「75年前の8月、僕の戦争は始まった」。こう話すのは京都市伏見区の元京都市職員、村上敏明さん(85)。第二次世界大戦前、一家で満州に移住し、現在の吉林省四平市で終戦を迎えた。日本への引き揚げのさなか、衰弱した1歳の妹と母親に泣く泣く毒を盛った壮絶な過去を持つ。戦後75年がたち語り手が減るなか、戦争の風化を危惧し、「悲惨な体験を若い世代に伝え、警鐘を鳴らす務めがある」と話す。(井上裕貴)

 村上さんは昭和9年、京都府亀岡市に生まれた。「満州に行けば給料が倍になる」と一家は13年に中国・大連にわたり、その後、満州に移住、父親は現地の物流会社に勤めた。

 16年に開戦しても、戦争を実感することはなかった。近隣都市が空襲を受けても、四平は平穏だったという。

 「戦時中も小学校に通い、オーケストラの演奏を聞いたり、普段通りの日常を送っていました」

 ところが、20年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻すると働き盛りの男性は徴兵され、当時10歳だった村上さんもソ連軍の空襲に備え、北の空を監視する任務に就いた。すぐに終戦を迎えたが、徴兵された父親はシベリアに抑留された。

 翌年、国共内戦が始まると、四平は連日戦火にさらされた。「ある日、砲撃で家の窓が割れて、破片が炊き立てのごはんに入って、食べられなくなりました」と振り返る。

 7月になると、残留日本人の引き揚げが始まり、村上さんも母親と7歳と4歳の弟、1歳の妹と帰還しようとしていた。だが、旅に耐えられない子供やお年寄りは「足手まとい」になるとして、殺すことになっていた。衰弱していた妹も例外ではなかった。

 出発の数日前、5、6人の男が自宅を訪れた。水薬を渡され、言われるがまま母親に抱かれた妹にスプーンで飲ませると、妹はほどなくして息を引き取った。

 「無言劇のようだった。妹の黒い瞳がにらみつけていたのだけを覚えている」



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