(一部抜粋)
◇「告発=性被害」なのか

女性が「被害を受けた」と申し立てれば、法の手続きもすべてスキップし、被告発者の司法上・憲法上の権利の一切が剥奪され、
抗弁の余地もなく「性犯罪者」であると断定されてしまう――現在の社会的状況は、端的に異常であるとしか言いようがない。
とても人権国家であるとは思えない光景だ。

「疑わしきはすなわち有罪である(推定有罪)」と言って憚らないのが、国家主義者やあるいは全体主義者であれば、なるほど一定の筋は通っているかもしれない。
しかしいま「推定有罪」のシュプレヒコールの中心にいるのは、平時には「人権の保護」や「法の下の平等」を訴え、また警察や検察の強権的なふるまいを批判し、
「疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に従う)」と喧伝していたはずの「リベラル」な人びとである。

告発対象が「権力を持っていそうな男性」であれば、法治国家の大原則である「推定無罪」など適用されないし、証拠もないまま吊し上げても構わないということなのだろうか?
平時には個人の権利や人権を擁護し尊重していたはずの「リベラル」な人びとが、この「草津町MeToo事件」に際して自分の肩入れする属性の被害の訴えを目の当たりにしたとたん、
大切にしていたはずの「推定無罪」の原則をかなぐり捨ててしまう光景には、素直な人間性の発露を感じずにはいられない。

自分たちが「感情的」に肩入れする属性の告発を無批判に真実であると断じ、被告発者の権利は無視して「超法規的措置」を求める「リベラル」やフェミニストたち。
それに対して右派の側が「いやいや落ち着け。町長を断罪したいなら、法や民主主義にもと付いた公正な手続きを踏まえろ。推定無罪の原則はどうした」などと、
むしろリベラルで穏当な主張を展開するという、まるで冗談にもならない異様な構図が展開されている。

感情論で大衆を動員するのが右派で、それをロジックやエビデンスを使って批判するのが左派――とされていた時代は遠くに過ぎ去った。
現代社会では、左派が政治的ただしさによって正当性を得た「エモ」によって人びとを動員し、
右派がロジックやエビデンスでこれをちくちくと批判する逆転現象が起きている。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78575