鎌倉幕府って人気ないよね。 [134367759]
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鎌倉幕府作ったのは源氏なのに北条家に乗っ取られてアホすw >>4
相手火薬使ってくるのに良く撃退出来たなほぼ奇跡 タリバンが政権握ったようなものだから鎌倉幕府は。
まともな統治ができるわけない。 幕府と言うと徳川幕府のイメージが強くて
将軍の血統が三代で終わってたり、初代の嫁の家がずーっと権力握ってたりするのが、判りづらい。
あと、鎌倉武家集団の関係も、戦国時代以降の武士のイメージと違いすぎる。 鎌倉時代の考察ばっかりしてるYoutuberいるよな >>7
それも情報古い
今は1192でも1185でもない 1192でも1185でも、鎌倉幕府の設立年がテストに出たことない。
あと大化の改新も。
何のために覚えるのか >>21
鎌倉時代の戦争ってスケール小さ過ぎないか? いいクンニつくろうキャバクラ幕府(^ω^)ぺろぺろ >>23
大化改新は台湾か朝鮮に日本が占領された時代だよな…その時に日本になった。
要は外国人なんだよな…
それまでは蝦夷が強かった ほかの将軍家と違って源氏って途中でなくなったんだな
知らなかったわ >>26
まともに騎馬隊来てたら余裕で壊滅してただろうな… 将軍→執権→得宗→内管領という権力の推移は
ある意味で典型的な日本の権力構造だと思う
軽い御輿を担いで、実際の権力者は表に出ずに影から権威を振るうという 語呂合わせが悪くて印象で損をしているのは室町幕府だろう。
ひとさんざんや、とかさ。
鎌倉は内容はひどいけど、語呂合わせが明るいからいい時代っぽかったような印象。 >>31
源氏は、森家と毛利家に分裂して西に敗走や 鎌倉時代っつっても結局京都中心の世の中だからなぁ(´・ω・`) 今は壇ノ浦で平家滅ぼした1185年が鎌倉幕府成立年
義経の粛清とか内ゲバが残ってるが >>24
スケールはわからんけど戦国時代と違ってキャラが少ないし地味だよね >>31
源氏は3代目源実朝で滅亡して、
4代目は藤原氏、5代目からは皇族が将軍に就いて、
形式上の将軍はずっといるんだぞ 実は9代将軍まで続いてるとか、たぶん知ってる人の方が少ない >>43
天皇上皇の権力が、田舎武士どもに奪われた。
崇徳上皇の呪いや。 とにかく行くのが大変、超大渋滞
観光に行ってあれ食らうともれなく嫌いになると思う、2度と行きたくない
道と駐車場を何とかすべき >>24
イスラムが先進地域だし
サラディンとリチャード1世とか名勝負この時代 鎌倉幕府の面白いのは前北条家が滅びてからの後北条家、そして江戸幕府なんだな。
この現代の日本の首都への繋がりがあるから面白い。
いわば、現代日本の本当の黎明期ともいえる。 >>53
徳川の最後の将軍の大政奉還のイメージが強いのかこういう風に存続していたとは調べるまで知らなかったわ >>19
鎌倉、室町の失敗を参考に同じ轍を踏まないようシステムを改良して幕府体制の集大成として成功を収めたのが江戸幕府だからな。 >>39
1333なんてそもそも語呂合わせいるか? >>40
桓武平氏→坂東平氏→鎌倉幕府の北条家
桓武平氏→伊勢平氏→伊勢家→戦国時代の北条家
戦国時代の北条は関東支配に当たって北条家の権威を利用するために北条を名乗った
平氏同士という意味では血が繋がっているけど、子孫ではなく、実質的に別の一族 後北条家は子孫の北条浩(第五代創価学会会長)のせいで大河には絶対に選ばれない 日本史的に”幕府成立”というなら1192年で正解
鎌倉政権として権力を行使し始めた年代に関しては諸説あるというだけ 戦国時代がネタ的に人気なだけで
ほかは一緒じゃねか >>66
花の乱が視聴率爆死したことと、近年の研究で室町幕府については
新説が出てきていて、大河ドラマにするのは困難だと聞いた。 しかし、1192年に後白河が崩御するまでは
最高権力者は後白河な気がするから1192から鎌倉時代で良いと思う。
歴史学者が業績をつくるためにいろいろな年号出して、
それに決まったとか勝手言ってるだけでは?
1192に戻そうよ。鎌倉の始まりは。 江戸時代と違って町人文化が知られていないから寒々しい時代というイメージしかない >>75
草刈正雄の日野勝光面白かったのになw
佐野史郎足利義視唆したり >>59
東大寺南大門の金剛力士像みたいな、武士好みの美術が栄えたし
文学では徒然草や方丈記、
宗教では鎌倉仏教と呼ばれる諸宗が生まれただろうが
「ん」「ン」の文字が生まれたのも鎌倉時代 鎌倉幕府の面白いのは当初の源氏3代の物語が非常によく知られている一方で、
北条氏のその後の血まみれの歴史は本当の日本史の秘史化していること。
ほぼ近畿の御所や高野山、比叡山の僧侶たちに操られていることが知られているが、
北条氏のほとんどが20代で亡くなり、しかもほとんどが鎌倉の中でヤクザの喧嘩みたいな形で死んでる。
一部京都と繋がったのだけがそこそこ長生きしてるくらい。
現代関東の実態につながるし、歴史的にもその後の室町幕府、戦国時代のミニチュア版である。 >>79
崇徳と後白河の昼ドラも裸足で逃げ出すストーリー面白いんだけどなあ この頃の歴史や人間関係は複雑でわかりにくい
逆に戦国時代や幕末明治維新はわかりやすい
なぜなのか 山名氏の子孫が部活の先輩にいた。結構かわいくてやっぱり金持ちは美人のDNAが集まるんだと思った。貧乏人はブサイクのDNAから逃れられん。 鎌倉幕府、滅亡後も20年くらい残党が
埼玉から攻めてきてそれを撃退したり
反撃されたりを繰り返してた。 新興勢力の暴力集団が調子こいて政権を取ったけどその後ひたすら内紛を数百年続けて大量の死者を出した結果徳川でやっと落ち着く
怖いね歴史は 鎌倉時代のメディアは基本仏教勢力しかないんだな。
京都と鎌倉をつなぐ定期便みたいなのも基本寺とか行者とかだし。
四国のお遍路みたいなもんだな。
それが戦国時代になって、キリスト教が来てそっちが仏教とか神道を圧倒する。
それ以降はほぼ情報戦。
北条政子は大仏作った。これは日本史の秘密。 >>77
そんな良いのがあるのか。知らなかった。
自分の時代はひとさんざんや一本だったから。
あと、ひとよむなしい応仁の乱。だから、散々で空しい時代に思える。室町は。 いい暮れ迎える鎌倉幕府だからな?
君を失った幕府に、もう用はない~♪ 吾妻鏡が結構いい加減だからな
まあ無教養の土人戦闘民族でしかなかった武士が編纂したってだけでも相当画期的だったんだが 元寇が成功してたら今頃日本は中国の自治区みたいになってたかもな 一休シコってポツダム宣言
一休いい子だ辛亥革命
一休シバくぞ東京裁判判決 はやく御家人バトルロワイヤル終わらせないと一大イベントゴーストオブツシマが待ってるからな 鎌倉の御家人の屋敷跡は基本寺になっている。
結局鎌倉幕府ってのが誰が作って、最終的にその果実を誰が回収したのかがよくわかる。
江戸時代は寺しかなくて町人がいなかったと。 鎌倉幕府も中先代の乱で1年やそこらで鎮圧されてるからな残党も >>104
モンゴル帝国も滅びたんだから、そうはならん >>104
九州の豪族だけで撃退出来る程度の兵員送るのが当時の覇権国家の精一杯なんだから、成功するわけねぇじゃん
そんなifは存在すらしない 鎌倉殿の13人も途中から見たから誰が親子で誰が兄弟なのか把握するのに凄く苦労した 大阪城で家康が権力行使し始めた関ケ原の合戦後の1600年で江戸幕府成立と言うか?w という話
あくまで1603年に征夷大将軍を拝命して江戸幕府の成立。と日本史的には言う
同じ様に征夷大将軍なった1192年をもって名実ともに鎌倉幕府成立年とするのが正しい見方
右近衛大将をもってするなら1190年で成立になる
ドヤ顔で1192年じゃない日本の歴史ハー言ってる輩の中には
朝廷権威の否定と歴史改変を目論む反日勢力が居るからね
その影響がこういう所にも表れてるの 鎌倉時代の現代につながる最大の出来事は日蓮の布教なんだわな。
まあ元寇とセットなんだが、現代の創価学会と中国共産党に繋がる。 >>57
あれ地元の人も大変なんだよな
だから世界遺産に推された時地元の人達は渋滞がもっと酷くなるって大反対した >>54
親王が征夷大将軍なんだっけか
影薄いししゃーない 鎌倉時代って
天皇 傀儡
将軍 傀儡
執権 傀儡
得宗 傀儡
内管領 実力者
こんな状態だからな 自民政権よりは長命なわけだから今よりはずっと暮らしやすかったんだろうな そりゃああんまり古すぎると資料も残ってないし、嘘っぽいしな
聖徳太子の10人同時に話を聞けたとか多分嘘だろうし
嘘だとしても、何かしら有名になった大河ドラマや、映画、他局のドラマなど
やってるのが強い 二大勢力の戦いより、群雄割拠の方が見ていて面白いからか >>95
歴史が怖いんじゃなくて、人間が怖いんだよ
世界各地でそんな感じ >>37
尊氏とそれの奉った天皇がクソだから
まあその尊氏の子孫もロクデナシのカスだし 鎌倉幕府執権の北条氏の後継が
戦国時代の北条氏だと思ってた俺 >>119
てっとりばやく売名目的の歴史学者がトンデモ珍説ぶちあげてるだけだぞ
歴史ってものはまともな史料は先人が手垢つけまくってるから後発が功績上げようとすると珍説捏造することになる 鎌倉時代はまじてま調べても資料少ない
昔の庶民生活知りたくて探したんだが >>137
上陸戦でボコボコにされてお船に引き籠もってたら台風にやられただけやん
台風来んでも結果は変わらない >>129
日本書紀とか古事記だっけ最古の歴史書は最初の方は作り話だよなあ
実際のところどうだったんだろう
誰も知る由のない永遠のミステリーだ 足利義満をドラマ化すると西の鎌倉殿をやれる
足利に味方した北朝の武将達を次々と粛正していくからな
山口の大内、朝鮮と勝手に交易したと睨まれ粛正
兵庫の赤松、反乱を企んだとして粛正
岐阜の土岐、同上
静岡の今川、大内を唆したとして粛正
一休さんだと無能に描かれてるけど義満は権力を極めた室町最強の将軍 元寇を退けられたのは軍事貴族が主たる鎌倉幕府があったからだろうな そりゃあ、北条氏なんて昔から嫌われてきたからな。
頼朝が平氏を殲滅し幕府を開いたまでが人気だった。 源頼朝を支えたのが北条一族
その北条一族の末娘と結婚したのが足利氏
足利氏は和田や三浦を知って北条氏に従って生き延びて
今川や吉良や斯波や細川を輩出した
後に足利氏が権力を付けて北条氏を滅ぼした
だけど足利氏もその今川吉良細川や外様の上杉武田伊達毛利島津の
権力抗争に負けて応仁の乱が起きた
そこに斯波の家臣の織田家が台頭し、織田信長が斯波氏を滅ぼし
吉良家臣の徳川を味方にし天下統一を果たした 室町は義教が暗殺されなけりゃもっとマシになってただろうに >>142
佐々木道誉とか二条良基とか
楽しいキャラが出せるしなw
泰時的存在が細川頼之か 義満からしたら京都のまわりに土地持ってる奴らは邪魔で仕方なかったんだよな
だから京都の近くなのにイキらないでひっそりしてた福井の朝倉がめちゃくちゃ栄えてた >>4
いつものやつ
1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐・対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる >>132
徳川が長い期間国を支配した時より、ファミコンで言う信長の野望とか、豊臣秀吉とかそっちの時代の方が楽しいってわけだな
わかるわ
日本の映画でも、昭和の高度成長期より、戦争映画の方が多いし作りやすいもんな
平和より混沌 >>142
息子の中で一番優秀だった義教を後継者に指名しとけばもっと中央集権化出来てたのに >>148
息子の代で三管領で機内に勢力あった畠山がボロボロに解体されてるからな 中世は庶民のが面白いよね
と網野善彦ファンのオレは思う >>151
ただし戦国時代の小説はのほとんどが江戸時代に作られたんだけど
新撰組も神格化されてホモショタ物になったのは明治時代以降だし >>57
電車で行けよ。
横須賀線で大船からすぐだよ。
大抵のスポットは駅から徒歩で行ける範囲だし。 でも鎌倉は観光地としてとても人気
お土産にいい箱を買って今も飾ってる ある程度おっさんになって子供や社会的な地位につくと、当時の歴史教科書で学んだ日本史って違った目で見たりできるよね
中学生くらいはひたすら暗記して「なんでこれ親殺しや子殺し兄弟殺しすんの?!」って思ってたけど、今子供の学んでる所を見返したり教えてたりすると「あー」ってなる 嬢が客をじゃなくて客が嬢を喜ばす幕府
は結局そうなるのよね 朝鮮と関わったらなぜか滅亡する
仁那日本府
鎌倉
豊臣
大日本帝国
安倍政権 足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼした理由って未だにハッキリとしないんだってね
本能寺の変と同じぐらい日本史におけるミステリーじゃないの 泰時まではともかく北条得宗家って後は全員異常に若死にだな 法治の観点から言うと御成敗式目つくった3代執権の北条泰時や公事方御定書つくった8代将軍徳川吉宗の方が重要なんだがまともな考察あんまされてない >>166
足利将軍の名前上げれるの、大半は尊氏くらいやろな
日野富子のが有名な時点でもうね >>59
民衆に仏教の教えが広まったのは鎌倉時代じゃなかったかな? 鎌倉時代
頼朝、自分以外の源氏を潰し始める
↓
北条、主君の源氏をぶっ潰す
↓
北条、京都から子どもの将軍を擁立して、成人したら追い出すプレイを始める
↓
北条、なぜか身分の低い自分の家来に乗っ取られる
↓
鎌倉時代終わり >>168
頼朝の子孫はいないけど
源氏二十一流とうくらいだし結構いるだろうな >>172
北山文化の義満嘉吉の変の義教
東山文化の義政信長振り回す義昭
この辺はやるでしょ まあ一部の人間以外はひもじい衣食住をしてたんだろうな >>3
一族を殺しまくった頼朝の因果が巡ったとしか思えん >>72
小栗旬というか全体的にセリフの音が小さくて、BGMや効果音は音が大きい。だから音量調節が難しくて大きくするとBGMがうるさいから、音量小さくして字幕表示して大河視てる。このドラマだけなのかは現象なのかはわからないけど。 応仁の乱 11年間バトル
足利義政 東軍
日野富子(足利義政の嫁)西軍 だって承久と元寇しかないやん
江戸かておもんないで 鎌倉幕府ってのは乱暴な言い方すると殺伐としたサークル活動だからなw >>177
北条氏って自分達以外の有力な御家人を悉く滅したら、なぜか政治に無関心になって自滅していったんだよね。 >>125
中抜きして下請けに出してるのと同じだよな
まさにそこが日本らしいというか 北条家は時政が明らかに勝ち組で、政子が微妙で、後は基本毒殺か変死、横死、頓死のヤクザの死に方なんだな。
時政の出自がよくわからんけど、とにかく平氏であることは間違いないみたいね。
そいでのちの後北条氏にもつながるんだけど、その辺のベースには結局平将門の乱があるみたいでまあ関東の歴史なんだわな。 >>32
陸続きならね
結局火薬が有ろうが騎馬が来ようが食い物と弾の補給続かないと無理 >>171
御成敗式目とか武家政権が終わる江戸時代まで有効だったのは凄いよなぁ 泰時、時頼、時宗、高時を覚えれば足りたしな。
いざキャバクラは時頼。 >>116
いつの時代の話してんだジジイ
今はイイハコが通説だよ >>167
ヒントは三河システム
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む 北条氏も極楽寺流とか金沢流とかあるんだけど、糞近いんだよね。
そいでそういうのを考えると、どうも関東にはまともな館というか建物がなかったんじゃなかったか。
という結論になる。大仏殿も津波で流されたというが、ほぼバラックだったんじゃないのと。
法隆寺みたいなのは結局関東にとことん教えなかったんだろうなと思う。 >>167
三河システム
三河の藤姓熱田大宮司家を母方にもつ源頼朝は、鎌倉に幕府を開き、三河にいた母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵し源姓足利氏を誕生させ
その縁故で三河が足利王国になり、三河の足利尊氏はその縁故の三河の鎌倉将軍家の敵をうつ形で室町幕府を誕生させ
三河の徳川家康は、三河の足利将軍家の仇をうつ形で江戸幕府をを誕生させた
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏) 宝治合戦とかえげつない。最後は三浦氏が500人ぐらい集まって神社の境内で切腹したんでしょう >>199
泰時は天皇を流罪に処した唯一の日本人だからな >>205
片岡鶴太郎が立って切腹して、これでよろしいかて言うやつ 鎌倉の海の近くから人骨が900体分出たんだよな
どれだけ凄惨だったんだろう、鎌倉崩壊時 >>209
しかし、細川本家は明智光秀の血をひいていないというなぞシステム >>207
いざキャバクラの時頼が滅ぼしたんだよね。 源氏や北条氏の真筆はまずお目にかかれないけど、
後北条氏になると、幕府祐筆だった北条早雲とか京都で坊さんやってた北条幻庵は達筆で
家訓とか作るんだけど、その子の代からほぼ無学の字がまともに書けなくなるんだよね。
それ考えると、ほぼ鎌倉時代の武将は皆字が書けないんだわ。
あれを知ると鎌倉時代ってのの認識が変わるわな。字が書けないって、読めないって事だからな。 >>69
伊勢氏は藤氏
三河に居た頃は藤原と名乗っていた
後北条氏の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→盛継→貞継
■藤原俊経(****~1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217~1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****~****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
・三河国滝山寺僧
■増恵(1209~1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 >>211
wiki見たら当時鎌倉の人口は20万人もいたらしいな
同時期の京都は4万人だとか そりゃ人気出るわけがないw
家康もそう
裏切り者は嫌われて当然 >>213
三浦氏はあそこで滅んだはずなのに、なぜか北条早雲にも滅ぼされる謎。滅ぼされてばっかり 中世の日本の政権の徴税能力がよくわからん
租庸調とか始めた頃は一応取ってたんだろうか
鎌倉時代とかもちゃんと朝廷が徴税してたの?
鎌倉幕府は徴税とかしてないの 江戸時代ってなんであんなにつまんないの?
統治システムが良くて平和すぎるから? >>221
一部の傍流の三浦氏が宝治合戦で北条に与し、三浦半島を貰い生きのこったからね。 今回の大河がめちゃくちゃ面白い
鎌倉時代の小説を漁りたい 鎌倉時代の武士の強さって、純粋に弓矢の能力なんだよね。
そいで、当時の弓矢って狩猟の道具であって、狩猟で食っていくのが蝦夷、アイヌで
農耕で食っていくのが大和民族でその駆け引きだったんだろうね。
だから鎌倉幕府はある意味米作の北限を伸ばすための政策であり、武士ってのはある種アイヌの文化だったんだろうな。 義経が鞍馬寺で天狗に教わるってのもアイヌに教わるって意味なんだよな。
京都のあの辺はアイヌ文化なんだよね。
まあ狩猟と農耕で単純に分けられないわけだけど、民族としての基本は別れるんだわな。
まあだから北条氏の同族の争いはあれはアイヌ、蝦夷の残されなかった史実としてはよくある事なんだろうな。 江戸時代の武士の憧れは戦国じゃなく鎌倉武士だったらしいな。 「太平記」と「北条時宗」の両方に出てくる登場人物て
・足利尊氏
・高師直
・安達泰盛
だけ? >>229
幕末まで戦いといえば弓矢が常識なの知らんのか? >>196
日本の地形でモンゴルの騎馬戦術が通用するとも思えんし >>235
元は低湿地帯のベトナムでコテンパンにやられてるからな 1185(いい箱)作ろう鎌倉幕府
君たちもちろん知ってるよね?(´・ω・`) >>222
中世日本の農地は大きく分けて
公領(国衙領)と荘園の二本立て
荘園は私有地なので無税
国衙領は地頭が管理して朝廷に貢納した
中世を通して国衙領は減少し続けた
自立した地頭が国衙領を押収して大小名になっていったわけだ >>185
大河はいつもそんな感じ
効果音がうるさくて絞るとセリフが聞こえない 鎌倉幕府がなかったら今の日本はなかった、李氏朝鮮みたいな腐った国でペリーを迎えてたぞ 良い箱(1185)作ろう鎌倉幕府を思い出す
つかそれしか覚えてないわ… アイヌを中心に見ると、奥州藤原氏ってのが実は金を蓄財していたり、
浄土式庭園の平泉とかで京都奈良を模したりしていて、
アイヌとしては鎌倉幕府を傀儡としていた構図がわかるんだよね。
そいで頼朝が奥州平泉を模した永福寺を作って闇に葬られたとかね。
だから蝦夷、アイヌという歴史に残らない、文字の無い日本の一方の対立政権を考えると、
鎌倉幕府ってのは双方の中立政府みたいなもんなんだわな。 あれだけ敵対する御家人を酷いやり方で滅ぼしまくってた北条が、幕府の最後で日本史上類を見ない悲惨な滅ぼされ方をしたのが面白い。 マンガ日本史を小学生の頃に読んだ時点で
カッケー義経が兄貴に追い込まれたと思ったら
その兄貴の子供も親類に追い込まれて
プロテスタントの工作活動でもないのに
親類同士次々に争って終わった印象ある >>11
今のプーチンと一緒で、侵略した土地の人間をテキトーに次の戦場に送り込むからな
海戦の知識とかほとんどない南宋や朝鮮の兵士がほとんどだった。 >>240
一所懸命のおかげで、国人領主が形成され土地にしがみつくというより
こびりついてしまい、それを引き剥がすのにかなり苦労したけどな しかも北条が乗っ取っても
元寇の論功行賞出来ないから終わるんだろ? 日本のアイヌの歴史は文字がないからほぼわからないけど、
結局北条氏みたいな歴史なんだと思うぞ。
基本狩猟民族だし、西洋の歴史なんかと一緒で対立部族は基本全滅なんだと思うし、
戦うときは基本最後まで死ぬまで抵抗するって感じだろ。
そういう悲惨な歴史は口伝にもならんし、そういうので唯一日本史上のってくるのが鎌倉幕府って感じだろ。 頼朝や北條や三浦の末裔は皆滅びたんだよな。
そう考えると徳川さんは上手くやったもんだ。 >>38
江戸幕府も最後は老中や大老の影が薄くなって勝海舟が責任者みたいになったじゃん 室町幕府は権勢ふるってたのは応仁の乱以前までで以降はお飾りだからねー
朝廷に寄りすぎた 戦国時代と並ぶ修羅の時代だったのは間違えない
でもそういった修羅の時代だからこそ
元寇のような侵略から日本を守れたと言える >>244
その共犯で
悲惨な滅亡の片棒担いだ足利は
本家こそ血は絶えたけど平穏無事に余生を送り
関東に残った分家は明治まで
大名として生き残るのは
何か釈然としない 脳みそコントロールする寄生虫に巣食われてるカタツムリ状態でなんか気持ち悪い
嫌悪感しかない >>261
狭いと言うならヨーロッパはもっと狭いやん
あれが陸続きだったので虐殺の歴史だけど >>262
で足利は女系で北条の血を引いてるところがまた皮肉。 織田信長も武田を滅ぼして全滅戦をしたんだけど、初めて富士山を見て圧倒されちゃって、
その後速攻で本能寺だからな。
鎌倉時代は鎌倉で富士山見放題だけど、誰もそんなの気にしない。
ちなみに富士山もアイヌの象徴だわな。 >>265
武将の外交は嫁に出して血で同盟組むのが世界中でやってたことじゃん
ヨーロッパの王室なんて親戚ばっかだぞ 江戸時代もウソコ諸々除いて微妙だよな。
江戸集住で長屋が普通とはいえ
燃え移るリスク考慮したら止めるべきだったよな。
そもそも火事の度にぶっ壊してたんだろ?
執着する理由って何だったのコレ。
明暦の大火が原因で財政も圧迫しまくったし。 結局日本の歴史は米作の北限を上げていくための積み重ね。
狩猟じゃ人口は増えないしバラックしか建てられない。 つか家屋の密集って今も続いてて
マンションとか老朽化しても改築できないとか
東京とかザラだろ?
この文化は一体何なんだろうね >>270
普通に地震有りきで壊れる前提だからだよ
明治にヨーロッパ建築で煉瓦積んだ建築物が軒並み潰れただろ
逆にそれをやり続けた歴史をシカトしまくったあの時代が異様なんだよ アイヌの歴史なんかはもっとドラマチックだと思うぞ。
字がないからまともな歴史は一切残っていないけど、稲作しないから基本肉食だからな。
まあ人口少ないし鉄器もないけど、たぶん義経じゃないけど戦闘の戦術じゃピカイチだろうな。
あと毒殺がすげえらしい。 鎌倉は北条家が調子に乗りすぎたな
源氏があっという間に消えたのもまずかった >>274
江戸時代に役人が高級品の布がどっから流れてくんだっつって辿ってったらカムチャツカ超えて大陸まで行って中国の役人に会ってたの好き >>273
東京駅は丸太を1万本杭として入れたことで無事だった 大陸になると集団戦で根本的に戦い方が異なるんだよね。
秀吉の朝鮮征伐で決定的に違ったらしい。
とにかく日本は白兵戦で戦っていくんだけど、大陸は西洋もそうなんだけど一気火勢という感じなんだ。
そういうのも狩猟民族と農耕民族とかの戦い方が違うのかもしれない。
ゲルマン民族とローマ帝国とかね。アイヌと大和民族の違いと、京都と鎌倉とさらに東北のアイヌと。
まあとにかく日本の場合はカエサルのガリア戦記みたいなのがないので、わからんけどね。 北条氏は王権から独立運動してる農民ヤクザ、源氏をポアしたのも北条だろうな まともな歴史を教えないから大体こうなる歴史人物人気ランキング
1位、織田信長
2位、坂本龍馬
3位、徳川家康
4位、源義経
5位、豊臣秀吉
6位、真田信繁
7位、上杉謙信
8位、福沢諭吉
9位、武田信玄
10位、野口英世
11位、伊達政宗
12位、伊能忠敬
13位、宮本武蔵
14位、吉田松陰
15位、西郷隆盛
ほとんどゲーム、マンガ、小説、ドラマ、映画で決まります。 将軍を都合よくお飾りにしたけどその内に自分達もお飾りになり最後は乗っ取った奴等と一緒に滅ぼされるのは皮肉というか哀しさを感じるね >>267
イギリス王室は王朝が断絶したら適当なドイツ人引っ張ってきて国王に据えるぐらいフルキシブル(ちょー適当 鎌倉幕府は世界史レベルですごい
室町幕府は3代で終了後は日野富子物語からの戦国時代 津波で建造物がほとんど残っていないのが原因じゃない? 義経のイメージが良すぎて
頼朝のイメージが悪すぎ
史実は複雑そうだけど >>289
義経は戦術の天才
頼朝は政治の天才
こんなイメージ >>276
後土御門天皇が室町幕府と喧嘩したたま死んでしまい、朝廷はその葬儀費用も出せない上に、幕府にお金を出してもらうことも出来ず、天皇の遺体を49日まで布団に放置したとか興味あるやん 元寇は撃退失敗したほうが結果的に日本は早く発展したと思ってるから北条時宗は評価しない
日本の発展を阻害した >>286
全く無関係じゃなく
スチュアート朝ジェームズ1世の外孫にあたる
ジョージ1世連れてきた >>257
室町と言いながら後期は京都から逃げ出して地方を流浪することも度々 いいくにつくろー
↓
1192296年
ってモンモンモンで答え出てただろ! >>236
平原で正面から当たると分が悪いからジャングルでゲリラ戦して追い返したみたいだけどね
まともに戦うと元軍はなかなかの強さっぽい >>286
だって今でもスペイン王室とかがイギリスの王位継承者リストに入っているんだよ。遠い親戚になるから
カトリック教徒のイギリス王てなかなかいい >>267
その通りですけど、足利は特に何代にも渡って北条が嫁を送り込んでる家だから皮肉だなと。
鎌倉幕府滅亡も何だか唐突だし、足利尊氏も成り行きで幕府討伐に加担したけど、それほど北条氏打倒に熱心だったのかが疑問。ずっと行き当たりばったりに行動してるようにもみえる。 北条氏は最後まで鎌倉のトップにはなれなかった
そこにすべてが凝縮されているといえるだろう 元寇は九州の武士団が強かったから勝てたんだよ。
幕府は大して勝ちに貢献してない。 鎌倉幕府は実際には京都の後押しでの大和民族の東征であり、
鎌倉幕府の滅亡は実際には東北のアイヌ政権の策謀による大和民族の押し返しであり、
一方で稲作や鉄器製造が関東東北に行き渡り生産性が向上するとともに、
アイヌ民族が得意とした狩猟で基本となる夜討ちや騙し討ちといった戦術や山城の構築や山地での籠城や
山間部の移動などの戦闘技術の代償があったのではないか。
まあ結局そんなこんなでキリスト教の布教もあり、江戸時代で中心が江戸になる。 >>293
そいつら文化的に発展させてのではなくてその地域地域の文化に馴染んで飲まれて消えてったからモンゴルって文化の評価はまったくないぞ
モンゴル発祥ってもんを思い付かんやろ >>305
交通は異常に発達した
西洋文化やイスラム文化が早く流入した可能性が高い 結局近畿、関東〜東北で何が違うかというと、山の険しさが違うんだよね。
圧倒的に稲作に適してるのは山の低い関西なんだけど、関東には関東平野があったので、
その辺だろうな。結局条件がそろえばアイヌだろうが大和だろうが生産性が高い方を選ぶというわけだ。 >>28
なんでそんな思いつきの出鱈目の嘘を書き込む 日本の歴史の教科書そこまでやらないから
鎌倉殿楽しんでるよ 刀鍛冶→農機具の鍛冶屋ってのも多かったんだろうな。
まあそういうのがあって何とか現代までくんだわな。
歴史ってのは語られる華々しいのはほとんど意味がなく、実際は首狩り族をいかにして単純労働で効率化するかという長い積み重ねだ。 >>307
関東平野は湿地で人がまともに住めない地域だった
そこを開発させたら金使いまくって大変やろうなぁってやらせたのが豊臣でそれをやり遂げた結果260年の江戸時代を実現した家康だぞ >>301
恨みを買っていたが
霜月騒動で三河の頼朝譜代はやられたが、尊氏はその敵討ちしたんだろう
安達氏は三河出自で、安達泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭だった
霜月騒動で打撃を受けた御家人
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・長井氏(大江氏)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭 幕府って明治になって作られた言葉なんだよな。鎌倉幕府って当時何て呼ばれてたんかな。 >>309
そもそも北条早雲自体、北条とは名乗ってなくて伊勢氏を名乗ってたでしょうに。 >>309
鎌倉幕府の北条氏の末裔が後北条氏の時代まで生き残っていて、その家系から家系ブランドを買い取ったという説はあるな >>299
森の中から弓矢で攻撃とかエルフみたいだな >>304
違う
範頼が何故三河守だったのか考えよ
義家第一の家臣は三河伴氏だったが、北条氏は三河伴氏の親戚の伊豆伴氏の血を引き、三河出自の安達氏が頼朝に政子を紹介したと話も残る
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類) >>304
続き
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>284
こういうのも単品で見る分にはいいんだけどな
まあこれでもかってくらい盛りすぎてなんか食傷気味 北条時政は伊豆伴氏の血を引く
伊豆伴氏は伴善男を祖とするが、同じく伴善男を祖とする三河伴氏とは異母兄弟の親戚となる
義家流源氏と北条との関係は、伴善男まで遡り考える必要がある
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 鎌倉やるくらいなら小田氏治の野望とかやった方がいい 元寇で勇敢に戦い撃退したんだよな、元は雨のように降ってくるうんこ爆弾のあまりの臭さに戦意喪失して退散したってNHKでやってた。 >>309
2代氏康が北条氏をリスペクトし名乗りだした。
早雲は伊勢氏の出だからな。自ら名乗ってなく初代後北条氏当主なので後世の人が北条早雲と呼ぶようになった。 >>325
9回も居城を奪われるとかもうアンタッチャブルレコードだろ 単に知られてないってだけな気がするな
宮本武蔵とか織田信長が今有名なのも、明治時代の漫談とか小説で取り上げられたからだろうし、それがなきゃ今でも無名に近かったかもしれない お前らは知らないだろうけど貴族が法律で政治をしてた国から
武士が支配するやべぇ国になっちゃって700年前後も弱肉強食の地獄が続いたんだよ >>323
お札から2人もランクインにツッコんで欲しいものだ。
ちなみに、20位までやると新撰組から土方くんと沖田くんがランクインするからね。もちろん >>325
市原隼人が演じた八田知家の子孫で戦国最弱武将の汚名があるが、その都度取り返しているんだから最弱じゃないよな。
最後は豊臣に破れたが、小田氏治は畳の上で往生だろ。 ちょうど鬼神降臨伝ONIやってたから授業はそこが好きだったわ
知ってる名前が出て来て楽しい >>330
平安時代にも死刑は条文上はあったけど、逆に貴族たちはたたりをおそれて死刑判決は出さなかった 創価学会は犯罪を繰り返す邪教です。
創価学会員にはマニュアルが配られ、日常的に気づかれにくい犯罪を繰り返しています。
マニュアルは脱退者が暴露したものが多数あり、検索ワードに「創価学会 敵対者 マニュアル」などで適当に検索するだけでもたくさん出てきます。
このような邪教を野放しにしてはいけません。創価学会などのカ・ル・ト・宗・教は全てつぶしましょう
(「創価学会」と「カ・ル・ト・宗・教」を同時に書き込むと規制されるので余程クリティカルな書き込みである事が良くわかります。) 1333よりも1603のゴロ(ヒイローおっさん登場)の方が無理過ぎだが一発で覚えた 鎌倉幕府は、ささいな事で有能な御家人を処刑するから滅亡したんだよ >>294
全く関係なく君主になったのって
スウェーデンのベルナドッテ家くらいだよね
そののちは幾つもの王家と婚姻関係を結んでいるし
やや条件は違うけど違うけどあとはギリシャのデンマーク王子か 津波で大仏が流されたんだろ
立地を考えなかったバカ幕府 >>247
いやさすがにモンゴル人よりも南宋や朝鮮の方が海戦の知識あるだろ >>344
そう言えば岸田文雄もクビポンポン刎ねるな 外国からの侵略とガチで戦ったのって、鎌倉幕府だけやん >>1
奈良時代よりは人気あるだろう。
聖武天皇のヘタレぶりと来たら殺してやりたいくらいだよ。 いい国作ろう鎌倉幕府の語呂合わせが消えたと思ってたら
今は復活してるんだろ?
歴史っていい加減だよな
ゴッドハンドとか言うゴミとかがわんさかいたんかね
取り敢えずゴッドハンドとか言う奴は公開死刑にすべきだわ ちょうど昨日鶴岡八幡宮行ってきたわ
あの周辺で店やってる人一生安泰だろうなうるやましい >>91
そういやネットの書き込みソースだけど彦根市在住の5chネラーが井伊の殿様の末裔が同級生にいて驚くほど可愛かったっていうのもあったな >>299
なかなかじゃなくて当時の世界最強だよ
子供の頃から生き死にばっか考えてた奴等だし、そうかと言って生に執着があるかと言うと、「お前らの部族強いし先鋒な、敵も強いからお前ら全滅するだろうけど戦に勝ったらお前らの名誉な。」みたいな事で平気で命捨てるしw モンゴル軍を撃退した優秀な政府だったけど、それが原因で破綻して潰れた。 >>350
なんか地味だよな
どうしても武田とかあっちの方が面白い >>9
悠仁さま、低俗なインターネットはお控え下さい 武士の礼儀作法ができる前だからやってることモロ蛮族で面白い >>150
9番の捕手が一番狂ってて好き
ピッチャー苦労してるだろうなぁw >>65
実際江戸幕府って権限が老中に集まってほとんどの将軍は何もやることない、やれないある意味鎌倉と同じだった >>357
土地持ちならな。
借地なら必ずしも安泰とは言えないのでは?
条件にも依るだろうけど。 そもそも幕府って何なのかよくわからんよな。爆発しそう めちゃくちゃ人気あるじゃん
室町や江戸とかの開幕の年号を知らなくても
鎌倉幕府の年号を知らない人はいないだろ 頼朝が征夷大将軍になって鎌倉時代は始まるんよ(´・ω・`)
他の説を採用すると基準がなくなる。1338やら1603とかじゃ
なくなるわけで。
ま、鎌倉時代が人気ないのはあんま知られるとまずい
からなんじゃね。 明治政府が鎌倉下げしただけで徳川家康は御成敗式目を参考にしてたわけだし
明治政府は足利尊氏を下げて弱い新田とか楠木持ち上げてしどうしようもない >>353
平安期に新羅の入寇っちゅうのが20回以上あって防人で防いでるけど
朝鮮が侵略してきてる歴史的事実をなぜか教えない日本の教育 >>19
鎌倉幕府って史上初の武家政権だからね。手探り状態だっただろうし、頼朝は源氏の棟梁と言えるだろうけど、流罪人で、東北武士たちの力を借りないと何も出来ない状態だったしね。 >>362
幕府は大して働かないよ。
九州の武士団に丸投げ。だから、誰に軍功があったかが判らず怒って幕府に抗議し、後に褒美を貰った武将もいただろ。軍監さえ送っていない。
まあ、外国勢力と戦っても防戦では領土を武将らに割り振りできないから惚けた説さえある。
時宗ってそういう執権だぜ。 対馬に蒙古が攻めてきた時代だっけ?
このへんから分からない >>222
いまとおなじ。貨幣でなく物品貨幣というだけ。
一度に一箇所に年貢を徴収するっていういわゆる年貢のイメージでなく
生産量(GDP)を把握して約束をするだけ。
一度に全部年貢持ってこられても保管する場所ない。 ちなみに東国の貨幣は絹。
そこに平清盛が宋銭(中東でも通用する国際貨幣)を
独占して入れた。
朝廷も東国の武士もそのままだと金の面でも権力失う。
だから平氏政権を倒した。 平氏にとっては紙に1万円と書けば物が買える状態になった。
というのがわかりやすいか。 >>150
この対応で正解
これがなかったら日本は乗っ取られてた
元にとって不幸だったのは武家政権全盛の時に来ちゃった事だわ 白村江以降調子乗って朝鮮が何十回も日本攻めてるからそれで九州の諸勢力にとっちゃ防衛慣れしてたからな
安定期すぎて腐敗停滞期に入った時宗の時代でも防衛体制に簡単に移行できたのはこの慣れのおかげだ 日本が海外から侵略受けたのは元寇が最初じゃないからな
その前に朝鮮から何度も侵入受けてるんで >>255
男系に拘らなければ北条の末裔なんて大量に居るだろ?足利将軍は全員義時の子孫だし。 元は騎馬民族で船が造れないから、征服した高麗に建造させたが、費用がかなりかかり、元々国家予算が疲弊していたから大した造りの船じゃないのを大量に。
神風と呼ばれているが、時化た海だと沈没する造りだったんだろな。 文永の役で、防御用の土塁を築いたのに土塁越えて戦う話スキ。 鎌倉時代の太刀や槍に大弓は大鎧をブチ破って斃す事に特化してるのが好き 鎌倉→たった3代で本家乗っ取られるが一応外敵は阻止する
室町→金閣寺銀閣寺(金がなくて銀はなし)作ってるだけ 終盤グダグダ 応仁の乱から戦国時代まで100年内乱状態になり酷い有様になる
江戸→なんとか300年近く日本を統治するが逆に平和ボケしすぎて外敵に対応できず倒幕される
こんなイメージだわ >>354
広いだけの無能墓作りやがって
ピラミッドの足元にも及ばんわ
おまけにアホ宮内庁の隠蔽体質 >>391
沈没しなかった船も造りのせいで揺れまくるから人も馬も船酔い酷くてロクに戦えなかった説も最近出てたね オマイラ詳し杉だろ、ちなみに武田氏は戦国時代まで繋がってるの? >>39
いい国作ろう鎌倉幕府の時代は終わったんだよお爺ちゃん >>402
そうです
ちなみに秋田の殿様佐竹氏は
上総介殿に騙し討ちされた奴の弟の子孫 >>30
それで例えるなら豊臣と徳川だろ
織田と徳川は主従関係というより名目は兄弟分の同盟関係 >>48
大泉が生きてた頃は下らんと思ってたが、
死んだ後から面白くなってきた >>396
室町はむしろ序盤のグダグダが中盤に再燃
まとめれそうな奴が何回か出るけど
あと少しといったところで病死あるいは暗殺されて
更に酷い混迷を産んで戦国時代に突入 百済無いファンタジーが日本史。
ハラキリ革命を起こした徳川。 >>411
いやいや
北畠顕家という貴公子は…
東北から騎馬でパルクール決めてたな… >>40
最近の研究で、2代氏綱の正室が
遡ると執権北条氏の血筋で、
氏綱による北条姓への改姓はこれを根拠に朝廷に正式に申請したもの、
氏康以降は文字通り北条の後継者、という事になるらしい。 >>400
船底二重構造の船な。
当時としては強固な船底だが、揺れがひどかったんだろな。
そこに兵隊を乗せたんだから病気にもなったろな。
航海には不向きな船だったんだろな。
二重底の船は幹部が乗る船だろな。 それさえ沈んだんだから大した技術ではなかった。 >>416
鎌倉と室町と豊臣のダメだった所を潰していった結果かもね 小学生でも知ってる頼朝だが死因がよくわかっていないと聞いて恐ろしい >>411
河内源氏の連中だなw
北畠は軍事貴族の村上源氏 >>419
鎌倉幕府の公式文書の吾妻鏡は北条家のために書かれているから、北条家に不都合な真実はかかなかった。
だから、北条が一枚噛んでいる。畳の上で死んだわけではないからな。 三谷の大河、最初は面白かったけど、
義時や義村までブラック化して、
クソつまらんくなった 今のNHKの大河ドラマは歴史ドラマってことで、
特に司馬遼太郎原作なんかが流行った影響なんだけど、
史実に基づいたフィクションってことでやってたんだけど、
実際の一次資料に基づいた歴史研究が盛んになったことで、
ストーリー自体が今の日本の芸能界じゃ対応できないレベルになってしまったというだけ。
特にウィキペディアの影響がデカいね。 >>424
自分的には好きな展開だけどね
むしろ時々はさんでくるほのぼのシーンをやめてほしい 鎌倉時代は嫌いだよ
登場人物が私欲・家欲・土地欲で動く893イズムばっかり
強盗団同士の戦いなんて見たくもない >>430
直接関係者がまだ存命中は無理だろう
いだてんみたいなのならできるが まあ基本的に今の文系学問はウィキペディアに集約されてるわけだが、
文字を読むのが得意じゃない人がテレビを見て理解した気になっているわけだ。
この構図は変わらんけど、まあ普通はこれは駄目だと気付いてネットをやるわけだが。 >>58
ヒストリーチャンネルでやってる「まんが日本史」の最期の方で同時代の世界の動きや出来事をサラッと紹介してるんだけど勉強になるわ 三谷脚本の応仁の乱は見てみたい
役者はイケメンも美人も不在で全員喜劇やお笑い系で めちゃくちゃ中央集権的な制度なのに
武家の棟梁でない北条氏が専制することに無理があるだろ 1192じゃなくて1185だし、くぎょうじゃなくてこうぎょうだし
厳しい先生に駆り立てられて必死に覚えたのにおじさんは悲しいよ😢 >>439
中世以降皇室を廃流した平民なんて他にいないわけだから、そりゃ嫌われるように描かれる
だが自分も今回の大河観てて教えられたが、武家政治の本流を作り上げた偉大な人物よね、しかも最初は全くの無名な存在から >>440
というか、日本史はそんなのばかりだから嫌になるんだろ…島国で他国からの日本の情報が少ないから信憑性も低いんだろ日本史は。 日本史で面白いのは
・生類憐みの令
・隠れキリシタン
・江戸時代の終わりから明治維新がおこるまで
だな >>442
幕府開きますなんて宣言してるわけじゃないんだから
幕府の定義の問題
年号をただ覚えることに意味がなくて
どういった歴史的事実をもとに幕府の実効支配が始まったかということを説明できればいいんじゃない? >>432
浅野忠信の川島正次郎は子供いなかったんで
きっちりヒールキャラ
実際自民党ナンバー2で暗躍してた人だからいいんだけど 鎌倉殿終わったらNHK+で北条時宗見ればええんか?
というか来年鎌倉殿シーズン2やれよ >>445
それなら承久の変までは西日本は実質朝廷が支配してたわけだから
時代の変換点そこなんだけどな >>442
新しい事実関係が発見されたとかじゃなくて「鎌倉幕府」という政体がいつ生まれたのか、って解釈が議論の対象、
将軍が居なくても鎌倉幕府はあったので将軍宣下は鎌倉幕府の成立には必ずしも必須ではないとなったので、
何年に成立したとはっきり言うのが難しくなった結果 実況スレで義時とのえの間の息子が伊東四朗になると聞いてたまげたわ 文化というのは余裕から産まれて来る。
見てみろ!
鎌倉のショボさを
蛮族の文化を。
どこに文化が?! 交易で潤ってた平氏と奥州藤原氏を打倒してできた
鎌倉幕府は今でいうところの反グローバリズムの政権なんだと思う
交易なんかされても全く得しない
「貨幣、何それ?」って言う経済に乗り遅れた田舎の武士の危機感から出来たものだ >>450
結局その時の学説でコロコロ変わるだけなんだろ >>448
承久の変までは東国政権だから
幕府の定義を全国支配と置くならそうだよね キャバクラ幕府はまじで存在したら世の中の平和を真剣に祈る 日本史であそこまで完全な朝敵って前北条氏以外いないよね >>428
ほのぼのパートは仕方ないにせよw、
頼朝義経の描き方はすごく面白かったけど、
義時や義村てのはヤクザながらも手堅い官僚的人物で、
だから子孫も生き残っていくんだろうし、
そこの区別をつけてほしかったなと 大江広元が幕府による武家社会形成に貢献するも、その子孫は倒幕に傾倒、三浦は北条に2度滅ぼされる、こういうことがあるから歴史は面白い。 >>416
参勤交代という制度に戦が無くなったことで土地を与えたりする「恩賞」制度も無くなったからな
ただ貿易がほぼできないから家光以降はお金無かったりするんだけど幕府は 身内で殺し合ってるイメージしかない
結局は徳川すげーな、ってなる >>462
倒幕したのは島津と毛利の家臣だけど
島津と毛利は傍観しただけ >>447
時宗→太平記の流れが面白いよね
後醍醐を操ったのが全成の血統になるんだっけ >>466
そもそも頼朝・義経のお父さんである義朝が、自分の父(つまり頼朝のお祖父ちゃん)や兄弟を平清盛に煽られたとは言えコロしてる。 >>466
源氏が捏造だから、一般人の徳川が支配した方が上手く行ったって事かね 物を知らない田舎者だな
名族だらけの三河に生まれれば、名族の血が入ってしまうんだよ
家康が受け継いだ遺伝子
源為朝
足利義兼
足利義氏
吉良長氏
一色公深
今川国氏
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 >>472
血筋や身分に頼らない、だとか余計に凄いだけだろ 徳川家康は、頼家正室の兄の子孫
その兄の正室は安達盛長の娘だ
現在社会においても、三河国の住民は名族の子孫だらけ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 >>474
松平信光が創建した信明光寺が後土御門天皇の勅願所だったり、松平と皇室とはただならぬ関係がある
信明光寺を開いた坊さんの師匠は、増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘だった
そして信光の孫が、天皇とダチの存牛だ
この存牛は、家康が幼少の頃まだ存命で、松平の菩提寺で坊さんやっていた
松平はタダの家じゃないんだよ
存牛
1520年(永正17年)、同じく了暁門弟だった知恩院24世訓公の遺言で後継者に推されるもののこれを固辞。
しかし後柏原天皇の綸旨と知恩院門末の懇請により、翌年京都知恩院25世を継いだ。
応仁の乱(1467年-1477年)で荒廃した知恩院を再興するとともに皇室との関係を深め、後柏原天皇から浄土門総本寺と公称することを勅許され、さらに後奈良天皇より知恩教院、大谷寺の勅願を賜った。 178 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 22:54:20 ID:epWRnYVI0
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変~」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。
193 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 23:05:47 ID:epWRnYVI0
>>188
いや、マジで。
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。 >>24
今年の大河はコロナのせいで大規模戦闘撮れないからな。 センゴク(笑)以前の三河史が、日本の歴史から省かれているのが問題
三河は名族だらけ、武士だらけ
鎌倉期も三河史を知らないと見えてこない
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 >>205
滅ぼしてない
最終的片付けた(中先代の乱)のは三河
関西(六波羅探題)、関東(鎌倉、中先代の乱)を同時にヌッ殺したのは三河国だけだよな
足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作宿(三河県岡崎市)で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
に19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職 >>482
何で誰も興味ないことを永遠とレスしるの?
自己満のため? >>467
島津には畠山重忠の娘が嫁いでるんだよね 鎌倉時代って出てくる奴、出てく奴みんな北条だし
北条じゃないの出てきたと思ったら、すまんな実は北条だみたいなのばっかでよくわからん >>481
これまで悪女に描かれてきたから、今は草場の陰から三谷幸喜にラブコールを送ってるな。
連れていかれる。 >>485
鎌倉幕府を語るに、三河は外せんだろう
スレタイに沿った話しているだけだが
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類) 実朝が死んだくらいで、何で一気に政局になったのかは、三河を知ればよく分かる
関東の武家政権と関西の皇室公家は三河でバランスが取れており
後鳥羽院の従兄弟の旦那が死んで、一気にバランスが崩れたんやと
後鳥羽院は三河国分国主の息子であり、嫁のとーちゃんは三河国知行国主、叔父とハトコは三河国司
後鳥羽院の息子はかーちゃんの兄弟は三河守範頼だ
三河を恐ろしさを知らなすぎるんだよ
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河分国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)
藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)
藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)
藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)
藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘、室は阿野全成の娘) 鎌倉幕府は100年程度で組織の完成、全盛期は滅亡する手前で100年掛かる
それまで100年幕府内で権力抗争をしていた
室町は最初からグダグダ。3代義満が天才で全盛期を築くがやりすぎて敵をつくりまくり
6代が失敗して250年の半分以上は戦国時代
江戸幕府の完成、全盛期は5代綱吉の時代。このあと吉宗は米本位経済を推し進めたせいで地盤が揺らぐ。
雄藩は貨幣経済に転換に成功したのに幕府は米経済のまま
この差で幕末の動乱で負けてしまう。ただ幕府の力は滅亡するまで健在ではあった さわっちゃいけないおひとなんだろうが
三河は鎌倉時代足利氏が代々守護を務め領国化してた
足利というと下野国足利荘のイメージがさかんだが
この時代の根拠地は三河であったから
足利幕府の重臣たちは大体が、前身が三河の豪族なんだわ 鎌倉幕府ほど矛盾を内包した政権というのは世界的にもなかなかないんじゃないか
トップが得宗なのは周知の事実だが、ほかに将軍がいて飾り物だが
いないと幕府そのものが機能しなくなる
中国王朝だったらとっくに禅譲して革命が起こるのだろうが 今日知ったが、勝海舟は北条義時をリスペクトしていたらしいな。
国のために悪者になったからだと。
もちろん国とは全国じゃなく鎌倉幕府。 元寇の大勝利はすごいな。
モンゴルは騎兵だから~とかいうけど主力は水上戦に慣れた南宋、高麗、金だし。
士気が低かったやる気が無かったってのも想像だし、んなこと言ったら他の戦闘でもいろんな民族使ってるし。
地形云々はそれを含めてその国の力だし。モンゴルだってあの地形の民族だからこそってのあるし。
なんてか普通に当時の日本すごい。
楽勝ではないけどちゃんと準備してほぼ侵攻を許さなかった。
日本が平安時代レベルだったら朝鮮出兵のときの明、朝鮮みたくボロボロになりながらの勝利だったかもね。 >>496
何言っていっるか理解できん
勝海舟が鎌倉幕府のために悪役? 東国に攻め込む時、頼朝然り足利尊氏然り、誰もが意識したのはヤマトタケルなんだよ
ヤマトタケルは、伊勢神宮にあった武の象徴である草薙の剣を受け取り、東国に攻め込んだ
その後、熱田神宮に納められたが、頼朝や尊氏は三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く
その意味を考えよ
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)
そして、そのヤマトタケルの実在モデルと思われるのが建稲種命であり、その墓が三河にある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ
幡豆神社は足利義満もからんでいる神社だ
正法寺古墳
https://ja.m.wikiped...F%E5%B0%BE%E5%B8%82)
幡頭神社
https://ja.m.wikiped...AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE 室町は文化的には優れているけど
どうしても古い時代は雅やかな文化人よりも武人としての波瀾万丈なエピソードのが人気あるからねえ
尊氏も頼朝や家康ほど無理ゲーな立場からのスタートではないし >>493
正解には、足利氏は三河→足利→三河な
義兼は、元々は三河いた可能性大
■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史
1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する >>493
三河国碧海荘は足利義兼の祖父が院に寄進したと思われるが
本家は以仁王の生母だ
つまり足利義兼は、以仁王の命令書を三河で見せられ鎌倉に向かったわけだ
そしてこの繋がりには、頼朝のスパイと言われた吉田経房が登場する
藤原俊忠
・忠成→女(以仁王妾)
・俊成(三河守、三河国竹谷荘・蒲形荘開発領主)→定家→為家→冷泉為相(初代冷泉家)
・女(藤原顕頼(三河守)室)
・女(藤原顕長(三河守)室)
・女→吉田経房(初代関東申次、三河国知行国主) >>150
使者を送っても必ず殺されるんじゃ綺麗さっぱり滅ぼすか一切関わらないようにするかの二択しかねーな 悪役っぽい歴史上の人物
・頼朝様
・織田信長
・田沼意次 平家は仲間でわいわい楽しく生きてたのに
仲間殺しがひどい
見せしめ的発想って北朝鮮の支配方法だろw 気づいてなかったようだが >>175
そうとも限らないんだな。中学のムスメの教科書には1192になってる。あと昔聖徳太子が教科書から消えたが今はまた載ってる。あと二宮尊徳はそんとくじゃなく、たかのりと読ませてる >>508
あーいたね、でも何やったかもう忘れてる(´・ω・) そして、祖父の庇護を受けながら、以仁王生母の荘園を管理する仕事をしていた足利義兼
三河国碧海荘は、その後どーなったか?
答えは尾張足利氏(斯波氏)の本領となった
斯波氏のプライドの高さの源泉については、部外者は分からないと答えるだろうが
三河をよく知る奴なら、斯波氏本領たる三河国碧海荘の由緒正しいからだとすぐ分かる
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 >>510
頼朝や信長に比べれば別にそこまで大それた事はやってない
上宮王家を途絶えさせてしまったことくらいか
まあ傀儡となる帝を自らの手で擁立させて権力を手に入れて暗殺されるという流れは
いかにも昔話の悪役大臣なイメージついてしまった印象 室町が人気ないのは簡単
天皇制の問題が絡んでくるので、学校で詳しく教えなかったから
とうぜんマスゴミなんかもなるたけ扱わないようにしてた
山田風太郎が室町ものを書き始めて多くの人が楽しみにしたのに、体調不良で尻切れとんぼに終わったまま死んでしまって残念
鎌倉はむしろ人気と違うのか?
まあ鎌倉幕府の外にいた義経が人気抜群なんだけど >>71
事実か分からんがそんな情報知りたくなかった
事実なら面汚しやないか なんだかよく分からないけどとにかく偉い人に従う、という古代的な身分関係でなくて
土地の権利を保証してくれるから(御恩)、従う(奉公)っていう契約的な身分関係の世の中を作ったという意味で
その後の社会の発展に大きな意味があったんじゃないかと思う 鎌倉幕府→モンゴル帝国撃破
室町幕府→はぁ?
秀吉関白→朝鮮征伐失敗
江戸幕府→英米にビビって開港。倒幕される 頼朝は幕府の幹部を、自らの母方に繋がる人々を優遇したわけだが
北条が乗り越えられなかったのは、その頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事であり、頼朝の嫁として仲間にも入れてもらう事も出来、鎌倉将軍家断絶後は、政子がその後釜と見なしていたのが足利義氏だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 室町期も三河をスタートにしてやったら良い
足利尊氏は嫡子ではなく、妾の子
祖父は三河担当の奉公人のトップであり、嫡子の高義が在命中、清子は在三河の可能性が高い
つまり、足利尊氏は三河生まれ三河育ち
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 承久の乱と身内殺しが致命傷だったね。南北朝と身内殺し、戦国時代の
室町幕府も同じだが。江戸幕府はもっと評価されていいと思うが
幕府を倒した元勲の明治時代に評価されなかったのが影響している。 北条による乗っ取り政権だからなぁ
文化も平安よりぱっとしないし 鎌倉~室町の内戦はややこ過ぎて、人物相関図を作りながら追わないと
さっぱり分からない。
元寇のせいで恩賞無しで戦った武士が大量発生して盗賊化し、悪党誕生。
その悪党を束ねた楠木正成が、後醍醐天皇に買われて朝廷軍の筆頭になるし
源氏の血を引く足利が平家の血を引く北条を裏切って、朝廷後醍醐側についた
と思ったら、現実離れした夢想政治で社会が大混乱。
結局、後醍醐は先走り政治ばかりで使えんと見限って南北朝を作らざるを得なくなったり
めっちゃカオスってる期間だな。 >>527
そんな粗雑なザックリ脳で言い切れるほど歴史は浅くねぇよ、バカチョン・ジパング(笑) >>528
使われていない。そもそも鎌倉幕府は後世の言葉。室町幕府、江戸幕府が
成立してそれらと区別するために鎌倉幕府の言葉が生まれた。 >>424
そこのブラック化は仕方ないけど
北条政子だけを無理矢理善人に描こうとするから義時の行動が無茶苦茶になってるのがモヤッとする
三谷さん小池栄子好きすぎだろ >>526
承久の乱は武士勢力vs朝廷軍の初の全面戦争だな。
長く朝廷、天皇家を支配してきた藤原氏も、これで分裂したし。
まだ武士の体を成してなかった豪族時代に、平将門が藤原氏が牛耳る朝廷に
散々苦しめられてる豪族をまとめて大反乱を起こしたり、その前は
東北のアテルイをやはり藤原氏が征服、統一しようとした延長線上の戦いだった。
桓武平氏の流れは、地方豪族や地方武士の為に、藤原氏が動かす朝廷の侵略に
対抗する戦が多い。 吾妻鏡、北条政子演説意訳
頼朝公に忠勇なる八幡太郎の武者たちよ。各々心を一にして聞いてほしい。
これは政子、最後の言葉である。
我々は英雄の子、実朝を失った。しかし、これは終焉を意味するのか?
否!始まりなのだ! 公家勢力に比べ、我等関東の国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!関東の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
我々は公家共にいいように使われ、関東移民にさせられた。
そして、一握りの公家が奥羽にまで膨れ上がった朝廷を支配して400余年、
関東に住む我々が自由を要求して何度公家どもに踏みにじられたか。
頼朝公が掲げた自由のための戦いを八幡神が見捨てるわけはない。
私の子、諸君らが愛してくれた実朝は死んだ。何故だ!?
新しい時代の覇権を我ら選ばれた武士が得るのは必然である。
ならば、我らは襟を正し、この時局を打開しなければならぬ。
我々は源家と共に過酷な関東を生活の場としながらも共に苦悩し、
錬磨して今日の文化を築き上げてきた。その恩義はシュミ山より高く、海よりも深い。
しかしながら朝廷の公家共は、自分たちが関東の支配権を有すると増長し我々に追討の宣旨を下す。
諸君の父も、子もその公家の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!
それを、実朝は死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、公家共に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
この勝利こそ、源家への最大の恩義となる。
坂東武者よ!悲しみを怒りにかえて、立てよ!坂東武者よ!
我ら関東こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種たる我らこそ日の本を救い得るのである。 おまえらにいいことを教えてやろう
2028年に再び鎌倉幕府の成立は1192年だと教科書に記載される >>533
後半で名執権と謳われた泰時にメインが移るから、泰時との対比でチカラと権力を存分に描いてるのだろう
この大河の本当の主役は、御成敗式目を作り鎌倉の礎を築いた泰時だと言われてるからな
本番は泰時が執権になってからの後半戦だ 承久の乱で何か変わったと言えば、実は大して変わってない
やはり、足利氏の存在はリスクであり、足利氏と院との繋がりは、その後も継続した
1230年代に、足利氏と熱田大宮司家の縁者(忠成王)が天皇になっていた可能性があったわけだが
なっていたら、衝突は不可避だっただろうな
足利氏
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→女→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏(三河守護)
忠成王
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→女→忠成王
野田朝氏
・藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季→野田朝氏(正室は足利義兼娘) >>89
信長が出てくる頃には各地方に大勢力を持ってる大名がいて相関図が分かりやすくなってるからな
太田道灌が活躍した頃の関東なんか鎌倉時代の比じゃないくらいのカオスだぞ そして天皇になる寸前までいった忠成王の正室が、三河守範頼の関係者
足利氏と藤姓熱田大宮司家縁者が天皇になる可能性があった1230年代
三河に範頼の息子が住していた
その息子たる範円の従兄弟が忠成王妃
範円のもう一人の従兄弟が四条隆親の正室になったが、隆親の妾は足利義氏の娘だった
吉見氏
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
藤原能兼→範季→源範頼(養子、三河守)→範円(三河国正法寺僧)
藤原能兼→範季→女(養女)→土御門天皇
藤原能兼→範季→女→順徳天皇
藤原能兼→範季→範茂→範房(三河守)
藤原能兼→範季→範茂→女(四条隆親(三河国知行国主)室)
藤原能兼→範季→範茂→女(忠成王妃)
藤原能兼→範季→女(吉田資経(三河守)室 >>540
そう。幕府という言葉を使い出したのは幕末。鎌倉幕府と言い出したのは
明治時代。 足利氏に三河守護職を譲るしかなかった北条の限界が見て取れる
実は、承久の乱以前以後の権力構造は何ら変わりなく
足利氏は、三河守護職を獲得すると、自ら進んで院に取り込まれていく姿勢が露呈している 承久の乱以降の建武の新政除いて、明治まで天皇は君臨すれども統治せずで今の日本と似てるよね 実は戦国時代以前はお公家も天皇も広大な荘園を持ってて自前の経済力と武力を持ってたのじゃ
完全に君臨すれども、になったのは江戸時代以降 >>542
よくよく幕府の定義ってあまり理解していないわ >>546
三河って明治維新になるまで起伏だらけの農耕に向かない土地だったらかな。
濃尾平野の方が圧倒的に地政学的な重要性は上だった。今でも愛知県の人口が尾張に集中してるのがその名残。 >>535
ギレン風味が混じってるな
それはそれとして内ゲバばかりしてたのによくここまで正義を掲げられるわ >>549
尾張が重要なら、御家人が競って守護職もしくは荘園の荘司なんかを獲得しようするはずなんだが、そんな史実は無い
何故か?
三河に拠点にしながら、尾張の荘園の荘園の領主になればいいからだ
史実、室町期尾張の荘園の領主は三河の奉公衆もしくは三河出自の奉公衆が多かった
具体例を一つ
■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)
藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る
■鎌倉時代初期~中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する
■鎌倉時代末期~南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる
■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城
■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城
■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる >>549
しょせん矢作川水系じゃ木曽川の圧倒的な水量にはかなわんよ
河口に近いあたりの農地のスケールが違う 歴史スレに湧いてくるゴキブリ 三河厨がでるとスレがつまんなくなる
ガチで死ねよクズが 鎌倉期、尾張守護職は中条氏だったが
中条氏は自分の本拠地たる豊田市から尾張に移住しようとしなかった?
自らをリスキーさせる尾張には住まないんだよ
しかも、豊田市は源頼朝の曽祖父が開発した由緒を持つし
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期~戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>553
物を知らない田舎者だな
矢作川流域は日本一の軟水エリア
矢作川の価値は軟水なんだよ
軟水は農業以外にも醸造業に向く
だから、味噌、白醤油、味噌等の醸造業が発展した >>555
無駄に紐付けてイキるの大好きだからな
3行で説明出来ることを100行くらいに膨らませちゃう >>553
尚且つ、海部エリアの農地は、江戸期に三河武士が開発した農地だからな
茶屋新田は三河武士の茶屋四郎次郎一族由来だし、蟹江の鈴木四郎左衛門家とかな
濃尾平野が鎌倉期、室町期も大農地だったと思い込みはファンタジーなんだよ
江戸期に三河武士が開発したもの
尾張は昔から、自力では何も出来ない田舎者なんだよ 鎧着て喧嘩せなあかんわ、、裃着て政治せなあかんわ、作業着着て農地開発都市開発、土木工事はせなあかわで
三河に何でもやらせんなよレベル
大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
松平忠明(徳川家康の孫)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者 味噌や醤油もまだ無く
遺跡は竪穴式が蔓延る
土人に毛の生えたレベル文化 あれって鎌倉専用幕府なんでしょ?他所は関係ないよね >>561
徳川家康と江戸を知らんだろ
徳川家康が沼地だらけの江戸で人が住めるように多くの工員呼び寄せて開拓するため
大量の米と塩分を工員に喰わせ、わずか10年で江戸を都市に変えた
後に開拓した人々が江戸に住むようになり、工事の時に喰っていた濃い味付けが
関東風とか江戸前とか名乗ることになった
ついでに米食文化もその時に取り込まれ、日本では未だに糖分ばかりの米を有難く喰っている >>553
岡崎まで行くと広めの平野があるけど
それ以外は丘陵が多いし水源も矢作川だし。
近代で自動車産業栄えだす前はガチ田舎。 >>565
南関東は三河の植民地だから、開発を進めたに過ぎんよ
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる) >>566
物を知らない田舎者だな
西三河は城下町が4もあった
尚且つ、岡崎城のデカさは江戸城、大坂城に次ぐ大きさ
城郭はパゴヤ城の4.5倍
考えてみろ、現在のパゴヤ城の4.5倍のデカさを誇る岡崎城下が田舎なわけ無いだろう
だから江戸期、江戸では岡崎を岡崎様だ https://www.rekishijin.com/19229#:~:text=%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%9F%8E%E3%81%A7%E7%9D%80%E7%9B%AE%E3%81%99,%EF%BC%94%E4%BD%8D%E3%81%AB%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
コレだと
江戸城、熊本城、姫路城になっているが
姫路城は幕末に改修されて、その時抜かれたのは知ってるが
パゴヤ城など岡崎城の足元にも及ばんわ
東西 約1・5㎞、南北約1㎞に及び、江戸城、姫路城、熊本城に次いで4位に位置する。5万石の城とは思えないほどの破格な城が岡崎城なのである。 大河でチヤホヤされてるが現地行ってみな
何もありゃしない
幕府跡地なんかろくに掘りもせず学校が建ってる
世界遺産も落選した
武家政権の発祥とか言っても結局源氏は殺され北条の傀儡になり終いには朝敵になり滅んだ
散々な場所だよ 室町が一番人気ないけど室町はひそかに人気出てきたな
当然創世記を除けば室町時代が一番重要だろう
南北朝時代知らなければ明治維新がわからんから >>571
尊氏とか楠木とかいるからな
新田義貞もいるし、室町になるまでが面白いんだよなぁ >>535
北条政子はジャンヌダルクの生まれ変わり 鎌倉幕府は独立勢力じゃなくて自治領みたいなもんだからな
武力は強いけど
なおかつ北条家が家格低くて将軍を奉じる形でしか政権作れなかった 鎌倉幕府で義時と仲良かった大江広元の子孫が後の輝元らの毛利氏に繋がってるなんて歴史知ると面白いな 幕府は皆15代で滅んだと聞いてたが鎌倉は16代なんだな >>2
たしかに
室町幕府なんてあったかどうかも怪しい >>4
だが幕府は弱体化して天皇家や足利に滅ぼされた >>581
でも室町は王朝文学の最後に輝いた時代だったからな。
増鏡 とわずがたり 五代帝王物語 幕府できてからは地味な内ゲバしかしてないからな
得宗専制になってからの重要イベントって承久の乱と元寇意外に何かある? >>579
大江広元は三河の藤姓熱田大宮司家サイドの人間であり、実は義時は敵
広元の5男が養子入りした結果、より三河シンパになった
足利義氏と大江広元の5男はハトコ関係
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→女→義兼→義氏(三河守護)
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の5男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))
その5男の子孫が、三河の萩の南朝の末裔を長州に連れていき、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
コレが山口県萩市の由来だ
この縁故パワーが炸裂したのが明治維新
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、現代社会も徳川幕府は崩壊していない >>591
足利義政が大泉だろうな間違いなく
メフィラス星人は畠山義就辺りかな >>577
時代も政子よりずっと後だし、年齢や状況も違うけど女性で君主的な人の演説で戦うというとマリア・テレジアの方がジャンヌ・ダルクよりは近いかな。 中世から本当に尼将軍になって支配できる日本
ジャンヌ・ダルクが焼かれる西洋
じぇんだーとか上から目線の寝言垂れるのは1000年はええのが西洋蛮族ども ID:WyZvUnp30とかID:5UgGW4X00とかスレとなんの関係もない創作歴史を嬉々として垂れ流してる人がいて怖いな
こういう人達ってどこかに集めて隔離させとくの出来ないんかね?
それっぽい装丁の本を一冊こさえて、○○ちゃんの自説が本になったわよー的な自己満さしとく施設があってもいいと思う
本人に見せたらそく断裁 武田信玄が天下を取っていたら相模平野全体を「鎌倉」として新鎌倉幕府を開いていたとかなんとか >>599
精神病質のバカどもはIDでNGにしとけ。決して返信なんてしないように。 >>19
そもそも武士の形態が全然違うし
昔の武士は基本半分農民だよ
江戸に入ると兵農分離で武士と農民の分離が行われたと「教科書的」にはされてるけど
あれも実際はそうじゃなくて、藩によってかなり事情が違っていて、兵農の境界が曖昧な藩も多かったみたいだし
そもそも武士って言うのは上層身分は別だが、武士でも下っ端なら平時は畑耕して農民してるし
半士半農がめっちゃ多かったわけで
それと江戸時代の武士は朱子学に基づく武士道を教え込まされてるが
それより前の時代の武士たちは、全く別の武士道を信奉してるので、実質、別物だぞ >>594
外国人ながら夫ピョートル3世廃位してロシア皇帝になった
エカチェリーナ2世のほうがまだ近い >>604
則天武后の武氏が本家乗っ取ったパターン
が北条氏だろ >>4
日本史上トップ10には入る出来事ではあるよね 日本刀の傑作ってこの時代のやつだっけ。ロストテクノロジー化している作り方ってだけだっけ。 >>595
頼朝の三河の母方に繋がる人々にケツ持ちしてもらってこその政子なんだが
頼朝は幕府の幹部を、自らの母方に繋がる人々を優遇したわけだが
北条が乗り越えられなかったのは、その頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事であり、頼朝の嫁として仲間にも入れてもらう事も出来、鎌倉将軍家断絶後は、政子がその後釜と見なしていたのが足利義氏だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 流浪の身から信長に拾われて15代目にさせてもらったのに信長出し抜こうとして追放されてあっさり幕府終わらせた義昭w 間抜けな田舎者だな
東国、関東東北を虐めてきたのは関西ではない東海地方
古くはヤマトタケルな
東国に攻め込む時、頼朝然り足利尊氏然り、誰もが意識したのはヤマトタケルなんだよ
ヤマトタケルは、伊勢神宮にあった武の象徴である草薙の剣を受け取り、東国に攻め込んだ
その後、熱田神宮に納められたが、頼朝や尊氏は三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く
その意味を考えよ
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)
そして、そのヤマトタケルの実在モデルと思われるのが建稲種命であり、その墓が三河にある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ
幡豆神社は足利義満もからんでいる神社だ
正法寺古墳
https://ja.m.wikiped...F%E5%B0%BE%E5%B8%82)
幡頭神社
https://ja.m.wikiped...AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE 鎌倉の支配層をよく調べろ
文字が読めない坂東武士などパシリだ
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏の親類) 当時の武士ってチンピラゴロツキと同じだったんだよな 義時は江戸時代には源氏を滅ぼした不忠の臣として嫌われ
明治時代には三人の上皇を島流しにした逆臣として嫌われた >>615
皇室を廃流した平民など日本史上義時ただ一人なんだろ
そりゃ嫌われるよ >>611
間抜けは、真っ黒けの炭になったノビナガだと思うが
そして室町幕府は崩壊していない
何故なら室町幕府の中の人たる徳川家康を倒しで初めて幕府が崩壊するからである
明智光秀は幕府再興を願い、本能寺の変を起こしたが
その明智光秀、出自は三河の藤姓熱田大宮司家庶流の進士氏だった
日光東照宮も、全て意味があるんだよ
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀?(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝が三河の母方従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>616
しかし公家政治が酷すぎて武士が台頭してくるわけで、
承久の乱も仕掛けたのは京側だからねえ
負けた時の上皇の振る舞いも醜悪だし、
現代の感覚なら義時政子の方が好感もてるがね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています