甲子園ではライバルだったのに…斎藤佑樹と田中将大に圧倒的格差が生まれた根本原因

プレジデントオンライン 2021年10月16日 10時15分

慈善試合の前に、笑顔で募金活動をする楽天の田中将大(左)と日本ハムの斎藤佑樹(札幌ドーム=2011年4月2日) - 写真=時事通信フォト 拡大
甲子園ではライバルであった斎藤佑樹投手と田中将大投手は、なぜこれだけ大きな差がついたのか。スポーツライターの本條強さんは「田中は心底プロの野球選手だったが、斎藤はプロになってからもアマチュアの選手だった」という――。
■斎藤佑樹と田中将大の大きな差が生まれたワケ
人生は登山に似ている。どんな山を登るか、それは人ぞれぞれだ。ひとつの人生の中にはいろいろな人生も含まれる。例えば野球人生といったものもある。
斎藤佑樹が野球人生を終える。甲子園の山の頂上を登り、東京六大学の山の天辺(てっぺん)を極めた。その後、プロ野球の高く険しい山を登ろうとしたが、3合目付近で挫折したまま、頂上を見ることなく下山することになった。
甲子園の決勝で斎藤と投げ合った田中将大は甲子園の山を登り切ることはできなかったが、プロに入り、日本一を極めた。その後、大リーグという世界最高峰に挑戦、天辺までは到達できなかったが記憶に残る投球を見せた。今年日本球界に戻ってきて、まだ山登りを続けている。
高校時代の2人はほとんど同じ山の頂にいたにもかかわらず、プロ野球での実績には大きな差が付いてしまった。お互いプロである以上、その差はプロとしての境遇と年俸で見るのが正しい。今シーズン、斎藤の年俸は推定で1250万円、日本ハムの2軍暮らしで一度も1軍のマウンドを踏めなかった。一方の田中は推定年俸9億円、楽天イーグルスの1軍で相応の働きを見せた。年俸でいえば、田中は斎藤の72人分の価値があるということになる。
これほどの差が生じたのは一体何が原因だったのだろうか。

■わずかな差しかなかった“夏の甲子園”
今から15年前の2006年夏の全国高校選手権大会。決勝戦は斎藤佑樹率いる早稲田実業高校と田中将大率いる駒沢大学附属苫小牧高校となった。斎藤は初回から投げ、田中は3回途中から投げ、1対1のまま延長15回まで両者譲らず、引き分け再試合となった。
再試合は9回に駒大苫小牧が1点差まで詰め寄るが、斎藤が最後のバッターとなった田中将大を空振り三振に仕留め、4対3で早実が悲願の初優勝を遂げた。この時点で両投手の差はほんのわずかだったと言っていいだろう。

斎藤は平均135キロの速球を軸にコントロールの良さを持ち味とする頭脳派投手。一方、田中は平均145キロの速球とスライダーを武器とするパワーで抑える肉体派投手。お互いの持ち味を存分に発揮して甲子園の頂点を競ったわけで、どちらも秋に行われるプロ野球ドラフト会議の目玉になるはずだった。ところが、斎藤は事前に早稲田大学進学を宣言、プロ入りしたのは田中だった。

長いので以下略
https://news.infoseek.co.jp/article/president_50925/