鎌倉幕府って人気ないよね。 [134367759]
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>>447
時宗→太平記の流れが面白いよね
後醍醐を操ったのが全成の血統になるんだっけ >>466
そもそも頼朝・義経のお父さんである義朝が、自分の父(つまり頼朝のお祖父ちゃん)や兄弟を平清盛に煽られたとは言えコロしてる。 >>466
源氏が捏造だから、一般人の徳川が支配した方が上手く行ったって事かね 物を知らない田舎者だな
名族だらけの三河に生まれれば、名族の血が入ってしまうんだよ
家康が受け継いだ遺伝子
源為朝
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
一色公深
今川国氏
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 >>472
血筋や身分に頼らない、だとか余計に凄いだけだろ 徳川家康は、頼家正室の兄の子孫
その兄の正室は安達盛長の娘だ
現在社会においても、三河国の住民は名族の子孫だらけ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 >>474
松平信光が創建した信明光寺が後土御門天皇の勅願所だったり、松平と皇室とはただならぬ関係がある
信明光寺を開いた坊さんの師匠は、増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘だった
そして信光の孫が、天皇とダチの存牛だ
この存牛は、家康が幼少の頃まだ存命で、松平の菩提寺で坊さんやっていた
松平はタダの家じゃないんだよ
存牛
1520年(永正17年)、同じく了暁門弟だった知恩院24世訓公の遺言で後継者に推されるもののこれを固辞。
しかし後柏原天皇の綸旨と知恩院門末の懇請により、翌年京都知恩院25世を継いだ。
応仁の乱(1467年-1477年)で荒廃した知恩院を再興するとともに皇室との関係を深め、後柏原天皇から浄土門総本寺と公称することを勅許され、さらに後奈良天皇より知恩教院、大谷寺の勅願を賜った。 178 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 22:54:20 ID:epWRnYVI0
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変~」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。
193 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 23:05:47 ID:epWRnYVI0
>>188
いや、マジで。
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。 >>24
今年の大河はコロナのせいで大規模戦闘撮れないからな。 センゴク(笑)以前の三河史が、日本の歴史から省かれているのが問題
三河は名族だらけ、武士だらけ
鎌倉期も三河史を知らないと見えてこない
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 >>205
滅ぼしてない
最終的片付けた(中先代の乱)のは三河
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河国だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
に19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職 >>482
何で誰も興味ないことを永遠とレスしるの?
自己満のため? >>467
島津には畠山重忠の娘が嫁いでるんだよね 鎌倉時代って出てくる奴、出てく奴みんな北条だし
北条じゃないの出てきたと思ったら、すまんな実は北条だみたいなのばっかでよくわからん >>481
これまで悪女に描かれてきたから、今は草場の陰から三谷幸喜にラブコールを送ってるな。
連れていかれる。 >>485
鎌倉幕府を語るに、三河は外せんだろう
スレタイに沿った話しているだけだが
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類) 実朝が死んだくらいで、何で一気に政局になったのかは、三河を知ればよく分かる
関東の武家政権と関西の皇室公家は三河でバランスが取れており
後鳥羽院の従兄弟の旦那が死んで、一気にバランスが崩れたんやと
後鳥羽院は三河国分国主の息子であり、嫁のとーちゃんは三河国知行国主、叔父とハトコは三河国司
後鳥羽院の息子はかーちゃんの兄弟は三河守範頼だ
三河を恐ろしさを知らなすぎるんだよ
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河分国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)
藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘、室は阿野全成の娘) 鎌倉幕府は100年程度で組織の完成、全盛期は滅亡する手前で100年掛かる
それまで100年幕府内で権力抗争をしていた
室町は最初からグダグダ。3代義満が天才で全盛期を築くがやりすぎて敵をつくりまくり
6代が失敗して250年の半分以上は戦国時代
江戸幕府の完成、全盛期は5代綱吉の時代。このあと吉宗は米本位経済を推し進めたせいで地盤が揺らぐ。
雄藩は貨幣経済に転換に成功したのに幕府は米経済のまま
この差で幕末の動乱で負けてしまう。ただ幕府の力は滅亡するまで健在ではあった さわっちゃいけないおひとなんだろうが
三河は鎌倉時代足利氏が代々守護を務め領国化してた
足利というと下野国足利荘のイメージがさかんだが
この時代の根拠地は三河であったから
足利幕府の重臣たちは大体が、前身が三河の豪族なんだわ 鎌倉幕府ほど矛盾を内包した政権というのは世界的にもなかなかないんじゃないか
トップが得宗なのは周知の事実だが、ほかに将軍がいて飾り物だが
いないと幕府そのものが機能しなくなる
中国王朝だったらとっくに禅譲して革命が起こるのだろうが 今日知ったが、勝海舟は北条義時をリスペクトしていたらしいな。
国のために悪者になったからだと。
もちろん国とは全国じゃなく鎌倉幕府。 元寇の大勝利はすごいな。
モンゴルは騎兵だから~とかいうけど主力は水上戦に慣れた南宋、高麗、金だし。
士気が低かったやる気が無かったってのも想像だし、んなこと言ったら他の戦闘でもいろんな民族使ってるし。
地形云々はそれを含めてその国の力だし。モンゴルだってあの地形の民族だからこそってのあるし。
なんてか普通に当時の日本すごい。
楽勝ではないけどちゃんと準備してほぼ侵攻を許さなかった。
日本が平安時代レベルだったら朝鮮出兵のときの明、朝鮮みたくボロボロになりながらの勝利だったかもね。 >>496
何言っていっるか理解できん
勝海舟が鎌倉幕府のために悪役? 東国に攻め込む時、頼朝然り足利尊氏然り、誰もが意識したのはヤマトタケルなんだよ
ヤマトタケルは、伊勢神宮にあった武の象徴である草薙の剣を受け取り、東国に攻め込んだ
その後、熱田神宮に納められたが、頼朝や尊氏は三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く
その意味を考えよ
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)
そして、そのヤマトタケルの実在モデルと思われるのが建稲種命であり、その墓が三河にある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ
幡豆神社は足利義満もからんでいる神社だ
正法寺古墳
https://ja.m.wikiped...F%E5%B0%BE%E5%B8%82)
幡頭神社
https://ja.m.wikiped...AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE 室町は文化的には優れているけど
どうしても古い時代は雅やかな文化人よりも武人としての波瀾万丈なエピソードのが人気あるからねえ
尊氏も頼朝や家康ほど無理ゲーな立場からのスタートではないし >>493
正解には、足利氏は三河→足利→三河な
義兼は、元々は三河いた可能性大
■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史
1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する >>493
三河国碧海荘は足利義兼の祖父が院に寄進したと思われるが
本家は以仁王の生母だ
つまり足利義兼は、以仁王の命令書を三河で見せられ鎌倉に向かったわけだ
そしてこの繋がりには、頼朝のスパイと言われた吉田経房が登場する
藤原俊忠
・忠成→女(以仁王妾)
・俊成(三河守、三河国竹谷荘・蒲形荘開発領主)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家)
・女(藤原顕頼(三河守)室)
・女(藤原顕長(三河守)室)
・女→吉田経房(初代関東申次、三河国知行国主) >>150
使者を送っても必ず殺されるんじゃ綺麗さっぱり滅ぼすか一切関わらないようにするかの二択しかねーな 悪役っぽい歴史上の人物
・頼朝様
・織田信長
・田沼意次 平家は仲間でわいわい楽しく生きてたのに
仲間殺しがひどい
見せしめ的発想って北朝鮮の支配方法だろw 気づいてなかったようだが >>175
そうとも限らないんだな。中学のムスメの教科書には1192になってる。あと昔聖徳太子が教科書から消えたが今はまた載ってる。あと二宮尊徳はそんとくじゃなく、たかのりと読ませてる >>508
あーいたね、でも何やったかもう忘れてる(´・ω・) そして、祖父の庇護を受けながら、以仁王生母の荘園を管理する仕事をしていた足利義兼
三河国碧海荘は、その後どーなったか?
答えは尾張足利氏(斯波氏)の本領となった
斯波氏のプライドの高さの源泉については、部外者は分からないと答えるだろうが
三河をよく知る奴なら、斯波氏本領たる三河国碧海荘の由緒正しいからだとすぐ分かる
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 >>510
頼朝や信長に比べれば別にそこまで大それた事はやってない
上宮王家を途絶えさせてしまったことくらいか
まあ傀儡となる帝を自らの手で擁立させて権力を手に入れて暗殺されるという流れは
いかにも昔話の悪役大臣なイメージついてしまった印象 室町が人気ないのは簡単
天皇制の問題が絡んでくるので、学校で詳しく教えなかったから
とうぜんマスゴミなんかもなるたけ扱わないようにしてた
山田風太郎が室町ものを書き始めて多くの人が楽しみにしたのに、体調不良で尻切れとんぼに終わったまま死んでしまって残念
鎌倉はむしろ人気と違うのか?
まあ鎌倉幕府の外にいた義経が人気抜群なんだけど >>71
事実か分からんがそんな情報知りたくなかった
事実なら面汚しやないか なんだかよく分からないけどとにかく偉い人に従う、という古代的な身分関係でなくて
土地の権利を保証してくれるから(御恩)、従う(奉公)っていう契約的な身分関係の世の中を作ったという意味で
その後の社会の発展に大きな意味があったんじゃないかと思う 鎌倉幕府→モンゴル帝国撃破
室町幕府→はぁ?
秀吉関白→朝鮮征伐失敗
江戸幕府→英米にビビって開港。倒幕される 頼朝は幕府の幹部を、自らの母方に繋がる人々を優遇したわけだが
北条が乗り越えられなかったのは、その頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事であり、頼朝の嫁として仲間にも入れてもらう事も出来、鎌倉将軍家断絶後は、政子がその後釜と見なしていたのが足利義氏だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 室町期も三河をスタートにしてやったら良い
足利尊氏は嫡子ではなく、妾の子
祖父は三河担当の奉公人のトップであり、嫡子の高義が在命中、清子は在三河の可能性が高い
つまり、足利尊氏は三河生まれ三河育ち
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 承久の乱と身内殺しが致命傷だったね。南北朝と身内殺し、戦国時代の
室町幕府も同じだが。江戸幕府はもっと評価されていいと思うが
幕府を倒した元勲の明治時代に評価されなかったのが影響している。 北条による乗っ取り政権だからなぁ
文化も平安よりぱっとしないし 鎌倉~室町の内戦はややこ過ぎて、人物相関図を作りながら追わないと
さっぱり分からない。
元寇のせいで恩賞無しで戦った武士が大量発生して盗賊化し、悪党誕生。
その悪党を束ねた楠木正成が、後醍醐天皇に買われて朝廷軍の筆頭になるし
源氏の血を引く足利が平家の血を引く北条を裏切って、朝廷後醍醐側についた
と思ったら、現実離れした夢想政治で社会が大混乱。
結局、後醍醐は先走り政治ばかりで使えんと見限って南北朝を作らざるを得なくなったり
めっちゃカオスってる期間だな。 >>527
そんな粗雑なザックリ脳で言い切れるほど歴史は浅くねぇよ、バカチョン・ジパング(笑) >>528
使われていない。そもそも鎌倉幕府は後世の言葉。室町幕府、江戸幕府が
成立してそれらと区別するために鎌倉幕府の言葉が生まれた。 >>424
そこのブラック化は仕方ないけど
北条政子だけを無理矢理善人に描こうとするから義時の行動が無茶苦茶になってるのがモヤッとする
三谷さん小池栄子好きすぎだろ >>526
承久の乱は武士勢力vs朝廷軍の初の全面戦争だな。
長く朝廷、天皇家を支配してきた藤原氏も、これで分裂したし。
まだ武士の体を成してなかった豪族時代に、平将門が藤原氏が牛耳る朝廷に
散々苦しめられてる豪族をまとめて大反乱を起こしたり、その前は
東北のアテルイをやはり藤原氏が征服、統一しようとした延長線上の戦いだった。
桓武平氏の流れは、地方豪族や地方武士の為に、藤原氏が動かす朝廷の侵略に
対抗する戦が多い。 吾妻鏡、北条政子演説意訳
頼朝公に忠勇なる八幡太郎の武者たちよ。各々心を一にして聞いてほしい。
これは政子、最後の言葉である。
我々は英雄の子、実朝を失った。しかし、これは終焉を意味するのか?
否!始まりなのだ! 公家勢力に比べ、我等関東の国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!関東の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は公家共にいいように使われ、関東移民にさせられた。
そして、一握りの公家が奥羽にまで膨れ上がった朝廷を支配して400余年、
関東に住む我々が自由を要求して何度公家どもに踏みにじられたか。
頼朝公が掲げた自由のための戦いを八幡神が見捨てるわけはない。
私の子、諸君らが愛してくれた実朝は死んだ。何故だ!?
新しい時代の覇権を我ら選ばれた武士が得るのは必然である。
ならば、我らは襟を正し、この時局を打開しなければならぬ。
我々は源家と共に過酷な関東を生活の場としながらも共に苦悩し、
錬磨して今日の文化を築き上げてきた。その恩義はシュミ山より高く、海よりも深い。
しかしながら朝廷の公家共は、自分たちが関東の支配権を有すると増長し我々に追討の宣旨を下す。
諸君の父も、子もその公家の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!
それを、実朝は死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、公家共に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、源家への最大の恩義となる。
坂東武者よ!悲しみを怒りにかえて、立てよ!坂東武者よ!
我ら関東こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種たる我らこそ日の本を救い得るのである。 おまえらにいいことを教えてやろう
2028年に再び鎌倉幕府の成立は1192年だと教科書に記載される >>533
後半で名執権と謳われた泰時にメインが移るから、泰時との対比でチカラと権力を存分に描いてるのだろう
この大河の本当の主役は、御成敗式目を作り鎌倉の礎を築いた泰時だと言われてるからな
本番は泰時が執権になってからの後半戦だ 承久の乱で何か変わったと言えば、実は大して変わってない
やはり、足利氏の存在はリスクであり、足利氏と院との繋がりは、その後も継続した
1230年代に、足利氏と熱田大宮司家の縁者(忠成王)が天皇になっていた可能性があったわけだが
なっていたら、衝突は不可避だっただろうな
足利氏
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→女→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏(三河守護)
忠成王
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→女→忠成王
野田朝氏
・藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季→野田朝氏(正室は足利義兼娘) >>89
信長が出てくる頃には各地方に大勢力を持ってる大名がいて相関図が分かりやすくなってるからな
太田道灌が活躍した頃の関東なんか鎌倉時代の比じゃないくらいのカオスだぞ そして天皇になる寸前までいった忠成王の正室が、三河守範頼の関係者
足利氏と藤姓熱田大宮司家縁者が天皇になる可能性があった1230年代
三河に範頼の息子が住していた
その息子たる範円の従兄弟が忠成王妃
範円のもう一人の従兄弟が四条隆親の正室になったが、隆親の妾は足利義氏の娘だった
吉見氏
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
藤原能兼→範季→源範頼(養子、三河守)→範円(三河国正法寺僧)
藤原能兼→範季→女(養女)→土御門天皇
藤原能兼→範季→女→順徳天皇
藤原能兼→範季→範茂→範房(三河守)
藤原能兼→範季→範茂→女(四条隆親(三河国知行国主)室)
藤原能兼→範季→範茂→女(忠成王妃)
藤原能兼→範季→女(吉田資経(三河守)室 >>540
そう。幕府という言葉を使い出したのは幕末。鎌倉幕府と言い出したのは
明治時代。 足利氏に三河守護職を譲るしかなかった北条の限界が見て取れる
実は、承久の乱以前以後の権力構造は何ら変わりなく
足利氏は、三河守護職を獲得すると、自ら進んで院に取り込まれていく姿勢が露呈している 承久の乱以降の建武の新政除いて、明治まで天皇は君臨すれども統治せずで今の日本と似てるよね 実は戦国時代以前はお公家も天皇も広大な荘園を持ってて自前の経済力と武力を持ってたのじゃ
完全に君臨すれども、になったのは江戸時代以降 >>542
よくよく幕府の定義ってあまり理解していないわ >>546
三河って明治維新になるまで起伏だらけの農耕に向かない土地だったらかな。
濃尾平野の方が圧倒的に地政学的な重要性は上だった。今でも愛知県の人口が尾張に集中してるのがその名残。 >>535
ギレン風味が混じってるな
それはそれとして内ゲバばかりしてたのによくここまで正義を掲げられるわ >>549
尾張が重要なら、御家人が競って守護職もしくは荘園の荘司なんかを獲得しようするはずなんだが、そんな史実は無い
何故か?
三河に拠点にしながら、尾張の荘園の荘園の領主になればいいからだ
史実、室町期尾張の荘園の領主は三河の奉公衆もしくは三河出自の奉公衆が多かった
具体例を一つ
■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)
藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る
■鎌倉時代初期~中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する
■鎌倉時代末期~南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる
■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城
■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城
■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる >>549
しょせん矢作川水系じゃ木曽川の圧倒的な水量にはかなわんよ
河口に近いあたりの農地のスケールが違う 歴史スレに湧いてくるゴキブリ 三河厨がでるとスレがつまんなくなる
ガチで死ねよクズが 鎌倉期、尾張守護職は中条氏だったが
中条氏は自分の本拠地たる豊田市から尾張に移住しようとしなかった?
自らをリスキーさせる尾張には住まないんだよ
しかも、豊田市は源頼朝の曽祖父が開発した由緒を持つし
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期~戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>553
物を知らない田舎者だな
矢作川流域は日本一の軟水エリア
矢作川の価値は軟水なんだよ
軟水は農業以外にも醸造業に向く
だから、味噌、白醤油、味噌等の醸造業が発展した >>555
無駄に紐付けてイキるの大好きだからな
3行で説明出来ることを100行くらいに膨らませちゃう >>553
尚且つ、海部エリアの農地は、江戸期に三河武士が開発した農地だからな
茶屋新田は三河武士の茶屋四郎次郎一族由来だし、蟹江の鈴木四郎左衛門家とかな
濃尾平野が鎌倉期、室町期も大農地だったと思い込みはファンタジーなんだよ
江戸期に三河武士が開発したもの
尾張は昔から、自力では何も出来ない田舎者なんだよ 鎧着て喧嘩せなあかんわ、、裃着て政治せなあかんわ、作業着着て農地開発都市開発、土木工事はせなあかわで
三河に何でもやらせんなよレベル
大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
松平忠明(徳川家康の孫)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者 味噌や醤油もまだ無く
遺跡は竪穴式が蔓延る
土人に毛の生えたレベル文化 あれって鎌倉専用幕府なんでしょ?他所は関係ないよね >>561
徳川家康と江戸を知らんだろ
徳川家康が沼地だらけの江戸で人が住めるように多くの工員呼び寄せて開拓するため
大量の米と塩分を工員に喰わせ、わずか10年で江戸を都市に変えた
後に開拓した人々が江戸に住むようになり、工事の時に喰っていた濃い味付けが
関東風とか江戸前とか名乗ることになった
ついでに米食文化もその時に取り込まれ、日本では未だに糖分ばかりの米を有難く喰っている >>553
岡崎まで行くと広めの平野があるけど
それ以外は丘陵が多いし水源も矢作川だし。
近代で自動車産業栄えだす前はガチ田舎。 >>565
南関東は三河の植民地だから、開発を進めたに過ぎんよ
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる) >>566
物を知らない田舎者だな
西三河は城下町が4もあった
尚且つ、岡崎城のデカさは江戸城、大坂城に次ぐ大きさ
城郭はパゴヤ城の4.5倍
考えてみろ、現在のパゴヤ城の4.5倍のデカさを誇る岡崎城下が田舎なわけ無いだろう
だから江戸期、江戸では岡崎を岡崎様だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています