鶴久政治が語る、チェッカーズに訪れた“反抗期”の裏側と藤井フミヤらメンバーへの“リスペクトの念”
8/4(金) 19:02 fumufumu news(※抜粋)
https://news.yahoo.co.jp/articles/95cbce36a97abfefaeb31fe33a52f8800e9569f0?page=1

■Cute Beat Club Bandの活動を通して、自分たちの“反抗期”の原因がわかった

「'85年の後半あたり、メンバー7人ともテレビで全然笑わないような、いわゆる“反抗期”が訪れたんですよ。ちょうどこのころから、みんなプライベートがなくて、なにかと疲れていたんですね。だからこそ、“メンバーのオリジナル曲のシングルで勝負したい! でも、まだそこまでの自信がない”という葛藤の時期でした」

 同じころ、作詞家の売野雅勇がシングル用にと自信をもって提供した「ひとりじゃいられない」(シングル「神様!ヘルプ」のカップリング)がファンから好評だと聞いても、素直に喜べなかったという。

「確かに売れ線なのですが、バンドをやっていたわれわれからすると、メロディアスかつポップで、歌詞も含め自分たちの当時の精神状態とも、系統が異なる感じがしていました。なので、ライブではツアーで1回やったかどうかだと思います。でも、今聴くと、メロディーも詞もすごくいいんですよね!」

 そういった当時の鬱屈とした雰囲気もあって、別名義のバンドCute Beat Club Bandが結成されたようだ。

「Cute Beat Club Bandは'85年と'87年に活動しました。“反抗期”のとき、ポニーキャニオンの会議室に呼ばれて結成が決まったのですが、この秋元康さんの企画で息抜きをさせようという狙いがあったんだと思います。“ビートルズもやったようにバンド名を変えて活動してみたらどうか”と。それで、後藤次利さんはじめ一流のミュージシャンの方たちが練習するスタジオを見学したら、自分たちのスキルのなさを痛感して、それが反抗期の原因にもなっていたとわかったんです。そういうことも、ポニーキャニオンのディレクターが無言で教えてくれた気がしますね。

 そこから、ミュージシャンの先輩方が使っている楽器を買いに行って、一生懸命に練習したらメキメキと上達し、'87年のロンドンでのライブのときには自信がついていました。同年のCute Beat Club Band名義でのアルバム『NOT CHECKERS-円高差益還元ライブ』では、全作詞が秋元さんで、大半の作曲を僕が手がけたんです。それをディレクターさんが気に入ってくれて、ゆうゆの『25セントの満月』を秋元さんと一緒に作ることになって、褒めてもらえました。他のアイドルの方に自分の曲を歌ってもらえたことがさらなる自信にもなりましたね」

■作曲を担当した3人への思いは? 『I Love you,SAYONARA』は秋元康も絶賛

 そうした“反抗期”を経て、メンバーのセルフ・プロデュース期に突入するのだが、以下のランキング表でもわかるとおり、チェッカーズは鶴久のほか、藤井尚之、武内享、大土井裕二の4人が作曲を手がけている。鶴久は、それぞれのメンバーをどのような作曲家と見ていたのだろうか。

「尚之くんには、とても影響を受けましたね。彼の曲はどれも渋い感じなんですよ。それがとてもいいので、自分なりに分析するんだけれど、自分が作るとどうしても明るくなっちゃう。だから、彼にはずっと憧れがありましたね。彼はサックスを担当しているから、レコーディングでアドリブのメロディーが出てくることもあったし、そういう感覚的な部分から優れたメロディーを作り出す環境にあった気がします。

 一度、レコーディングのときにジェイク・コンセプションさん(※'70年代からトップレベルのスタジオミュージシャンとして活躍したサックス・プレイヤー。'17年に逝去)が遊びに来られて、尚之くんにマウスピースをプレゼントしていたんですよ! よほど見込まれていたんじゃないかと思いますね。

 そして(武内)享くんは、アイデアが素晴らしいんですね。彼はビートルズの後期の曲が大好きなので、カップリング曲などでは、より遊び心満載のものが多いですよ」

 さらに、セルフ・プロデュース期の中で最上位の「I Love You,SAYONARA」を作曲した大土井については、

「裕ちゃんは、レゲエなど基本的には明るめの曲が多かったのですが、この『I Love you,SAYONARA』は、明るさと哀愁の感じのバランスが絶妙なんですよ!
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)

(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)