「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」 ゴルバチョフ氏インタビュー詳報
2021年8月19日 13時39分

 ソ連崩壊の「引き金」となった1991年8月の保守派クーデター未遂事件から、19日で30年を迎えた。東京新聞(中日新聞)は、旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ元大統領に、北海道新聞と合同で書面インタビューを行い18日に記事を掲載した。書面インタビューの詳報は以下の通りである。今年3月に90歳を迎えたゴルバチョフ氏は、新型コロナウイルス感染予防のため、メディアとの対面でのインタビューは行っていない。

◆熟考された対日政策はなかった

 ―1991年4月にソ連の最高指導者として初めて日本を訪問したとき、領土問題をどのように解決しようと考えていたか。大統領をもっと長く続けていれば、この問題を解決するチャンスはあったか。あなたと当時の海部俊樹首相が署名した日ソ共同声明で北方四島に領土問題が存在していることを確認したが、現在のプーチン政権がロシアによる4島領有は第2次世界大戦の結果であると主張していることをどう考えるか。また、2018年に日ロ両政府は1956年の日ソ共同宣言に基づいて平和条約交渉を進めることに合意した。宣言には平和条約の締結後、歯舞群島と色丹島が日本に引き渡されると明記されている。それは今日でも現実性があるか。どのように問題を解決する必要があるのか。 

 おそらくあなたにとって予想外の言葉から始める。訪日準備を開始した当時、わが国には熟考された対日政策がなかった。 

 われわれはすべてを「新しい」方法で始めたいと考え、日本社会のさまざまな分野の代表者との多くの会合を計画した。対話を始めた時に私は、日本側が南クリール諸島(北方領土)の問題を重要視していると感じることはできなかった。当初、私は領土に関する戦後の決定は最終的で覆せないものだと考えており、この問題を議論したくはなかった。日本の対話の相手がこの(領土)問題を直接的、間接的に提起したことが、訪日が先延ばしされてきた理由の一つだった。

 対話の相手には、影響力のある重要人物がいた。中曽根康弘首相、土井たか子日本社会党委員長、宇野宗佑外相、枝村純郎駐ソ連大使、池田大作創価学会名誉会長、与党・自民党の小沢一郎幹事長や、財界人、文化人らとのいくつかの会談だ。そのおかげで、私は日本をよりよく知ることができ、私たちの関係の話題に慣れていった。

 もちろん、訪日の方針はソ連の指導部と協議された。交渉は日本との関係の根本的な改善を目指すべきであると決定された。

 ここで指摘したいのは、当時(ソ連の)メディアの立場は二分されていたことだ。半分は島を引き渡すことに賛成し、もう一方はいかなる場合でも引き渡さないとの立場だった。 

 このような状況で、私は日本へ出発した。訪問は非常にタイトなスケジュールになった。天皇との会見、国会での演説、首相との交渉、政府や経済界、政党党首、研究者、若者との会談。雰囲気は最大限に好意的だったと強調しよう。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/125425/1