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2020-04-24

1990年代序盤から日本でも一気に広がりを見せたヒップホップ・ムーブメント。特に95年は、さまざまなアーティストが代表作と呼べる名盤をリリースし、日本のヒップホップにとってエポックメイキングな年になった。なかでも大きな輝きを放ったのが、EAST END×YURIがリリースした「MAICCA -まいっか-」と、前年夏にリリースしロングヒットを記録した「DA.YO.NE」。この2曲によって“日本語のヒップホップ”が幅広い層のリスナーに認知され、カウンターも含めてその後の発展につながったことは間違いないだろう。あれから四半世紀が過ぎ、日本のヒップホップはどのように成熟し、定着してきたのか。シーンのど真ん中で活躍し、隆盛の立役者の一人、GAKU-MCに聞いた。
中略

─GAKU-MCは、90年にEAST ENDを結成し、その2年後にインディーズレーベルからデビュー。スチャダラパー、RHYMESTERなどの登場により、徐々にシーンが盛り上がってきた94年8月に、EAST END×YURIの「DA.YO.NE」はリリースされた。シンガーの市井由理に「ラップを教えて欲しい」と頼まれたことをきっかけに、楽曲制作がスタート。「自分たちの話し言葉。口癖をサビにしてみるのはどうだろう」というアイデアから生まれたという。
 初週売上0.4万枚で「オリコン週間シングルランキング」初登場94位(94年8/29付)だった「DA.YO.NE」は、徐々に順位を上げ、翌95年2/13付から3週連続で最高位の7位をキープ。トータルでTOP100圏内39週、累積101.8万枚の大ヒットを記録し、95年2月に発売された「MAICCA -まいっか-」と共にランキングを席巻した。

GAKU-MC「ヒットの要因はいろいろとあると思いますが、聴いてくれた人が歌詞に共感し、喜んでくれたことに尽きますね。それは当時の僕らの狙いでもありました。聴いてくれる人が楽しんでくれて元気になる、それがすべてだったので。ラッパーが好んで使うような表現でもなく、それまでのポップニュージックの手法とも違う等身大の自分たちの言葉を使ったアプローチが新鮮で、世の中に受け入れられたのだと思います。」

─「DA.YO.NE」「MAICCA -まいっか-」のヒットにより、地上波のテレビ番組にも頻繁に出演したEAST END×YURI。ヒップホップ、ラップをお茶の間レベルに浸透させたことは言うまでもなく大きな功績だが一方で、「テレビでパフォーマンスすることをよく思っていなかった連中もいたと思います」という通り、当時のアンダーグランド・シーンからは批判的な声もあったという。

GAKU-MC「ただ、誰に何を言われても、当時活動を共にしていたFUNKY GRAMMAR UNIT (RHYMESTER、MELLOW YELLOW、KICK THE CAN CREW、RIP SLYMEなどによるヒップホップコミュニティ)のメンバーたちは、僕らのやり方を理解してくれていました。それに支えられたところもありますね。また、大学の同級生だったKGDR(キングギドラ)のKダブシャインには会うたびに、「派手にやっているね」といじられた記憶があります(笑)。」

─もともとNYのストリート発の音楽であるヒップポップ。“日本語でラップ”“日本人がラップをする”ことについては、80年代からさまざまなアーティストが試行錯誤を繰り返してきたが、GAKU-MCはリリックの内容、ラップのスタイルなどについてどのような見解を持ち、研鑽を重ねてきたのだろうか?

GAKU-MC「大切なのは、自分自身に正直でいること。これがアメリカのヒップホップから僕が学んだことですね。特にNative Tongues【※1】やArrested Development【※2】のSpeech【※3】からは、そのことを受け取った気がしています。「じゃあ、僕の想い、悩みってなんだっけ」という自問自答が僕の楽曲制作の根本にあって、それは今日も続いています。」

─その後、KGDR(キングギドラ)からソロに転身したZeebra(ジブラ)、KICK THE CAN CREW、RIP SLYMEなどのブレイクをきっかけに、シーンの充実度はさらに高まった。また最近では、「フリースタイルダンジョン」(2015年〜・テレビ朝日系)などの影響でラップバトルが流行したことも、ヒップホップの浸透につながったと言えるだろう。

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