■「それってエビデンスあるんですか?」

世の中には、それを言われると言葉に詰まってしまう「脅し文句」がある。「誰に向かってものを言っているんだ」とか「……ですが、何か問題でも?」といった言い回しはその典型だ。最近そこに加わったように見えるのが、「それってエビデンスあるんですか?」である。

誰かがこう問い詰められているのを見ると、見ているこちら側まで少しドキッとしてしまう。もちろん、何らかのデータを持っていれば良いのだが、24時間365日あらゆる発言をデータに基づいて行うわけではない。だから、隙あらばこのフレーズを使うことができる。そういう事情もあってか、「個人的な意見ですが……」とか「あくまで印象ですが……」とあらかじめ断ってから話し始める光景も珍しくない。

言うまでもなく、「エビデンス」を求めることそれ自体は良いことである。何のデータもないよりは、根拠となるデータがあった方が良い。何らかの意思決定に関わる問題ならなおさらだ。データとは無関係の「直感」に従って施策を決めるのは、リスクが大きすぎる。

ところが、この言葉はしばしば、必要以上に攻撃的なニュアンスを帯び、相手を黙らせる道具になっている。

(中略)

■「エビデンス」の魅力と危険

ここ数年、「地球平面説」や「ワクチン否定論」といった議論が、「科学否定論」(=陰謀論の一種)として問題視されてきた。「陰謀論」と言うと、「証拠」を無視した誇大妄想だと思われるかもしれないが、実は、それもある種の「証拠」には敏感である。すなわち、陰謀の存在を示す「証言」や「物証」あるいは「データ」は、むしろ積極的に求められる。例えば、「ピザゲート事件」や「クライメートゲート事件」では、流出したメールが陰謀を示す「証拠」とされた。

つまり、「陰謀論」もまた、「証拠」の有無によって専門家を信じるべきかどうかを決めようとしている。その意味では、「エビデンス」の有無を重視する態度とも実はあまり違いがない。どちらも専門家が信頼できない可能性を前提しているのである。

おそらく、この背景には、データベースやインターネットの発達によって、一般人でも簡単に画像やデータを集められるようになった状況がある。自分でも調べられるからこそ、専門家が確たる「エビデンス」を持っていないことが分かると、「ほら見たことか」と批判したくなる。「それってエビデンスあるんですか?」という言い回しが、時として妙に攻撃的になってしまうのもそのためだ。

(後略)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91226