大河ドラマに知っている人物が出てくると「待ってました!」と
ワクワクする。そう、大河ドラマとは「待ってました」の娯楽である。

大河ドラマをはじめとした歴史エンターテインメントは、
それを見て歴史を学ぶという側面もあるにはあるが、
それよりはすでに学んだことの復習と新しい学説を
いかに取り入れてアップデートしているか、そこを楽しむ
視聴者が多いのである。

だからこそ「麒麟がくる」ではオリジナルキャラ・駒(門脇麦)が
歴史ドラマ好き視聴者の厳しい視線の矢面に立たされた。
(中略)
オリジナルキャラの働きを「ご都合主義」と指摘する視聴者
もいるが、そこはドラマ(フィクション)。歴史的局面を繋ぐ
ために機能する人物を作ることは大目に見たいところ。

だがしかし、知ってる武将たちと比べて、知らない架空の人物に
はどうも親しみがわかず、応援しにくいと思う人の気持ちもわかる。
やっぱり知ってる人物のほうが応援しやすい。

視聴者は、すでに知っている人物たちをいっそう魅力的にする創作は
歓迎するが、オリジナルキャラによってお気に入りの人物やエピソード
が削られることに引っかかりを覚え、「うざい」とすら思ってしまうこともある。

例えば「真田丸」(2016年)のきり(長澤まさみ)。
彼女には一応、モデルがいるが、かなりの創作が入っているのと、
コメディリリーフという役割で、歴史的に重要な部分には関わらず、
賑やかし的な動きをするので「うざい」と言う声が散見された。
いまだにネットで「真田丸」「きり」と検索すると「うざい」がサジェストされる。

それでも、なぜ、歴史的に重要ではないオリジナルの人物――
主に庶民よりの人物がいつも出てくるのか。
それは本来、庶民ニアリーイコール視聴者の視点であって、
視聴者が共感しやすいように庶民を描いているはずなのだ。

「麒麟がくる」の落合チーフプロデューサーは駒について
このような発言をしている。「駒の存在は朝ドラ的な感じを交ぜている。
若い方が見ても口当たりがいいように分かりやすくしています」
以下、長いのでソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d8f927b4dc0f4b705d284d9438320784ff6cc2f?page=1