日本の無名のメーカーによる処女作である童夢・零は、会場の片隅に展示されていましたが、その反響から会場の中心部に展示場所が変えられました。
また、童夢・零は、あくまで”プロトタイプカー”としてジュネーブ・モーターショーで発表されたため市販化計画がまだ完成していない状態出会ったにも関わらず、
ブルネイ王室やジャッキー・チェンなどをはじめとする世界中のセレブリティから20件以上のオーダーを受けたといいます。

市販化を実現するため、童夢は零で国内の数多くの認定を取得するためにテストを繰り返しましたが、管轄の国土交通省(当時の運輸省)は申請さえ受け付けず童夢・零の市販化ができませんでした。
そのため、あとで紹介する童夢・P2をアメリカでの申請のために開発することとなりました。

童夢・零は市販車としてはリリースすることができませんでしたが、プラモデルや消しゴムに至るまで数多くの商品化申請があり、童夢にとって思わぬロイヤルティ収入となりました。

童夢・零は名のある4人のエンジニア・デザイナーたちがハードワークで開発を進めており、彼ら全員が奥さんに逃げられたということです。