その当時生きてたら非国民とか目をつけられてやられそう
息子を本当は戦地にいかせたくなくても全体がそんな雰囲気だから仕方なく
泣く泣く送った人もいたと思う 焼夷弾が体に刺さった人がたくさんいた話も聞いた。
いきなり天井を突き破って落ちてくるから、顔とかに刺さる人が多かったんだって。 争いが正義になるような社会はあかんっていうけどそれは敗戦したからそう思うだけでアメリカなんか勝った方からすればいまだに争いは正義なんだよな 戦争を無くすのは難しいよ(´・ω・`) おじいちゃん先生が話してくれた
子供の頃、足の裏のしわしわをつるつるにしたくて
あいろんかけたそうな
ずるんと皮が剥がれても薬なんてなくて
カアチャンに味噌塗られたらしい
味噌も貴重 貧しくて食うもんなくて人肉食ってた人が近所にいたとばあちゃんから寝物語に聞いた
ここの肉が柔らかいだからここをスゥーッとね、と太ももを指で撫でられた
その後平和な時代に産まれて!憎らしい憎らしい!とポカポカ殴られた 親戚の爺さんはほっぺたを銃弾を貫通しエクボが出来たと笑い飛ばしてた 戦闘機で狙い撃ちされた子供の話も聞いた。
背中から打たれて、背中側は小さい穴なんだけど、反対側は30cm以上の大きな穴になってたんだって。 >>664
空襲後焼け野原になってた町で
自宅跡地に建てた、自宅代わりの
掘っ立て小屋みたいな家で、鍵も掛けられ無かったらしく、留守中に煮豆を
近所の泥棒癖があった子が侵入して
食ってて、“帰宅”した祖母と母の目の前で逃げ出してった、って話は聞いた。
あと、何とか持ち出して守った布団を
留守番頼まれてた母がちょっと、、、
ポカ〜ン(*´q`)タイプで、帰宅途中の祖母が、布団泥棒が逃げ出してく後ろ姿を見付けて「ドーロボー!」って騒いで追い掛けたけど「追い付け無かった!」って悔しがってるのに、ポカ〜ンが
「『キョトン(?)』(*´p`)?としてる
だけで、役立たず過ぎて、腹が立つやら、情けないやら...!」ってのは、聞いた 戦時中は爺さん婆さんまだ子供だった
爺さんが軍人ってお前ら何歳だよ 家の父親も母親も玉音放送の記憶がないみたい
当時小学生
ジジババとは一緒に住んでなかったし 満州建国して楽しかったって
現地人とも和気あいあいでその頃の写真を額に入れて飾って懐かしがってたわ
俺も行きたかった >>539
ネットが普及される前に調べてあると思うけど、新しく出たかもしれない
ありがとう >>673
前に出なかったらその場で袋叩きにされただろ >>534
その話は本当だと思う
当時のアメリカの艦載機の機銃はM2の12.7mm機銃
現在のバレットM82とかとほとんど同じタマ
タリバンを狙撃している動画とか見れるけど、対物ライフルが着弾すると人体はボロ雑巾みたいに弾け飛ぶ
爺さんは従軍慰安婦については報道は大ウソであると
ニュースの度に気分を悪くしていた。
慰安婦も兵隊も平和で良い関係だったらしい。
爺さんが中国に上陸したとき(日中戦争後、太平洋戦争前)
先輩から奢ってやるから料理が何が食べたいか聞かれて中華料理か韓国料理か日本料理か
選ばされたらしい。
せっかく支那に来たからほとんどが中華と答えたそうだが、着いたのは慰安所で、それぞれ中華料理、韓国料理、日本料理を食したそうだw
あのとき日本料理にしておけば良かったと爺さんも含め大部分の同期が悔しがったそうだw あとは、終戦した後、やたらアメリカ人と結婚してる若い女が多かったらしい。
で、妊娠しておなか大きくなって、引っ越していって、それっきり会ってない、みたいなの。 >>692
ばれたか、、、お盆だから、、、じゃ、もう還るか、、、少し早いがお暇すると致しますか、、、
🍆君はどこ逝っちゃったのかな?っと... 爺さんの話だと、中国へ行った人たちは楽だったそうな。
東南アジア方面へ行った人は大変だったらしい。ほとんど帰ってこられないって。 あと、うちのじー様はシンガポールに駐屯して現地で商売して現地妻と子供がいたらしい
最後はイギリスの捕虜して無事帰国し天寿をまっとうした じいちゃんち田舎だったから戦争終わった瞬間に兵隊になるつもりだった兄貴全員ニートになって毎日遊びまくったって言ってたな >>681
武器を捨てたり自決した地域は戦勝国に占領された日本 親戚のじいちゃん南方だった
船撃沈されて海に放り出されて島に流れ着いて
戦争いうかそこからジャンルでサバイバルだったらしい 実際聞いたことある人なんて50歳以上だろ
そんなふうに風化されていくな 戦争へ行った人の世代って、老人になって病院へ行くと
待合室で同年代で「あんたはどこの戦地へ行ったの?ほう、ビルマか」ですぐ話が合うから
すぐ仲良くなるんだってさ。 あと、戦前の爺さんたちって、中国人と漢字で筆談できたらしいよ。
漢字でだいたい意思疎通できたんだとさ。 🍆に乗って天翔るものは
永遠に歳を取らない。。。
永遠の+-0
去らば、いつかの夏。。。 >>692
30代中盤
父親が末っ子だったから、じいちゃんとの年はかなり離れてる
もう死んじゃってるけど、じいちゃんは日中戦争時代から軍人だった。 沖縄のひめゆりの悼
辱しめに会う前に自決する
純潔な乙女 ばあちゃんがロタ島から引き上げてくる時乗るはずだった船に乗り遅れた
船団組んでたが魚雷でばあちゃんの乗るはずだった船は沈んだそうな >>692
老人相手の仕事してたらいくらでも聴けるぞ あっ脳卒中のばあちゃんか乃木大将の歌歌ってたわ
歌詞覚えてないけど >>708
お盆だから墓場から出てきたんか爺さんw 飛行機の整備士やってた爺ちゃんは甲府で空襲警報鳴って慌てて防空壕に身を潜めたらしい。その日甲府の街は壊滅的被害を受けたんだと
なんでも旧日本軍は山梨に米本土まで飛ばせられる飛行機を隠し持ってたんだとさ
その飛行機の整備に携わってたんだとかなんとか また、来年逢おう
二度と再び来る事の無い、今年の
いい夏を!
🍆» » » » » » »»
フィリピン死の行軍の話を近所の爺さんから聞いた
海岸に便所を作るとカニが寄ってくる。そのカニを採って食って生き延びてたらしい 婆ちゃんは、名古屋城が燃え出したのを見たときに、ああ、この世は終わりだ、って思ったらしい。 ( ´ω`) お盆だから本物の英霊が
(つ🐌と) ぽつぽつ混じってそうなスレ 1905〜2005年まで日本はモンテネグロと戦争をしていたらしいんだけど
生まれてから何一つ実感は無かったな
(´・ω・`) じっちゃんがちょんには椅子でも机でもぶん投げて喧嘩しろって言われた うちの祖父は木刀振って鍛錬してたら戦争が終わったらしい 軍艦じゃないけど船長やってて、魚雷で亡くなったって聞いた。 俺の親父、満州でソ連の捕虜になりシベリア抑留。酷寒酷暑を乗り越えて3年後帰国。生命力が弱かったら今の俺も娘二人もいない。 >>351
ばあちゃんの弟は亡くなった
その話をするとばあちゃんは泣いていた 爺さんの兄弟で志願兵で入隊検査?見たいな時に背が低すぎて「丙種合格」と言われて泣いて復唱出来なかったと言っていたな
丙種合格って言うけど兵隊にはなれなかったと言っていた 日本は原爆落とされた世界でひとつの国だからね
黒い雨での描写が生々しい
地獄だわ 飯がないからその辺のネズミ捕まえて食ってたって聞いた 近所のガキ達で消防の手押し式ポンプ運んでたら
米軍機に武器だとおもわれて薙ぎ払われて友達のあたまパーンってはじけたって聞いた 祖父は内地の通信兵で電線張ってた
赤紙が来てからだと外地との噂で志願したって話 >>725
父方の祖母の兄(父の伯父)の長男が帝国海軍潜水艦艦長だったとかで、子どもだった父がエライテンション揚がって軍(?)港に見に行った、ってのは、聞いた、それだけ。。。
機密だかで、どこ行くともいつ出港するとも帰港するとも教わらなかったらしい。。。 田舎だから爆弾も落ちなかったし、農家だからご飯もそれほど困らなかった
だから戦争の思い出は特に無いらしい 爺さんの兄弟の一番上が海軍の駆逐艦乗りだった。乗艦を何度も撃沈されてその度に海に投げ出されるんだけど、救出されるまではぐれないように、何人もでフンドシを繋いで縦一列で泳ぐんだと。死ぬほどしんどかったらしい。
その下の兄弟は伏竜特攻隊。米軍の本土上陸に備えて岩国で訓練中に終戦。
まあ、二人共生きて還って来たんだけど。 死んだ爺さんは鉄屑拾ったり飛行機をニコイチしてたりしたらしい
うちは二次大戦では徴兵もされてないし平和だったみたいだ 機銃掃射でパイロットが笑ってたってよく聞く話なんだが数十m上の
戦闘機の下からキャノピーの中の顔なんて本当に見えんのかな 終戦直後、共産党に転向した奴は優先的に日本に返されて(日本の赤化のため)
そうでない日本人は身包み剥がされ地獄を見たんだってさ
曾祖父が拘束され中国で裁判にかけられ、死刑になりかけたけど
地元の中国人に「その人は俺たちに金の稼ぎ方を教えてくれたから許してやってくれ」
と嘆願され、無罪になり釈放
かろうじて最後の引き揚げ船に間に合い、その船の中で祖母が後の旦那と出会ったんだと
その成れの果てが俺 ⭐ ⭐
╲╲ 🌟
🌟╲╲
╲╲ ⭐
«««🥒。。。無事着陸 。。。
...? そうか、みんな、もう還ってまったんやな。。。もう、3時か、ヤバいな...過疎るわけだわ 。。。
当時陸軍伍長のおじいちゃんの話
済州島での対アメリカ軍との話
アメリカ軍はすんげー姑息で飲水を貯めてるドラム缶に水を貯め終わったタイミングで真ん中辺りに銃で穴開けるんだと
そこから水がぴゅーって出て貯めた水が無駄になっちゃうんだと
あと蛇をさばいてうなぎの蒲焼きみたいに開いたものを焼いて串なんかに刺して上官殿に持っていったら上官殿が
「美味いなぁ お前らうなぎなんかどこで見つけて来たんだ?」
おじいちゃんが
「上官殿!これは蛇であります!!」
上官殿、
「なんと!しかし美味いなぁ」と 北海道のばあちゃんの親か兄弟か忘れたがその人がロシアで戦死して墓もロシアにあると聞いている あの頃カンボジアにいたんたが、クメール・ルージュとの戦いは過酷だったよ じーちゃんの父ちゃんやばーちゃんの兄弟が徴兵されたらしいけど、どちらも運良く農作部隊の隊長と平で映画とかで見るような悲惨なこともなかった上に普通に飯食ってたとのこと。
問題はたまに降ってくる焼夷弾ないし爆弾で田んぼに穴が空いたり、不発弾処理がおっかなくて仕方がなかったらしい。 >>719
「バターン死の行軍」と名付けたお散歩なら、今も時々、チッチャイおばあちゃん👵に強制連行してるよ。
一駅分散歩するんだよ
足腰鍛えないと寝たきりになっちゃうっていうからね。 >>581
うちの祖母は子供四人連れ帰ったが…
末っ子の父は4才
パワフル婆さんのお陰で私と子供がいる >>734
そんな大した話じゃないと思うけど。。日本郵船のなんかをやってたってたのは聞いた。
ボケたばあちゃんの言ってることだから分からんけどw 時々、チッチャイ👵バアチャンの気が乗った時に、騙して連れ出して「後ちょっとだから、もう、ちょっとだから...」って唆しながら、バターン死の行軍に強制連行してるんだけど、背が縮んでってる気がする...
前に身長計ったら、135p位だったけど、また縮んでるっぽいから、132p位になってるかも知れん。
親戚のおばさんに会う度「まーた小さくなったわねえぇ!」って言われそうだわ。。。 >>653
70代のうちの親父が就職した若い頃は兵隊してたって上司がけっこういて、飲み会で酔っ払うと慰安婦とやったとか現地の女犯したって話しばっかりされて嫌だったそーな。 祖父が出征する時まだ祖母の腹の中だった俺の父親
祖父が帰って来た時、誰?って聞いたとか
祖父はどんな気持ちだったんだろう 妹の旦那のお父さんが湾岸戦争行ってた(アメリカ人) 俺のひいじいさん家族は満州開拓団で満州行ってた
そこで一緒に開拓していた中国人にかくまってもらい そのおかげでソ連兵に捕まらず 日本への帰りもその中国人に付き添ってもらって無事帰れたらしい。
他の日本人の開拓団は中国人に厳しくあたってたらしいから そう言う人達は ソ連兵に突き出されて 収容所送りだったんだと。 母方の祖母さん=226事件を雪の中見物に行くも歩哨の兵隊(反乱軍?)に
「ふざけんな!とっとと帰れ!」とものすごい勢いで怒鳴られて
すごすご帰る(´・ω・`)
母方の祖父さん=軍と結託した政商を夢見てその手の本を読みあさり某商科大学
に入学も終戦で全部無駄になる(´・ω・`)
父方の祖父さん=民間商船の船員でインドシナ行ったら足止め食らう。毎日南洋の
フルーツをたらふく食べて「何かオレらばっかり申し訳ねーなw」と
思う(^ω^) >>747
軍用艦は狙われるので、民間船舶に戦略物質を積み込んでたってあったらしいですね
それで狙い射ちにされたのかも?ですね...
A0、永零ですね。。。
あの夏に翔び立って往った。。。
〜永(遠の零)霊〜
〜永遠に年零の変わることのない魂〜 終戦直後、爺さんの家に朝鮮人が押し入って一切合財を奪っていったそうだ
上野の土地を捨てて本家のある大磯に逃げ延びて、親父や叔父たちを育てたらしい >>187
ヨーロッパで連合国が劣勢でアメリカ参戦を要請されてたけど世論の反対でできなかった。
どうしても参戦する為に世論を変える必要があったがそこで目をつけられたのが枢軸国側の日本。
日本を挑発して日本に先に手を出させる事で世論を変えられないか?
そしてバカな日本の指導層はまんまと罠にかかり真珠湾を奇襲攻撃した。 爺さんが満州で上級勲章持ちだったから引き上げる時にばぁちゃんに拳銃持たせて先に日本に帰したらしい
途中で捕まるようなら自殺しろってな
満州で大成功して大財産築いたけど銀行に全部取られて死ぬまで郵便局しか信じない人だった おっと、チッチャイ👵バァチャンがトイレ🚽に起きて来た。。。
見付からないうちに、この辺で、お暇致しますか。。。
🥒く〰ん、、、
バッチャが、もろきゅうが好きだから、ここはひとつ、手土産に置いてくとしましょうか。。。
じゃ、気合いで、なんとか、、、
...っやっ!...、、、アレ.オカシイナ...? アレ?か、還れない... ...朝になる。。。💧...ヤバッ!帰営の門限が...
ポカ〜ン J(*´-`)し・゚・。チャンに見つかっちゃうな...? ま、見つかっても、この間みたいに、ポカ〜ンチャンが言っても
「チッチャイ👵バッチャま〜た寝呆けてるよ〜!w」で済みそうだし、なんとかなるか...いいや、延長しちゃえ。。。
🥒を零蔵庫に隠して、と、、、 >>113
うちの90前後のじっちゃもそうや。おかげで俺もクラスで毎年一番前に整列してた。 母親と長年一緒に暮らしてる人(70歳くらい)は戦時中なんて食べ物なかったから人肉食べてたよって笑いながら言ってた 中国大陸で長く戦ったが、向こうに捕まると拷問してその苦しむ声を拡声器?で流してくるらしい
突撃の時に味方の陰に隠れるような人から死んでいくと聞いた
おばあさんは、最初は提灯行列で景気良かったが、鍋とか釜とか没収された時点でこりゃ負けると思っていたそう 零蔵庫には、🥒と🍆をお忘れなく。。。
搭乗して翔び発てませんので。。。
🍉なんかも、好きでは、あります
皆さん、暑い日が続く事と思われますが、体調万全に、なるべく涼しくお過ごし下さい、、、🥒と🍆食って。。。 終戦当時大連に居た母方の祖父母家族、子供6人全員ちゃんと
連れて帰ってきてくれた
おかげで今の俺が居ます、もう感謝しか無い
ただ、引き揚げるまでにずいぶん時間がかかったから、その間に
内地の親戚に預けてた財産を使い込まれて、大変な目にあったと * *
* *
〜夏の0蔵庫には🥒と🍆を〜
* *
〜永遠の0(蔵庫🥒🍆)〜
* * * * 小学生の頃、爺さん(大正生まれ、もと軍人)に、何の気なく聞いた
「爺ちゃん、戦争で人、殺したの?」
爺さんは答えた。
「ああ、殺したよ。」
………子供心に聞いてはいけないことを聞いたと感じた瞬間。
それから戦争体験者はナメちゃいけない。人を殺したことのある人がゴロゴロいるんだと悟って老人が怖くなった。 親父が近所の中国帰りのおじさんから、
刺した銃剣は筋肉で締められるので足で体踏んで引っこ抜いたとか、
行軍してるとゲリラがヒットアンドアウェイで村に逃げ込み、
軍民の区別が出来なかった等々。
南京があったかは別として、
元ネタはまあ・・ねぇ うちの親父は、勤労奉仕で松根掘り中に機銃掃射され一緒に作業してた同級生亡くして、遺体背負って連れ帰った言うてたな、他に、京橋空襲も、運良く生き残れたとか、そんな親父も亡くなって30年経つけど。 >>711
親戚がロタ島守備隊にいて終戦まで洞窟で籠城生活していたらしい おじさん「大阪に来た占領軍の戦闘機のメンテナンス請け負ったけど、2台爆破したったわwwwww」 親父「お前のお爺さんはソ連のスパイやったんやで、そのせいで財閥解体後にうちだけ復活できんかったんや」 ピカはやばい…溶けて熱くて後から来る
何年も何年も苦しむ
だからぷぐずまも本当はやばい筈…平気はふり良くない なんか俺のじいちゃん、中野学校出てたみたい。
満州で馬乗ってる写真見たしビルマから生きて帰ってきた。(大尉)
そのためか戦後しばらくは身を隠すように生きてたらしい。
高齢になってもビルマへ慰霊へ何度も行っては「空港の入国審査の奴ら、堂々と俺の財布から金抜きやがる」と怒ってた。
高野山の慰霊祭へ行くというので南海難波駅へ見送りへ行った時、
ホームにそれらしきじいさんがいっぱいいて
「あそこのあいつがかぶってる帽子は海軍のやつじゃ」とか言ってたのを覚えてる。
ノモンハン事件の従軍記章や勲章も見せてもらった。
亡くなった戦友のぼろぼろの手帳を手に涙ぐんで「戦争はいかん」と言ってた。
健康で長生きして最期はみんなに看取られて大往生した。
もっといろんな話しを聞けばよかった…
ばあちゃんは8月6日の数日前に広島から離れたそうな。
もし広島にいたら今の俺はいない… 2回目の東京大空襲で王子駅前の川が水を求める焼けただれた人でいっぱいになって埋まっていた話とか
その脇の飛鳥山の防空壕で換気口から焼夷弾が入って中で燃え広がったとか
割と2回目の東京大空襲の資料が残っていなくて驚かされる 親父「戦後間もないころ、大阪の闇市で朝鮮人が日本人に無茶苦茶してたから、手刀で殺した」 戦時中 うちの祖父は夜学に行きながら家業の鉄工所手伝ってたので
家に内緒で頼まれたかまぼこ屋や食品関係の機械の修理とかやってた
それで食うもんに不自由は全くしなかったらしい
それどころか修理代もたんまりもらってたので
女郎屋から家と夜学に通ってたらしい 大叔父が海軍兵学校出で飛行機乗り(宮崎駿の映画「風立ちぬ」にも登場した96式陸攻の機長)
海軍兵学校は優秀な成績で卒業したそうだが飛行機の操縦に関しては致命的に下手くそで
「あいつには絶対に飛行機の操縦をさせるな」と上層部から直々に厳命されてたそうだ
でも本人曰く「自分は飛行機の操縦が下手くそだからこそ生き残れたんだよ」と笑っていた 爺さんは予科練に難関を突破して訓練生として日々鍛練していたみたい。
売店の大福やぼた餅を食べながら家族に手紙を書くのが何よりの楽しみで、
母親が日曜日に面会に来てくれて、帰った後にハンモックの中でで泣いたり、
訓練生の仲間たちと、
倶楽部って食堂でうどんを食べたり、語り合ったり、
爺さんの青春話をずいぶん聞かされた。
地元の人達を招待してお祭りで女装したり楽しかったらしい。 >>773
安さん、安らかにお眠り下さい
もう朝ですよ?いつまで起きてるんですか?
あと、そういう成り済まし、止めた方が良いと思いますよ?
現実を見て下さい、ネットの嘘松少年じゃないんだから... 2010年に亡くなった ばあさんは終戦時0歳と2歳の娘と満州に居た。
引き上げ時に 他の家族何組かで引き上げてたんだが 皆いい人で 他では子供が足手まといになった場合、置いて行ったりしてたんだが それは言われなかった。
引き上げに3ヶ月ぐらい要し 着る物もボロボロ。幼い娘 二人と 日本の自宅に一番近い起点のバス停の停留所に着いた時は無一文。
バスが来て 運転手に お金が無い と言うと 「いいから乗りなさい」と言われたと。
ばあさんの旦那 じいさんは捕虜でシベリアに抑留されてたんだが日本に戻る事が出来た。相当厳しかったらしく 一切 抑留時の事は話さなかった。唯一 子供が大きくなって 冬の日に 寒いと言った事に 「こんなの寒い内に入らん」と言った。 >>1
曾爺さんが満州で略奪していた。
デカいルビー持ってたわ。 母方の祖父はフィリピン方面
父方は中国方面に出兵してたと話してくれた記憶 母方は、上海事変最後辺り何とか長崎に、その後船長してた祖父が、結核で亡くなって。色々と大変だったそな、原爆二日前に、夜行列車で日本海側経由して伊丹に疎開、長兄が、陸軍だったので。その長兄もシベリア抑留で何とか生還。 小学生の時、近所の酒屋によく来る片腕のおじいさんがいた
なんで腕がないのか聞いたら、怒ることなく丁寧に教えてくれた
戦地で砲弾が炸裂し、気づいたら腕が無くなっていたこと
周りの兵士は沢山死んだが、自分は運が良かったこと
最後に「だから戦争はいけないんだよ」と言い去って行った
後で母親に叱られたが、その言葉が強く心に刻まれている 『私がホテル勤めをしていた頃の話。
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。 >>782
意味不明
安って誰やねん
俺の曽祖父は100年前に日本一の大富豪で、その第三夫人はポグロムから逃れて日本に亡命したユダヤ人女性
祖父は日ユハーフで、ユダヤ系による革命でソ連が出来てすぐにソ連に渡って、東アジアに最初に共産主義を持って来た
日本共産党設立資金は俺の祖父が出してたから、財閥解体後、日本が資本主義陣営に組み込まれた後も、他の財閥のように復活できなかった
日本共産党は俺の祖父の金を使うだけ使った後に、祖父を排除して総括した
東アジア共産主義の祖として、東西両陣営からも都合が悪いから存在が抹消されてる
戦後、祖父は南太平洋の無人島で暮らしていた
30年前に亡くなり、遺体は共産主義が大好きな東大が引き取っていった
毛沢東やレーニンのようにミイラになってると思われる じいちゃんはフィリピンに行ってたけど、最後の方はもう「さっさと見つかって撃ち殺された方が楽だ」と思ってたと言ってた。
ばぁちゃんは「松山から広島のキノコ雲がはっきり見えた」と言ってたな。 戦地行ってハゲたらしい
親戚が笑いながら話してたから本当かどうかしらん 先月死んだ祖父ちゃんは朝鮮総督府で働いていて、
現地で召集されてどっかの島守って終戦になって、
それからシベリア抑留されてた。
見つかったら死刑だけど、
生きるために川に鮭取りに行ってたらしい。
測量のスキルあったから少しは待遇良かったらしいけど。
あんまり戦争中の話はしたがらなかったよね。 じいちゃんが連合軍の爆弾なんて大した事ないって言ってた
そしてその隣でばあちゃんがうんうんって笑ってた 虎は一夜で千里を駆けるというので
寅年の女児は幼児みたいな年齢でも千人針を頼まれたっていってた
何枚も刺したって じっちゃが隊長と金を埋めて帰国したけど
場所がさっぱりわからないって言ってた
地球儀で「この辺」って教えてくれたけど
子供心に、この人はアホか?と思った おばあちゃんの友達が畑にいたとき戦闘機から機銃掃射されて逃げきったらしい
別の友達は割りばし持って走ってたらこけて自分の目に突き刺さったらしい 従軍慰安婦なんて言ってるがあれはただの売春婦だって言ってた 1,000年前に起きた、魔法の力を巡っての大戦争“魔大戦”。
その後世界から魔法の力が消え、人々は機械文明を持って世界を復興させていった。
しかし、帝国のガストラ皇帝が幻獣界に潜む幻獣達を発見し、幻獣とその血を引く赤子ティナ
を拾ったその時からガストラは魔法に代わる新たな力「魔導」を使った世界征服をもくろむようになった。 >>14
オランダ人さんは凄く良かったと
ジッちゃんが言って(*´ω`*) もう死んだけど日本人がやってきたとき山にずっと逃げてたんだって35年間その割にはなぜか韓国語を読めたから理由聞いたら学校の先生とか村人全員が山に逃げてたらしい35年間
35年っていうのは日本が統治していた期間な 大正最後の生まれだったから徴兵はされたけど
戦地には行かずに済んだ
瀬戸内海の機雷を無くしたら
地元に帰ってずっと畑だった
オレの人生何だったんじゃろうな
じいさんと話するとテレビのニュースと畑の事しか話題が無かったけど
珍しく戦争体験を語ってくれた
その後に病院で死んだから事実上遺言に近い もう一つ思い出したその人田畑を持っていたので日本が負けた後日本人を殺して田畑を奪ったんですか?っ聞いたら何も言わなかった
正確に言うと死んだ爺さんの子供に聞いた ばあちゃん畑仕事してたら米軍のドラム缶がすぐそばに落ちてきたって 母の長兄(故人)は昭和二年生まれ。
海軍の予科練(飛行訓練兵。船乗りではない)に入り、島根県の美保で訓練を受けたが、
もう昭和二十年で、まともな訓練はできなかったらしい。
結局、船に乗って朝鮮半島まで行き、「もう帰れないかも」と手紙を書いたら、間もなく八月十五日。 うちのじいちゃんは戦時中まだ小学生くらいだったけど川岸に大砲運ぶの手伝ったらしい
道民だから空襲とかほとんどなかったらしいけどやっぱ貧乏だったし兄は何人か戦争で死んでる 戦時中知ってる人はもうみんな亡くなったわ
戦争なんてあってもなくても
遅かれ早かれみんな死ぬんだ 祖父は中国戦線で10年ほど戦った古参兵、中隊では鬼軍曹と呼ばれた人だったが、
血気盛んな若い将校は何かと抜刀して突撃したがる癖があるので、
軍刀は指揮官の目印でありますから、抜いたらすぐに刃が光ってしまいすぐに狙撃されます。戦が始まったら絶対に抜いたらいけません。
突撃というのはむやみやたらに命令したらいけません。敵の銃座を潰し弱ったところを見計らい、敵陣を制圧する時にするものです。
兵隊の命を無駄にしちゃいけません。
などなど、歴戦の古参兵のおっさん達は若い指揮官へアドバイスする役目を担っていたとか言っていた。 干し芋ばかり食わされて今じゃすっかり筋金入りの干し芋嫌いになったとか
美味しいのにね、干し芋 >>806
↑
お盆で動物霊が...?
スレに紛れた狸も一言
↓ 祖父は飛行機の機銃に撃たれて瀕死だったところを、助けられたって言ってたな。
背中に銃弾のあとも残ってたし。 爺さんが台湾人で東京へ出稼ぎに来てた時、東京大空襲に見舞われて橋の下で凌いだとかなんとか 稚内でB29見たって話じいちゃんから聞いたことあるけど本当なのかな。 海軍で南方で戦死した父方の爺ちゃんは石ころしか帰って来なかったって伯父伯母に聞いた
父は当時まだ2才位で覚えてないそうだ 特攻に行ってエンジントラブルで海に落ちてアメリカの捕虜になったって言ってたな
フカにやられるんじゃないかと気が気じゃなかったそうだ
すっごくガタイの良いおっちゃん
戦後は潜水夫やってた 子供ながらにこの時期の戦争話やらはハイハイまたかって感じで聞いてたけど今の子供はどうなんやろな 爺ちゃんは馬の世話係でいつの間にか戦争終わってたとか言ってたなあ 穴掘れと命令して拒否したらその場で刺殺。穴掘ったら生き埋めしたってじいさんが言ってた。 父親方のじいちゃんは工場の社長だったから行かなくて良かった
母親方のじいちゃんは飛行機とかの設計してたから行かなくて良かった
とのこと
戦争つらいとか大変とか聞いたこと無かったわ。本当は戦争なんて無かったんじゃないのか 母方の田舎。
山一面に墓石が有るんだが、ある部分だけ放置状態。
戦没者の墓のあるところだ。
可哀そうだろ・・・掃除くらいしてやれば良いのに・・・と思ったが触ってはいけないのだそうだ。
恨んでいるんだろうね。 神奈川の者だが、地元には戦時中、戦闘機雷電を生産する工場があり、台湾から飛行機の生産に携わるため、多くの少年達が働きに来ていたそうだ。数年働けば旧制中学卒業の資格が与えられたと言っていた。
仕事が休みの日には、近隣の農家へ農作業の手伝いに来てくれたりして、徴兵されて男手が足りない農家は本当に助かったと言っていた。
そんな彼らに日本の冬は寒かろうと、農家の婆ちゃん達が暖かいちゃんちゃんこを作ってあげたり、栄養をつけてあげようと鶏の卵や野菜をあげていたそうだ。そんな良い関係を築いていたのだが、敗戦で少年達は台湾へ帰国。
今は別々の国民となった元少年工の人達だけど、神奈川の座間を第二の故郷と言ってくれていて交流は今でも続いている。 爺ちゃん朝鮮総督府にいた
終戦後近所の朝鮮人が襲撃を企ててるから逃げなさいと隣の朝鮮人が教えてくれて
ほうほうの体でにげてきたってさ
家の裏山には黄金の仏像とか埋めてきたそうだ 母親の叔父から満人服を着て敵中に味方の奪還に行ったとかなんとかいう思い出話を聞いたことがある 仏壇にひいじいちゃんの遺影あるけど
かなり若い
じいちゃんもあまり覚えていないと言ってた 満州で兵隊だった祖父は4年前に91歳で亡くなりました。
戦争を体験した世代が少なくなって、昭和も遠くなりました。 朝鮮人(チョキ)が軍艦(グー)とってハワイ(パー)で沈没という
ジャンケンの仕方 親父から聞いた話
湯の花トンネル列車銃撃事件の現場にいた ワイ 63
昔って テレビドラマのコンバットとか 戦争ものって多かったよね
おやじやおじさんは 戦中派だし生の話とか聞けた
戦時中は 今みたいな平和時と違い 社会全体が緊張した雰囲気らしいね
あと 東京近郊にいて東京空襲の後は 物珍しさか わざわざ見に行ったて
でも 空襲警報のサイレンか 終戦後もトラウマになったらしい
まあ 戦争はあってはならない事あね 横須賀の海軍工廠で働いてた祖父。
「信濃」の建造に携わったが完成して皆で見送ってすぐに沈められたらしい。工廠では、もともと馬具職人だったため重宝されたとか。
これは武勇伝の類いの話なので話半分でと思ってはいるが、敗戦して日本に戦艦ミズーリが来たとき、仲間数人と一緒にミズーリを魚雷で沈めてやろうと船を準備するところまで実行した。
◯◯中尉に(名前忘れた)見つかって皆諭されて結局計画は実行しなかったそうな。
だいぶ尾ひれがついてる話だとは思うが、祖父の性格的に有り得そうな話だなとは思っている じいちゃんが学徒動員で北支派遣軍の山砲兵で士官候補生だったわ
南方戦線だったら俺この世におらんかったかも知れん
国民党軍のやることがあまりにデタラメ過ぎて支配地域の支邦人は日本軍に友好的だったらしい >>749
それが自慢話か武勇伝になるようなら、
そんなやつは少数だったってことなんだろうな。 226事件の反乱兵になってしまった
わしのじーさんは中国の最前線ばかり
とばされていたらしい。
被っていた鉄兜のど真ん中に
銃弾食らった時は死んだかと思った
とよく語ってた
もう亡くなったけどな 昔営業で行ったジジイの話だけど中国人銃で狙撃するの楽しかったって言ってたマヂキチだわ 戦艦つくってたから徴兵は無し
仕事さぼって喫茶店いってたら、造船所にでっかい爆弾おちてたくさんの女工さんが爆死 爺ちゃんが中国で赴任したら暇で女しかいない家族の不動産屋で遊びがてら用心棒みたいなことをしていたらそこの娘の婆ちゃんと結婚した 海に向かって銃を射って魚取ってたみたいじゃぞ
偵察の飛行機飛んできたら森に隠れてやり過ごしたみたいだな うちの爺様は戦局悪化した後、ラバウルに飛行機の整備員として出征。
でもラバウルに着いてみたら「整備する飛行機がそもそもない」。
ほぼ戦力が壊滅した後だったので米軍主力は通り過ぎた後。
というわけで、食料求めてラバウルのジャングルを彷徨い続けてたそうだ。
結果マラリアになって国際赤十字に助けられて日本送還。
物凄く運が良い話。
だけど、親父によると爺様が自分に話した「それ以上のこと」は決して喋らなかったそうだ。
なにか「云えないこと」があったんだろうな。
ただ戦後、遺骨収集に云った際、現地人の知り合い達と仲良く写真とってるので
現地人とのトラブルではないようだけど、なにやったんだろ? 中国戦線に行ってた伯父は南京事件はあったと言ってたな
いわゆる便衣兵というのがいて捕まえても釈放すると仲間引き連れ部隊を襲ってくるらしい
そうするとこっちがやられるので処分すると
その規模が大きいのが南京事件だったのではないかと言ってた
ただ現在言われている人数は虚偽で多くても千人までじゃないかと言ってたが伯父はもう鬼籍に入ったので確かめようがないが 戦後まもなく疎開先の田舎から、住んでた大阪の港区へジジイ一人で様子見へ
手ぶらで帰ってきたジジイの説明は、「地盤沈下で海に沈んだ」の一点張り
大阪の港区で?駅前の商店街なのに? まあそういうこった >>841
足裏のアイロン掛けだろ?
よくある話だろ
ちゃんとスプレーしないから、綺麗にシワが伸びなかったって話だろ?
アリガチ失敗集だよ ばあちゃんの友人の引き揚げ者
『南京に30〜40万人も人がいたわけない、バッカじゃないの』 北海道の芦部に住んでた爺ちゃんが言ってたが戦時中は食料の調達がかなり困難で毎日さつまいもばかり食べてたと聞いたわ
たまに雀や兎などを捕まえて食べてたらしいが雀は結構美味しかったらしい 爺さんあんまり話したがらなかったなぁ。兵役に行く時母親が金かき集めて刀買って持たせてくれて、その刀で三人処刑したってその事は後悔してたみたいだったわ。
遺品整理で出てきた爺さんの兵隊時代の写真は集団写真のど真ん中でその刀振り上げてドヤ顔してたわ。虚勢でも成らないと保てなかったんだなと思った。 じいちゃんがロシアで抑留
酔うとロシア語で歌いながらボルシチ作ったりしてた
よく分からんが歌の力を感じたよ もう一丁。
日中戦争序盤に実際戦闘に参加していた親族から聞いた話。
映画とかでも「銃を一斉射した後、敵陣に突っ込んでいくシーン」があるけど、
よくそんな怖いこと出来たね? と聞いたら、実際体験した人曰く。
「なまじ突っ込まないと、友軍から取り残されかえって危険」だったそうだ。
進んで運悪く弾が当たって死ぬより、取り残されて狙われたり、捕まった方
が怖いってことみたい。 じいちゃん、フィリピンに派遣されて病理試験室ってとこに配属されて女の検査してたのは楽しかったみたい 爺ちゃんの自慢が甲種合格だったな
ジジイになってもガチムチでパワー凄かったわ
県内の基地にいて戦闘経験は0だから苦労話は聞いたことが無い 戦後のことだがオヤジが子供の頃、朝鮮人が近くに住んでた。その朝鮮人から伝書鳩買ったらしい。放したら飛んでどこか居なくなった。と思ったら朝鮮人のとこに帰ってた。でも朝鮮人は知らんぷり(;´д`) 南方に居た時にヘリを見たと言ってて誰も信じなかったけどどうも米軍の試作が実戦投入されてたらしくそれを見たそうだ 今年はテレビの戦争特番なんか少ない
来年の終戦75周年もオリンピックと絡むから、どうなるか じいちゃ、あんまり我慢できなくって、ヤギとやったって なんか葉っぱつかって軍歌を演奏してるじいさんとか居たな 婆様は岐阜大空襲の真っ只中を走って逃げて生き残った。
婆様に云わせると「焼夷弾は本当に蛍みたいで綺麗だった」そうだ。
婆様は「火垂るの墓」とか一切見ない人なので多分「蛍の光」が
まさしく実感だったんだろうね。 接近戦では銃よりナイフの方が速いって聞いた(´・ω・`) じーちゃんは南方へ出ていた。船が襲われて夜の海を漂流していた
これまでかと思って泳げる人は海に逃げたけどポツポツと沈んでいったそう
じーちゃんはカナヅチだったから船の上の方にじっとしていて
明るくなってから仲間の船に助けられて帰って来た
泳げなくて良かったと言っていた 勤労動員で四日市の工場で働いてた時に空襲があって避難先の近くの山から綺麗だなって思って見てたって言ってた 近所の飛行機工場だと爆撃されて負傷したら病院に行くまでに死亡は戦死扱い
病院について死亡は病死扱いだから、戦死の方が手当が良いってんで助からなそうな人はゆっくり運んでたって言ってたな >>556
湾岸戦争の、イラク軍の、イラク兵も塹壕ごと、
ブルードーザー仕様の、アメリカ軍の、
M1戦車に、塹壕を土砂ごと生き埋めにされたそうだな。 昔の勤め先で、能登半島から富山の街が空襲で赤く燃えてるの見えた、て語ってた人いた
他の人は毎日芋飯ばかりで、今でもサツマイモ見るのも嫌て言ってた じーさん老衰で死んだけど満州にいたけどどこでか鉄砲の弾頭かすめていって死にそうだったとか言ってたな 祖父はインパールで銃弾腹に食らったって、風呂入ったとき傷痕見せてくれたわ 京都
そんなこともあったと聞きました。
これマジだぞ。まるで人ごと。 死刑は犯罪抑止力にはならない。
ノルウェーでは77人殺しても禁固21年で出所できる。且つ、世界でも再犯率の最も少ない国。ノルウェー政府は
国民からの信頼度もまあまあ高い。無差別殺人は加害者本人よりも闇権力による工作によって引き起こされたも
のであることを国民が認識しているからだろう。
ドゴール;国民にインテグリティがない国は永遠に独立できない。
「インテグリティ」(integrity)とは、誠実、真摯、高潔などの概念を意味する言葉。 組織のリーダーやマネジメントに
求められる最も重要な資質、価値観
トルーマン「日本人は病気にさせて生かし続けて奪い取る」
ルーズベルト「日本人だけは一人残らず生かしておいてはならない」
「日本人種は南方アジア人種とさかんに混合させていずれその種をなくしてしまえばいい」
彼等の意志を引き継いだ米CIAは日本警察や創価学会、精神医療等の傀儡組織を使い集団ストーカーや
テクノロジー犯罪、保険金殺人、麻薬密輸、暗殺、放火等、あらゆる悪行を行い日本人を抹殺しています。
富山県南砺市警察、或いは南砺市井波消防団は家宅侵入、窃盗、器物破損を繰り返す犯罪集団です!!・・・集団ストーカー 特に無さすぎて修学旅行で広島長崎の原爆資料館や特攻隊の資料館に行かされたけど大変な時代だったんだなーという感想しかなかったな。 玉音放送のあと部隊長が「敵の謀略放送である」とか言い出して
9月になってから解散帰郷 あまりの酷さに
敵兵の太もも以外は食するの禁止令が発動された 戦争が終わったのに空襲されたと秋田のお祖母ちゃんが言ってた。 戦場から生きて帰って来た人達が数年間の間に病死や事故でバタバタと死んで逝った話しは怖がったな
中でも壮絶だったのは癌に掛かった人の話で一切治療を受けないで苦しみ抜いて死んだ話しだ
モルモットには成りたくないだとか治療に使われているアレが何なのか分かるのかとか言いながら苦しみ抜いて死んだそうだ そういや腕に手術の跡があって本人はB29に撃たれた傷って言ってたけど本当はずっと後に酔っ払って転んで骨折した時の跡らしい >>877
先の戦争は応仁の乱か戊辰戦争なんだろな 婆ちゃんから聞いた話
在日朝鮮人家族が近所に住んでてまあ普通に近所付き合いしてたんだけど空襲でダンナが死んじゃって家も燃えちゃった
その後すぐ終戦迎えたけど母親と小さい子で路頭に迷ってたから気の毒に思った婆ちゃんは離れを無償で貸してあげた
在日母親はとても感謝して自家製のキムチくれたり女同士助け合ったりしてたらしい
でもキムチの材料はいろんなとこから盗んできてたことが発覚
婆ちゃんは戦争だったし仕方ないって言ってたけど
いやいやいや下手したら婆ちゃんも犯罪の片棒担いだって言われてもおかしくない状況じゃんって思った
しばらくして母子は国に帰ったとのこと おじいちゃん、激戦区に行ったらしくてなんとか帰ってきたけど、
別人みたいになってたって。 >>420
なんかすげー
ちびまる子の2巻のほのぼの劇場で見たようなやつがいる!
ひとりで勝手に運動会!
誰か通じるひといるかな ほんとに辛い経験をした人はそんなことペラペラ喋らない うちの死んだばあちゃんは疎開で福島に行って現地の子にいじめられたらしい
死ぬまで福島を嫌ってた >>894
今生きてる時点でそんなに辛くないんだよなあ
辛い経験してたら死んでるから 死んだじいちゃん、戦場を逃げ回って隠れてなんとか生きて帰ってきたって言ってたな。当時はふーんって聞いてたけどそんなことあり得るのかなと今となっては思う。 >>418
安心してください
ドレスデンでも焼夷弾は使われています
通常爆弾で建物壊した後に焼夷弾ばら撒くという念の入れ方です
アメリカは人種差別せずに白人でもアジア人でも敵国人なら民間人でも容赦なく殺します 聞いた話
東京都内の公園内の野球場、
東京都内の左右に桜が植えてある通り
空襲で亡くなった人達が もう亡くなった大叔父たが酔った勢いで語った内容がリアルで怖かったわ うちのじいさん
足が不自由で徴兵されず
代わりに炭鉱で軽労務作業
その炭鉱に今話題の徴用工ならぬ出稼ぎ朝鮮人がいたとのこと
言われるている過酷や虐待や差別は爺さんや婆さんが言うにはなかったらしい
ただし朝鮮人以外にも全国から出稼ぎできてたのでガラは悪かったらしい
だから現地人の居住地区と出稼ぎ者の居住地区は分かれていた
伯母(婆さんの娘)曰く、「婆さんからあの地区(出稼ぎ者の居住地区)には近寄るな
って言われてたらしい
これは朝鮮人だからではなく、単に荒くれ者がいるから近づくなという意味
例のアレが言うように、差別とかはなかった様子
ただ、炭鉱だけに重労働だった
でもこれは他の出稼ぎ日本人も環境は同じ
んで、何がよかったって、飯が三度でることと衣食住がそろっている、賃金は
戦時の他の職業に比べ高給だったらしい >>10
これすごいな
でも生死不明のときにせめて骨だけでもという優しさなのかもしれんな 硫黄島へ向かう途中、艦長が途中で向かうのを拒否したおかげで命拾いしたと大伯父が言ってた うちのおばさんは戦後敗戦国民として満州にいたとき
働いてた喫茶店に来た中国人が靴なめろって言ったのに腹をたててソイツにビンタして賞金首になったっっていってた
あり得そうだと思えるくらいパワフルなおばさんだったな 祖父は特攻隊長と言うのをやっていてよく敵に突入してたらしい
よく生きてたな >>10
うちもこれだったらしい
木材の破片と石が1個送られて来たって聞いた >>761
うちは今74歳の父親が婿養子で180cm近い高身長だったので、平均よりは上、母方の従兄弟と実兄は低身長だなー 学徒動員で戦艦に乗ってた方の話を聞いたことがあるよ
米軍から総攻撃を受けて怖くて怖くて退鑑命令で海に飛び込んで助かったって 母が女学生の時、校庭で機銃掃射をくらった
一緒に走って逃げていた友達が撃たれて死んだ
母は間一髪逃げ延びた
この話しを聞いたのは俺が大人になってからだった、でも涙が止まらなかったよ >>445
俺がその頭蓋骨だったら、俺を持ち帰った毛唐の家系を末代まで祟り頃してやるわw 俺のじいちゃんも小学生の時に校庭で絨毯爆撃くらって死んだって聞いたわ 食うもん無くて色んなモン食べたがカラスは鳥のくせにクッソ不味かった
逆にヘビが鶏肉みたいで美味しかった
ただ小骨多い ばぁさまが、叔父貴妊娠中に鹿児島で疎開中、B29が上空とんできて、焼夷弾?ちっちゃな爆弾おとしていったそうな。幸いちょこっとだけで、いったとか。その後敗戦で、じぃ様も帰国してきたが、右耳付近を弾道がカスって聞こえなくなったとか。 亡くなってから聞いたけど、ひいじいちゃんとひいばあちゃんが本当は夫婦じゃなくて兄妹だった
東京大空襲で互いに伴侶を喪って、それぞれの子供たち(ばあちゃんたち)を一緒に育て上げたのだと
まとめて育てられたから、ばあちゃんたちはどっちの子供だったのか知らないんだって
確かに今考えるとばあちゃんたちは似てない6人兄妹だったけど、みんな仲が良かったよ >>10
>>907
あまりの激戦地で、遺骨回収の余裕すら無かったのだろう… >>914
機関銃で撃たれるから隠れたって話は良く聞いたけど、
実際に市民しかも、子供相手に撃ってたんだな
>>914
。。。 父方の伯父ビルマで戦死
母方の祖父満州で戦死
母方の大叔母深川の空襲で行方不明
母方の別の大叔母の夫硫黄島で戦死 九州まで行ってフィリピンに送られると聞かされたが
予定した船が沈められて来ず 次に予定した船も沈められて来ず
結局、敵は九州に上陸してくるというので塹壕掘りをしているうちに終戦 インパール作戦から生還したわ
同じ分隊に北海道でマタギやってた人がいて食い物には困らなかったらしい 20年前に死んだじいちゃんが戦闘機のパイロットだった
練習開始から2週間で乗せられたとか言ってた
とにかく寒くてたまらない不安的極まりない乗り物だと言っていた お盆だから仏壇や墓参りなど線香あげて供養しましょう また母はこうも言ってた
時期は夏休みでも空襲が無い日は学校に行ってさつまいもの栽培や海水から塩作りをしていたとのこと
ある日、全員講堂に呼ばれ広島と長崎に新型爆弾が落とされ多くの人が死んだと校長から聞かされたと言ってた
玉音放送も学校の講堂で聞いたらしい、直立不動で聞くようにきつく言われたと言ってた 微塵隠れって中国戦線で旧軍が始めた戦法 部隊に配属されていた池沼の兵士に敵が来たら
これを押して脱出しろといい含め 自分たちは逃げた 敵が陣地に入るなり爆発する
もちろん池沼は爆発で死ぬ 誰も気の毒などとは思わずヤレヤレ助かったと笑いあった
それが44〜45年にかけての旧軍の実態だった じいちゃんは戦地で病気になってすぐ帰ってきた。武勇伝聞きたかったな(;´д`) >>897
ありえる
ただ、話していない部分があると思う
オレの死んだじいちゃんは、戦場を逃げ回って隠れて(現地の人の食料とかを盗みまくり)なんとか生きて帰ってきたって言ってた。( )の部分が省略されているのでしょう 新撰組がうちの周りで御用改めしてた時は怖かったでござる 予科練にいたじいさんは終戦の1週間後に出撃命令が下ってたと言ってたな
あと1週間伸びてたら死んでたなぁとか言ってた 母親の小学校に戦闘機が飛んできて
機関銃乱射されたんだけど
生徒を守ろうとして先生が死んだんだってさ
学校は軍事工場になったりするから狙われたりするらしいけど
明らかに子供に向かって機関銃ぶっぱなすとか
やっぱり米軍は基地外だな 溶接職人だった父が福岡の軍需工場で仕事をしていたとき、ジェットエンジンの試作機の製造に関わった
上司から仕事の内容をたとえ家族にでも漏らしたら命はないと言われたらしい 満州の奥地へ行った爺さんの部隊は敵に遭遇した事はなく熊や虎に襲われるほうが怖かった >>178
予科練は海軍、知覧は陸軍航空基地
どういうこっちゃ 軍事工場で働いてたばあちゃん。ばあちゃんが作った飛行機の部品は粗悪品ばっかりでよく落ちたって言ってた。 気をつけの時に両膝がつかないと叱咤されたらしい
だから男でO脚はいなかったんだと 「あんなの飾りです!」とか言ってエースパイロットに反論したけど避難先で考え改めて足をちゃんと付けるようにした。 俺の爺ちゃん仮病で兵隊に行かなかったが本当はアメリカの秘密侵略部隊と一人で戦ってたらしい
俺がいなきゃ日本はアメ公に占領されてたって酔うといつも言ってた ホームステイ先の親父が艦載機乗りでイラクの話を聞かされた >>939
えーすぱいろっと?お前さては間者だなちょっとこっち来い 疎開先から西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)に帰ってきたら
西駅から照国神社の鳥居が見えた
というばあちゃんに聞いた
これ鹿児島市民にしかわからんのかもしれんが
直線で3キロメートルくらい?一面焼け野が原になってたってことでしてねえ
すげえなってですね
竪馬場から池ノ上町まで死体を運んで 積み上げて 火葬にした
って近所のおっちゃんも言ってましたしね
そりゃあしんどいなあとですね 憲兵だったじいさんはタマネギが嫌いで絶対に食べなかったのは俺は覚えてる
まだ子供だった俺はばあさんになんでじいちゃんはタマネギが嫌いなのか尋ねた
「戦地で生のタマネギしか食べるものがなくてそれだけで生き延びたんだよ」と教えてくれた
またばあさんは「じいちゃんにタマネギが嫌いな理由を聞いちゃだめだよ」と言い聞かされた
昭和43年頃の話しだ >>19
無能は海軍にいって有能は陸軍に
行ったみたいなことを
きのうNHKがゆってた。 >>946
NHKの言う事信じられるか?
嘘と本当を織り交ぜて番組作ってんだよ >>946
元々は海軍のがエリートだろ
末期は大陸で人が必要になったから、徴兵されたら陸軍送りだろうが おじいちゃん、オトンとオカンに聞いてもあまり教えてくれなかったな。よっぽどなんかあったんだろ 戦闘機から機関銃でババババババって撃っていくのマジだったらしいね、ばあちゃんは藁かぶって隠れてたりしたらしい 同じくばあちゃんに聞いた
戦地では梅干しいっこすらみんなで分け合った(らしい)
て話もありますね
オチとして
最後に回ってきたやつはいつまでも種しゃぶってられたのでしあわせ
ってのがついてました じいちゃんは何も話してくれなかったし俺も聞かなかったなぁ
じいちゃんの若い頃の写真が見たくて見せて貰うと、戦地での写真ばかりなんだけど
集合写真ばかりで状況は察すれなかった
じいちゃん男前で良かったとだけ思った >>950
叔父が小学校からの下校中に追い回されて
田んぼに飛び込んで難を逃れたと聞きましたね
操縦士のにやにや笑いが見えるくらい降りてきてた、とのこと 父の妹さんが栄養失調で幼くして亡くなった、ということしか知らない
心臓弱くて生後四日で亡くなった兄のお墓に一緒に入ってる ウチの叔父さんが南京攻略の時に参軍してたらしく
俺のパパに手紙を送ってきたらしいが、
入城の時には誇らしく、人々からも歓迎されたと書いてあった
と、俺は教えられたがなー
軍の事を細かに書く叔父さんで、いまなら大問題なんだろうが
虐殺や、住民殺害の事は書いてなかったといってた。
まあ、一昨年亡くなった88の父親の話よ。 戦争なんてしたくねえ死にたくねえ殺したくねえって言いながら戦地に行った仲間が向こうで戦闘狂みたいになってくのを何人も見たって
まともな精神してるやつは一人もいなかったって
戦争は人間を狂わすってひいじい様が言ってたわ 俺が10才くらいだったかな?ある日父が倉庫から出してきて俺に見せてくれたのはサーベルだった。油紙に包まれた立派な物だった
ひいじいさんの形見で西南戦争に持っていったサーベルだと言ってた
俺が28の時父が死んだ後、倉庫の整理をしたんだがあのサーベルはどこにも無かった
何人の人をも殺したであろういわくつきの刀を父はひっそりと処分したのだろう じいちゃん戦艦伊勢の乗組員だった
呉で下船してるときに沈没したらしい
伊勢の軍人会が作った乗員だけが貰える伊勢の本持ってる 新潟西港
アメ戦闘機が急降下して機雷落としてたそうな
日本軍は傍観
攻撃すると反撃されるから 祖父は沖縄生まれで家族持ってたけど出兵して戦地で死んだ事にして新たに東京で家族を持った
その娘が俺の母親 田舎だとそこらの家に戦地から持ち帰ったと覚しき歩兵銃が飾ってあったが
アレって問題なかったんだろうか? じいちゃんの上官だった韓国人が敗戦を知るやいなやさっさと国に帰った
終戦直前は木の棒を構えて銃の訓練、もうこれはあかんと思ってたらしい
神風魚雷に乗るの決まってたけど神風やる前に敗戦で命が助かったとか 路上やあぜ道に人が死んでてもそのまま放置朽ち果てた >>963
じいちゃんの家の蔵を軍の倉庫として貸しててそのまま終戦
そのまま忘れ去られて何十年も経ってから整理したら軍の武器や弾薬が大量に出てきたらしい
持っとくわけにもいかないから警察かどっかに引き取ってもらったみたい 中国で若い男女を呼び出してみんなの前でやれっていうやらなきゃ殺すと T-72はクソみたいな戦車でAPFSDSでワンパンだったと従兄弟の車長(アメリカ人)が言っていた 伯父が近衛第一師団に居た
近衛師団の資格は厳しく5親等内に犯罪者、共産主義者が居ない家督者もしくは家督相続者に限られてたらしい
上野の師団本部に通信兵として勤務していたが昭和20年5月の東京大空襲に伴う宮城空襲の責任を取らされ
富山県の伏木に部隊ごと左遷させられ同地で終戦を迎えたらしい >>722
最近ユーゴスラヴィア現代史って新書を読んだところだったので興味を引いたが
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本とモンテネグロの関係
本当でワロタ
ロシア革命前の話で、しかも実際には参加しなかったので日本政府としては無かったことにしてあげているらしい
だからモンテネグロが休戦通達をしたとしても日本政府側は情報を一切出さないと思う
あのややこしいバルカンの国を独立承認したってんだから、良い意味での無視だな じいちゃんが武蔵に乗ってた
フィリピンでの沈没の際、命からがら脱出して一命を取り留めたけど、浮いてきた燃料を大量に飲み込んだらしい
それが仇となって病気で死んだ 満州とロシアとの国境警備に行ってた祖父から山の向こうにロシア兵が見えたって話てた
部隊で何か悪さした奴がいて全員に鉄拳ってなったけど上官は違反してない祖父らには軽くペチンと殴った振りだけにしてくれたそうだ 父親の家が横浜の長者町にあり庭に立派な松の木があった
当時Y高生だった父親が勤労動員先の三菱重工横浜造船所から帰るとあの松の木が切り倒されてなくなっていた
何でも空襲があったら延焼するから危険だと近所の人が押し寄せて勝手に木を切り倒し持って行ったとのこと
のちに家に下駄が届きあの松の木だったことを知り親父は戦争とは言え理不尽だなぁと思ったらしい 祖父二度出征
終戦を知らず八月下旬まで戦闘を継続
ハルピン近郊で赤軍の捕虜に
四年間のシベリア抑留中早く帰りたい一心で
ロシア語と共産主義を学ぶが、
収容所最後の船でやっとこ帰国
初めて息子の顔を見る
帰国した直後からなぜか勝手に赤旗が
届くようになる
これにはぞっとしたと言っていた 俺はグラマンの機銃掃射で撃ち殺された。
河原で遊んでいた俺は機銃掃射でずたずたにされ、駆けつけた兄が抱き上げると首がもげたそうです。
血の涙を流し復讐を誓った兄は大日本帝国空軍に志願した。
成績はいまいちらしかったが、面接で志願理由を問われ「○○を殺した憎き鬼畜米英を皆殺しにすることです」
絶叫し採用された。
そして帝国空軍の猛訓練で鍛え上げられた。
しかし爆装離陸訓練のときに、引きおこしを早くしてしまい、離陸に失敗、瀕死の重傷を
負い終戦を迎える。
戦後も周りの人間が資本主義、アメリカ万歳に手のひらを返す中、徹底した反米、共産主義者として公安の監視下に入り、やがて逮捕され、配偶者も子も得られないまま牢獄で孤独な死を迎えた。 >>946
徴兵検査は陸軍がやってたから優秀なのは陸軍が引っ張るのはあり得る
海軍の方が志願兵の割合が高いから全体でみたら海軍の兵隊のレベルが低い訳じゃない あと、知り合いのじーさんで
Aさん 戦艦大和に乗っていた時期があった。沖縄特講には参加していない。
Bさん 元少年兵 特攻兵になることが決まってヤケクソになっていて軍に勤務していた女の子を呼び出してヤったら
それがバレて上からボコボコにされて
営倉にぶちこまれている間に終戦を
迎えたそうな 親戚の婆さんが戦時中広島市内にいた。
8月6日の朝、学生だったので登校中に同級生と立ち話をしてたら、
原爆が投下された。
婆さんはたまたま壁の前にいて無傷だったが、同級生は黒焦げで即死。
数年前に老衰で亡くなったが運がいい方だったんだろうな。 あと、知り合いのじーさんで
Aさん 戦艦大和に乗っていた時期があった。沖縄特講には参加していない。
Bさん 元少年兵 特攻兵になることが決まってヤケクソになっていて軍に勤務していた女の子を呼び出してヤったら
それがバレて上からボコボコにされて
営倉にぶちこまれている間に終戦を
迎えたそうな 去年亡くなったワシにそっくりな祖父はのぅ
戦争中はどこかの島で掘建て小屋作りをひたすらやらされていただけだったそうじゃ。
しきりにゲイのワシの顔を眺めて先輩達に可愛がって貰ったと連呼しておったから、、、
軍隊のアッ〜な話もあったんじゃろなぁと微笑ましく感じたもんじゃすて。 俺が生まれる前に死んだ爺さんの話を聞いた親父の話だが
満州で主計やってて終戦を迎えシベリア抑留されそうだったんだが、この列車?に乗れば生きて帰れないと思って脱走
復員船の最後のほうで日本に帰ってこれたらしい 祖父→鎌倉丸で料理人やってたが、船上招集されビルマに行く。生き残って捕虜経験して戦後2〜3年経って帰国、身内に戦死したと思われていた
祖母→姉と買出し帰りの船上で広島のきのこ雲を見る。真っ平らの広島に驚愕、母はきっと亡くなったと泣いたが幸い山に逃げて事なきを得ていた。一家全員が入市被爆するも90代まで生きた 老人ホームで働いてるから戦争の話はよく聞くけど共通して感じることがある
戦争を体験した人はその強烈な体験を忘れられずに残りの人生もずっと戦争に支配されてる
悲惨だと思うよ じいさんはなぜか酔うとマッカーサーって言って敬礼したなぁ とっくに亡くなった爺さんに子どもの頃少しだけ軍隊時代の聞いたことあるわ。
青春時代の思い出で美化されてる可能性あるけど海外行ったり、非日常的な生活で結構楽しかったって言ってたなぁ。
任地が初期の中国戦線だったのと最後は父島とか内地だったからかもしれん。
まああまり大きな声で言えないし報道もしないだろうけど、そういう人もいたって事で、、 南に行ったおじいは2百人以上の連隊で生き残ったのは7人って言ってた
戦死したのは半分で残りは病気で死んだってさ もう亡くなったけどばあちゃんの言葉。
「飛行機に竹槍で勝てるわけないわ」 死んだばあちゃんの話
戦中、皇居の周りの土地が二束三文で売りに出されてたらしい
当時は食うものにも困ってる状態で買う気にはなれなかったが
もし買ってたら今頃大金持ちだったかもな、と言ってた うちのおじいちゃんがいつも浅草寺でお参りに行ってた こちらも死んだばあちゃん
ヒトラー、当時そんなに悪いやつだと思わなかった
多分、今で言うところのトランプの方がよっぽど悪者扱い 東京大空襲で目が悪くなったと言ってたじいさん
思い出したくないからそれ以上のことはしゃべらなかったし
戦争映画が嫌いで絶対見なかった >>348
祖父は慶州で麻雀覚えて来た
病弱で戦闘に参加できずおさんどん係だったそうだ 俺のじいちゃんの兄弟は、戦争から生きて帰ってきたのにもう一度行って、飲んで雑魚寝してたら酔っぱらった仲間に腹をふまれて死んだ このスレッドは1000を超えました。
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