そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
【記者と案内人】朝日新聞記者と小学校教員、異なる戦争体験
1935年、糸満の漁港で写したとみられる記念撮影風の1枚には、沖縄を取材して本土に戻った大阪朝日新聞の記者と、糸満での取材を案内した人たちが写っている。
その後の歩みは異なるが、それぞれが激動の時代をくぐり抜けていた。
右端は、同紙連載「海洋ニッポン」を担当した守山義雄記者。
朝日新聞在職中の64年、53歳で亡くなった。同僚らがまとめた「守山義雄文集」(65年)で、この間の足跡が分かる。
日中戦争が始まった37年には旧日本軍が占領した南京におり、39年にはナチス・ドイツの首都ベルリン特派員になった。
攻略直後のパリやソ連との戦いなどを取材して45年5月1日夜、攻防下にあったベルリンで、ヒトラー死亡のラジオ放送を聞いたようだ。
同盟国だった日本の記者として、こう振り返っている。
「筆者らはいわゆる盟邦の記者…両国の戦時プロパガンダ政策の垣根からは一歩も外に出られない、いわば…一個の兵隊にすぎなかった」
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/111965
http://www.okinawatimes.co.jp/mwimgs/7/1/-/img_71ae2a6206988ab703d9be54011eb88f97252.jpg ニュータイプってやつが出てきて戦局が一変したらしい 俺の婆さんの旦那が戦争終結後帰ってこないから死亡扱いになって旦那の兄と再婚したら
しばらくしてひょっこり帰ってきて超修羅場ったって聞いた みんな同じヘルメット使ってるから共用みたいになって同僚のハゲが伝染ったらしい おじいちゃんが10歳の慰安婦を暴行したらしい
ジャップとして大韓民国の人に土下座しなきゃ 検察官だった爺様は酔うとよくいってたわ
朝鮮人はダメだ
あいつらは行儀悪過ぎる
とな 人は、過ちを繰り返す。
1945年。
兵役についていた俺の爺さんの爺さんは、
いつになったら妻と、まだ会ったことのない息子の元へ帰れるのだろうと、
思いを募らせていたようだ
同じ年にそれは叶った。
アメリカが広島と長崎に原子爆弾を投下。
第二次世界大戦は終戦を迎えた。
人々は世界の終末を待つ身となっていた。
だが驚くべきことが起きた。
人は原子力を武器としてではなく、
無限に近いエネルギーの源として活用し始めたのだ。
ただのSFだと思われていたテクノロジーが生活を一変させた。
家事を担うロボット。
原子力で動く車。
携帯できるコンピューター。
だが、21世紀になり、アメリカンドリームは終わりを告げた。
長年の消費によって主要な資源が枯渇し―
世界は崩壊しつつある。
平和は、遠い昔の記憶となった
2077年現在、総力戦は目前だ。
不安が募る。
自分自身、妻、そして幼い息子の事を思うと・・・
兵役で学んだ教訓はただひとつ―
人は、過ちを繰り返す。 朝鮮人が暴れて、煩くてしかたないから
田舎に疎開したって言ってた
>>11
ようコピペ君
折角だしなんか体験談書いてけよ 二二六事件に参加したじいさんが第二次世界大戦中に東条英機から怒られたって言ってた。
理由聞いたら軍事機密だから教えられないって言ってた。
そして死んだ うちのじーさん、ジャワ島で戦闘機が故障して不時着して、そのまま終戦まで現地で米作ったり水車を作ってやったりして楽しく過ごせたんだと。
色々現地人に教えてやってるうちにジャワの言葉も覚えて、すっかり現地に溶け込み、終戦後日本に帰るときには引き止められるほどだったとか。
軍資恩給?は海外にいると多く貰えるとかで、満額支給。ばぁさんが亡くなった次の週には「わし、よそにも女いるからお別れや」と言って出ていったきり消息不明。バイタリティが俺らとは段違いだは ジャップに強制連行されてレイプされて虐殺された人が多かったらしいよ 戦後の沖縄では、米軍による非民主的で非人道的な統治が行われた。 爺満州送りビビって一発も撃てない婆米にマンハント感覚の機銃掃射される プーチンが記者会見で歴史を語ったが、奴には隠すために語らなかった事がある。
日ソ中立条約を破ってソ連が参戦した事や、終戦の詔以降も侵略を続けた事や、抑留者に対する虐待などだ。 戦時に性風俗店を作るのは常識だ。兵士による性犯罪防止の為だ。
日本時代の戦地売春婦については、公募で集められており、性奴隷とは違う。
日本が反省すべき事は、
反日国へ適切に反論してこなかったので、
反日が利権化して強大化した事だ。 ご先祖様の誰かが北方の島に行ってたそうだ
アッツかキスカか、あるいは占守か
婆ちゃんに聞いても要領を得ないし 戦争後に特別高等警察が廃止されて政治犯釈放されてるけど政治犯っていまでいうと安倍でおk? 落下傘で降りてきた米兵を竹槍でメッタ刺しと聞いた事がある 軍医だったら、その手の話は聞けないし言わなかったな。 うちの父ちゃんはまだ子供で、ど田舎だったから遊んで帰ってきたら、戦争負けたって親に言われたらしいよ
あとは、食べる物がなくて松茸ご飯もほぼ松茸とか言ってた 50キロ離れた隣町に子連れで行ったら、運悪く空襲に合い
子供を背負って、走って帰ってきたおばちゃんを知ってる。
途中、何度も、土管の中とかで身を隠しつつ。 じいちゃんばあちゃんが死に物狂いで疎開したとき父ちゃんが乳飲み子だった
村の人にこの土地で1から耕して満足に食べれるようになるにはこの乳飲み子が10才位になってからだよと言われた
負の連鎖は自分にも続いている
もう断ち切るしかない
今の少子化って案外戦争も後を引いてると思う 去年墓掃除してたら骨壷の中に骨の代わりにピカピカの勲章が入ってた 親父が工場に動員されて二式水戦のフロート作ってたそーだ ジジババ東京
ばあさんの弟は徴兵を免れたくて醤油を飲んだら行かなくて済んだらしいww 岡山県にいた第17師団だったと思う、祖父が高松で訓練を受けて南方へ向かう前に戦争が終わったとずいぶん前に話してくれた事があった
戦争が終わって岡山県の和気町あたりへ帰る際、本当に酷い雨で西大寺から長船町あたりは洪水だったと
その雨で和気町の川が増水、学校の屋上に避難した先生と生徒は建物ごと流されて助けを求めながら濁流の中で校舎が倒壊。みんな亡くなったんだそうだ。いま消防署がある辺りから少し南に行くとカーブになってて、そこで
戦争が終わって助かったというのに気の毒な話で、祖父の姉さんもその話を聞かせてくれた時に居て当時の事を話してくれた。図書館があるところの橋に慰霊碑が建ってる
実際は満州も南方も戦地へ行ったと祖母は後から教えてくれたが、戦争の悲惨さはとても言葉で伝えられるものではないのだろうね
口に出しても何か違う、いやこうじゃないって感覚 爺さん→神奈川(横須賀?)で訓練中に終戦
婆さん→飛行機に機銃で撃たれるから姉妹で隠れる話や、近くの山にある横穴は防空壕の跡って話
まぁ爺さんの話は、思うところがあったのか、私がガキ故にだったのか本人から聞けず、死んだ後に婆さんから聞いた。 海軍におったじいちゃんの話で
軍艦の大砲?に配置してたら隣の兵隊さんが戦闘機の弾に当たって吹き飛んだらしい
ほんと凄い時代を生き抜いてきたんだなって思った >>11
よぉ、分断工作員。
関西弁のお前と沖縄は関係ないだろ 俺のじい様戦時中インドシナにいたんだけど、バナナ食い過ぎて腹壊して入院した
でもそのおかげにインパール作戦に参加しなくて済んだらしい
だけど終戦直後日本が負けたと知った瞬間じい様の部下が手榴弾抱えて目の前で自決したのを止められなかったのを今でも忘れないって言ってた 爺さんがシベリア抑留組。中尉だったから4年間強制収容所送り
兵卒は1、2年位で帰れたらしい
ガタイのいいやつから栄養失調で眠るように死んでいったとか
爺さん体が小さくて生き残ったけど、帰ってきて1年間は栄養失調のせいで頭が動かず働けなかったらしい
航空整備兵だったので隼も整備したとか
なお本人は話したがらず、直接聞いたことはなかった 起きろ 起きろ みんな起きろ〜 起きないと班長さんに怒られるぞ〜 従軍体験のある人もかなり減ってきたね。佐官だった人なんて数を数えるくらいだろう。こうなると記憶の改竄がますます進むんだろうね。 じいちゃんきのこ雲を近くで見て次の日現場で遺体の処理
見ただけの人は手帳もらえたけどじいちゃんは貰えずだった
医者に関係ないとは言われたけど俺は白血病になった 祖父が海軍におったわ、職業軍人とは聞いてないから単なる徴兵の水兵だと思うけど。
南方に行って復員が遅れたことと、帰って来たら商売で蓄えたささやかな貯金が
新年きりかえやらインフレやらで紙くずになって、心が折れたという話をきいた。
たぶん「生きてて良かった」とか「戦争が終わって良かった」とかいろいろな
思いが合ったのかも知らんが、俺が聞いたのはお金の話だけという。 S47年生まれだけど、今から35年くらい前まで防空壕跡とか普通にあったな。
つーか生まれる22年前に戦争してたんだよね 大叔父が大陸での戦闘中にわざと上官のそばに向けて銃を打ったらその上官が大人しくなった
映画やドラマに出てくるような理不尽で横暴な上官だったからムカついてやったらしい >>39
あれ、婆さんから洪水(吉井川)話は聞いたぞ。
多分君の爺さまとうちの婆さんの生誕地はかなり近いな じいちゃんは終戦時にまだ子供だったけどじいちゃんちの山に戦車が大量に置かれてたんだって。銃剣とかも拾ったんだけどなくしたそうな。
九州だから本土決戦に備えて温存してた兵器なのだろうか?
あとばあちゃんのお父さんは南方戦線に徴兵されて帰らなかった 中国の村で若い男女を連れてきて目の前でエッチさせる
しなければ殺す 爺ちゃんアメ公皆殺しとか息巻いて兵隊検査に行ったけど丙種合格で一度も戦場に出ることなく終戦だってさ 婆ちゃんは、自分の婆ちゃんの実家の茅ケ崎に疎開したんだが
戦争が終わって7歳の時に根津の自宅に帰ってきた
茅ヶ崎も、根津の自分の行動範囲(谷中から本郷周辺)も、全く
被害がなかったんで、東京大空襲も知らんかった 「また戦争が起きて焼け野原になったら、ロープ張ってここは俺の土地って言えばいいよ。戦後はそうだったんだよ」
再犯何度目か分からない横浜のスリのおじいさんより頂いたアドバイス >>45
うちの親父もシベリアだな
少尉だったんだが、学歴もあるってんで途中でモスクワまで連れていかれて
徹底的に共産主義を叩き込まれたらしい
まあ日本に帰ったら活動してくれってことらしいな
しかしうちの親父はまったく赤化してなかった
どうしてなのか聞いたら
「そりゃお前、聞けば聞くほど共産主義って絶対にうまくいくはずがないってのがわかってくるんだよw」
って笑っててわ
あんな怪しげなものに飛びつくのは、貧しい農家出身の奴とかが多かったなって言ってた
「平等って素晴らしい!!」ってなるらしいw 祖父は奈良の予科練に行っていたらしい。だからなのか飛行機にもヘリコプターにも乗せてくれた。ただ予科練について聞いても何も話してくれなかった。空が好きでも、かなり嫌な事があったのだろうと思う。 ビルマで戦ってたじいちゃん、指が3本なくなってて腕には弾丸が埋まったままだって聞いた >>46
惜しいな、最後は「叱られる〜」じゃった。
私は昭和2年生まれ。戦場に行った最後の代です。
実地と称して高校の後半は長崎で艤装員付きのお手伝いをしてました。
いよいよの昭和20年になって、乗るべき船もなく、
小笠原諸島のとある島に上陸し、終戦を迎えました。
同期の中には硫黄島に行って亡くなったものも多くいます。 じいさんから聞いた話
中国の内陸で都市を攻略する任務
中国の都市は城壁で囲まれてるから攻略しやすい
爆弾を中に投下して、炎から逃れてくる人を出入り口で待ち構えて掃射して、おしまい。 女子供だと思って安心して近づくと実はISISだった、ってので同僚が何人もやられた、
バグダッドとモスルでは自分以外誰も信じるな、ってじっちゃが言ってた 元軍曹の子守唄
ぼーくのつくったひこうきは
ドーソラドドミミソーミレミー
ハンドル切って舞い上がる
ソーソソミレドドレレレミド
ニッポンコクジュウ飛び回る
ソーソソミレドドレレレミド
ソーレが僕の夢の中〜
ソーラソミレドドレレミレド
終戦から誕生日まであと数年ってところまで生きてきたけど、未だにタイトルが分からない
どん質に行ったほうがいいかな? パン職人の爺さん
建物疎開で自宅が軍に接収
↓
戦後、返還されず他人の手に
↓
農家から材料を調達して洋菓子を作って売り捌く
↓
自宅の土地を買い戻して自宅兼工場を再建 うちの親父は満州で入営する前ま満鉄に勤めてたんだが
新たに線路を引く時は、コーリャン畑があろうが何があろうが
測量しながら「は〜い、ここから真っすぐ!」っ感じでドンドン進めてくって言ってたな 陸軍だったトーチャン達は戦争終盤、門司から広島に向かって移動していたが
移動した3日後位に前に居た街が空襲に遭ったらしい
そして呉鎮守府(クレチン)で終戦を迎えた
その後、引き上げ船が呉港に入港して皆が盛大に帰港を祝って万歳してる目の前で
機雷に当たってあれよあれよと言ううちに沈没したらしい >>61
ああそんな話は聞いたわ。
皆んな赤に染まったふりしてたとか。でないと返してもらえないかららしいけど。 ピカ毒というのが信じられててケロカスって差別してたらしいで
身内の虚カスが言ってた >>66
うちの爺さんも中国戦線だったわ
戦車?だったかな装備が良かったのか結構簡単に攻略できたとか
帰国してから南方への招集の時には医学へ進んで徴兵を逃れたみたい うちのじいさんは軍曹で主計だったらしい
戦争が終わっても残務処理でしばらく仕事があったとか
非常に小食で、戦時中でもそれは変わらず
飯の盛りも少なくするように配膳の兵士に言ったけど
事情を知らない他の人間がそれをとがめて兵士をぶん殴ったことがあったそうな うちのじいちゃんはあんまり話したがらなかったな
死んだ後にアルバム出てきて、戦友達との写真に何月何日どこで戦死とか細かく書いてあって一生背負ったんだろうなと切なくなった
もう一人のじいちゃんは爆弾抱えて戦車にひかれる訓練してたら戦争終わったって言ってた うちの親は戦時中、府中競馬場で芋を作ってたって言ってた。
爆弾を作る工場にいて、戦後すぐに上官に言われて山に大量な爆弾を埋めたって言ってた。
生前は絶対に府中へは行かなった。
多分まだ埋まってると思う。
一度、その記憶があるなら国に言った方が良いよって言ったが誰も信じないから知らんって言ってたよ 結局川崎で工員やってて戦争に行かなかった大正末年産まれの爺は戦中の事をよう喋ったが
大陸東北部で砲兵やってた本家の大叔父は雪食って腹壊した話ぐらいしかしてくれんかったな
親戚だと何故か戦死扱いなってて正月に帰ったら「盆じゃないんだぞ」と家族に突っ込み入れられた人と
上官の命令でも意地でも出てこないので好物の枇杷撒いて捕獲されそのまま日本に送り返された人がいたかな じいちゃんは突撃のラッパ吹いてたそうで無傷で帰国。ラッパ持って帰ってあったらしいんだけど人知れず処分したらしい。戦争の話はしてくれなかったから思い出したくなかったのかな 「従軍慰安婦なんて嘘よあの人達は自分から好きでやってたのよ」って死んだ婆ちゃんが言ってた 終戦まで中国戦線、満州にいた人はまだ幸運だわ。
南方に送られた人は殆ど帰ってこなかったらしいからなあ じいちゃん曰く今川の大軍が攻めてくるもうダメだと覚悟したら御大将の電撃作戦でさまかの勝利になったんだと >>65
本当に昭和2年生まれだったら
当時の事もっと教えてほしいな 親父の足の親指の爪が変な形
ガキの頃なんでって聞いたら
爆弾運んでて、落としたって言ってた
親指の上にな・・ >>65
そうでしたか じゃあ
新兵さんはつらいんだね〜 寝てまた泣くのかね〜
というのも間違ってます? うちのじいさんはいよいよ南方で、近海で訓練していたら、轟沈されて、入院していたら、運よく終戦だった。
運ゲームだよね。 撤退中、匍匐前進で森を彷徨って居たら、ばったり米兵の一人と出くわしちゃって
「嗚呼、終わった…」って覚悟決めた所、その米兵が徐にウヰスキーボトルを差し出したそうな
こっちはお礼にタバコをあげて、お互い一服しながら酒を酌み交わしたんだって
その後二人共何も言わず180度回れ右して別れたと、沖縄で戦った爺さんから聞いた 墨田区の空襲の時は夜にも関わらずオレンジ色になってたって言ってた シベリア抑留された親戚の爺さん
極寒の大地で食い物どころか
凍土で何もない極限状態
見張りのソ連兵だけは良い物を食っていたから
未消化の下痢便をザルで洗って
スープにして食べて生き延びた 末期には戦闘機が地上スレスレの低空を昼間っから堂々と飛び回っていて、パイロットとはっきり目が合ったらしい。でも撃たれなかったとか。嘘くさいけど >>82
それ、うちのお袋(昭和4年生まれ)も言ってたわ
あれは所謂遊郭の女郎さんで、内地に男がいなくなって仕事にならないから
お客(兵隊さん)のいる戦地に出張していくのは当たり前だってね
あと、戦時中、近所に朝鮮の人もいたけど
差別なんてなかったって言ってた
普通に付き合ってたし、朝鮮から来たばかりで日本語が不自由な人には
特にみんなで助けてあげたってさ ばっちゃと父が長崎で被爆した時の話があるが、産業にまとめきれないから書くのを諦めた 北海道の港町だが、爺さんたちの話によると戦中戦後に食糧難が一切なかったらしい
川に虫取り網を突っ込んだらいくらでもシシャモが捕れるし、農家との物々交換でも鮭一尾で結構な量の野菜と交換してもらえるしで 叔父(長男、俺の父親は9人兄弟の末っ子)は戦艦武蔵と共にレイテ島沖で沈んだ
くらいしか知らない じいさん樺太で抑留されてて昭和25年に帰って来た。
抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。 爺さん戦死なんだけど
出兵中に書いた遺書が婆さんの葬儀の時に出て来て
当時まだ小学生の弟に向けて
お前も早く立派な軍人になってお国の為に死ねみたいな
酷い内容の手紙だったよ >>94
いや、それはあると思う
うちのお袋もパイロットの金髪、青い目まで見えたって言ってた
おまけに機銃掃射受けたらしい うちの親は昭和5年生まれで、次の年に兵役に付く前の年に終戦って言ってた。
少しでも生きたいと当時、最も死なない内地の海軍の通信に受かったって言ってた。
凄い倍率だったらしいが、俺が言うのも何だか親父は天才だったから受かったんだと思う。 六本木の辺りの軍の本部?で経理的な仕事したり 字が上手かったから代筆したと話してた
もっと聞いておけば良かったな >>94
うちの爺さんは目があったら執拗にいいぞベイベーされたって言ってたぞ
斜行して叢に飛び込んだらどっか行ったつってた >>94
嘘くさくない。
ばあさんは、近くの航空基地の練習機赤とんぼを、米軍戦闘機が追い回してたけど銃撃しなかったっていってた。
要はからかって遊んでたようだ。
あとは地上走ってる犬とかを銃撃して遊んでたらしい
もう日本には反撃する戦力もなかったから >>97
インフラが崩壊して、生産地の食い物を消費地に送れなくなったから起きた食糧難やで
都会とか、爆撃でボロボロになったとこが飢えただけちゃうかな >>88
あってますよw
>>86
戦争を経験したものはね、わたしも含めて、他人様には話したくない事ばかり
なんですよ。戦争という状況下でしたからね。
上から命令された事には心では異を唱えても従わないといけませんでしたしね。 終戦後に朝鮮人が焼け野原に線を引いてここは自分の家だと主張して自分の土地にしたらしい
ばあちゃんが私もそうすれば良かったと悔しがっていた >>100
>抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。
それ、うちの親父も言ってた
「明日も頑張ろうな」って言って眠りについた隣の奴が
次の朝冷たくなってたりしたことがよくあったらしいんだが
それがトラウマになってたのか、自分の母親が亡くなるときに病院にいたんだが
「人が死ぬのを見るのが怖い・・・」っていって病室を出て行った
自分の母親の臨終が怖いって感覚は俺には理解できないけど
やはりなんかフラッシュバックしたりしたのかもしれないと今になって思う がらまんから ひたすら北上
母は戦争体験を語らなかった 俺の爺さんは色々話してくれたな、多分生きるための度胸をつけるためと人生は運だけだって事だと思う
でなかった後ろを歩いてる同僚が地雷でバラバラに空中分解したり狙撃手にやられたりして攻略したあと
火葬した遺骨を飯盒に入れて持ち帰るだけ持ち帰ったなんて話、話したくて話したとは思えない
六本指中国人から豆買ったほうが量がおおいとか地雷が置いて有りそうな場所の特徴とか犬は本当に馬鹿だとか
地雷踏んだり狙撃された死体の状態とかあの時代に教えてくれて良かった >>52
同い年だ
今から22年前が1995年と考えるとなんかすげえな >>110
うちの親は配給で魚あったって言ってたけど半分腐ってたって言ってた。
冷蔵システムが確立されて無かったんじゃね? >>45
多分俺の爺様と同じ境遇だわ
一昨年鬼籍になってしまわれたが婆ちゃんがあの人は人食ってたんだよって言っててドン引きした。 >>94
>>103
東京大空襲の話は戦後、身内から聞きました。
対空兵器が消失している状況で、B29はまるで嘗めるように
総武線を添うように東から侵入し、
ジュラルミンの敵機の下部は燃える市街地の炎を照らしオレンジに光っていたそうです。
10万を超える市民が犠牲になりました。黙祷を捧げます。 >>90
ちなみに、じいさんばあさんは開拓団として満州に渡って、中国人を雇って工具だったかを作っていたと言ってたなあ。 シベリアの収容所での話なんだが
ソ連兵って数もまともに数えられないような奴が多いそうだ
整列したときに数を数えるそうなんだが
わざと隊列をちょっと乱すと、もう数えられなくなるらしい
それを何度か繰り返してると、若いソ連兵なんかは半泣きになりながら
「頼むから整列してくれ」って言ったらしい >>117
主要な港は機雷封鎖されてるしそもそも船も燃料もない。
大都市はだいたい焼け野原。
鉄道とか発電所なんてものは真っ先に破壊される。
文字通り原始時代に戻されるわけで、そりゃ魚なんて干物にするか酢漬けにしとかないとろくに保存できないよね 姑にいびられたが、姑が寝たきりになってから反撃したお話 うちのじいちゃん、戦艦大和にぎりぎり人数いっぱいで乗れなかったらしい
そのあとタイだかで川に飛び込んで泳いだお陰で助かったとか
そのあと長崎に派遣されて原爆→爆心地から遠かった+防空壕にいたから被害なし
でも気絶したって言ってた
しかし、片付けで暫く長崎にいて地獄だったって言ってた、被爆手帳もどたばたでもらい損ねてた
そんなじいちゃんは、おつかいでアイスとフローズンを間違えて買ってきてばーちゃんに怒られてたのんびりじいちゃんです
今は天国にいます 大戦のさなか、わずか数十名の部隊で
帝国軍を壊滅寸前にまで追いつめた集団があった。
その名は忍空隊。
辛うじて戦争に勝利した帝国軍は彼らの力を恐れ討伐に乗り出した。
今、本当の忍空を知る者は少ない。 >>119
許してやってくれ。
数人に黒パン一斤だけの配給で、それを人数で等分とかだったらしいから
体でかい人はそれじゃ足りないので、水でふやかして量を多くしたから、なおさら吸収が悪くなって死んじゃったんだろうって話だった
俺らには絶対に判らん状況だから >>104
貴殿の尊父様は幸運でしたね。
そして、戦争には参加しなかった分以上、
戦後の日本の再興にご貢献されたものと推察いたします。 >>55
米軍の暗号をある程度解読してたから宮崎に上陸作戦するのを判ってた。
なので九州に戦車集めてたんよ。
戦車がずら〜と並んでる写真見た事ある。 おれのじいちゃんの知り合いが兵隊さんだったらしいけど食うには困らなかったって言ってたぞ 俺の曾祖父は戦艦八雲に乗っていたらしい
何でも世界を何周もしたとか
ほんとかな? 親父はまだ生まれてなかったが、長男と次男がそれぞれ別の疎開先にやられたが
長男の方だけが非常に食料に恵まれてた事から兄弟仲が非常に悪くなった。
当時もの?なのかいまいち不明だけど実家片付けた時に古い飯ごうでてきたわ
「ロ号 昭十七」って書いてある。たぶん爺様が使ったものだと思う。
底とかベコベコでめっちゃ気合い入ったヤレ方してるが普通に炊ける。 >>123
うちの祖父(父親が昭和5年産まれ)は駅員やっていて闇切符を手に入れて電車で海辺行って魚を仕入れて近所の皆に分けたって言ってた。
父親はもう他界して確認とれないけど。
ちなみに祖父は戦後、渋谷の駅長していた(家に渋谷駅長辞めたときの記念の振り子時計あった)。 俺の爺ちゃんは満州大学に通ってたらしい。
95歳になった今も元気だ。 >>129
ありがとうです。でないと俺は産まれてないのでw
ちなみに戦後は新聞記者をやっていて、凄い有名人に会ったって自慢してました。
ソニーは小さい会社であそこまで大きくなるとは思って無かったとか言ってました。 >>111
話したくなくても次の世代に伝えなきゃいけないとは思いませんか?
このままじゃ同じ轍を踏む事になりそうで うちにも、前回の戦争である応仁の乱で滅多切りにした文書とか残ってるな 近所のアヤハディオに
ワシは昔呉で大和作っとったんじゃって言ってくるおじいちゃんが居たけど
最近見なくなったな 女兵士に逆レイプされたとかあったらしいけどまじなの? 戦争体験というかウチの親父は子供の頃原爆のキノコ雲見たらしい
ちなみに地元は天草 >>54
おぉ、そうですか。今年もそちらはクソ暑いですか?
その時は西大寺の先が洪水で電車が止まって動かなくなったそうだ
仕方ないから関西方面へ帰る同僚に食料を渡して自分は歩いて吉永あたりから今の日生町方面へ向かったと
祖父は曾祖父から受け継いだ土地を提供して、地域に工場や学校ができた
今はもう工場も閉鎖されてしまい過疎で学校が無いそうだが >>94
うちのオヤジは終戦時5歳で台湾に居たが、トウキビ畑を歩いてたら空襲に来た戦闘機のパイロットの顔がハッキリ見えたとか言ってたわ。 もう亡くなったけど近所の医院の先生が広島大学の出身で
戦時中も学生で広島にいたんだが
原爆投下の前日に何人かが教授に呼ばれて
「おまえらとにかく農家かどこかで大八車を調達してきて今すぐ広島を離れろ
とにかく今すぐだ、できるだけ遠くへ、山を越えて行け、理由は聞くな、他人にも話すな」
って言われたらしい
その医院の先生は真面目な性格だったので教授の言うことを聞いて
徹夜で山を越えて広島から離れたらしい
夜が明けて、やれやれ一休みってところで広島市内方面が突然光ってキノコ雲が・・・
教授の言うことを聞かずに広島に残った者は全員亡くなったらしい
「ああいう情報って、どこからか入ってきて、知ってる人は知ってるんだなぁ」って
その医院の先生はしみじみ言ってたな 早稲田と百人町の間に広大な軍用地があって、そこを通り掛かるといつも大砲だの銃
だのの音がしていた。大戦末期に空襲を受けるようになると、そこへ高射砲を何門も
置いたけど、あんまり奏効しなかった。神楽坂-高田馬場一帯は木造家屋が密集する
住宅街だったから焼夷弾が多く使われた。爆弾の害を多く被ったのは工廠の多かった
板橋だと言われている。
空襲が激しくなってきて、祖父は千葉へ疎開したが、帰ってきて飯田橋の駅頭に立つ
と、炭化して子供かと思えるほど小さくなった死体や、破裂した焼夷弾の破片に突か
れて死んだ人、お腹膨らませてぷかぷか堀に浮いている死体を多く見たと言っている。 国難の打開よりも党利党略の政治家
威勢がいいだけの政治勢力
社会への貢献よりも自社の利益だけしか見なくなった企業や資本家
ポリシーもへったくれもなくただ売れる方向を見てアジるマスコミ
考えることをやめてのりがいい方に飛びつく国民
これらが揃うとすごいことになるよ >>100
へえ静岡の石川周作って知ってる?と聞いてみて
樺太でのロスケどもは成人男子だけはロスケ軍が駐屯する敷地内に抑留し老人や女子供はそれまでの家に住む事を許してたそうな
で、じいちゃんはロスケ軍の荷役やら何やらでコキ使われてたけど、夜中に家族の事が心配で抜け出してきたんだと
で、家族が必要な当分の薪なんかを集めたりして夜明けまで少し時間があったんで久々自分の家で少し微睡んでたんだって
そうしてしばらくしたら夜明け前なのに家のドアを叩く音がする。さては抜け出してきたのがバレての家宅捜査かと青くなったけど
ロスケに先導を頼まれて家に来た村長さんが機転を利かし「石川さん、おはよう」と穏やかに挨拶する感じで「周ちゃん、いても良いけど隠れろよ」と
ドア越しに言ってくれたんだと。で押入れに隠れたら村長さんがその場を取り繕ってくれて無事やり過ごせたんだそうな
でもそんなしてるうちに結局日が昇ってしまいロスケに見つからずに抑留地に帰るのは無理だと覚悟して堂々とロスケ基地に正門から戻ってお縄になったそうな
で、家族の為に薪を集めてた、女房は身重で(俺の父親が腹にいた)燃料集めは無理だからな!と申し開きをしたら
そこのロスケ指揮官は話がわかる奴だったらしくそれはすまなかったこれからその時間を取るようにしようと言ってくれて
同じ悩みを抱えていた仲間たちから感謝されたんだと。もしそん時に話のわからん相手でじいちゃんが殺されてたら
ばあちゃんは死ぬ気だったと言ってたしそうすっと腹の中にいた父親の子である俺はこの世にいないんだよなー
あと自分にも危険がと及ぶのに機転を利かして助けようとしてくれた村長さんへの感謝は大往生するまで口にしてたっけなー 曾祖父さんは水兵で日向に乗ってたみたいだが戦争のことは何も語り継がれてなかったな
色々写真残ってたけどほとんど集合写真で遠距離で撮ったやつばかりだったけど
一枚だけ主砲の前で水兵5、6人くらいで撮ったアップの写真があって
やっぱどいつもこいつも面構えが違うわ
戦艦のシゴキは地獄のように厳しかったってね 木曽川の河口近くで百姓やってた爺様は満州で痩せ芋をかじりながら
「うちの畑ならこの何倍も太った芋がいくらでもゴロゴロ取れるのになぁ」と思ってたそうだ
濃尾平野のあの辺は実際にアホほど土が肥えてるからどんな野菜もやたらと大きく育つ もう亡くなったが、母の長兄(昭和二年生まれ)が、予科練( = 海軍飛行兵養成課程)に入った。
しかし、まともな訓練はできず、飛行機には乗れずじまいで8月15日。
一度だけ「乗りたかった…」と呟いてたな。 チビで戦場に行けなかったじいちゃん
そのおかげで俺がいるんだなと。 >>138
おっしゃる通りです。
小生も家族に話したのは本当に限定的なものだけでした。
機密に関することは元より、人間として私が墓場まで持っていかざるを得ない事も
多々あります。
私たち、元日本軍人としても、言えること、言いたくない事、絶対言えない事もあります。 8月15日の正午に終戦が告げられたけど、その数時間前に日本海軍厚木飛行場を攻撃しに来たグラマン機の編隊と、
それを迎撃した厚木の302航空隊の零戦隊が横浜の上空で最後の大空中戦を繰り広げたと、当時女学生でそれを目撃していた婆ちゃんから聞いたことがある。ベテランの搭乗員が操っていたと思われる零戦の方が圧倒的に強く、グラマン機が次々と撃墜されていったそうだ。
後に聞いた話だと、その時に撃墜されパラシュート脱出した米兵はすでに息絶えており、近くの寺に丁重に葬ったという。
厚木の航空隊には以前にもグラマン機に追いかけ回されていた時、3機編隊の零戦に助けて貰った事があり、真っ白いマフラーをはためかせ機体をバンクさせながら飛び去る日本のパイロットが本当にカッコ良かったと言っていた。 >>154
うちの爺ちゃんもそうだわ
チビでデブw
でも器用だったので近所の大工さんにさそわれて
一緒に松山の航空隊の兵舎の建築作業に行ってたらしい
日当は良かったらしいよ 爺ちゃんは戦死したっていう手紙もらってたらしいんだが、ある日まだ小さかった俺の母が「今日お父ちゃん帰ってくるよ」と言ってみんなに怒られた。
そしたらその日の夕方本当に爺ちゃんが帰って来たんだと。
婆ちゃんがそう話してくれた。
母ちゃんはなんとなくそんな気がしただけと言ってたけど、不思議。
当の爺ちゃんはというと、よく戦争の話をしてくれたんだが、昔はあんまり興味がなくてほとんど覚えてない。
しかし、辛かったことより笑い話みたいなことしか聞いてない記憶はある。
例えば慰安所の話。
決まった時間に上官が皆を連れて行ってくれるのだが、事前に例の突撃一号が配られたと。
中に入ると時間制限もあり、覗き窓のあるドアの前で上官が「◯◯(部下の名前)はよせいよ〜」「ハイッ」なんて会話もあったそうな。
さて爺ちゃん本人はどうだったのかというと、「わしゃなんもせんとお姉さんとおしゃべりしてな。お土産に金平糖もろて帰ったんじゃワハハ」なんて言ってた。
家族は絶対嘘や、と言って笑ったもんだ。
爺ちゃんは通信兵だったので、どうせ弾が飛んでこないところにいたんでしょ?なんて家族は言ってたが「そんなことあるかい、わしだって鉄砲ぐらい撃ったことあるよ」と笑ってる爺ちゃんだった。
今思えばもっと真面目にいろんな話聞きたかったな。 曾祖父さんは戦艦乗ってたらしいけど魚雷で沈んだと婆さんが言ってたわ 空襲がやんで外を覗いた人が戦闘機の機銃掃射で撃たれる
原爆の被災者が次から次へと広島から運ばれてくる どんどんしぬ
食料が配給で足りないので延々と陸路を歩いて50km先の農家に買い出しに行く 親父が兄弟喧嘩すると水兵だった祖父が「海軍式だ!」って言って海軍精神注入棒的な制裁をうけたそうな。
あと水を無駄遣いをしないようにずいぶん言われたそうだ。 >>110
まぁそうだよな
爺ちゃんと同年代の女性が東京からこっちに引っ越してきて、爺ちゃんとその婆さんと戦時中の話をしたらしいんだが
向こうが「母も弟もみんな栄養失調で死んで…」ってボロボロ泣きながら話すの見て、
まさかその時自分が仲間とイモの大食い競争をしょっちゅうやってたなんてとても言えなかったって >>150
もう、20年近く前に死んじゃったのよ。
知り合いかもと仏前に報告しておくわ。
樺太抑留ってあまり知られてないから、知ってる人いてうれしいよ。 >>118
うーん
戦争というか戦後に反共の盾だった韓国が80~90年代に工作に晒されて日本のメディアが笑い話として韓国や台湾の議会をさらっと紹介してたんだけど、今度は日本がその順番になるよって話じゃないかなぁ イラクを攻撃しまくったけど、大量破壊兵器が見つからなくて大変だったらしい。 ここに書き込みをしてくれてる諸兄の、ご家族様で、
あの戦争で大変な思いをされた方々、命を亡くされた方々に、
改めてお悔やみを申し上げます。
生き残ってしまった元海軍1兵卒から… 死んだ母ちゃんが、父ちゃん(俺から見ればじいちゃん)は硫黄島へ出兵したとか言ってた。
硫黄島の話を大人になって知ってとんでもねーと思った。 昭和4年生まれの、うちのお袋が晩年よく言ってたのは
「軍人と兵隊さんは違うんだ」ってこと
正確にはどうなのか知らないがお袋によると
「軍人」ってのは少尉以上の将校であり
赤紙で徴兵されたような人たちは「ただの兵隊さん」だって言ってた
テレビの反戦番組なんかで、元二等兵とかが
日本軍がいかに戦場で酷い行いをしたかってのをグダグダしゃべってて
それが「元軍人」とか紹介されると
「こいつは軍人なんかと違う、ただの兵隊さんや!」ってよく言ってた >>152
西日本と比べてもだけど、南木曽あたりから東は木がデカいんだよな >>167
硫黄島でしたか。私の仲間も多く硫黄島に配置され、玉砕しました。
当時は硫黄島派遣は名誉の派遣でした。
日本を守る最後の砦でしたからね。
栗林中将の元、激戦を務められた、貴殿の祖父さまに敬礼を捧げます。
「ありがとうございました」 俺の曽祖父は明治の末の生まれでどこの流派かは伏せるが免許皆伝だった
戦争前は海軍にいたんだが、開戦した時は、退役した後で、
腕がたつというので、民間人の護衛として何度も大陸()満州と朝鮮へ行ってる
その頃の記録や口伝が家に残ってるんだが、
最もよく聞いたのは「朝鮮人というのは手癖が悪く、下品極まりない民族だ。絶対に結婚相手などに選ぶんじゃないぞ」
だったそうだ。中国人も禄でもない様な事を言ってたけれど、朝鮮人の印象が余程おぞましかった御様子
明治生まれ,大正生まれ,昭和初期生まれの人達は肌で感じて知っている事だったんだね うちの母親(他界)の親父(俺の母方の祖父)さんはフィリピンだったかな?で山で太腿に被弾したが仲間の静止を振り切り1人で下山しそのまま行方不明になった。
戦後、仲間からその話を聞き俺に「山で何かあったら1人で行動するな!」ってよく言っていた。
また、戦後、遺族にはお金がおりたらしいが祖父は行方不明(死亡したか分からない)の為、お金を貰えなかったって言ってた。
お前らも登山行く事があったら単独行動は謹んでなー 久留米のおばあちゃんが小学生の登下校の時に飛行機から機関銃で時々撃たれてた
道の凸凹に隠れる練習をよくしてたって言ってた 野党第一党党首が日本人じゃない可能性がある
こえーわ >>175
貴殿の曽祖父になるのかな。
激戦地フィリピンの勤務だったのですね。
戦後、同僚に聞いた話では南方でのゲリラ戦は非常に大変だったそうですね。 軍の馬が畑に使えるからと高松だか坂出だかで船に載せようとしたら定員オーバーで泣く泣く置いて帰ったと言うてたな、まぁ人間が優先だからと笑ってたけど >>163
あ、そっか うちのじいちゃんが亡くなったのも大分前だもんなあ そりゃそうだね ごめん
でも樺太って食料よりも何しろ燃料集めが大事なんだってね
食料が無くても一週間くらいなら生きれるけど暖をとる燃料がなければ一日と持たないからなと生前言ってたなあ
そんな厳しい環境の中で終戦後何年も本土に戻れる日がきっと来ると邦人達は助け合って頑張ってたんだね 呉の造船所から広島の原爆雲が見えたそうだ
byじーさん ガソリンが入ったドラム缶が投げ落とされて
街が火の海になった >>27
アッツは全員玉砕
キスカは木村昌福に助けられた 学校の先生から聞いた話
沢村英二が手榴弾投擲の模範演技に学校に来たらしい
もの凄い距離投げてみんな驚いたって言ってた 南方でマラリアにかかったとき、現地の民間療法に習ってバナナの葉っぱの煎じ汁を飲んだら治ったってコーラ飲むたびに言ってた。 >>174
家に、「神◯流開祖 剣舞術教範」の本がある。
裏には何とか中隊 永井甚右衛門って書いてある。
写真を載せたいがやり方が分からん。教えてくれれば写真載せるよ >>174
俺の親類にも、「日本人は白人並に素晴らしくて、支那朝鮮はほら穴に暮らす下等な土人ばかり」と言い続けてた元衛生兵がいたな
馬鹿なネラーというより、軍事政権の洗脳が死ぬまで解けなかった感じだった そういえば戦争にいったはずのじいちゃんから戦争についての話を聞いた記憶がないな。もういないけど。 >>176
あなたの祖母と俺の祖母は友達だったかもな
飛行場の隣だったからよく撃たれたといってた >>186
ご存じないと思いますが、
アメリカは停戦を望んでいました。
日本は徹底抗戦も辞しない状況でした。
「負け戦で武勇伝語られてもな」
こういう失礼な文章は元軍人として、許せません。
貴殿の所属と氏名を露わにされたし。
それがなければ、単なる誹謗中傷と認める。 >>172
当時からこんなことやってたんだな
佐藤は伝統文化の継承者 最近のアメリカ戦争映画は、昔と違って真実を描くのが多いから
アメリカ軍もそうとう厳しい戦いしてたのが初めてわかった
当時の国力差で、よく戦ったもんだなあと思う >>198
>学校の英語の先生は全員帝国海軍ob
うん?詳しく知りたい所ですが…
ちなみに小生のバカ息子が通った都内の私学学校では
ベテランの教師はアメリカ英語を教授してまして、
私が教えてた英国なまりの英語で少し問題を起こしてました。 聞いた話ではないが
僕の曾祖父の弟は大陸で戦ってる時に鉄砲が頭に当たって一瞬頑張ったけどすぐに死んだらしい
それで2階級特進したらしい(何だったか忘れた、場所も忘れた)
1939年だったと思うが日中開戦した年の秋だったかもしれない
そんな対したことではないかもしれないが、先祖代々の墓地に立つ一際立派なお墓にかかれているこのことは強烈に印象に残っている
頭を撃ち抜かれたっていうのがね、想像するとえぐい 「へぇ」ネタを、――
俺の祖父は陸軍士官学校を経て、戦争末期に、日本に二つしか無い特殊部隊へ入隊した
やっていた事は伏せる
面白いと思ったのは、住民登録などはおろか、戸籍まで抹消されて、終戦まで存在しない人間になってましたw
>>187
そう言ってくれるのは有り難いのですが、俺が見てもわからないと思うですよ
剣道も中学生の時にちょっとやっただけだったし才能も全く無かったっぽい こないだバス停で一緒になったおじぃさんが
軍隊で鞄を斜めにかけると生意気だって〆られたって言ってた 関東軍が武装解除されて朝鮮人兵はそのまま解放されて朝鮮に戻っていったが日本兵はシベリアに送られてどんどん殺された 何も終わっちゃいねえ!
何も! 言葉だけじゃ終わらねえんだよ!
俺の戦争じゃなかった、あんたにやれって言われたんだ! 体験というか永遠の0のcmが流れて
こういうのは見ん、とか言ってた 戦争で両親を亡くし親戚に引き取られた兄妹が叔母の冷たい仕打ちに家を出て二人暮らしをはじめるも結局は二人とも亡くなってしまう悲しい話を何度も目にしてその都度大泣きした記憶があります
その話に触れる度に戦争とは悲しみの連鎖であるとつくづく思ったものです 千葉に疎開した時は芋ばっかりでキツかった
その後疎開先が新潟に変わった時は米が喰えると思ったが菜っ葉だけだった 父方の祖父: 軍医養成の教官をしていた軍属(内地勤務)今上陛下に勲章を賜り、大喜びしていた。故人。
母方の祖父: 海軍中尉。2度にわたりマラリアに罹る。
友軍の輸送艦が、自分の乗る艦の眼前で次々に空襲などで轟沈させられるのを目撃。
終戦後は英軍の捕虜となり、シンガポールのチャンギー収容所で、戦犯扱いされたため独房にいれられ、日々処刑の切迫にあったらしい。戦後は反共に燃える。
俺が生まれる1ヶ月足らず前に心臓発作で急死。 米軍の捕虜になった友達の爺さんはコーラもタバコも貰えて天国の様な生活だったと言ってたな 父方の祖母: 疎開地の地主の娘。
戦争中も、終戦直後も白米を食べるのに困らなかったと田舎の豊かさを述べる。
テンプレどおりの姑だった。故人。
母方の祖母: 岐阜市の布団問屋の娘。
女専で学生をしていたら、「米国と戦ってしまうのは大変だ」と蒼ざめた表情の講師から開戦の弁を教わる。
疎開はせず居残り、空襲警報発令に際し、その連絡と避難誘導、防火呼びかけを放送する役目を負う。
大空襲においては家族と長良川へ避難。
戦後に結婚した祖父があんまり選挙事務所の会合に入り浸って、家庭に帰ってこなかった際には、腹いせで共産党に票を入れたことがあるが、本人は至って原爆落としたアメリカより裏切ったソ連が大嫌い。大地の子のファン。故人。 >>18
東条英機「軍事機密だから教えられない!」← 上の記入。
おまいら、もちつけw
もっと他人が読んでみたいな〜って文章を書けよ? うちのお寺にもあるけど戦没者供養塔に贈従五位と掘ってある大きな石碑がある
戦死した兵隊さん達は何を思ってそこで眠ってるんだろな
また贈位さえ受けられずに戦争で亡くなった多くの民間人達
焼津の漁師達などはカツオを取る為に遠洋に出てたから鉄製の立派な船を持っていると船ごと軍に徴収され
日本近海にほぼ丸腰の状態で哨戒任務に出されアメコウ機の格好の餌食となって海の藻屑となっていったんだってさ
どう考えても浮かばれんよなあ ガキの頃、日立の海岸でウミウシいじって遊んでたら
ムラサキイガイ採ってた婆さんに「戦争中はウミウシ食ってたんだよ」と言われてびっくりした思い出
海岸の凸凹は艦砲射撃の跡だって言ってた
>>187
http://imgur.com/
NEW POSTにファイルをドラッグ
それかこれ
http://www.dotup.org/ 俺の祖父は「戦争は凄く楽しかった。次は絶対勝つぞ。」とよく言っていたなあ 戦争初期フィリピン戦線でマラリアに罹り、本土へ帰還。その後のマッカーサー率いる大攻勢を体験する事なく生き残ったじっちゃんが居るから俺も居る。ありがたい。 祖母は看護婦をしていました。内地です
終戦の際に、医師からとある薬を渡されました
米兵が上陸してくるのでレイプされそうな窮地になったら飲むようにとの事でした
青酸カリです 本土決戦になったら海龍に乗って特攻するはずだったが
その前に降伏してしまったので
米軍の来る前に基地のあったなんたら湾の真ん中に
海龍の船体集めて爆破して沈めたそーだ フィリピンだかの南の島に送られた爺様が自分達食う飯も無いのに捕虜のアメリカ兵から飯よこせと騒がれたから片っ端から処刑してやったと自慢してた
最初は一人一人撃ち殺してたけど弾が少なくなったら並べて撃ち殺し最後は弾もったいないから重機で轢き殺したらしい 子供の頃日本軍は残虐行為なんかしてないって思ってたけど
満州で日本軍からの配給に並ぶ中国人の男が食用油を瓶に入れてもらい
帰る途中で瓶を落として割って油を全部ダメにしてしまって
大の大人、成人男性がその場にしゃがみ込んで子供の用にわんわん泣いて
家族の生活どうしようみたいな事を喚いて泣きまくってたという話を
あれ当時の軍の仲間たちとみんなで超笑ったわw
みたいなテンションでおじいちゃんから昔話を聞かされた時は
あーこれはやってるなーって小学生ながらに悟りました・・・ >>144
こっちはクソ暑々
>吉永あたりから今の日生町方面へ向かったと
うんうん。よくわかる地名じゃわ。
そういえば、うちも聞いたがいくら岡山県南とはいえ結構な距離を峠だなんだとあるのに〜まで歩いてた〜行商してた〜とか、現代的な感覚じゃビックリする話あるよな ウチのじいちゃん徴兵検査落ちて戦争行ってない
元々体弱かったみたい
じいちゃんの弟はフィリピン行く途中の船が沈められたって聞いた
だからかじいちゃんいつも寂しそうな感じだったな ここに書かれてる話は興味深いけど、どこまでホントかなあ。年月が記憶を変えることもあるし、聴き手の興味をひくために嘘が混じることは慰安婦で散々思います知らされてきたから。 近くに通信所が有ったから、B−29が毎回巨大なスチールウール見たいなのを投下していったそうだ
鳥脅しに最適だと取り合いになる位人気だったとか 祖父が海軍の技術士官してて大和にも関わったらしいけど
誰にも何も言わなかったらしい
そんな話を向けたらはぐらかされた 母方の爺様は満洲のために尽くした立派な人だった
満洲国独立は満洲のために
日本のためでも中華のためでもまして関東軍のためでもない
軍の暴走なんて嘘だよ 戦車の登坂能力は異常
湿地に顔まで浸かると見つかり辛い
弾が地雷に当たると吹き飛ぶ
銃に弾が当たると使い物にならなくなる
手榴弾は使えない
新兵は役立たず
ゴミはどこでも一定数いるがチョンコは異常
露助はチョンコと同レベルのゴミ
露助は掛け算が出来ない
共産党は生きる権利のないカス
歩くと疲れる
走るともっと疲れる
食べないと腹が減る
飲まないと喉が渇く
シベリアの氷の下に日本人が数え切れないほど埋まっている
点より線
線より面
どんな状況でもスパイはすぐに殺すべき
速い航空機は気にしなくていい
コミュ障は役立たず
歳でも位でもなく生き残ってる奴の言うことを聞け 爺ちゃんも伯父さんも戦死したよ。
伯父さんは死んだとき、うたた寝中の婆ちゃんの所にきて玄関扉(木枠に曇りガラスのはまったあれ)を叩いて『母ちゃん!今帰ったよ!』って言ったそうだ。
慌てて飛び起きて迎えに出たけどいなくて、その後戦死したって知らせがあったんだと。 うちのじいさんは一等兵で中露国境付近の方に居たらしいが、絶対何も話さなかった。
そして、謎なのが大学出てないのにロシア語と中国語と英語が堪能。
戦後も海外で仕事してた。
今思うと、結構やばい奴なんじゃないかと思ってる(´・ω・`) ばーちゃんの話
逃げそびれて、空襲で姉に手を引かれて防空壕へ逃げてたら
近くに爆弾が落ちて庇った姉が腕だけ残してぶっ飛んだ
それから、自分より大きい人と手を繋げなくなった
一方、じーちゃんは満州?の辺りで食料なくて死にそうになってたら
現地の人に、口にキュウリ突っ込まれてた
若い人がこんな所で死ぬな、生きて故郷に帰れって言われたそうだ
助けてくれた人が亡くなるまで文通してた 直接聞いた訳じゃなくて、葬儀の席での親戚からの
祖父と祖母が、満州移民で北京神社で挙式したという話を聞いた
お爺さんは掌に傷があって「戦争で弾に撃たれた」と幼少の自分に言ったが
お爺さんに従軍経験はなかったらしい、確かに掌は兵隊が撃たれる場所ではない
敗戦で引き揚げてきて、子供は1人か2人居たけど死別
帰国後、子供は諦めて養子を貰ったけど、もう一人だけ生まれて二人兄弟に
その祖父も祖母他界し、引き上げの時何があったのか生涯聞く事ができなかった >>214
特設監視艇のことかな?
400隻も出て行ったのに100も帰ってこなかったとか じいちゃんはミャンマー方面行ってたわ
戦後もよくそっちに渡航してた
もし戦争に勝ってたら向こうに住むつもりだったらしい >>233
それは明石さんの系統っぽいな
家の祖父は少しは話ししてくれた様なんだが
俺ですら外に具体を話ししようとは全く思わないのが不思議
別に人道に反するような事は何一つ無いんだけど 中国兵の青竜刀を紙一重で避けた時に頭頂部の毛が全部吹き飛んだ
という爺さんの持ちネタ 撃墜されたアメリカ軍の飛行機のパイロットを捕虜にして
日本軍の上官が刀の試し切りして殺してたらしい
そのアメリカ軍パイロットは殺される前すげー泣いてたから
じいちゃんはかわいそうだなあって思ったって言ってた オレの曾祖父さんは日露戦争で武勲を上げたよ
203高地を攻略した日本兵のうちの一人はオレの曾祖父さんの為吉爺さんだ >>240
免許皆伝の曽祖父が、
祖父が士官学校を出て軍刀持って配属される際に語った事を思い出した
「おまえには剣道の才は無い。野戦になったらとにかく突け」だったそうだ
その軍刀は珍しい程度には長いサイズだった そろそろ寝ながらROMってます。
upした本とか興味がある方は下記のメルアドに何かメッセおね!
尚、捨てメルアドでつ。
gaza388@ahk.jp うちの曾祖父はワシントンのエンパイヤステートビルの屋上にルーズベルトを追い詰めて撃ったらしいよ
だけどビルから落ちて死んだはずのルーズベルトがまた背後に立っていて「私はお前たちの心の中に居るから殺せない」って言ってたらしい 今年105歳で亡くなった俺の母方の爺さん
海軍で通信士官だった
愛宕、山城に乗船したが幸い撃沈される前に下船
その後は掃海艇(28号って言ってた)に乗り、ラバウルで集中放火浴びて沈没したけど運良く助かり、その後日本に帰投して航空隊の支援部隊の内勤やってたら終戦
最後は官位ももらってたな
正八位だった
とても優しい爺さんだった >>156
うちは小田原だが、たった1機で大編隊の米軍機に戦いを挑んで撃墜された疾風の話が伝わっているよ
慰霊碑はその時の疾風のプロペラでできている 日本の手榴弾は使えない
武器を鹵獲しても弾が無い
蛇はうまい
蛙はうまい
好き嫌いなく食べろ
戦ってる時と逃げてる時は自分の命を最優先に考えろ
それ以外は人の嫌がる仕事でも進んでやれ
死んだら終わりだから何があっても生き残れ
鉄が凍ってるところに口を付けるな 戦ってくれてる兵隊さんのために一生懸命農業してたらいつの間にか終わってた 鍋で雪溶かす時は水を少し入れろ
松は苦い
偵察は辛い 祖父「アメリカが焼夷弾落としに来てなぁ」
アホ(アメリカ軍て少尉落とすんか怖いなぁ) >>246
インテリジェンスだよ
一等兵なんてのもあんま意味無いと思うし、
戦時中は住民登録はおろか戸籍まで抹消されてたに違いないよ
再作成は終戦後な(>>201同様) 年の離れた親父
50歳の時に自分が産まれた(今は他界)
で、余り多くは語らなかったが、何やら通信とかの兵士だったらしく、そんな最前線には行かなかったよう
終戦の時に、洞窟に逃げ込んだが、そん時上官も居たらしく折り合いが悪かった親父はそいつボコボコにしたとのこと
その後戦後のドサクサで会社起こして社長
親父が死んだ時自分は経営権は役員に譲って会社には直接タッチしてない
結局、肝心な色んな話しないまま死んだな
まあ何故かお互いあんまり仲の良い親子でもなかったからあれだが
親父は終始自分のこと警戒してた気がする
自分はそんな親父はどこか別世界の住人みたいで避けてた感じ
というかいつも母親を泣かしてた親父はどこか受け入れがたいんだな
良くも悪くも戦争経験者だったわ 十年前に死んだ祖父は、妻(俺の祖母)や息子たち(俺の父や叔父)にさえ、従軍中のことはほとんど何も語らなかったそうだ。
葬式のとき、親戚が集まったけど、詳しいことを聞いた人は誰も居なかった。
きっと、語りたくないことが沢山あったのだろう。 >>240
首切りの作法かな?
貴重なものを有難うございます
>>246
特務機関に居たってことだろな
諜報やらいろいろ >>12
慰安婦じゃなくて、親に売られた売春婦だろうが!
エラそうに日本語で書き込みしてんじゃねーぞ!
在日チョンコ!
とっとと夢の国に帰って小便酒でも作ってろ! 母方の爺さんは満州で警官だか憲兵だかやってたらしい
あの時代で身長180超えててスマートで
軍服みたいなの着てこしにサーベル指して馬乗ってる写真が残ってた
子供ながらにクソかっこ良かった
死んだ時当時の総理大臣だった竹下登からなんか賞状来てたけど内容はよく分からん 悲惨でもなんでもないけど
祖父がラバウル帰りで、終戦時は当然米軍の捕虜で
物怖じしない性格の祖父は、米兵にも気さくに声かけてさ、「その吊るしてるの見せてくれよ」と
米兵は米兵で何を思ったのか、(勿論弾抜いた状態で)ガバを持たせてくれたんだってさ
それ見て祖父は思ったそうな
「そりゃこの戦争負けるわ」って ばあちゃんは死ぬまで寝る時にはモンペ履いてたよ
いつでも逃げられるようにって
うちは戦争でも関東大震災でも全焼したから… 岐阜空襲(ぎふくうしゅう)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた岐阜県岐阜市に対する空襲。
1945年(昭和20年)7月9日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%A9%BA%E8%A5%B2
被害者の多さに火葬場が満杯で遺体を焼くこともままならず、真夏なので遺体も腐ってきた
仕方なく小学校の校庭に遺体を積み上げてガソリンをかけて骨になるまで焼いたとのこと 90前の親戚のばあちゃんがめちゃ朝鮮人嫌ってるな、具体的な体験談込みで話し聞いたわ 祖父は学徒出陣でいよいよ軍に配属されるってなったときに海軍を希望したらしい
理由は制服が一番良かったから
結局戦地へ赴くこともないまま戦争が終わってしまったから
セーラー服をほとんど着ることはなかったと残念そうに言っていた >>257
あー、多分それだわ。
なんかよくわからんけど、軍人恩給もらえないとか云々いってた。
軍人だったって言ってたのはばーちゃんだし。それをじーちゃんに聞いたら渋々答えてた内容が一等兵で中国とロシアの国境付近に居たって話。
でも謎なのが、どうやって戻ってきたとかの話は全く教えてもらえんかった。 親戚が駆逐艦乗りだったらしいが、終戦までに乗った艦が3回沈んだそうだ
90まで生きていたそうだが、いっぱい恩給出たらしいわ 天皇陛下と同い年が自慢だった爺さんはいよいよ戦局がヤバくなった1944年12月に召集され台湾へ赴き特筆するような事は何も無く終戦したら帰ってきた
もう空も海も敵だらけの割に行くまでの船でも特に何も無かったらしい 方や祖母は良いとこのお嬢様だったのだが(この祖母と祖父がくっついた理由は未だ不明だ だって二人共鬼籍に入っちゃったし)、開戦の翌日、女学校の教室で「戦争なんて嫌だゎー」みたいなことを言って教室を静まりかえらせたとか
意外に戦時とは言っても自由はあるもんなんだねえと思ったよ 叔父の一人は硫黄島で戦死、齢19で。 その兄は戦艦榛名の乗組員 無事に帰還しました。帰還後は生まれ育った田舎に帰って農業に従事し云々
こんな事実がありましたってレスするのが供養かと >>271
とてつもなく選抜された人達だよ
俺が言っちゃ駄目なんだろうけど誇りに思っていい筈だよ
中野畑とでも言った方がわかり易かったんだろうけど
訓練中なんかホントに大日本帝国軍なの?って思う程に自由な気風だったらしいぞ
現実的で合理的だった様子。まぁこういうのは調べればいろいろ出てくる
うちの祖父もほとんど話ししてくれなかった口だったらしいがあなたの祖父ほどでは無かったみたいだ
そんなスタンスにも個人的な要件を越えたものを担ってたのかな等と感じるものがあるよね 爺さんは海南島に出兵。大工だったから平和に楽しく軍事施設を作ってたらしい。出兵中一回も銃声を聞いた事なかったって言ってたなあ。その頃婆さんは食料確保や空襲の中の子育てで大変な思いをしてて、
本土に戻ってその話したら ふざけんな‼︎って婆さんがちゃぶ台ひっくり返したってさ。それまで従順な妻だったから腰抜かしたって。女は恐い 気をつけろ。が爺さんの訓示だったが 何だかなあ 海軍でなんか船に配属される予定だったみたいだけどじいちゃん目が悪くてヒョロガリだったからいらんって言われて軍需工場にまわされたらしい
まだ日本が優勢の時だったからって言ってた
遺伝でおれもド近眼 >>271追伸
> どうやって戻って来たか
そういう人達ならではのネットワークかもね
日本人として駐留してたのかすら怪しいぞw ばーちゃんが戦前フィリピン生まれ
お偉いさんの家庭で裕福だったらしい
日本軍の理不尽なフィリピン人処刑を目撃したが、当時は日本人以外は人にあらずと教育されてたので全然気にしなかったと言ってた
その反動で戦後何十年もその光景が夢に出てきて苦しんでた 爺ちゃん海軍で、南方に行く途中で軍艦が沈んで千葉に流れ着いて
終戦までそこでお世話になってたらしい
戦後も父ちゃん連れて何度かお礼に行ってたとか 亡くなった大叔父が獣医師だったが
軍馬の維持管理のための軍属?になったらしい
当時の兵隊さんたちはそれはそれは馬を大切にしていたとか
使役のために大事にしていたのはもちろんだけど
心の癒しや拠り所にしてた人も多かったそうな 漫画だけど『凍りの掌』ってのがシベリア抑留体験者の話で、上にあるような話だったわ >>145
地元の戦争体験談の本にも似たような話があったなグラマンのパイロットがニヤッと笑ったそうだよ ずっと基地かなんかで料理作ってて、嫌いな上官の飯にイタズラしてたとか。 今更半世紀以上も前の話を聞いたところで現代戦の参考にはならない。 知り合いの爺さんが中国に行ったらしいが広すぎて敵に会わずに毎日が平和に過ぎたらしい。 このスレの本質は
日本人が世界中で極悪非道な戦争犯罪をしてきたんだよっ!って答が欲しかったみたいですね
疑心暗鬼かな? 飛行機が飛んで来て中に乗ってる兵士が見えたって
話していたおじいちゃん >>281
なんで、「戦前」にフィリピンにいたの? 亡くなったばあちゃんの従兄弟が思想犯で戦時中に牢屋に入れられた。でも戦争終わって釈放され、その後は小説家として名を馳せた。 婆ちゃんの話ししか聞いた事ないな
防空壕があってB29が飛んで来たらそこに入ったって話しぐらい
戦地から帰って来た人の話しなんか80歳以上の人じゃないと聞いた事ないんじゃないの 戦地に行ったじーちゃん曰く逃げ回ってた毎日食う飯にすら困ってた
物資とか弾薬なさすぎワロタ状態だったぞうだ >>251
なんかウチの爺さんと似てる
ラバウルで沈没、地元の漁民に助けられ沖縄まで送ってもらったとか言ってた… 空襲で焼け死んだ人達を埋めた近くの海岸で
水難大事故起こったて昔聞かされたわ おばあちゃんが教師をしていて生徒を学徒動員で工場にバネを作るために引率していた
ある日おばあちゃんは熱を出して校長先生に代わりに誰か言ってくれるように電話し休んでいたy
ところがその日空襲警報が鳴りどうやら工場の方が爆撃されたらしかった
病気でも寝ているわけにいかず工場に行くと、生徒がいつも入っている防空壕が爆撃を受けていた
しかし生徒は全員無事だった
前日の大雨でいつも入る防空壕に水が溜まり、工場の人が自分達がその防空壕に入り、生徒たちを別の防空壕に入れてくれていたからだ
おばあちゃんは、もし自分が引率していたら濡れた防空壕に生徒を入れていただろう、と
工場の人が亡くなって生徒は助かった
生きる死ぬは紙一重 ばーさんが挺身隊で舞鶴にいた
憲兵に「この非常時にぱーまねんととは何事だ!」と髪の毛を掴まれて怒られた
ばーさんら必死に「これは天然です!」と泣きながら話してやっとわかってもらえたが怖かったと言ってた
その頃じーさんは満州で演習中に落馬していたらしい
その怪我のおかげで内地に戻ってこれたんだってさ 親戚の爺さんの赴任先は潮岬。戦争末期だったので米軍機が我が物顔で飛び回ってた。
迎撃できるような戦闘機はもう無かったとか。上官は「おまえたちは赤紙一枚の
価値しかない。しかし銃は陛下から頂いた大切なものだ。おまえらの命より
大事だから必ず守れ!」
そう言われた兵卒たちは空襲があると我先にと銃の上に覆いかぶさったそうだ。
銃を守るんじゃなく命が惜しいから。下の方にいるほど撃たれても助かるからなw
「こんなバカなことやってんだからそら戦争に負けるわ」って笑いながら話してくれた。 爺さんの弟が大陸で戦死した
日本の徴兵制はみんな軍隊にいくわけでなく赤紙が来た人だけ行くわけだがランダムではなく農家の長男なんかは後回しだった
昔話次男以下って長男のスペアでしかなかったんだよな ウチも恩給はなかった。海南島出兵の大工だったけど 英語 中国語 ロシア語もペラペラだったよ。トルストイの 大男と庭の童話 をよく読んでくれた。大阪一高出って どんな学校だったんだ?
>>276 >>289
よかったなぁ
うちは民間人だったが戦後中国人に捕まって銃の的にされて殺されたらしい 戦後72年か
聞いた話しじゃなくて経験した人は殆どいないんだろうな
体験を聞ける人は聞いておいた方がいいのかもね 婆ちゃんのおとうとが海軍兵で、マリアナ沖海戦に参戦したらしい
最初は巡洋艦に乗っていたが、沈められて、駆逐艦にか助けられだけど、それも沈んだ、また駆逐艦に助けられたらしい。
海面の重油を何度も飲んでしまったらしいよ
水平線付近に物凄い数の米軍機が湧いて来て、これはあかんやつやて感じだったと語ってたらしい
これは本当の話 ばーちゃんの田舎島根県浜田市なんだけど
原爆落ちた時、焼けた紙がひらひら舞落ちてきたそうだ 爺さん2回船が沈んで泳いだ
母ちゃん(戦後生まれ)の兄(1)が満州からの引き上げ時に死んだ 高校で非常勤講師だった元海軍士官の爺さんいたなぁ
その人の話も聞いた
士官候補生になって舟に乗るの頃には戦争も終わりで
砲塔を外した駆逐艦復員船時代の話がメインだった 死んだじいさんから聞いたけど、南東の島で、敵に囲まれて死んだと思ったけど、いきなり空から光が降ってきて相手が全員倒れたと言ってた
味方の兵器じゃなく宇宙からの光とか意味深なこと言ってた >>303
一方で手ぶらで突撃し死体から銃をとれと壮絶な戦いをした国が うちのじいちゃんは戦後、満州からの引き上げ者で。
あの政界のドンと言われた笹川良一と競艇を立ち上げたんだって。
悪く言われる笹川さんだったけど。
競艇の真の目的は、海運、造船業の復興というより。
戦争で足を失った人にも競技に参加させてあげて。
生計をたてられるように、っていうのが目的だったらしい。
この人は本当は根は正義感が強く優しい人で。
戦争で負傷した人を助けたい一心で、権力者と戦ったんだと。
弱い人を助けるために強い奴を倒してこい、というのが口癖だったな。
ボートレースには、一般に知られていない深い歴史があるんだよ。 >>318
なんで悪い印象になっちゃったんだろうな >>225
電波妨害ようとか、レーダー撹乱用のチャフだろうね
婆ちゃんの畑には、ベル🔔の様な鈴よ様なものを落としていったらしい
憲兵が回収に来たらしい 爺さんが恩給貰ってたけど一切手をつけないで亡くなる前に○○○に寄付した・・・
まったくw >>214
海軍の特設哨戒艇か
海軍士官一名と25mm機銃一門、他漁船乗組員の構成らしいね 俺の地元は何もないド田舎で
寄付できる物何もないから神社の御神木を切って寄付しようって話になった。
その時俺のじいさんが「この戦争は絶対に勝てない。負けるから馬鹿な事するな」って猛反対した。
すると突然黒服の男達が現れて連行されたなんて事は全く無く「前線で兵隊さん達が今も必死に戦ってんだぞ!」って民衆から大バッシング受けて騒ぎになった。
その後じいさんは私服警官に尾行されてる事に気付いていたそうな。
数日後なんとその私服警官が普通に訪ねてきた。
じいさんは何の様かと出ていくと突然手錠をかけられ、なんて事は全く無く何か嫌がらせされたり絡まれたりしてないか尋ねられじいさんが「いいえ、特に無いです」と答えると帰っていった。
それ以降尾行も無かったそうな。
戦後は呑み友達から「おめーがやる気ださねーから負けたんだ〜ww」ってよくおちょくられてたらしい。 村で男がいなさすぎて、残った男性教師が相手しまくるみたいのないの? 最寄り駅の場所に米国の戦闘機が墜ちて腕とか散乱してたって >>325
男が村から消滅して捕虜収容所のドイツ人の種で存続したロシアの話なら知ってる。 >>146
戦争末期は米軍が空襲前に予告ビラ撒いてた
広島長崎も原爆投下予告ビラが撒かれたよ
原子爆弾がものすごい威力があるのでのを先生は知ってたんだね 父方の爺さんは海軍で掃海艇→隼鷹の乗組員だった。
対空砲の砲身が熱で真っ赤になったところに海水ぶっかける話とか、
砲弾の破片が背中に残った話を聞いたな。
破片は火葬後に出てきて遺骨と一緒に納骨したけど。
大叔父は陸軍でサイパン島の生き残り。
はとこが新婚旅行でサイパンに行った時には複雑な心境だったそうな。
同じ頃母方の爺さんはアメリカの日系人収容所で強制収容されてた。 父方も母方も、祖父母共に何も話を聞くことなく亡くなってしまったなぁ。
父方は終戦前に蔵ごと田舎に疎開したとか聞いたが、当時の話は結局聞けずじまい。
母方の方は、満州に居たとしか分からんかったが、亡くなる前に認知症で若い頃の記憶に
戻った時に突撃連呼してたから、どこかにいたんだろうなぁ…。 じいさんからこんな話聞いた。
少し離れたところにある迫撃砲かなんかの着弾した場所で、同じ場所に着弾する確率が少ないから大丈夫だって嫌いな上司がそこでたばこすってて、
嫌いだけど賢い奴は違うなって思い自分も吸おうと近づいてったら上司が吹き飛んだんだって。
隊のみんな爆笑 ■ 旧日本陸軍の朝鮮兵取り扱いマニュアル (朝鮮軍司令部1904〜1945)
一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭、体を叩いてはいけない。怨みを持って復讐する気質があり、脱走の原因となる。
一、清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、日本兵二名で一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。 ひいじい様が満鉄勤務だったらしいが、満鉄は言わずとしれた諜報機関でもあったそうで、何も話さず死んだっぽい。 >>146
投下を事前に知っていて逃げられた、っていう人は結構いるらしいな。
米国は情報を集めやすい所に日系人のスパイを入れてて、
広島大もそのひとつだったんだろうね。
知ってて逃げた、っていう人が余り表に出てこないのは
機密を破って教えてくれたスパイへの配慮と、自分だけ助かったっていう後ろめたさなんだろうな。 爺ちゃんが8年間シベリアで抑留されてた
決死隊に選ばれてソ連兵に突撃したが捕虜になり、その後は強制労働させられていた
労働がきつくて逃げ出す奴も居たけど捕まって見せしめにみんなの前で射殺されてたそうだ シナ住民は友好的だった
シナ兵は山賊行為でシナ住民から食料を奪ったり村を襲撃していたので警護していた 近所のお婆さんから聞いた話
戦争末期、戦艦大和艦長の有賀幸作が高級菓子折り持って挨拶に来た
もちろん当時はそんなこと知らない
子供心にビシっときめた海軍さんはさすがにかっこいいなぁと見ていたとか
村の名士だった父に後を頼むといったような話だったらしい
(有賀幸作の実家は金物問屋だったが跡取りがいなかった)
それからしばらくして風もないのに障子がガタガタと揺れた
「幸作、逝ったか・・・」と父が呟いたのが今でも記憶にあるという 名古屋の空襲で夜空が真っ赤になってるのが三重県から見えたとか
空一面がB-29に覆われてたとか、上空で飛行機雲が円弧描いて空中戦してるのが見えたとか
子供の頃はなんか嘘くさいな・・・と思いながら話聞いてたけど
今思うと、婆ちゃんが生きてたうちにもっと真剣に詳しく聞いておけばよかった(`;ω;´) あと俺の母方の曾祖母は戦時中に米俵200俵ぐらい国に寄付して感謝状と酒樽貰ったが酒樽は地元の連中がお祝いにやってきて勝手に全部飲んでしまった。
父方の祖母の兄は戦闘機の新エンジンを開発する仕事をしてたがある日その工場を的確に米軍機が集中攻撃して跡形も無く消し去っていった。
祖母は「あの時訪ねてきた外国人はきっとスパイだったんだ‥‥」って恨んでいた。
母方の祖母の叔父は特攻隊で亡くなった。
片道分の燃料なんて大嘘で特攻隊の燃料は満タンで故郷の上を旋回してから米艦隊に向かって行った訳だが
祖母の叔父が旋回してる時に丁度終戦になった。
皆必死に「戦争終わったぞー!」「行くなー!行くなー!」って叫んだけど激励と勘違いして終戦間際のオンボロ戦闘機でそのまま行ってしまって結局帰ってこなかった。
祖母は今でも「立派な人だった」「日本人は本当は強い」って言ってる。
TVで特攻隊の話になりそうな時は偉そうな出演者やナレーションが「無駄死に」とか「いくら命令だからってマトモな人は従わないですよね〜w」とか言うとヤバいから
直ぐにチャンネル変えるのが昔から我が家の暗黙のルール 自分が通ってた高校が野戦病院だった
婆ちゃんは当時小学生だったけど看護師の手伝いをしていた 中国で行軍してたら部隊の後ろに物売りがいっぱいついてきててかわいそうなのでウインナー買ったらこんなうまいものがあるのかと驚愕したってじっちゃがゆってた 空襲警報が鳴って火事が迫る中
もう逃げるのイヤになった寝ていたいから逃げないと言い張った伯父
仕方ないから寝かせておいて家族は避難
火が手前で止まって今も元気です 東京大空襲の時ばあちゃんと父ちゃん
防空壕やだからと荒川土手に布団ひいて
すごしたんだって じいさんが戦後中国から帰った時「りんごのうた」が流行ってたそうな。
わけのわからない歌詞をきいて日本人は気が狂ったと思ったと b29から爆弾が落とされたとき屋根の上にいた人が50m先の川までふっ飛ばされたと片腕失った婆さんが言ってた 良くも悪くもあの戦争のお陰で今の素晴らしい日本がある >>338
立場が逆だったらアメリカに捏造され、シベリア大虐殺で死亡者50万人だな 祖父は額を銃で撃たれたらしい
話聞くまでは気付いたこともなかったが、見ると痕というかエグレみたいなのが残ってた
弾丸が頭部で止まったんだったかな?奇跡的に助かって最近まで生きてたが 大勢の米兵に囲まれて破れかぶれで塹壕からスナイプしたら投げようとしてた手榴弾に当たって爆発
おまけに誘爆したのか謎の連続爆発が起こってそのすきに一目散で逃げたってのがひいじい様の武勇伝だったそうな
そんなボクも芋砂のてっちゃんの通り名でクラン内でも尊敬されてる
血は争えないもんだよな 知り合いのじいちゃんが南京大虐殺に加担した 捏造ではないと 被害者数に関しては?だが 今では発ガン性がある有毒物質として絶縁油として使われなくなったPCBだが 戦中戦後とか あれで天麩羅揚げて食ってたって親父が言ってた ウチの93歳の爺さんが予科練とかってのに行ってたらしい。
今でも盾とか送ってくるし、同窓会みたいなお知らせが来る。
仲間も減ってきて今回が最後の会になるかもしれない・・・みたいな知らせがもう20年くらい前から来てるわ。 近所に夫の暴力をふるってる家があった。
その夫が市内に仕事をしに行って原爆の被害で死んでしまった。
残された妻はその夫の弟と再婚したけど彼はは大人しい人で
平凡だけど穏やかな一生を送ったそうだ。 うちのじいちゃんも満州に行ってた
班長たかなんかやってたらしくて部下がミスして責任者だからと上官にスコップで酷く叩かれたらしい
置いてかれそうになった人を担いで助けた事も
その人は戦後たびたびじいちゃんを訪ねて来てたみたい
軍の余りもの理不尽なやり方を許せなくて勲章も恩給も受け取り拒否してた 日中戦争に従軍したウチの爺さん曰く、
某小隊のお偉いさんが部隊に突撃の号令
かけたんだけど、散り方が汚いということ
でやり直しを命じたそうな。
結果、背後から銃弾を浴びせられるかたち
となり、屍の山を築いたそうだ。 終戦後、朝鮮半島から引き揚げる日本人女性を子どもから年寄りまで片っ端から朝鮮人が強姦した そういえば ウチの親父も満州生まれ じっちゃんが満州に行ってお菓子屋さんをやってた時に生まれたが 間も無く戦局が悪くなって一歳か二歳の時に引き上げて小倉で暫く暮らしてた居たので 小倉の天気が悪くなく原爆投下されてたら 俺は今こうして生きてないと思う
その代わりに長崎で生まれるはずだった人が生きて居ないのだと考えると居た堪らない気持ちになったりする 当時、小学生の母は配給であたった新品の靴を神棚に祀っていた、とてもうれしかったんだそうだ
空襲で実家は焼けた、母曰く靴が焼けた方がショックだったねー、とても言えなかったけど、言えなかったけど、まあ、家もなかったけどねだってさ 両親とも昭和ヒトケタで東京生まれ
母曰く大空襲の時は中野で本が読める程明るかったって。
翌々日だかに焼け跡を父親と見に行ったらまだ遺体が道端にゴロゴロあったと。
弟を妊娠中だった婆ちゃんは寿司が食べたくなって
軍人さん専用の寿司屋へ食べに一緒につれてかれたとか
じいちゃんが大手百貨店の重役だったからいろんなコネがあったみたい。
その頃、縁故疎開の父親は機銃掃射で米パイロットのおもちゃになってた。
スローモーション体験だったって。
戦後すぐ焼け野はらに立派な家を建てたじいちゃん
庭に米兵とパンパンがいちゃこらヤりに来たのを一喝
米軍に立ち入り禁止の英語の立札を立てさせた。
一方父親は農地解放で疎開していた本家が落ちぶれたが
婆ちゃんは英語が話せたので色々便利だったとか。
配給のチーズなんかも日本人は石鹸みたいだって食べられなくて
食べ方知ってる婆ちゃんがかき集めていっぱい食べたらしい。 中学時代の 数学の先生から
聞いた話
当時 先生は ハルピン(満州)に
いたらしく
戦争中で 多くの人が 死んで
そのまま 土葬にしてたみたい。
そしたら 埋めた
幾つもの 墓の 土の中から
手が ボン ボンって 出てきたのを
見たと
言ってた。 俺のじいちゃん(おかんの父ちゃん)志那戦線に調理兵として参戦。
日本兵が面白がって「この人は善良なり」って首から看板を掛けた現地人を、刀で斬ったって言ってたw じいちゃんの兄貴が、田舎百姓の小倅なんだが、何故か終戦時に31歳で歩兵大尉(死んで少佐)だった。 身内のことが小説になったり、ドラマや映画になってる
だが子孫は、それを読んだり見たりしてない
なんか別世界で起きたこととしか
感じられない ハクソーリッジ見とけ
日本兵が火炎放射器で焼かれまくりだよ 爺さん戦中は鉄道技師として台湾にいた
産まれ故郷の長崎に引き揚げて来たけど実家はおろか家族の行方すら知れず
途方に暮れて母方の実家のある広島へ行ったら家どころか街そのものが消滅
日本は完全に灰と化したって思ったそうな ジャングルで戦っていたらしい。
ところが、突然見えない敵が現れて次々仲間を殺していった。
その見えない敵を倒すべく罠を仕掛けたりしてようやく追い詰めた。敵は緑の血を流していた。
戦争怖い 東京湾から飛んで来て爆撃するから逃げる時間がないって聞いた 照準器に映り込む逃げ惑うジャプの姿は最高だったぜ!自分が神になった気分がしたよ 戦時中、うちのばあちゃんに一目惚れした兵隊さんが、終戦して何年も経ってからばあちゃんを訪ねてきた
当時のばあちゃん凄く綺麗で忘れられなくて会いにきたと兵隊さんが話してたって母ちゃんから聞いた
土地柄(沖縄)、学校でもどこでも戦時中の悲惨な話しか聞いたことのない自分にとっては結構衝撃的な話だった 戦中戦後は大変苦労したみたいな話をよくされるけど何なの?
後になってガタガタ言うなら止めたらよかったじゃん戦争 戦後から高度経済成長バブルとか、そんときのツケが回ってきてんじゃん?それ払いきってからデカい顔するべきじゃね?逃げ切り世代はマジうんこ 身内ではないが職場にいたシベリア抑留帰還者から聞いたおれが持つ唯一の一次情報
「慰安婦はかわいそうな人たちだった。しっかりと保証してあげなければならない」
少女をさらって性奴隷にしたというのは朝日の捏造であるが
かといって彼女たちが戦地でしっかりと商売をしていたというわけでもない
帰りたくても帰れない過酷な状況に隷属されていたのは事実である
なので右派は以上の事実を踏まえた上で中国の奴隷と化した糞朝日を攻撃し殲滅させなければならない 爺ちゃんが戦争で朝鮮に行って、倒した敵の耳を削いで日本に送ってたらしい じいさんが南方に行った時に前後の船はやられたが自分の乗った船は大丈夫だった。マンゴーばかり食べてたので今は見るのも嫌だという。 婆さんが戦後疎開先から東京に戻ったら家は空襲で無くなってて焼け跡に朝鮮人が小屋を建てて勝手に住んでいたそうだ
警察に届けたら「私らにもあの人たちはどうにもできないんですよ」って言われたって 親父が大学病院に勤務してたとき戦闘機が病院にやってきて機銃掃射してきたので驚いたようだ。普通は病院には攻撃しないからな。 実家の傍にぽつんと地元で特攻隊に行った人達の簡素な慰霊碑があるよ
夏になると村で慰霊する ここの話とか呟き、まとめたいね
消えてしまうのもったいない >>385
まるで、今は893に軟禁されて性奴隷にさせられてる女は居ないとでも言わんばかりの偏向だな
全世界、性奴隷だらけやで 今も全世界で
・戦闘による、一般人の虐殺、略奪、強姦
・紛争による大量の性奴隷(村ごと奴隷とか普通)
・臓器売買の横行による人体の商品化
年間何千万人も被害者がいるけど、誰も助けないでwww 父方のじいちゃんの兄貴が零戦乗りで写真まであった
高知の田舎の農夫が勲章までもらってたなんて全く実感わかんかったな
一方母方のじいちゃんは戦後大人の言うことが180度変わり何をしていいか分からずニートになったって言ってた 昔は酷かった・・・・・
みたいな事を言えば今も酷い、いや更に酷いという現実を無い事に出来るとでも思ってんのか 日本兵がジープでやって来て当時少女だった婆ちゃんをドラム缶に詰めてヘリで無理やり連れ去って行った じいちゃんは出兵したが
いかにして逃げるかしか考えてなかったそうだ じいちゃんは満州から生きて帰った人だが、当時素行の悪い上官達(今で言うDQN)が女買う金が勿体無いからと朝鮮の女性を集団レイプを繰り返していたと顔真っ赤にしながら怒って話をしていた。 父方のじいちゃんは満州で測量技師やってて、ソ連侵攻前に帰国、母方のじいちゃんは海軍の通信兵でずっと内地にいた
終戦時にどっかの士官が反乱するからって兵隊集めにきたけど、賛同者が少なくて帰ってたみたい 祖父は生前の一時期、空母加賀の乗組員だった。当時の写真と書状が残っている。
ただ、ミッドウェー海戦の時点では乗組員ではなくなっていたので命拾いした。もし、参加していたら機関科(死亡率が高いらしい)だったので確実に戦死し、俺はもちろん親父も生まれなかっだろう。 時々最前線で戦って戦死した人で「後ろから弾が飛んで来た」と言われた人が居たそうだ
つまり仲間から… じいちゃんは満州で物資の補給とか運搬やってたって言ってたな 満州に行ってた爺さん
虫歯で歯を何本か抜かれて帰ってきたらしい
タバコが苦手で支給品を上官にあげてたら、お返しにこれまた支給品のコンペイトウ?を大量に貰ったそうな
大の甘党だった爺さんが、常に食べ続けていたものだからボロボロ
ちなみに爺さんの部隊は終戦までほとんど戦闘が無くて、唯一の負傷者?が虫歯患者だったとか >>407
何で開き直ってるんだよ(笑)亡くなった英霊の方々に申し訳ない気持ち無いのかよ?カスかカスなのか? うちのじーちゃんはロシア軍にとっ捕まって10年間日本に帰って来れなかった
じーちゃんの家には新聞で誤報の死亡者兵士の名前があった?ので日本の家ではお通夜モードだったらしい
しかしじーちゃんはシベリア収容所ではなく、ロシア、ソビエト陸軍の上官の子供のベビーシッターと馬屋番として働いていたとか
上官の家の料理人はごはん食え食えと出してくれたとか
日本に帰ってきた時に出征時と比べて太って帰ってききた
ロシア語がベラベラで家の中でいつもロシア、ソビエトの話をしていたので父親も私もロシアに興味がある
でもシベリア収容所へ送られた人々は想像を絶する扱いを受けて亡くなった兵士仲間が多々いた 鉄砲を持ってて持たせてもらったことあるけど、めっちゃ重いのな
ヤクザの刀も長いのを持たせてもらったけど、あれも鞘に収めるときに手を切りそうで
ヒヤヒヤしたw 父方のは産まれる前に亡くなってたし母方のも5歳くらいの時に亡くなったから薬指と小指が無かった以外にほとんど知らん 当時の軍隊は厳しくしょっちゅう持ち物検査があったそう…
それで一つでも欠品があると下士官に棒でボコボコに殴られたそうだ
それなもんでトイレに入ってる最中に上から帽子奪われたり
欠品がある人間に狙われて強奪される事も多かった
また何か軽微な違反とかあると下士官に棒でボコボコに殴られた
終いには殴られて腫上ってるとこにさらに殴られて死んだ人も居たらしい >>130
宮崎も飛行場あったりして結構な軍事拠点だったんだよな
日南の王子製紙には米軍基地の機銃掃射の弾痕が残った建物があったな
俺の地元の都城は富士重工の工場があって、今でもネットでその工場が銃撃にあう動画が見れる 母方の祖父は戦車乗りで父方の祖父は鉄道屋で従軍はしてなかったくらいしか知らん 空襲で不発の焼夷弾から燃料抜き取って風呂沸かしたり生活エネルギーにしてたじーちゃん
戦争リサイクルってエコなのね >>174
親戚のおじさんが朝鮮に植林を教えに行った人なんだけど、
「奴らは馬鹿だから植林してもすぐ切って教えた植林も忘れてそのままにしおった、だから今でも山は禿山のままだろ?」と言っていた
今から30年くらい前に聞いた話だけどね 爺様が俺の顔を見るたびに戦争の話をしてくれた
大叔母も話をしてくれた、空襲の際に妹抱えて逃げたとか
痩せすぎてて戦争思い出したらしい >>199
よく知る人なら普通は逆ですよねえ
白洲次郎はケンブリッジ出身で、GHQの将校を馬鹿にしたって話があるし うちの親父は大正8年産まれで戦争では東南アジアを南下してたらしい
よく行きて帰ってこれたって感じだな
俺が物心つく前に亡くなってしまったので戦争の事は何も聞けなかったなぁ
で、ちょっと前に亡くなった母親の遺品整理してたら親父の亡くなった直後の戸籍謄本が出てきてバツ3だった事を知ったwバツ1だと思ってたのに ビルマに行ったじいちゃんの話だと、日本降伏の前後で日本人兵士は捕虜になっても殺されると噂が流れて逃げたりした人がいたらしい
もう殺すなら頃せー…みたいな気分で捕虜になったら戦後2〜3年で帰国できたそうな。なお、家族には戦死したと思われ手織り、貯めてたグンピョウ?も紙になって踏んだり蹴ったりだった模様 爺ちゃんが軍医で中国に行ってたが、詳しい話を聞けないまま死んじまった 大陸に行ってた爺さんの部隊は特に戦闘に遭わず任務をこなしていた
ある日戦争が終わったとの知らせが来てやれやれとは思ったらしい
但し自分たちが順調だっただけに敗戦と聞いてまったく信じられなかったと
母方の爺さんは話を総合すると日米開戦前に戦艦日向乗組みだったが
戦時中は陸で内勤でそのまま終戦
過酷な戦場とも靖国神社とも無縁 親父がフィリピンでP38の機銃掃射を受けてめちゃ怖かったって言ってた。 寺へ墓参りに行くと、隣の墓に「比島レイテ島ニテ戦死ス」と彫ってある。
ちなみに墓に入ってるウチの爺さんが醤油点眼で徴兵忌避した非国民だったのは内緒な じいちゃんのスネに弾痕が残ってるのを見せてもらってたな〜 ウチの爺ちゃんは大砲の弾を運ぶ役目だった
中国人捕虜の逃亡を見逃してあげたりしたそうだ 【韓国】KBS『全国のど自慢』、光復節に東京で開催(朝鮮日報)07/01
KBS第1テレビの『全国のど自慢』が光復(クァンボク、日本の植民地支配から解放された日)
節の8月15日、日本・東京で開催される。
光復60周年を記念して開催される今回の『全国のど自慢』は、在日同胞を対象にしたもので、
東京・日比谷公園内の日比谷公会堂で行われる。司会はソン・ヘが担当する。
祝賀舞台にはソン・デグァン、ソル・ウンド、テ・ジナ、ヒョン・スク、イ・ジャヨン、チャン・ユンジョ
ン、チェ・ユナらが出演し、在日同胞の出演者たちとかくし芸やトークを楽しむ時間も設ける。
制作陣は「公演の録画以外にも、日本で成功を収めた在日同胞たちの生活の模様をカメラに
収録し放送する予定」とした。『全国のど自慢』東京公演は秋夕(チュソク、韓国の旧盆)の連休中
の9月19日、KBS第1テレビで2時間に渡って放送される。
http://www.chosunonline.com/article/20050701000027
糞チョン、終戦記念日にわざわざ日本にやってきてのど自慢大会かよ。
ふざけるにも程がある。マジ、張り倒したくなってくるわ。
同じ敷地内の日比谷公会堂で日本人が慰霊集会してるのに...
そもそも、朝鮮が日本から独立したのはの8月15日じゃねーだろがっ! 母方の祖母の弟さんがペリリュー島でタコツボ掘ってさあ自決かってところに終戦の知らせが届いて生きて帰って来れたことや
その祖母が空襲で燃えさかる竹林の中でもう万事休すかってところで背嚢背負った兵隊さん見つけて後を追ってなんとか抜け出せたこととか、子供の頃何度か聞かされたな 親父が子供の頃よく遊んでいた朝鮮人の親子が終戦後はメチャクチャ怖く豹変して近づく事も出来なかったらしい。 銃を捨てて「アイゴー!」って言いながら逃げ回っていた奴がいたらしい 俺のじいさんは満州にいた頃、ソ連の戦闘機から射撃された
空から機銃掃射を受けた時は絶対車両の下に隠れてはいけないらしい 絶対死ぬらしい
引き上げの時婆ちゃんは強姦や乱暴されないよう頭を坊主にして顔中に炭ぬってわざと汚ならしくしたらしい。
そして赤ん坊だった父を抱えて帰国したらしい。 爺ちゃんの話 中国に送られた爺ちゃんは大きな川を歩いて渡らなきゃ行けない事があって兵隊服と銃を頭の上に持ち上げ前の隊員と腰をロープでつなぎ夜の川を渡ったそうな。
何とか渡り終えた爺ちゃんが川から上がると体中に100匹を超えるヒルが吸い付いていてその全部がパンパンに血を吸って膨れ上がっていたそうな。それを手で払うと噛み付いた後全てから血が噴き出してみんなが血まみれになって大爆笑だったらしい。
そしてロープで繋がっていたはずの仲間が数人消えてたってさ。 上官に殴られそうになると「天皇陛下が!」って言葉をいうと直立不動になるから、たまに使ってたと、うちの親父の言 ばあちゃんが人間魚雷回天を作ってた。工場から離れた便所に行って帰ってきたら爆弾落とされててみんな死んでたって。
かえるみたいにひっくり返って死んでたらしくそのマネを昔めっちゃしてたらしい。
便所行ってて良かったを連発。 祖父が水木しげると同じ隊で水木しげるのせいで一緒にボコボコにされて、水木しげると一緒に隊とはぐれて見捨てられた話はしてたな。 じいちゃんはシベリア、満洲、樺太と行ってきたらしい。
だからか、おれは樺太千島は絶対に日本領だと思ってる。 じいちゃんは南方に派兵されてバナナばっか食っててバナナ嫌いになって帰ってきた じいちゃんが満州引き上げの人
処刑見たとか言ってる じいちゃんは二度と南方には行きたくないと言っていたらしい 焼夷弾は手を広げたくらいの長さでそれがボンボン空から降ってきて一軒の家に何発も落ちてあっというまに火の海
おばあちゃんはそれをまたいで逃げたそうな
死体も跨いで逃げたそうな
お父さんと一緒にいたけどそんな時は親も子もなく自分の事しか考えられなかったそうな おじさんは一列に並んで歩いていてさっきまで話していた人が爆弾で死んだ 小学生の時、登校途中にある酒屋の前で片腕のないお爺さんによく出くわした
ある日何を思ったか友達と一緒に「何で腕がないの?」と聞いてしまった
お爺さんは全く怒ることなく戦争で失ったことを詳しく教えてくれた
目の前に大砲が着弾したこと、仲間が大勢死んだこと、助かったと思ったが気がついたら腕が無かったこと
最後に「だから戦争はいけないんだよ」と語り去っていった
後で母親に話したらこっぴどく叱られたけど、どんな戦争話よりも心に深く残っている そういえば納屋に戦争で使ったヘルメットが置いてあったな
取っておけば良かった ガチ田舎だと普通に食い物あったしそんなに変わらない生活だったらしいな
あ、戦争終わったん?って感じだたらしいね 父方も母方も俺が生まれた時には爺さんいなかったから聞く相手がいない 爺さんのいとこがはだしのげんみたいな体験をした。
原爆が投下された時、たまたま壁の横にいて同級生と話をしてたら、
ピカッと光って気絶した。目が覚めると同級生は黒焦げの死体になってたが、
いとこは壁のお陰で無傷で助かって先日90歳で亡くなった。 >「筆者らはいわゆる盟邦の記者…両国の戦時プロパガンダ政策の垣根からは一歩も外に出られない、いわば…一個の兵隊にすぎなかった」
これが朝日新聞なんだよな
煽ったのお前らだろって 南方戦線では、目の前でイギリス軍の爆弾が炸裂した(母方祖父)
空襲後、代官山から広尾までスッキリ見渡せた(父方祖母) 死んだじいちゃんは若い頃に木で戦闘機を造っては滑走路に並べる仕事していたらしい おじさんは神風特攻隊だった
特攻する前に終戦したので命拾いしたそうな 彩雲で偵察とかしてたらしい
拳銃が暴発して親指のが削れた以外怪我なかったらしい >>459
元特攻隊で死にかけた奴って
前世が武士くらい一杯いるよね
ホントなのかな? 昔営業で行った先のジジイが逃げる中国人を撃ち殺して楽しかったとかケタケタ笑って話してたサイコパス ツイッターで漁ればたくさん出てくるぞ
あいつらの言う事真に受けてたら、大和の乗員数が十万人くらいになりそうだが >>462
そのおじさんは現世では神主だったけど
前世のことは忘れちまったらしい バキュームカーでうんこ集めに行くお家の大正生まれのばーちゃんは
ここの浜でB29が上空から機関銃撃って二人亡くなったと言っていたな
子育てするにも男手がないから食うの大変だったとさ 母方の爺さんが陸軍のカメラマンで
ビルマ戦線にいたらしい
小さいころ戦闘機の写真とか見せてもらったことがある
貴重な写真があるんじゃないかと思って
最近聞いてみたら、爺さんが亡くなった時に処分したそうだ
非常に残念 >>411
なんでじいさんだけそのような経緯に至ったのか知りたい 俺が12の時叔父が自殺したんだが
葬式で軍隊仲間のじいさん達が沢山泣きながら敬礼してた
後から聞いたら、実は特攻隊の生き残りで終戦以来ずっとわだかまりを抱えてて、思い悩んだ末に自ら命を絶ったらしいとの事 >>451
じいちゃんの側で仲間が叫んで倒れ頭が!頭が!てバタバタ
慌ててヘルメットとったら銃弾が内側回って出てった跡
もちろん頭側にも少し線がついてたけど助かったらしいわ
それより人生で3回死にかけたらしいけど戦時中は1回だけであとの2回は戦後
ほんと現代は平和でありがたいよ >>328
デタラメ書くな
広島でも長崎でも原爆投下の予告ビラなど撒かれていない
戦後、そういう予告ビラを見たと証言した人が何人か現れたが
誰も現物を持っておらず、いずれの証言も内容があいまいだったため
デマということで決着した
そもそも原爆をいつどこに落とすかはアメリカ軍内部でも機密事項だった
なんで敵国の日本にわざわざビラを撒いて教える必要があるのか 空襲で家がすべて燃えてしまったから、昔のものが全然残ってなくて、
うちのご先祖様は寺子屋の先生だったと言っても誰も信じてくれなくなった。(´;ω;`) ばあちゃんは村山の工場でミサイル作り、じいちゃんは片足なくして帰って来ました
じいちゃんは早稲田卒なんだけどそれを理由に上官に虐められたって 満州へ送られ、度胸を付ける為と称して
上官に捕虜を銃剣で突き殺させられた 嘘かほんとか解らんが近所の爺は気にくわない上官を戦乱のどさくによく撃ち殺したと言ってたわ。酒が入るといつもその話してたな。 端島から見た長崎の原爆は、大きい花火のごたったと、今年78のじいちゃんが言うとりました。 粗粗とレス読むと、戦争に負けてロクでもない軍隊消滅したのはよかったと思えてきた 北海道の留萌の曾々ばぁちゃんが大正生まれ5年前に無くなってしまったが
ニシン漁が盛んで留萌は当時賑わってた
定期的に来る米の輸送船が飛行機の銃撃にあって毎月血のついた米を何度も洗ってたって話を聞かされたぐらいだなぁ
あとは三船事件なんかも有名かな、終戦間際のソ連までは比較的平和だったみたい 結構な先まで行軍
兵士「食料が不足しております!」
上官「移動しながら現地ちょうたぁ〜つ!」
行軍しながら略奪しようにも、前の奴らが既に略奪済みで取るものなし
仲間たくさん死亡 日本併合時の朝鮮で貿易商やってたご先祖様は朝鮮人に裏切られ全財産を
失った 父方のじいちゃん、ばあちゃんは戦争の事を話そうとせんかった
口癖は「朝鮮人とは仲良くするな、信用するな」 靖国神社 みたままつり
夕方頃から女子大生が浴衣姿で参拝に来る らしいよ >>451
うちにも支那事変で戦死した婆ちゃんの1番上の兄さんの鉄兜がある
重機関銃の射手だったらしいが、戦闘が始まると真っ先に集中攻撃受けたらしい。
弾込め役の戦友の方が、せめてもの遺品として復員の時に持ち帰ってくれたそうだ。
鉄兜にはぽっかり穴が空いていて、中見ると脳味噌と血のシミの痕が残ってた。
仏壇に供えてあるので、実家帰ったらまたちゃんと見てみようと思う じーちゃん、シベリアに抑留されてたが、無事帰国して92まで生きてたわ >>264
ネトウヨっていつも糞マジだよな
顔真っ赤にしてバカじゃねーの?w 俺の爺ちゃん満州で喫茶店やってた。
一人で喫茶店を切り盛りしてたんだけど、赤軍が来るから引き揚げるっていう日の前日に陸軍の軍曹が2〜3人程の部下を連れてきて、爺ちゃんをレイプしにきたって。じいちゃん九二式重機関銃突き付けられて無理やりレイプされたんだって。
金歯を光らせてにやにや笑いながら自分を犯した兵隊たちの顔は一生忘れないって涙を流して話してくれた。 8月の12日に市役所勤務してる義弟から「二、三日後に終わる らしい」って聞いて診察所の新築工事を再開した って聞いた
地味に 情報広まってた >>28
特高警察は戦後に法務省公安調査庁て
名前に変わって復活したけどな 婆ちゃんはアメリカと日本に対して憎悪感情はかなりあったみたいだけど
爺ちゃんはどっちも憎んでいなかったし、むしろアメリカ軍に捕虜に取られた事を青春時代の様に語っていたなぁ 俺の爺さんは徴兵検査受けたけど偏平足で甲種合格にならなくて
工場で銀河のサスを作ってたと言ってたな。
偏平足だと長距離歩けないから兵隊に向かないという事だったらしい。
太平洋戦争開戦時で34歳だったってのもあるんだろうけど。 東京から学童疎開している岩手まで戦闘機が来て撃ってくるので
落ちろー落ちろーと子供たちはみんなで叫んでいたそうな
当時は10才くらいの子供たちの話し
戦争が終わってみんなで東京に戻っても大空襲で一家全滅の子もいて
可哀想だったなぁって うちの爺さん
大正産まれの175cmなんだが
当時の基準だと背が高過ぎるとして徴兵検査不合格で大喜び
しかし戦争激化で緊急招集され海軍へ いつもの
『私がホテル勤めをしていた頃の話。
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。』 祖父の硫黄島戦闘体験記
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
↑
これ読んでみ。
普通の徴兵された兵隊の日記なんだけど戦前の日本人はすごいとつくづく思う。
愛国心に燃えて気合が入ってて死ぬ事を恐れてない、とか力んだ感じじゃなくて
淡々と全てを受け入れて、死ぬ事もまあ戦争なんだから仕方ない、みたいに書いている。
地獄のような状況下の体験なのにただの旅行記みたいで凄惨な話なのにユーモラスですらある。 爺さんが戦地で亡くなった知らせが婆さんの所に3回くらい届いたらしい
で、結局生きててヒョッコリ帰ってきたらしいんだけど
そん時、両足とも左足の靴を履いて
って話を婆さんが何度も何度もするんだけど何度聞いてもほっこりする なぜ海軍なのか、別に横須賀に住んでたわけでもなく、泳ぎが達者なわけでもない
むしろ肉弾戦の陸軍の方が似合ってる気もするんだか謎である
謎は謎として、意気揚々ならぬ意気消沈して海の男になったものの
やはり船はせまく長身の祖父には無理がある
そりゃ戦艦や空母くらすなら多少デカくても乗れるだろうが
新兵さんなんかお呼びじゃない 仕事先の爺様が特攻の生き残りだった。
もともと2人乗りの機体に乗ってたらしく、戦場に行っても一発の銃弾を浴びる事も無かったそうで、
上官が「お前は運を持ってる」と言って同乗したがったそうな。
そんな爺様も特攻に志願せざるを得ず出撃する事になるが、機体不良で結局出る事はなかった。
「生きて帰れて良かったですね」と言うと、「仲間は皆死んじゃったけどな」と寂しそうに答えられた。
お孫さんもいるのだが、戦争の話しに興味もなく語る事は滅多にないんだと。
俺に聞いてもらったのが嬉しかったのか、その後の野良仕事の時は海軍?の帽子被っておられたわ。
元軍人には年金が貰えるらしく、それを貯めては南から慰霊の旅をしているのだとも。
前回はサイパン。次の沖縄に行くか死ぬのが先かどっちかのと言いながら笑っておられたのを覚えてる。
そんな年寄りに浄水器や太陽温水器を売り付けたのを少し良心が痛んでいる。 おばあちゃんが神戸の空襲に二回焼け出された
周りの家が焼けて自分ちだけ残っていた時は申し訳ないような気持ちで、空襲で焼けた時は親が「さっぱりしました」とか言ってたらしい
学校では生徒がサツマイモとか作らされてたらしい
配給しかない人は本当にひもじい思いをしたそうです
空襲の機銃掃射しているアメリカ兵と目があって怖かったと言っていました
当たりはしなかったけど、破片が肩に入って死ぬまで体内にありました そんなわけで横須賀基地の陸上勤務になった
ノンビリしたまま数年が経過
その間にも戦局は激化し、ついにノンビリ爺さんも戦地に送られることが決定した
夜中に叩き起こされ、小船に乗って駆逐艦に乗り込み刹那
突如来襲した米軍機による攻撃で屍累々
爺さんも肩に被弾(貫通銃創)し病院へ
ベッドで寝てる間に戦争終結
こんな感じ 司馬遼太郎は学徒動員で徴兵されて満州送り
山田風太郎は徴兵検査に不合格で兵隊経験はない
この違いが両者の作風の違いにも顕れてる気がする 7月盆だぜ!
まぁ、おまえら、少し気分転換しろ!
お山のオカルト置いとく。
ちょっと気色悪いけど・・・
★山霧の巻くとき(山岳ホラー)★
http://slib.net/71604
上松煌 作
(プロフィール) http://slib.net/a/21610/
最後のほう、グロ注意?!! 爺ちゃんが満州から持ち帰った実弾数発があるけど、あれって不法所持は犯罪なんだっけ そういや満州で愛新覚羅溥儀を間近で見たことがあるとか言ってたな >>503
2ちゃんには他人の不幸を喜ぶ奴等が多いが、普段そういうのを見ても「ふ〜ん」としか思わない
が、お前は鬼だと思うwww 学校の校門のとこに巻き藁があって「チャーチル」「ルーズベルト」って書かれた紙が貼ってあったらしい
っで、置いてある竹槍で一突きしてから皆登校してたそうだ
なんか北朝鮮や韓国っぽくてアホみたいだけど、そうやって子供に敵愾心を植え付けてたんだろうな うちの父ちゃんは満州生まれで日本に帰ってくる船の中で双子の弟が栄養失調で亡くなった 曾祖父さんが、天皇陛下の御真影を死に物狂いで守ったって言ってたなー
おかげで手がなくなったって指のない手を見せて笑いながら話してた 東京大空襲の際に、真っ暗な防空壕のなかで
お婆ちゃんが若い兵隊さんと愛を交換したら
しい。相手は若いオナゴだと勘違いしたらし
い。お婆ちゃんは冥土へのいい土産になった
と喜んでた。 近所の爺ちゃんがアメリカ本土上陸作戦の特殊部隊に選抜されて、訓練中に終戦を迎えたんだが
今年で91か92になるのに、ちょっと前に畑を手押し耕運機で耕してたわ
あれ、制御するのに結構力がいるんだが、やっぱ特殊部隊に選抜されるようなエリートは体の造りが違うんだろな 旧海軍の双眼鏡あるな
なんか革製のハンゴウみたいな形したケースに入ってる ひまわり畑に日傘さして居たら空襲
傘を置いて逃げたそうだか、その傘は蜂の巣にされたとさ
祖母の話 >>26
ほんこれ
沈黙は金とか海外じゃ通用しねーよ >>493
はい、捏造
米軍に投降した日本兵わ6000〜20000程居たが
虐殺されずに帰還出来たのわたった230人 >>472
この原爆予告のビラのデマって出どころははっきりしないけど
生き残った人が生き残ってしまった罪悪感からすがりつくように口にするんだってさ
初めは誰かから聞いた話として、そのうち自分の体験談として話し始める
なぜ生き残ったのか、なぜ死んでしまったのかって葛藤が
ありもしないビラで皆助かったはずだという願望にたどり着くらしい >>508 だし旧くなると火薬が危ないから全部掻き出しといた方が良い かーちゃんは学校の帰りにアメリカの飛行機が飛んできて田んぼの畦に隠れたって言ってたな うっとこの爺様
沈みかけた空母から泳いで逃げてきたって言ってたから
乗ってた空母の名前聞いたら
「りゅうじょう」
って一言だけ
は?って思って調べてみても空母系には名前載ってなくて
爺様嘘ついたのかな?と訝しげに思ってたら
「龍驤」
だった
軽空母だったのね
かんコレ経由で戦績調べたらかなり修羅場くぐってて
爺様よくまぁ生きて帰ってこれたなぁと >>474 先に行った連中は農家の四男〜九男で泥濘の中を牛馬と一緒に野砲を尾根まで推し揚げて挙句に餓死とか疫死とかだからね
行き詰ってから大卒が回天兵器も持たずに手ぶらでのこのこ行ったら殴られるわそら >>522
護衛の戦闘機が機銃でちゃんと人狙って狙撃するんだよな
まさにマンハント うちのじいちゃん戊辰戦争で
福島略奪して楽しかったって 応仁の乱の時はいつまでも戦争が続いて苦労したらしい。 死んだ親父が昭和20年4月入隊の最期の予科練。
教官が空母飛竜艦載機のパイロットでミッドウェー海戦の数少ない生き残り。
教官はアメリカの物量には絶対に叶わない、お前らは命を大切に戦後の日本を作れっていわれたと。 実際に日本刀使って軍事訓練やらされたと言ってた。
孟宗竹がスパッと切れたらしいな。 義理の大叔父はナチスに強制収容所に入れられてたわ
戦後製薬会社興して成功した
ユダヤ人だけど シベリア帰りの爺さん(非・血縁)がおりまして。
飯食わせてくれる時には殺人的な量を食わせてくれます。
いわく「いざというとき、どれだけ食えるかが大切だ」とのことで。
現代日本で通用するかはさておき、どんな地獄を見てきたのかなと。 うちのじいさん山口の某所で回天作ってたらしい
そこでは工員と兵隊が同じ釜の飯食ってたわけで
じいさん友達になった兵隊にこんなもん載せて殺すの嫌だったらしく
何度か整備不良で出撃できないようにしたのが
バレて憲兵にボコられて右目と左耳潰された
その後長崎に移動させられて原爆で半身ケロイドくらった
俺が知ってるじいさんは縁側でちんぽ出して笑ってた爺さんだが
この話する時は真面目だった ジャワに着任したとき下士官食堂で偉そうにしてやろうと思ってふんぞり返ってたら
間違えて士官食堂でふんぞり返ってしまい上官にどつかれたらしい
軍医だったので後でその上官が運ばれてきたとき大腿部の一番痛いところに注射打ったとか 戦後の米軍だらけだった横浜市中区で飲み屋作ったらすごい儲かって
最終的に10件くらい店持ってたって聞いたな
一軒をかわいがってた女性従業員に任せたら100万単位で横領されたとも言ってた 大叔父が重巡高雄に乗っており、ガチの体験本まで出版していた。
俺が中学生のころまではまだ存命だったから、お話をしたかったのになあ・・・ >>519
お前よく馬鹿って言われるだろ?
婆ちゃんも爺ちゃんも普通に民間人なんだが?
沖縄戦当時は普通に捕虜って使っていたからな ぱぱんが宮崎疎開中あぜ道歩いてたら戦闘機が来て多分いたずらで機銃掃射されたって言ってた
魚も野菜も食べ放題で特に苦労した覚えはないけどそれだけ印象深いって
メジロ捕まえたとかトンボ採ったとかアユ取ったとかそんな話しかしない
ままんは東京のお嬢様で土地接収されてバカ親戚もいてじーさまは戦死だしえらい苦労したって言ってた
ばーさまは戦死報告の電報を一字一句きっちり暗記してた
居候が沢山いて食事の支度を手伝うだけで毎日大変、
特に揚げ物は作っただけでもう食べる元気無かったつって今も自宅では揚げ物ほとんどしない 俺は、グラマンの機銃掃射で撃ち殺された。
河原で遊んでいた俺は機銃掃射でずたずたにされ、駆けつけた兄が抱き上げると首がもげてしまった。
血の涙を流し復讐を誓った兄は予科練に志願した。
成績はいまいちらしかったが、面接で志願理由を問われ「○○(俺の名)を殺した憎き鬼畜米英を皆殺しにすることです」
絶叫し採用された。そして予科練の猛訓練で鍛え上げられた。
しかし爆装離陸訓練のときに、引きおこしを早くしてしまい、離陸に失敗、瀕死の重傷を負い終戦を迎える。
戦後も周りの人間が資本主義、米帝万歳に手のひらを返す中、徹底した反米、共産主義者として公安の監視下に入り、やがて事件を起こし逮捕され、配偶者も子も得られないまま牢獄で孤独な死を迎えた。 海兵74期で戦艦大和にちょっとだけ乗った
すぐ降ろされちゃったけど 電車に乗ってた時に隣に座っていた友達が機銃で死んだそうな。
それを伝えてくれたババアは曾孫まで見て昨年、我々子孫一同に見守られながら100歳手前で死んだ。
どこでどう命の抽選が起こるかわからんもんだ。
ババア自身は勿論、その後に生まれてくる予定だった子孫まで。
昨年のババアの死を機会に、親父になった自分の命についても改めて色々考えるようになった。
大人になってもババアから学習させられるってダサイこと限りなし(笑)
あれ?おかしいな目から汗が うちのじいさんも海軍に志願兵で行ったが検査で落とされた本人は包茎が原因だと言ってたが・・・婆さん曰く目が問題あったらしい >>536
小学生の頃になくなった大叔父?が海軍で大佐やってたって聞いて残念だったわ
ガキの頃は年寄りの辛気臭い戦争の話とか大嫌いだったけど
大人になってミリ知識ついてからもっと話を聞いておくべきだったなと後悔してる 祖父は震洋の防空壕を掘っていたと言っていたが、他の親戚には
「あんたのじいさんは戦争で大変なときにいつも一升瓶下げて歩いていた」と言われた 俺のじいさんは中野学校出身のスパイだった
かなりレアケースだろ? 昔から地主だったから徴兵もされず優雅に暮らしていたとさ 予科練甲飛12期だった親父(故人)と同い年の方の書き込みに感動いたしました。
厚木に配属されるも乗るヒコーキはすでに無く、墜落して粉微塵になった先任の
肉片を拾い集めてヒトのカタチにして棺に納める役割りだったと。
その頃母(かろうじて健在)は、本所区亀沢で3月10日の大空襲の下を彷徨って。
「焼け死んだ人ってマネキンみたいだったんだよ」と淡々と語ってくれました。
だからなんだ、と言われれば、返す言葉もありません。
しかし、そんなこんなを乗り越えて生き延びて、子を成し、世を成してきた人達。
できる範囲で、書き残して頂ければとおもいます。 じいさんが僧侶だったので戦闘で死人がでたらお経唱えてたようだ。 叔父さんが士官学校同期の親友に裏切られて戦死したそうな 日本人が中国に行って悪いことして
きた話は よく聞いたなぁ
子供心によく覚えてるわ うちの爺さんは満鉄の測量技師、現地で婆さんと子供三人と暮らしてたらしい
爺さんは地元民に銃で撃たれたりシベリア抑留されたり散々な目にあい
婆さんは日本に帰る途中で子供を3人とも失ったそうな(詳細は決して語らなかった) 爺さんは臆病な戦闘機乗りで最後は特攻で死んだらしい 母方の爺ちゃんは陸軍少尉で南方に行ってたと聞いた。
父方の爺ちゃんは当時の話したがらなかったけど大陸に行ってて、刀差して馬乗ってたって言ってた。下戸でタバコが唯一の楽しみだったといつも吸ってた。 母親が防空壕に逃げ込んた話ししか覚えてない
あと父親は満州にいたそうだ 家内は大連出身の中国嫁だが、嫁のじいさんは満州国時代に日本人の先生に教わったらしく、嬉しそうに日本語でしゃべってたな。興奮しすぎて血圧が上がるからと短い時間しか話せなかったが。
戦争前はそれなりに現地の人と上手くやってたみたいだね。
大連には偽満州国博物館があって当時のものが沢山あって面白かったわ。 17歳の親父は学徒動員で川西航空で働いていたが、連日の空襲で死体の片付けばかりやらされていた。 はええよ
親父は頭上でグラマンがロケット弾斉射してたまげたらしい >>91
誰も好き好んで殺し合いなんかしたくないんだよ 8月までまだ半月もある
暑い時期は時間の経つのが遅いんだよ
その代わり気温が下がってくると年末まで一気だ 豆な 田舎の名主だったらしく戦中は食うには困らんかったらしい
戦後の方が農地改革で大変だったとさ
爺様は騎馬隊だったそうな戦車の時代に騎馬隊って・・・ >>568
大戦中、完全に機械化できたのはアメリカ軍だけ
多くの軍が馬を利用してるよ
バンドオブブラザーズでもアメリカ兵が現地調達した馬に乗って伝令やってたな >>450
昔の尊敬できる御老人は戦場を知っている人達だったんだよなあ。
今の老人は無駄に歳食ってるだけの老害ばかり。
そしていずれ自分もそうなるんだろうなあ。 直接聞いた訳ではないのだが、歩兵の伍長だったとか
ハルビンかどこかに行くのに輸送船が足りずに巡洋艦で移動したとか
どこかの島で牡蠣がいっぱい取れたから毎日のようにみんなで焼いて食べたとかそのくらい 親父の友人は終戦直後に基地の警備が緩んだ際に忍び込み機関砲弾を盗んできて
いじくってるうちに爆発させてしまい二人が死んだそうな お墓を移動した時、布に包まれて紙に名前が書いてあった。
骨もない。
兄がいた事を知ったのはその時。 このあいだ亡くなった爺さんが関東軍で砲兵やってて、終戦時に部隊まるごとシベリア経由で引き揚げるって指令が降りてきたんだけど、そんな馬鹿な話あるかと数人の戦友と一緒に即脱走して釜山経由で引き揚げたらしい
ナイスジャッジメント >>575
うーん
居留民を放置して我先に逃げた軍人の一人と思うと複雑だな
本人は必死で逃げたわけで責めるわけにはいかないんだが 団塊だが、小さいころに日本軍とアメリカ軍に分れて戦争ごっこをするときは、皆がアメリカ軍になりたがった
勝つ方だからね
日米が戦って日本が敗けた事は、幼児にも超ジョーシキだった 大阪大空襲のあと、瓦礫の山となった市内を歩いていると人魂をよく見た。
実際の人魂は、怪談話にあるようなふわふわ浮いてるものではなく、
火花のような閃光がパパパッと迸る。
瓦礫の中からパパパッ、別の瓦礫からもパパパッ。
そういうところには決まって死んだ人間が埋まっていて、析出したリンが燃えて人魂を作り出す。
見渡した範囲だけで何体の遺体が埋まっているのか、わかったものではなかった。 うちのじいちゃんはかなり偉い地位にいたから中国いたとき 捕虜の首を刀で何人も斬ったらしい おやじから聞くじいちゃんのエピソードはキチガイエピソードばっかだわw ウチの既に亡くなったジーさんは内地で軍のタイヤ(多分、トラック)を酒に替えて飲んでたと聞いたなw 昔、職場に元少年航空兵だったという人が居た
海軍で防空戦闘機の雷電を駆っていたそうだ
あまり話をする機会がなかったのだが、空戦するときはどういう気分だったかを尋ねたことがある
「自分が撃った弾丸の行方を目で追いながら、早く当たれ、早く当たれーっと思った」と言っていた
終戦で航空隊が持っているカネを皆で山分けにして、分け前に預かったのが一番嬉しかったとも >>576
武装解除された徴兵農民数人に一体何を期待してんだよ
所属部隊はシベリア送りだし >>418
それやって、結構誤爆して死んだと、父ちゃん言ってた。 原爆落とす前に電波を妨害するようなキラキラしたリボンみたいなのが降ってきたって知り合いのばあちゃんが言ってた みんな話聞けていいなー
うちは生まれた時には両方の爺ちゃんいないし、婆ちゃんも片方は亡くなってて、
残ったひとりの婆ちゃんも旦那へのうらみつらみが酷くて戦争話どころじゃなかった >>586
金属製のリボンが日本軍の対空レーダーに映れば目くらましになるからね >>584
当時徴兵は国民の義務だからなぁ
居留民を守らずに我先に逃げたのは兵士としての義務の放棄だわな
脱走という手段も誉められたことじゃないし
軍人会とかに顔出せなかったんじゃなかろうか 高齢の患者が来ると戦争の話聞いちゃうわ
まじで生きるか死ぬかみたいな体験を必ずみんな経験しているってすごいぞ >>586
それラジオゾンデだろ
原爆の爆圧測定器だわ >>589
居留民を保護するための命令も出なかったからなぁ
軍は組織的に逃げ出した >>589
普通に戦友会に顔出して靖国神社にも護国神社にも参ってたよ
まぁ、当事者じゃなきゃ何とでもいえるってやつだな >>592
いや>>575の爺は部隊から脱走したらひい >>593
まあそれなら許されたか
脱走が案外嘘なのか >>590
医者?
入院したときに同部屋の爺さんに兵隊の時の話を聞いたわ
演習で発砲したときには撃ち殻(がら)を回収して提出しないとぶん殴られたと言っていた
ウチガラって何だと思っていたが、空薬きょうの事だな 中学生のとき骨折で入院したことがあって
隣のベッドに寝ていたのがノモンハン事件を体験したじいさんだった
日本の戦車はちゃちなうえに満鉄や道路の路盤が弱くまともに運べない
ところがシベリア鉄道は凍土だから路盤が強いのでソ連は戦車をどんどん運んでくる
これじゃあ勝負にならない
と言っていた ばあちゃんの村は末期にはもう負けだというムードが漂っていて、勤労奉仕の松根油採りは「こんなので飛行機が飛ぶ訳がない」と言いながら途中で松茸狩りに
大本営発表のラジオを聴いて「天皇陛下万歳」と叫んでるひとはキチガイ扱いしていたらしい 曽祖父が浴衣はだけた時の写真。
左の肺と腎臓が無いと聞いていたんだけど、
てっきり酒とタバコだと思ったら、
南沙の川で釣りしてたら、戦闘機が打ってきやがって、
橋の下に逃げ込んだんだけど、破片が肺と腎臓撃ち抜かれたとの事。
母方の曽祖父兄弟は悪賢く、「視力検査と知的障害を偽って無線技士やら工場労働者」
双方が居なければワシは生まれておらん。 シベリヤ抑留者から聞きました。
腹が減って腹が減って木の皮をはいで、白い繊維を煮て食べてた。
満腹感は多少得られるがその後が大変。
繊維はどんなに肛門をしめても切れない。
なのでいつからかトイレにはハサミが置かれるようになった 俺の弟の話
こないだ姪に会いに東京来た時に語ったらしいんだが
斥候を命じられてビルマのジャングルの中を歩いてたら、
目の前に突然敵兵が現れたらしい
自分と同じ年代の英国兵だよ
あまりに驚いてしばらく身動きできなくて、
相手も同じ様な反応でお互い顔を見合わせてたんだけど
ふと相手の背後から上官と思しき外国語の声が聞こえてきた
その声に対してそいつが何か大声で答えた後、
弟に向かって微笑んで、そのままジャングルの奥に戻って行ったらしい
復員して茨城に戻った弟は、何か妙に悔しくて、
死ぬまで笑って生きていくと決めたそうだ うちのばあちゃんは町内のみんなが半笑いでやってる竹やり訓練を自家製の得物で殺る気マンマンでやってた。
じいちゃんが教えてくれた 伯父がシベリア抑留者
曰く、凍った大便をツルハシで叩き崩した
貨物列車に載せられて日本海に出たと思ったがバイカル湖だった
ウラル山脈の西にまで連れてゆかれた
帰還船では恨まれた将校が兵隊に胴上げされてそのまま海に落とされた‥
どうも、話を盛る人だったようで、どこかで聞いたような話ばっかりしていたなぁ 爺さんの小隊、満州で貨物列車に便乗して移動中
突如敵機が現れて機銃掃射
すると機関車は貨車を残して連結を解放し身軽になって全速力でトンネルへ退避
戻ってきた機関士を半殺しにしたと言ってた じっちゃんは南京で100万人無双した
じっちゃんは俺の名を言ってみろっていうのが口癖だった >>605
それって非常時のマニュアル通りなんだろうけどなぁ >>607
客車を切り離しもせず、全速でトンネルへ逃げ込む列車を米軍機から写したフィルムは見たが じいさんは宮崎の小林の部隊で8月15日を迎えたが
終戦の詔を放送できいた部隊長は「敵の謀略放送である」と言って
その後も1か月塹壕掘りをやらされたあとようやく帰郷を許された
鉄道で広島の太田川をわたるとき、原爆から一カ月たっているにもかかわらず
川面におびただしい数の、腹の膨れた死体が浮かんでいた
と言っていた >1
聞いたんじゃなくって、俺の話なんだけど
俺は芸術家志望で絵が好きだから学校で美術を習ってたけど
まあ人前で話すのも得意だったんで、あれよあれよと政治家になって
戦争になったら世紀の殺戮者って呼ばれるようになったから
愛人と自殺したは じいさんが海軍兵。艦沈められてプカプカ浮いてたら亀が来て助けてくれた。
だからうちはスッポンとか亀っぽいの食べたらダメだって。
俺、未だに信じてる。
あと畑仕事してたら焼けたモンペの切れ端が飛んできて、何だろうと思ったら長崎に原爆落ちてた。
ちなみにうち佐賀県。 >>602
父ちゃん、引き延ばさずにさっさと出てこいよ
うちの婆ちゃんは満州引き上げで、おじさんとおばさん(当時赤ん坊)二人を連れていたが
「二人も連れて行くな、どっちか置いていけ」と言われて
おばさんを置いてくふりをして、腹に隠して
二人とも日本まで根性で連れて帰って来たらしい
おばさんは下手すると残留孤児になってたと
すんげぇ傲慢なおばさんだから
「姉さんを満州に置いてきてくれれば良かったのに」
ってうちの母はよく言うw 沖縄は日本で唯一地上戦があった場所だ。
兄弟や肉親を殺した敵国が、未だ基地を構え占拠してたら そりゃ沖縄県人も怒るわな。米軍兵が事件を起こせばなおさらだ。
沖縄では地上戦があった。これ故に他県に基地があるのとは意味がまったく違う。 >>612
この世界の片隅に、で呉まで戸板やら回覧板やらが飛んできた話があるからなぁ
怖いね ばーさんは爆撃被害が大きい地域出身だが
家が裕福で実際そこまで大変な思いはしなかったらしい
後期は食料に困ったらしいが、それでも高い金や高価な物と引き換えに食料は手に入ったんだと
じーさんは暑い地域に徴兵されてたはずだが、後方でラクして普通に帰ってきたらしい
死ぬ前にきちんと聞いておけば良かったな 斬馬刀一本で100人程度の村を一人で滅ぼしたと大叔父がホラ吹いてた >>614
それはそうだが
沖縄の米軍基地はアジアの要だからなぁ
撤退すれば中国に侵略されるだけだ 8月の17、18日だったらしいが、数日前に戦争終わったはずなのに近所の横須賀航空隊の零戦や紫電改20機くらいが慌ただしく轟々と東京方面へ飛び立って行った、
みんなで何ごとだべえ?戦争終わったのになあって農作業しながら不思議がっていたと婆ちゃんがよく証言してたなあ。
調べてみたら、血気盛んな横須賀航空隊のパイロット達が、玉音放送聞いても尚、米軍の偵察機を攻撃してたっぽいなwその中に大空のサムライで有名な坂井三郎さんも混じっていたらしいw 私の父は、米軍本土上陸に備えて鹿児島の海岸でタコ壺を掘っていた
第一小隊は中隊本部の所にある
その前面に第二小隊が布陣
父の所属する第三小隊は更に前の波打ち際だ
敵が来れば一番先に死ぬなぁと思いながらタコ壺を掘っていた
どうせ皆死ぬんだが、特攻隊の連中はうまいものを食ってるだけうらやましい‥と思ううちに終戦
マジメな兵隊が尻込みするのを無視して、部隊の備品の毛布やら何やらを届けば儲けものと故郷に発送
後で自分か帰ったらちゃんと届いていたんだと
>>609が内地でありながら一カ月も終戦を知らなかったと言うのは、俄かに信じ難い サイパン、樺太、占守島、硫黄島でも地上戦はあっただろ
一般市民も犠牲になってるし、北方領土も奪われてる 沖縄県民斯く戦えり
県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを
沖縄に行ったら、小禄の海軍壕は行くべき 沖縄県民だけが戦ったんでもないんだが
内地からの兵隊6万5千人も戦った
特攻機も何千と沖縄へ向かった
三千人乗り組みの戦艦大和を始めとする艦隊も向かって沈められた
沖縄を戦場にするつもりでもなかった
米軍が沖縄を戦場に選んだ
もしそれが九州であっても同じような悲惨な戦いとなっただろう
原爆投下などでそれよりも前に戦いは終わりとなったのだが 敵に出血を強いるのが目的になってたからなぁ
無茶苦茶だわな 2017年の今
戦争体験してるのは85歳オーバー
そいつらも戦中は余裕で未成年
兵隊としてバリバリ殺し合いしてた年代は生きていれば95歳ぐらいだぞ >>621
終戦を受け入れずに徹底抗戦しようとしてた軍人が結構いたらしいから
そういう人の部隊だったのかもしれんよ
まぁ、一ヶ月は長すぎるから実際はせいぜい一週間とか十日そこらだろうけど
人の記憶は思い込みとかで変わるからな じいちゃんの兄はビルマで戦死、弟はトラック諸島からまだ帰ってきてない。 擬似原爆って名前だったか、あれで南海線平野駅で曽祖母の鼓膜が破れたらしい。 死んだおばあちゃんは兵器工場に学徒動員されてたけど、そろそろここもヤバいんじゃないかと、脱走して奈良の実家逃げたら、そのあと工場が爆撃されたらしくて、間一髪で逃げ延びてたらしい。 >>630
原爆を落とす練習で、同じ大きさ・重さの爆弾を大阪に落としたんだよな 大阪城の東側の砲兵工廠は徹底的な爆撃で破壊されて、昭和40年代に大阪城天守閣から眺めてもまだ廃墟だったな 婆様が国会議事堂の周りまでみんな畑になってたと何度も愚痴るので
畑になったくらいいいじゃねえかよ、中国じゃ人喰ってたんだよ
と言ったら黙った
日本人の戦争体験なんか甘い じいちゃんと映画ビルマの竪琴見ながら坊主の振りして逃げる奴大勢いたわって言ってた 米軍の刀狩りから逃れたひい祖父さんの軍刀があるのだが
手入れは現当主が代々やるようにいわれてんだが怖くて触りたくねえし俺の代になったら業者にたのもうかと
錆びもなく手入れの行き届いた刀身だが
よく見るとところどころ欠けてるのはやっぱそれなりに血吸ってるんだよな
そんな呪物触りたくもねえわ >>635
想像だけで勝手に感傷に浸る戦後世代を黙らせる実体験世代の即物的な物言い好き
水木しげる御大とかまさにそれだよな 工場で戦闘機を作ってたのは男のイメージだがそこで飛行機作っていたという当時女学生の婆さんがいた
詳細を聞いてみたいわ もう亡くなった知人が徴兵されて支那にいた時、 日本兵が村に着く前に村人達は皆逃げてしまうんだけど、赤ん坊は家に置き去りにしていくんだって。
知人は置き去りにされた赤ん坊の枕元に一掴みの米と小皿に入れた水を置いて、手を合わせたと言っていた。 朝鮮人売春婦は当時の日本兵より金もらってて身内を日本に呼んでた 中国で爆弾を落としてたらしい、双眼鏡で覗いて落とす係りらしい 母方のおじさん(昭和2年生まれ、故人)。
海軍の予科練に入り、山形県出身なのだが、島根県の美保基地で訓練を受けた。
とはいえ、もはや飛行訓練なんかできる情勢ではなく、まとめて船に乗せられて朝鮮半島へ。
実家へ「もう最後かも」という手紙を送ったら、間もなく終戦。
ちなみに、予科練というのは、海軍に属する飛行兵訓練部門です。おじさんは、軍艦乗りになるつもりは全く無く、飛行機が目当てで志願したそうです。 父親は赤ちゃんの頃、じいちゃんに布団で包まれて空襲から逃げたらしい >>468
わからない
じーちゃんも父親も死んだので確かめようがないな
ずっとソビエトで暮らしていたけれど、内臓系の病気になったから日本に帰ってこれたとか
日本の実家ではみんな死んだと思っていたから10年たっていきなり帰ってきたから驚いたらしい
運がよかったんだろう 夏休みの宿題で婆ちゃんに話聞くと
巧妙に自分のモテ話にすり替えていくので気が抜けなかった 爺ちゃんの、赤い零戦が、敵の兵隊たちに有名で恐れられたらしい。 うちのじいちゃんが兵隊に行くのが嫌で偽名使って終戦まで逃げ切ったらしい >>644
幕末の禁門の変はなんともなかったのかい 当時、小学生だった母は焼夷弾が綺麗だったのを覚えているらしい。夜中なのに昼間のように明るくなったという。 父方の祖父は炭坑夫で徴兵されなかった
母方は軍港勤務で青森空襲で港がやられて家族に死んだと思われてたけどひょっこり帰ってきたらしい >>318
笹川、児玉は間違いなくアメリカにすり寄った売国野郎 >>655
目的の為には手段を選ばなかったとも言える
たまに日本財団の車を見るけど、今の10代20代にはその前身を知る由もないな このスレ永久保存版だな
テレビや週刊誌のスタッフが見てそう 爺さんが戦争経験者だが末期に徴兵されて茨城でイモ作ってたら終戦を迎えたらしい
酔っ払うとよく戦争の話してお婆ちゃんに怒られてたなあ、懐かしいわ 終戦前後は風呂の焚き物も無くて、ばあちゃんが俺の母親兄弟妹に墓に行って枯れた花を集めて来いって命令してたそうだ とりあえず空襲はすぐ伏せて目を閉じ耳を手で押さえろって言ってた うちのじいちゃんは技術者だったので
ノモンハン事件の時に後方支援に駆り出されたらしい。 じいちゃんは長男じゃなかったけど耳が悪いせいで戦争いかずにすんだ
戦争に行った兄弟3人は全員帰ってこなかった
戦争の話をするときはなぜか寂しそうな感じだったのを覚えている うちの婆さんは戦前、大連で会社を経営する裕福な家庭のお嬢さんだったらしい
中国人家政婦を数人雇ってたけど、そいつらに家族全員の靴と一番末の弟を盗まれたと言ってた
もうすぐ戦争が始まるから帰ってこいと日本から知らせがあって、慌てて引き揚げたそうだ
日本では米軍の機銃掃射にあって一緒に逃げてた友達が頭を撃たれて死んだらしい。ギャーと叫んで逃げた、かなり怖かったと言ってた
それ位しか聞いた事がない うちのじいさん頭良かったらしく徴兵されないで満鉄で働いてた 曾祖母だったか曾々祖母が、8/14の空襲で死んだ
ついていなかったと表向きには言っていたが家族の内心としては死ななくていいものが死んだという気持ちが長らくあったそうな >>619
ネトウヨってそればっか
いつあるかも分からん驚異に怯えて沖縄の民意を踏みにじる事を正当化
グローバル化した世界において戦争しかけた国は経済的に抹殺される
そう簡単に中国が戦争起こせる分けねーだろ
今が70年前と同じ国際状況だと思いこんでんのか、おめでてーな >>668
北が始めたら大空襲は無いが、在日とのゲリラ戦はありそうだな >>667
> グローバル化した世界において戦争しかけた国は経済的に抹殺される
ロシアとか余裕じゃん。 どうせあと10年もすれば北か中国に占領されるんだから70年前に一億玉砕しとけばよかった 結局、経済制裁されても旧来の西側東側で助け合ってるよな 実況してたら
B29をグラマンが追尾してて
すげーって隣のタラヲと話してたら機銃掃射されて頭吹き飛んだ
即効穴倉ににげたよ 沈んでいく船でみんな覚悟決めて死んでいくなかで
必死にアメリカ艦に泳ぎ向かい捕虜になり
デブになりこりゃ勝てるわけないっすわwww
状態で終戦迎えて帰国したのがじいちゃん ご先祖様は必死に生き残ったのにお前らはその血脈を絶とうとしてるよね(´;ω;`) 機銃掃射された。
死体を踏みながら逃げた。
妹がいつのまにか死んでた。
日本兵に日本刀で威嚇されて逃げた。
おんぼろ特攻機が米軍艦隊の対空砲の雨あられで力なく墜落。
米軍上陸の1日前に北に逃げて辛うじて包囲を免れる。
他にもあるけどこんなもんで。 出発して30分くらいでしょうか、
パーンという音がして- とにかく腹が減って仕方がなかった
水ばかり飲んでたから
お腹ぽっこりな体型になった
防空壕にひっそりとサツマイモを隠したりして
こっそりそれを食べたりもしたさ 神風特攻隊が突っ込む前夜の話は聞くと意外とみんな冷静に受け止めてることに
驚かされた
もしも彼らが今も生きていたら一体何を思うのだろうか・・・ 俤(おもかげ)って国字あるじゃん、この字作った人センスないよね?
戦地で死んだ兄貴のかわりに今度は弟をたらし込むなんて どんだけ毒婦だよ!
上戸彩の昼ドラ見てた俺でもひくわ 先月亡くなったうちの爺さんは昭和3年生まれ海軍通信学校を出て通信兵になった。
霞ヶ浦に居たが諸島防衛で横須賀で外地移動待ち中に乗る船が沈没。
その後小さな海防艦に乗り、戦後も戦時賠償として台湾へ船を引き渡したり、復員船乗組員として日本と外地を行き来したらしい 1人目、空襲で河原に避難したら機銃掃射の米兵と目があった、弾は当たらなかった
2人目、戦後に朝鮮半島だか満州からボロ飛行機操縦して日本まで帰ってきた、落ちないかビクビクしたらしい
3人目、ソ連兵に捕まってシベリア抑留、寒さで動けないと死体置き場の穴に放り込まれた、自力で収容棟まで戻ることが数回あった
そんなことがありつつも誰一人死んでないから運が良かったそうな 特攻機がよろよろと低空飛行で北から本島南部に向かっていくのをよく見たらしい。
だいたい一日一機程度決まった時間に飛んでいく。
皆 飛行機に向けて手を合わせたってさ。 死んだ知り合いが挨拶に来たとか幽霊がでたとかはよく聞いた
あの頃の人はこの世に未練が多かったのかもしれない >>432
うわ、これ酷いな
なんで日本人の感情を逆なでする事をわざわざやるの?
喧嘩売ってるだろこれ >>438
うわ、リアルでキモい
東南アジアの川もヤバそうだし
大変だっろうなほんと 東京都墨田区業平三丁目に家があった。
東京大空襲の数日前に疎開した。行き先は祖父の妹の嫁ぎ先。
戦後東京に戻ったら、かつて自分の家があったとされる場所は、戦勝国民を名乗る朝鮮人らに占拠されていた。
しかし日本人が食ってかかっても返り討ち。警察官も銃ももたずサーベルみたいなもので太刀打ちできず。
あいつらは外道だ。 中川大佐がペリリュー島の島民を避難させた話を西部邁がしてた… 泣けた 東京の空襲で避難中に馬がひいてた荷台に火がついて、馬の尻尾も燃えだして、暴れた馬に蹴られて目の前で何人か死んだらしい
馬刺し食べるときは必ずこの話を始めるばあちゃん >>638
YouTubeに海軍の水上偵察機工場の映像あるけど
年の頃15,16歳くらいの少年少女が組み立てやってる 終戦直後、金目の物かっさらいに軍需工場に近隣住民が大集合だったが
出遅れた俺の爺ちゃん達は残ってた鉄板数枚を持ち去るのが精一杯だったそうだ
今でもその時に持ち出したと言う鉄板が家に有るわ 爆撃機乗りだったから、中国で爆撃したときに人が吹っ飛ぶ様が見えたって言ってた
後は、ミッドウェーで空母沈んで駆逐艦に救助されたって話も聞いたな じーちゃんは調布の飛行場?に収集されてた時期があって、夜中の奇襲で目の前で人が機銃にやられて死ぬ日々だったって言ってた。
何が嫌かって、夜間の奇襲はうるさいし寝れないし心底やめて欲しいって毎日思ってたんだって。
その後、終戦間近に日光へ疎開する事になり静かな夜が訪れた事が一番嬉しかったと話してたよ。
あと、玉音放送も疎開先で聞いたけど、雑音混じりでよく聞き取れなかったって言ってた。 うちの爺さんはナヴォイ劇場の建築に従事したと言ってたな
戦友が餓えと寒さでバタバタ死んでいって辛かったと話してた
イマイチピンとこなかったけど、爺さんが亡くなった後にネットでナヴォイ劇場とその物語を知ったときは涙止まらなかったわ >>523
うちの爺ちゃん零戦乗りで
りゅうじょうに配置される予定だったけど
船がなくなったんで予科練の教官になったって言ってた
その後、鹿屋で特攻の直掩機を担当してて
特攻の順番が回ってくる前に終戦したらしい 前橋出身の祖母の兄弟は所沢の基地で料理人の補助業務をしていた。何かの理由で偉い軍人さんに気に入られて、ある日一人だけ呼び出された。
「今すぐ馬に荷物を積めるだけ積んで実家へ帰りなさい。食べ物でも、道具でも何でも好きなものを好きなだけ持って行きなさい。馬もあげるから返さなくていい。」
と言われ、何のことかわからないけどそれはありがたいと毛布や薬や食料を山ほど持って前橋に帰った。
その2、3日後終戦。所沢基地は米軍基地になり、もちろん物資も没収された。
戦中の混乱と末期の軍部だからできたことだな。いま考えたら税金泥棒やん… 九州に配属されていたが終戦になって鉄道で引き上げるときに
関門トンネルの手前で米兵が片っ端から軍刀を取り上げていた 父は将校だったと子供の私に言っていたが、あるとき「ポツダム将校だった」と白状した
ポツダム宣言受諾が決まり、戦争が終わることになったから、戦後の軍人恩給やなにかで便宜を計るために少尉に任官させたのだろう
退職時に役職を特進させるようなもんだ
まぁ、工兵学校に行かされたりしてたから、幹部候補生ではあったのだと思うけど
しかし、その後軍人恩給などはもらってなかったなぁ 慰安婦は、確かに朝鮮人が多かったけど、病気怖くて羊やヤギとやってたと言ってた爺さんいた。
あの当時も朝鮮人は嫌われてたんだって。 じいさんは目が悪くて兵隊にはとられなかったんで、元々漁師してたから船で軍の物資を運んでたが終戦になったら好きなものもっていけで、デカイ缶詰をたくさん貰って暫くは食い物には不自由しなかったのかと言ってたな。 祖父から聞いた話
・上海で麻雀していたら戦争が終わった
・月にはアメリカの基地がありそこにB29が隠されている
・兵隊も会社も一緒、調子のいい奴が出世する シベリアで底意地の悪い露助を我慢できずにぶん殴って殺されかけた大叔父がいるわw >>602
お父さん
みね子は初めて恋人がでぎました
仮面ライダーですよ?なのにドライブですよ?
ヒーローなのに、高いとごが苦手な設定なんですよ? じいちゃんが日本人は金持ってたから韓国の女にとにかくモテたって話を聞いた
なんで韓国なんだろうと小さい頃は考えたけど、まあ昨今のニュース聞いたらこれなのかって思った >>708
韓国なんて国ないけどなw
朝鮮南地区が正解
韓国なんか呼んでるの日本と南朝鮮だけだぞ 親父が住んでたところから長崎のキノコ雲が見えたらしい 祖父の兄の話
ガダルカナル島の激戦で同期と2人生き残って、隠しておいた梅干しの樽を少しづつ食べてしのいだ。
梅干し本体を仁まで食べ尽くして樽を解体して味がなくなるまでしゃぶっていたがもうダメだとなり海に出たら米兵に捕まり捕虜に。
米軍の捕虜収容所に船で移送中に嵐だか攻撃だかで船が難破して、ソ連軍に捕まりシベリア送りになった。(米軍の捕虜なら多少環境も良かったのに…)
シベリアでは他の人たちが語ってるのと同じ過酷な環境と労働があったわけだが、大叔父の 711です。
途中で書き込んでしまったごめんなさい。
続き。
シベリアでは他の人たちが語ってるのと同じ過酷な環境と労働があったわけだが、大叔父の収容された部屋の住人はそれなりに楽しみを見つけていた。
工具や食器をわざと壊して金属片を手に入れ、研いで小刀を作ると木材の破片で将棋のコマを作って夜な夜な遊んだそうな。
バレそうなものが全然見つからないから逆に「ロシア人大丈夫かよ」と心配になって、最後いざ日本へ帰るとなった時寝床の上に作った小刀をズラッと並べて帰ってきたそうだ。
そんなこんなでなんとか帰宅した大叔父。なんと家ではまさに大叔父の葬儀の最中だった。 5年前に亡くなった曾祖父が戦争の時に背が小さいから戦闘機に乗れず馬の世話してたって言ったな。
悔しいって言ってたけどそのおかげで今の自分達があります。 >>692 叔母が飛行機の燃料タンクを作っていた
鉄製のそれが やがて木製になっていったと
それをみて もうすぐ日本は負ける って子供心に思ったそう 戦争体験って言っても婆ちゃんしかいなかったから
米がないからイモ食って飢えをしのいだとか、赤子が死んだとかって話しか聞けなかったよ 爺さんは満州の奥地に派兵されたが一向に敵は現れず虎や熊に襲われるのが怖かった >>709
そういやそうだなぁ
なんで韓国だったんだろ
なんせ昔の話だから俺の記憶違いもあると思う
子供に分かりやすく韓国って言ったかもしれない でも中国の女っては言ってなかったと思う
まあ日本の女っては言ってなかったw 俺の祖父はビルマで戦死したとしか聞かされてないんだが、
親戚付き合いが疎遠になって、もう誰も話を聞く人が居ない。
祖父の所属部隊とか正確な戦死場所とか、
詳しく知りたいんだけど、どうやって調べたら良いんだろうか? ウチの親父は海軍兵学校最後の78期だったって言ってたな
ハウステンボスで同窓会みたいなのやってたわ オンラインゲームで定期的に遊んでた英語を話すフレンドが1年ほどオンしてなかった
2005年のある日メッセージ欄に家族らしき人の一斉送信らしきメッセージで
「○○は今年1月にイラクで戦死しました、可能ならば彼のために祈ってあげてください」的な簡潔な文が送られていた 兄貴はあほだから俺が口きいて徴兵逃れしてやったのに、自分で診断書書いて(おじいさんは医者)軍に入りやがった
と親戚のおっちゃんが言ってた
ちなみにそのおっちゃんはおじいさんが戦争に行ってる間に「どうせ死ぬだろ」と土地から動産からほとんど自分名義にかえてたらしい お袋生んだばかりの「穢れた身」故に、祖母は
襖越しの別れで長男を送ったそうな >>567
アメリカと日本が戦争したなんて信じられるか。 パヨクが元気に戦争!戦争!と語り出すのが夏
TBSとNHKがアップしてる頃だろwww >>637
戦争体験の凄さについ畏まってしまうが
水木先生みたいなトンデモな奴が兵隊に居たら
上官は困ると思う
部下にはしたくないど 朝鮮半島を通って引き上げるとき
石投げられたり身ぐるみはがされたりしたそうだ
勝手に関所作って
奪ったものを積み上げてたりしたとか
38度線より北の話だけどな 知人の親せきがわりと有名な戦艦の艦長でフィリピン沖でとともに沈没した
戦後まもなくアメリカ人が家に来てその船の最後を語ったそうだ
んで、平成になってその船が発見された
これはニュースになったから誰も知ってる話だな >>733
戦争後半に徴用された兵隊なんて俺の爺様みたいに畑耕すことしか知らない純朴な田舎百姓がほとんどだったろうし
日々の暮らしなんてだいたい飯:7、女:2、兵隊としての義務:1みたいな割合だったんじゃないかと思ってる
生まれた時代で多少気骨があったとはいえしょせん俺らの父祖なんだし
周囲からの同調圧力に屈してなんとなく従軍せざるを得ない雰囲気に流されて出征したものの「マジかったりー」って
態度を意識高い系の上官に見咎められてシバき倒されてたとか実態はそんな感じだろうな…過度な美化はよくない >>736
美化とか何とかじゃないんだよ
そういう徴兵されてきた一般人を兵隊として役に立つよう、文字通り叩き直すんだよ
兵隊としての義務:1みたいな娑婆の考えは通用しないぞ
それでも百姓よりも自由を知る都市生活者のさしずめインテリあたりの方が軍隊生活をきつく感じただろうね 運よく、命を拾って帰国は出来ましたが。
家族は無事でいてくれましたが、家、財産、ほとんど消失していました。
当時18歳で父は軍属として南方に向かい行方不明。
残る家族は母と姉妹が多数、12歳になる弟だけでした。
人には言えない悪い事もしました。
家族を飢えさせない為でした。
一つだけ。同じような境遇で困ってる人には一切手を出した事はありません。
戦争の時代、その後の混乱期を含めて、人様に話したくない事。
多くの仲間が持っていたと思います。 子供のころ
大阪の淀川の橋の下で親に連れられて
釣りをしてたら、橋桁に凸凹の跡があって
親に聞いたら
米軍機が橋の下に隠れてた民間人を
機銃で撃った跡
この世界の片隅で見てたら、あの程度は当たり前に
あったんだなと思った。 そういえば昔、俺が「モーゼル」のモデルガンを買ってきた時に
うちの親父が「あぁ、これ満州で使ってたわ」って言ってたな
うちの親父は入営前は満鉄にいたんだが
測量なんかで遠くへ出かけて野営なんかになると馬賊やオオカミに襲われるから
銃を携帯するのは必須で、軍が護衛についてくれてたって言ってたな 戦争から生きて帰ってきた人ってなんでおかしくなっちゃうんだろう
「不毛地帯」というドラマで丹波哲郎が自殺してたり「7月4日に生まれて」という映画でもトム・クルーズが一時自暴自棄になってた
俺の叔父さんは一人はサイパン島から石ころになって帰ってきたけど、すぐ下の弟は
日本に生きて帰ってきてからほとんど部屋を出ず、やがて自殺したらしい
人を殺す行為の中に含まれる狂気に蝕まれてしまうんだろうか >>716
うちのカーチャンと叔母は終戦後食う物がなくて
芋の蔓を齧って飢えを凌いだそうだ
一方伯母はヤミ米を背負って上野に行って
ほとんど米の入ってない粥を売って稼いでたそうだ
それでも皆争って買って食ってたそうだ
警官に見付かると全部没収されたそうだ 戦時中、蔵王山の不忘山に場所をロストしたB29が二機突っ込んだ
いまだになぜこんなとこを二機もウロウロしていたのかは
わからず終い >>742
表には出てきませんが、本当に大きな問題です。
私は学校で習ってからでしたが、多くの同僚は赤紙一枚で招集されて
戦場に行かされてました。
もちろん、日本の為、家族の為、出征しているのですが、
その対価として、敵と対し、戦闘行為をし、時には相手を殺害する。
あるいは、より多くの場合とし、自分も含め、仲間が殺害される。
そんな状況でまともでいられる人なんて少ないと思いますよ。
あなたは、敵とは言え、100m先にいる敵を殺せますか。
あなたはさっきまで馬鹿話をしていた同僚を殺されて、平気でいれますか? とても軍隊に慣れ親しんだおっさんが
敗線とともに軍がなくなると知ったとき
拝啓天皇陛下様と題した手紙を書いて
軍の存続を切に訴えたことがあった 南方に行ったおじが現地の女性たちが腰蓑だけで下着なしなので
あそこがチラ見えするのが若かった身には辛かったそうだ 母方の祖父は小学校の代用教員から志願して陸軍に。大正の話かな。
兵学校で恩賜の時計(ロンジンの懐中銀時計)を貰ってるから成績上位だったのだろう。
太平洋戦前は高田でいたり台湾(霧社事件の鎮圧には行った様子。家に蛮刀を持ち帰ってた。)でいたりしたけど、太平洋戦始まった時には満州奥地の虎林というところにいた。(虎頭要塞の後方補給基地みたいな位置付け?)
でもって上官とすったもんだやらかして、ビルマに飛ばされた。負けが確定してからのインパール作戦の時期。
敗戦時の撤退戦には参加していたんだろうけどビルマの話をする時は車でパトロールに出たら虎が出た話が十八番。
最終階位は大佐。
武装解除後、現地で戦犯として告発されたけど部下連中も上官連中も揃って「ないないw」と証言してくれたおかげで罪に問われずに済んだ。
復員は昭和21年秋。
復員後は公職追放にひっかかったりで、仕事らしい仕事はしなかった。
亡くなって45年くらい経つけど、もっと話を聞いておきたかったと思う。 >>742
戦争に限らず極限状態を体験した人はそうなってもおかしくない
「アンデスの聖餐」って事件知ってる?
ウルグアイの大学ラグビーチームの乗った飛行機が山中に墜落、
生存者達は雪深い山奥で食料が何も無いという極限状態の中、
墜落時の怪我や栄養失調や雪崩で仲間が次々に死んでいく様を横目に
死体の人肉を食べて数ヶ月を生き延びた、という事件なんだが
生還者は事故以前に比べて食に対して異常に貪欲になったり
些細な事でももの凄く怒りっぽくなったりと、
精神面で大きな変化が見られたらしいよ
言葉すら通じない見ず知らずの相手が銃を持って攻めて来る
殺される謂れも殺す理由も自分自身には無いのにね
そんなの常識や想像を超える体験だろうから、
どんだけ怖いかは経験した人にしか解らないだろうな 冗談抜きで祖父祖母が戦争経験者じゃない世代っているんだよな
爺さんが特攻隊で突撃する前に終わったらしい、家に戦友とかの写真があった
直筆の手紙とかみたら色々思う所はある 家族で戦争に行った人がいないな親戚にはいるが徴用はされてた
徴用された朝鮮人は日本人と同じ待遇だったのになぜ文句言ってくるんだ、おかしいと言ってた >>752
二十代半ばぐらいなら祖父母が戦中戦後生まれで戦争体験無くても不思議はないな 経験してても絶対語らないと徹底的に誓ってる人もいる。
語ってもらえたら感謝しよう。 今の中心世代っておいくつでしょうかね?
仮に20歳の方々にとってはおじいさん、おばあさんも戦後世代になるかもしれませんね。
お若い方に年配者の話を聞いてほしいです。
我々、戦争経験者にとっては、お若い方々が夢を引きつぐ希望なのです。
戦争なんてしないでください。 水中特攻要員だった爺様は
日本はアジアの解放者なんだ
と言ってたので語り継ぎたいですねー 母方の祖父も、父方の祖父もそれぞれフィリピン戦線とニューギニア島で戦死してるので、
ばあちゃんが女手一つで苦労して育ててくれたって話は父と母からそれぞれよく聞いて育ちました。
お盆に帰省した時に首相の靖国参拝に対するニュース見ていて、何で靖国行っちゃだめなんだろねえ・・・兵隊さん達が可哀想にって、父方の婆ちゃんがポツリと言ってたのを覚えています。
母方の婆ちゃんは、戦場の夫から届いた軍事郵便ハガキを大切に持ってました。
何度も何度も擦り切れるまで読んでたらしくて、私たちには読めない状態だったけど、内容を全部暗記してて、遺影の前でたまに復唱しては目を潤ませてましたね。 戦後の残された人々の残りの人生の方が壮絶だったよ(´・ω・`) 死んだじいちゃんが稚内に行った時にB29見たってのしか聞いたことない 父親が満州生まれ。敗戦後に中国人に身ぐるみ剥がされ命からがら帰国した話は聞いた。 私の祖父は満州に出兵してスパイをしていました。
中国人は殺した人の頭の皮を剥ぎ壁に張り付けていたとききました。
チャイナ服を着た写真を見せてもらいましたが常に足首に銃を巻きつけていたそうです。 >>764 >>765
同じ満州でも、場所や時期によって印象は全然違うのな。
俺の爺ちゃん(大正13年生まれ)は満州に出兵して吉林省の北部(今のハルビン市辺り)で砲兵をやってた。
大きな川を挟んでたまにロシア兵に威嚇発砲して、暇な時は畑で芋を作ってた。
酒やタバコもあったし、まぁこんなもんかなと。
南方(フィリピンとか)がヤバイ事になってるのでお前ら異動。と命令が下り
港に到着した順番で乗る船が決まったのだが、爺ちゃんの乗る予定の船がエンジントラブル。出航できず。
一方、出航できた船はアメリカの潜水艦に撃沈される。
なんとか九州の佐世保に辿り着くも、そこは南方行きの船を待つ満州からの帰還兵?の人ごみ
船が無いのでどうしようも無い。ので宮崎で芋と大根と鶏を作ることになる。
戦局が悪化しアメリカに制空権を取られると空襲が始まる。
アメリカは力の差を見せ付ける為に、空襲する日時の予告と、悪化していく戦況のビラを巻いた。カタコトのニホンゴで
そのうちに終戦(敗戦)。
故郷に帰った爺ちゃんを見て曾祖母は感動よりも驚く。
まるまる肥え太った、血色の良い爺ちゃんを見て。 >>439
親父が戦争経験者って何歳だよお前w
ヘタレの親父持ってかわいそうだなw >>759
嘘松のせいでスレの価値が無くなるんだよなぁ >>756
> お若い方に年配者の話を聞いてほしいです。
今の年配はもう戦争は経験してないでしょ?
70年前だから、終戦時に20才だとしても今は90歳じゃん。 >>197
確かに、、、F1とかで既に燃料ランプ点いた状態でスタートしてる様なもん。 うちのじいさんは調理師で運搬船に乗ってたらしいが地雷だか魚雷だかに船沈められて死んだらしい うちの爺さんは終戦の一週間くらい前に豊川の海軍工廠で空爆受けて死んだ >>551
俺のじいさんはモンゴルで見たと行ってた 小学生の頃に学校の宿題でおじいさんおばあさんに戦争の話を聞こう的な物があった
そんでじいちゃんに聞いてみたんだけど「じいちゃんは戦争行かなかったんよ」で終了
その後亡くなってから父ちゃんが教えてくれたんだけど、実は硫黄島から生還した人だった
原因はわからないが背中に大きな火傷をおって帰ってきたらしい
だから海水浴どころか風呂でさえ子供や孫と入る事はなく、こそこそといつも一人で済ませる人だった
この火傷も俺はじいちゃんが亡くなる迄知らなかったし、息子嫁である俺の母ちゃんも知らなかった >>1
じいさんが満州で7年暮らして帰ってきたけどね
詳しくは知らんけどね おじいさんが満州からの引き上げ者で鬼太郎の漫画を描いてヒットしたらしい 朝鮮で憲兵をしていた。
朝鮮人はどいつもこいつも汚い!って吐き捨ててたけど間違いなかったな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています