7月末、53歳になったばかりの中山秀征は、数々のエピソードを軽妙に語った(撮影・小沢裕)

歌手でも俳優でも芸人でもない。その何者でもなさを武器に変えて、中山秀征は、昭和の終わりから元号が2つ変わった現在まで、三十余年にわたってテレビの第一線に立ってきた。少年期の芸能界への無邪気な憧れを現実のものとするまで、どんな道を歩んできたのだろうか。【秋山惣一郎】

−芸能界一直線の少年時代だったそうですね

中山 5歳の時です。地元(群馬県)の「カッパピア」っていう遊園地で、人気絶頂のアイドルグループ、フィンガー5のイベントがあったんです。もう、大騒ぎで見に行きました。イベントでは、メインボーカルのアキラと歌おうみたいなコーナーがあって、何人かの子供たちがステージに上がれたんですが、ちょうど僕の前で締め切られた。その時、思ったんです。客席で熱狂するより、ステージに立ちたい、と。「目覚めた」瞬間でしたね。

−芸能人になるための努力も怠らなかったとか

中山 芸能人野球大会で活躍したいから、野球を始めました。アクションもできるようにと、中学時代は器械体操を。カッコよくサインを書くために書道も習った。今から思えば、おかしな少年ですが、とにかくテレビに映るもの全てがキラキラしていて、この箱の中に入りたいって、そればかり思いながらテレビを見てた。あの感覚は今もはっきり覚えてますね。

−思春期に入っても芸能の夢から覚めなかった

中山 中学生になると、より現実的に考えるようになりました。たのきんトリオ(田原俊彦、近藤真彦、野村義男)が学園ドラマで大人気を得て、歌手デビューした。まずはドラマだ、と。親に「3カ月やってだめなら諦めるから、とにかくやらせてくれ」と懇願して、中2の時、雑誌の広告で見た、東京の劇団に入りました。

−夢へ向かって、ぶれませんね

中山 きっちり3カ月後、2時間ドラマの準主役級の重要な役どころに選ばれた。放送翌日、学校や近所でたいへんな話題ですよ。でもその後が続かなかった。オーディションを受けても受けても受からない。で、考えるわけです。群馬にいるから急な代役募集にも間に合わない。よし東京に行こう、行かなきゃならない、と。

−親は何と

中山 母親が夕食を作っている時とか、タイミングを見て、とにかく東京に行きたいと言い続けました。親とすれば、とはいえ、地元の高校に行くだろうと思ってるわけです。それがいよいよ本気だとなって、川崎市にいる母の友人宅に下宿して神奈川県の高校に進学することになった。中3の3学期。中学生活最後の最後でしたね。

−ついに本格デビューですか

中山 いえ、芸能界に入りたくて上京したのに仕事はない。下宿先は居候で居心地が悪い。毎日、失敗したな、何しに来たんだろう、と落ち込んでた。実家に電話して「大丈夫だよ」なんて強がったけど、母親の声を聞いただけで泣きそうになって。そんな生活が1年ぐらい続いたかな。下宿先を飛び出して友人宅を転々として、高校の先生のアパートに転がり込んだ。何とかしなきゃと思って、芸能事務所のオーディションを片っ端から受けまくって、ようやく今の事務所に拾われました。

−その後は多少の浮き沈みはありつつ、芸能界の一線で活躍を続けます

中山 芸能界は、声を掛けてもらえるから仕事ができるんですよ。だから「できるか」と聞かれたら「できない」とは絶対に言いません。断れば、他の人が代わりにやるだけ。仕事が減って迷っていた時、マネジャーに「誰かがきっと見てるぞ」って言われたんです。どんな小さな仕事でも誰かが見ていて、1人でも「中山はいい」と言えば、世界が変わる。その言葉を信じて生きてきました。

−「生ぬるいテレビバラエティーの象徴的な存在」といった批判もありました

中山 僕は「テレビタレント」と名乗っています。歌手でも俳優でもお笑いでもないけど、登り方を変えながらも芸能界という山を登り続けてきた。「お前の本業は何だ」とよく言われましたが、迷いはなかったですね。僕は僕の道を行く、というのはありました。

8/15(土) 11:01配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/e958c649b8808b7a3d67a82574589f4e8080ee13
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