鎌倉幕府を滅ぼそうと新田義貞が挙兵した時20万人集まった←マジかよ? [194767121]
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昔の戦争ってかなりの人数がぶつかり合うけど
当時の人口どんくらいよ シナもそうだけど室町辺りは数の盛り方が異常だからなあ (´・ω・`)元日雇い土方で令和でもナマポの俺ですが
20万とか鳥取市の人口と同レベル >>1
えーマジ貞義!?
貞義が許されるのは小学生までだよね
きもーい 日本三大テロリスト
藤原鎌足
平将門
源頼朝
足利尊氏 太平記は盛りがスゴい
湊川の戦いなんか足利方50万とか書いちゃってるし この辺の話はもうほとんどファンタジーみたいなもんだって聞いた 挙兵したのって上野だから群馬だろ
もうその時点で吹き出しちゃう >>29
そういう面白いことは書かないでくれ。
電車内でにやついてしまったw 室町だって戦国時代と変わらないんだからありえるでしょ 湊川で勝手に楠木正成を捨て置きにしたのは許せないが、それはそれとして惚れた女の為に死ぬとかなかなかできねーぞ。あと黄金の太刀の逸話。 北条時行の中先代の乱なんて100万人くらい蜂起した事になってる 何で室町辺りの史書だけ明らかに盛り方が異常なんだろうな
他の時代は割と現実的な数なのに そもそも日本人口が少ないし武士もそんなにいない
嘘で塗りかためられたドラマ 太平記は盛りすぎだけど、太平記わからないと日本近代がわからない
明治になって日本最高位の栄誉である正一位の第1号が秀吉、信長でもなく楠木正成で第2号が新田義貞なった意味
そして南朝のボスの北畠親房と南朝復興運動をした水戸黄門も正一位を叙される
皇居前に正成像が立った意味 分倍河原の戦いの死者を埋葬したとされる府中の三千人塚も調べてみたら骨は出ず全然関係のない信仰の拠点だったらしいし。 >>1
150人だったと太平記には書いてあるだろう 一応日本を二分した戦いではあるから荒唐無稽とまではいかんだろ
秀吉の小田原攻めが20万超えるんだし 室町初期の人口は関ヶ原のころの半分くらい
家之子郎党から雑兵まで含めて、全国の新田方の勢力を表したなら20万人は余裕だろうね
稲村ヶ崎を攻めたのが20万人だと多いな 20万人も集まったらトイレ混むから嫌だわ(´・ω・`) 山名宗全や里見義堯も新田氏の一族だからな
蜂須賀氏も元を辿れば新田氏 >>53
おおざっぱにそんな気がするね
学術的にはどうなんだろ ただ北畠顕家が日本始まって以来の大遠征をやったのはガチ
進撃速度も秀吉以上 ドラマの鎌倉殿で頼朝の最初の挙兵時の人数が24人だったって知って驚いた。あれ史実なのかな。 このあたりの時代の移動距離は異常
足利尊氏の総行軍距離は5000km 楠正成がこもる赤坂城だっけ?包囲した幕府軍100万とか書かれてるから
太平記は数字盛り過ぎだと思った 先祖が新田義貞の弟の脇屋義助の軍の兵隊だったみたいだが、鎌倉に行っても別に祟られたり呪われたり気分が悪くなったりはしない
もしかしたら鎌倉攻めの軍に入らず地元居残り組なら少しガッカリだな >>62
侍の人数
下人(後の足軽)を足すとだいたい×5ぐらいの人数になる
三浦氏の援軍300を期待していたぐらいだから、かなり少なかったのでは >>62
源平盛衰記では90名となってるらしい
ドラマの24人はさすがに少なすぎるような 秀吉は補給部隊作って進撃したけど
北畠はヒャッハーで現地調達だし
違うでしょ 調べたら群馬で生まれて京都にいって関東で戦って京都にもどって最後は福井で死んだって
わずか30代でこの濃密な人生と移動距離
すごすぎるな 秀吉の時代は勢力均衡の時代だから顕家みたいな行軍は恨みを買うから不可能
尊氏と顕家、義貞は日本列島を舞台に鬼ごっこやってるから >>61
そこらが事実だとすると現実的に数自体が少数だったのだろうなと言う考えにどうしてもなる そら産業革命までは食料生産しかやることなかったしなw >>61
補給は現地調達で略奪の限りを尽くして奥州軍の通った後には草一本残らなかったとまで言われた顕家と、糧食もキチンと金を払って調達して用意して進軍した秀吉の進軍速度を同列に比較しちゃいかんよ 田んぼで足とらてれる時にヘッドショット喰らったんだろ?
まんが日本の歴史で学んだぜ 昔さいとうたかをの太平記読んだときに原本からの引用の部分で毎回
※このときの人数は〜万とあるが、これは誇張されたものだと考えられる
って注釈がついてるのが面白かった
マンガ自体も普通に面白かったけど >>80
世界人口が2億かそこらな時代に1国でポンポン100万人レベルで動いてたらあっという間に経済崩壊するわな >>27
一般人ならどこの村落にも属してないようなのはそっこう殺されて終わり 空港に旅客機にと破壊して地球を守るプーチンに対して、
血税強奪して私腹を肥やすために地球破壊して災害連発させて人殺しまくってる世界最悪のテロ組織公明党をぶっ潰そう!
://dotup.org/uploda/dotup.org2808598.jpg この時代の歴史書は中国風に盛るよな。戦国時代になると割と信憑性のある数字になるけど。今のロシア軍見てりゃ分かるけど、大軍勢を動かすにはどえらい兵站線の構築が必要で、輸送能力を人馬や船に頼ってたなら尚更。20万の戦闘員動かすにはその数倍の兵站要員が動かないと難しいと思う。
豊臣秀吉の小田原征伐も朝鮮出兵もその記録が残ってるからね。そういうのが残ってない大規模戦闘は基本眉ツバだと思っていい。 最初はショーケンだったのに、途中で根津甚八に変わった >>91
曹操軍は28万だったな
内訳は曹操が率いてきた20万
荊州軍4万、水軍4万
対する周瑜軍3万、劉備軍1万、関羽と劉琦の水軍1万
このほかに寿春、徐州方面に張遼や孫権軍が数万 >>71
歴戦の武将なら、それぐらいの転戦ザラだと思う >>92
弘安の役で博多湾周辺に少弐や菊池など九州武士が3万、宇都宮など関東武士が4万集まっている
この時元が九州より長門に先に上陸しようとしたが中国地方の2万に撃退されている
京都防衛なども含めて鎌倉幕府の動員兵力16万
これぐらいの兵力が鎌倉時代の限界だろうね 新田1万2千人
鎌倉6千人
下っ端や兵站要員含め多くてもせいぜいこの程度だろ 日本の総人口
鎌倉幕府成立時(1192) 757万人
室町幕府成立時(1338) 818万人
江戸瀑布成立時(1603) 1227万人
明治維新(1868) 3330万人
終戦時(1945) 7199万人 デイリースポーツの今野良彦
文章下手過ぎて泣けてくる 俺、新田義貞の子孫
先祖が天下取れなかったの残念だわ 頼朝挙兵の千葉県にも百騎坂、千騎坂、万騎坂と今に残る地名があるらしいな
日本人のおなまえっで見た >>99
世界史ならアレクサンダーとか
モンゴルのスブタイの行軍距離 当時もアバウトだが、ある程度敵兵の数を数えるやり方はあったんだろうけどな。
そうじゃないと、作戦が立てられないし、斥候の役目が果たせないからな。 >>108
脇屋かな
あとは中村くらいしか知らんけど 20万もの軍勢があの狭い鎌倉に殺到したらおしくらまんじゅう状態だよな? 実際関東平野で陣敷いて鎌倉で包囲戦するには足りないぐらいだろう
兵站は米と味噌を袋に入れて自分の馬にぶら下げておけば
日本は重い飲み水と飼葉は現地調達できるから補給なしでもかなり行動できる
大陸に遠征して城塞都市の間に何もない状況に対応できなくて詰んでしまうわけだが だって、平家打倒して源氏の世にしたのに、気がつけば北条『平家』の世の中になってたって、詐欺だぞ >>104
代わりに新田の子孫を自称してる徳川が天下を取ってくれたじゃないか >>128
たんなる関西弁のおっさんに
ついてく人はいない >>127
新田次郎はペンネームだったような
甲斐武田家臣の子孫で江戸時代は諏訪高島藩の郷士
息子さんの数学者が藤原正彦
遥かなるケンブリッジは面白かった >>128
箔をつけるべきだったよな
後醍醐天皇も適当な役職と官位与えりゃよかったのになぁ
まぁ武家の台頭が嫌で争ってるんだから、無理なのはわかるけどさ・・・ ウチの家系図の始めの方にいらっしゃるんだよ、新田義貞公が。
お前ら少し頭が高いんだけど。 >>1
そのころ日本総人口が20万くらいだぞ?(てきとー) >>135
ごめん横入りした
別に足利はどうとも思ってない >>128
楠木軍だとうんこ掴んで投げなければならないから 後醍醐一派と新田軍に足利軍が入り乱れ、さらに足利軍が内紛で分裂とか、太平記の面倒くささは異常 今でも鎌倉の砂浜を掘れば人骨がゴロゴロ出てくるし
材木座だけでも新田の鎌倉攻めの時の骨が900体だろう
太平記の戦死者6000は盛ってない キャハハハ!幕府を倒そうとするのは小学生までだよね
20万人とか嘘松でしょ! 天狗に言われて出兵したという伝承が地元に残ってるw 天狗に剣術を教わったってのは
義経の逸話にもあったよな
山伏と天狗について >>104
お前が本当に新田家の末裔ならば、足利家の末裔って事だ
足利家の末裔というだけでは新田家の末裔とは成らない 遠いむかし、新田と足利の御曹司がライバルで出てくる小説読んだなあ
吉川英治の太平記だったかもしれない
内容はほとんど覚えてない >>152
寧ろドマイナーな新田氏が討幕の際に少ない兵数を足利の名の元で増兵して行った
因みに、双方の地元では足利市民は新田氏を何とも思っていないが太田市民は足利氏を煙たがっている 今も... >>156
まあ言われているのは、新田義貞の実力で兵を集めたのではなくて、
足利尊氏が息子を派遣してきてから兵が集まったと言う話が本当みたいね。 >>157
その辺も上のリンクに書いて有る!
人質だったのが逃げ出して... たしか多磨霊園は新田軍と幕府軍の戦死者を埋葬しのちに都立霊園になったと聞く 新田の最初の挙兵は150人
足利氏の名の元 雪だるま式に増えて後に数万人...
妥当な数字だろう
要するに>>1が馬鹿者って事だw 由比ヶ浜に駐車場新設した時、人馬2万体出土しているから嘘ではないだろう。兵と言っても農民やら子供も数に入れてだろうね。 無理やろ
中国紙とかでも10万とか言っとるけどせいぜい5000人程度やろ >>164
由比ヶ浜とか鎌倉時代の行き倒れになった人とかの死体捨て場だから骨なんかいくらでも出るんだぞ 昭和に大量の人骨が出てきて推計6千人の死者と言われているから
双方とも万単位はいただろうね 味噌も醤油も無く家は穴を掘って倒木を立てただけの原始生活
それが鎌倉幕府時代 >>166
戦場の主な場所はそこより内陸部の大船に近い洲崎と呼ばれていた場所
首塚やらヤバい場所やらあり >>164
嘘松、数千程度の人馬そもそも数万も集結できる広場が旧市内には無い パヨクデモの参加者数の主催者発表2万人だったら実際は2千人 >>71
新田義貞って侠客みたいな印象
国定忠治みたいな それよりも足利尊氏の方が桁違いにダイナミックな戦歴と移動してるから調べてみ!
新田なんかスモールだぞ 日本の内戦で三国志規模の人殺しが3回以上も起きたってスゲーよな
中国そのものには及ばないけど 写真も身分証明するものもマスコミもない時代
京都にそれっぽいかっこして私は◯◯だと名乗れば誰でも噂の有名な武将になりすませたんじゃないの
新田義貞も本当に存在したのかさえあやしい >>1
新田は知能は三歳児並みだけど家柄だけはいいからな >>178
更なる大馬鹿者が現れたなw
エルメスもヴィトンもユニクロも無い時代、それっぽい格好など徒者が出来る訳なかろうw
それに噂の武将を演じ切れたとて、直ぐに暗殺対象の世だ
鎌倉~室町時代を舐めるな! >>178
大塔宮の令旨が必要。
新田義貞は大塔宮の令旨を貰って、千早城攻めの軍を抜け関東に帰って鎌倉を攻めた。
だから大塔宮の令旨を所持しているので、別人が成りすます事はできない。 >>152
今はそんな感じっぽいけど、いろいろな意見はあるな
当時は足利が本家で新田が分家という扱いだったろう
なので、頼朝の本家が断絶してからは足利家が清和源氏本家格だったようだ
なので新田義貞より足利尊氏にみんなが期待してた >>183
当時、清和源氏第二位の家柄じゃね?(第一位は足利氏)
なので徳川家康は「新田義貞の子孫」を自称して
足利がダメなら次は新田が征夷大将軍という家柄秩序を利用した >>189
まぁ、結局は当時も今も新田は大物として認知されなかったからなぁ
挙兵が雪だるま式に膨らんだのも足利氏の名前が大きかった訳で...
徳川は徳川、新田は新田で考えるとイマイチだよ >>192
まあ、そうなんだが、徳川家康が新田の家柄を
利用したというのはあるから家柄的にはそれなりの
価値はあるということだろうと思う >>178
着物一着でも現代の価値換算で2-300万円の価値あったらしいから
誰でもって訳にはいかんやろ >>193
そうかもね
何だかんだ言って新田の先祖が足利だからねぇ
徳川は策士だよな >>194
俺も、そういう事が言いたかった
現代はユニクロ着てるからと言っても社会的地位など推測できない面も有るが、当時は身なりが明らかに違った筈 >>195
やっぱ二位じゃダメなんだよな
鎌倉討幕は足利に圧倒的な期待がかけられ新田は完全に脇役
足利幕府が消滅したから、じゃあ次は新田の出番なのが筋目というものだと
考えた徳川家康はなかなかの策士だわな
当時の配下の大名どもを納得させる材料にはなったのかもね 薩長の維新の立役者は明治時代に全滅したのに、徳川家なんか今でも「徳川」を名乗れて
ちゃんとと存続してんだよな。
西郷の子孫なんてちょいタレントとかくらい。大久保の子孫だと麻生が傍系くらいか。
麻生妹も皇室に入ってるから、まぁまぁ。木戸なんか完全に一般化w 薩摩系は西南戦争で勢いなくして長州勢は太平洋戦争の陸軍の母体だから敗戦で落ちたわな
まあ長州閥は首相何人も出してるからマシなんでは >>196
下級の庶民は騙せても上流騙すのは難しそう >>200
ビルゲイツみたいな奴とかジョブズみたいな奴とか...
一見しただけでは、どれほどの者か分からないのが現代だ
因みに着物の話だが俺の母親の着物が45年前で200万円だったぞ!
勝手に買って親父は怒ってだが... 鎌倉幕府倒幕の最大の功労者って護良親王だよな
そしてかなりラッキーな部分が多かった
朝廷の挙兵時で考えれば後鳥羽上皇ほうが全然可能性あった あっ、そうそう...
そう言や足利尊氏も小汚い格好して馬に跨がってる絵ばかり昔は我が地元の足利市では良く見たモノだよ
最近は殆ど見かけなく成ったなぁ
足利尊氏も現代の長者に通じる価値観を持っていたらしい
例えば、城を持たない!理由は身軽に直ぐに動ける様に... 敢えて、そういう行動哲学で生きていたと言われている 朝廷の挙兵時でいえば鎌倉幕府倒幕の可能性
後醍醐天皇5%(ほぼ運)
後鳥羽上皇80%
それでも結果論だけ見ると前者にいとも簡単に滅亡される 北条一族が盗んだ幕府だからな
敵対しても心理的に抵抗感がそれほどなかっただろうね。 >>193
松平清康が世良田を名乗ったわけだし、徳川家康が利用したというより家康以前から松平氏が利用して、家康がそれを踏襲しただけだろ >>206
馬鹿も休み休み言え!
そもそも新田家は北条から六千貫の兵糧を徴収された事に立腹、時あたかも後醍醐天皇からリンジ(変換できない)を受け取り討幕に踏み切った
つまり、数量や人数を数える事など正確だったって訳だ
適当なら立腹しないだろう! 足利も新田も源氏でしょう。
北条家はもう少し慎み深くしておくべきだったな。 >>209
世良田.. 三河守に任じられた前例が無く苦し紛れに得川を名乗って何とか朝廷の命を受ける事に成功
やはり策士だぜ徳川...
江戸幕府とは言っても関東人と気質が違う 昔は天皇や法皇の宣旨だなんだって言って、それが本物かどうかなんてわかるのかよと。 >>185
>大塔宮の令旨が必要
成りすますにも金かかるから容易いことではないのは分かったけどさw
有名大名とか天皇の印や書状なんかは偽造できないもんなの?
書体をマネしたり印なんかは簡単に偽造できそうなんだけど
つか当時でも本物の印とか手紙とか一部の人しか知らないでしょ >>215
横からだが、鎌倉幕府を倒せ!の命に対して成り済ましで倒してくれるのか?
ならジャンジャンやってくれ!
博物館に行って本物の歴史上の書簡等を見て来い! >>215
知らないからこそじゃろ
この時代辺りは良く知らんが戦国なんかは書式や花押はそう言う一部の立場の人間しか知らん訳だし
判別するために祐筆の様な専門職や公家あたりの取り次ぎ役もいる訳だしな
何も知らん庶民騙すなら可能だと思うがある程度の地位の人間にはすぐばれる >>219
新田義貞が鎌倉幕府の徴税人にキレてそいつら殺して挙兵した時20人位だったよな。 >>216>>217
なるほどね勉強になったわ
歴史はおもしろいねありがと >>220
俺の知識としては150人
昨日、貼ったリンクに書いてある 当時の兵站能力を考えると2000くらいが妥当だろうな。 兵站の天才秀吉が下準備した小田原攻めさえ20万だもんな
流石に盛り過ぎと言わざるを得ん >>225
鎌倉幕府が反乱に備える為に板東六ヶ国からだけで六千貫の兵糧を徴収っていう事で、その幕府を倒した訳だから数万で合ってるだろう
見て来た訳じゃないが... 挙兵が成功したのも北条幕府の搾取独占に御家人大名が既に内心キレてたから
天の時というやつですね >>227
千早城攻城戦が長引いたから
新田義貞だけでなく千葉貞胤も楠木との戦いに参加していたが、関東に下って鎌倉攻めに参加した
千早城攻囲に参加していた多くの御家人が護良親王の命令で寝返って鎌倉攻めにに向かった。 >>31
序でに言うと鎌倉時代だぜ
東京には何も無いw 実は、その戦いに尊氏の息子も参加していた。
足利のネームバリューで集められた軍勢 1990年の日本ダービーの観客数19万 6517人
と同じくらい? ウクライナ侵攻のために集められたロシア軍の兵士数と同じくらい? 太平記には20万人と書かれているが、それは流石に誇張で史実としては数万人と推測されてるから... 調べたら1300年頃の鎌倉の人口が推定20万というから義貞軍がそんな多いはずはない >>237
だから足利尊氏の息子と足利の名の元で数万人まで膨らんだって何度言えば...
実際にサクッと討幕したのを見ると数万は嘘じゃない >>1
何もかも嘘八百の昔話とかどうでもいいから
岸田幕府を滅ぼそうぜ >>231
群馬は上野だから上州だが栃木は下野でも下州と言わずに野州と言うのは何故なンだ? 天下統一直前の豊臣秀吉が全国の大名総動員して20万人なのに新田義貞が20万人も集められるわけないだろ >>240
誰だって自分の地区に悪い漢字は当てたくないだろ? >>240
正に上州(群馬)に対する反意語的な栃木の異称
足利尊氏を始めバサラ(伊達)という言葉が流行した事も有って野州(色男)の国としたんじゃないか?
と、思ってる >>244
南北朝時代、正に足利尊氏の時代に伊達な風情を表す言葉としてバサラが流行った
何がハングルだよ
ふざけんな! >>200
当時は庶民と上流では話し方(言葉含む)から所作・仕草から教養からまるで違うから
上流ではすぐにわかるので騙すのは至難の業だな、上流を騙せるのは上流のみかもね
明治初期には俺は大名家の人間だと嘘つく奴が居たりしたそうだが
もう、すぐに行動で庶民ですら嘘だと気づいたそうだ
自ら手水鉢で手を洗うとか明らかに大名家の人間のやらないこととかで >>209
うん、松平家は家康以前から三河守の座を狙って
三河守になる資格のある源氏の子孫を朝廷に認めてもらえるよう
工作しまくってたしな
三河守だけでなく征夷大将軍として幕府政治を行うのにも
源氏の子孫というのが役に立ったということだな
歴史大好きな家康だから、新田義貞の子孫ということで歴史的に筋目が通るのを重視したのだろう >>211
北条家は頼朝の清和源氏本家断絶後は分家一位の足利氏には
結構気を使ってそれなりの待遇をしてたそうだぞ 家康は新田義貞の子孫というより新田義重の系統を自称したんでしょ
んでついでに同じ新田の義貞ヨイショしたけど 名門の御曹司が挙兵したと聞くと兵が集まってくるという当時の風潮 そーいや
1192いい国つくろう鎌倉幕府って語呂合わせが消滅したってのはマジなのか? >>252
1185って話もあったけど子供の教科書には1192になってる。あと聖徳太子も一時期教科書から消えたけど今は載ってる ぜってー嘘
三国志でも曹操が黄巾族討伐しながら敗残兵吸収し照って
私設軍隊100万人になったとかはったりこきすぎ 日本史でここまで規模の大きな城郭都市の攻防ってなかなか無いんじゃないかなって思う
秀吉の北条攻めくらい?やっぱ秀吉の動員能力は異常だなあ >>254
この前気になったから山川の日本史B買ったら1185だったわ
関係ないけど教科書は消費税無しなんだな
そらそうか 貼れてなかった
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89#:~:text=%E3%82%82%E5%BC%B7%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82-,%E8%AA%9E%E6%BA%90,%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 楠木正成と新田義貞の評価ってそんな高かったなんて知らんかった。室町時代ってあまり興味なかったから。戦国時代の戦は戦術レベルだが、楠木のころは戦略レベルの戦だったから後世で最高の武将と言われるなんてこのスレがきっかけでいろいろ調べて初めて知ったわ >>263
色々おかしい
手枷足枷が有ったとはいえ楠木なんて戦術レベルの権化やないかい まぁ楠木レベルは大物じゃないよ
新田も大物とは言い難いな でも明治初期に正一位に叙された武将はこの2人でしょ。秀吉や信長でなく >>266
後醍醐天皇に寄り添ったという事
それだけ
時はバサラ.. 征夷大将軍にまで登りつめた足利尊氏の方が豪快で大物然としているだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています