【訃報】 春日三球・照代の三球さん死去 地下鉄漫才「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょう」ブーム [朝一から閉店までφ★]
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[2023年6月18日11時51分]
「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね」の「地下鉄漫才」で1970年代後半に一世を風靡(ふうび)した夫婦漫才コンビ、春日三球・照代の春日三球さん(本名近馬一正)が先月17日に緊急搬送された都内の病院で、胃潰瘍の傷からの出血多量により亡くなっていたことが18日、分かった。89歳だった。葬儀などは親族ですでに執り行ったという。
三球さんは6年前に脳梗塞を患い、その後は療養にあたっていた。脳梗塞の後遺症治療のために、血液をサラサラにする薬を飲んでいたことから、昨年8月に胃潰瘍の傷からの出血が止まらなくなり吐血、下血して入院。退院後は都内の自宅で、介護を受けながら週に3回入浴するなど平穏な生活を送っていたという。
1995年(平7)に三球さんと再婚した和子夫人は「前立腺肥大や胃潰瘍などの病気はありましたが、穏やかに日々を送っていました。自分のお酒の量もわきまえている人で、介護の方が入浴させてくれた後はビールの中缶を1本だけ、おいしそうに飲んでいました。
先月17日に胃潰瘍の傷からの出血で吐血して自宅で倒れ、救急車を呼んで入院しましたが亡くなってしまいました。急なことでビックリしましたが、最後は幸せな日々だったと思います」と話している。
東京生まれの三球さんは、リーガル千太・万吉門下で57年(昭32)に漫才コンビ、クリトモ一休・三休でデビュー。62年にNHK漫才コンクールで優勝したが、同年5月に相方の一休さんが国鉄(現JR)の三河島事故に巻き込まれて亡くなった。
その後、違う相方とコンビを組んだりしたが、65年に妻だった照代さんと三球・照代を組んで再出発。70年代中盤に地下鉄漫才で大ブレークした。ところが87年に照代さんが、クモ膜下出血で51歳の若さで急死。
その後は、同年に声優出身の若手女性芸人・芳賀みちるとコンビを組んだりしたが、翌年解散してからは、ピン芸人として活動。95年に和子夫人と再婚した。最近は芸能活動から遠ざかっていた。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202306180000373.html#google_vignette 考えてみると地下鉄ネタってミルクボーイのモナカネタの基盤作っていたんだな この人の動画検索したら地下鉄搬入の動画が普通に引っかかる 地下鉄は地上とくっついてるって知らないやつが多いのにびっくりするだけ。
出口入り口が全部地下なわけないだろうに 名古屋の東山線は高架になってるところがあるからそこから入れてるんだろうな
しかし一両づつクレーン使うのも効率が悪いなと思った
80〜90年代に昔のお笑いを振り返る番組でよく出てきてて相当昔の人かと思ったが最近までご存命だったんだね >>82
山城新伍が客席に向かって
「驚いたよね」
と話しかけてて、テレビの前の僕はぽかーんだった
そもそも何でいいともじゃなく山城新伍を見てたんだろう
心霊特集でもしてたかな >>148
「エスカレーターの階段は何段あるんでしょうね」
って、バージョンも有ったな >>67
黙っとこうな〜ってのは懐かしいな
最後に開通の式典で発破仕掛ける前に掘り進めた時に穴が開いちゃってそれを埋めて黙っとこうな〜ってのもあったな ボヤキ漫才とか会話の中で明らかに自分がおかしい事を言って笑わせる漫才は凄いよな ガッツ石松が水が入ったまま凍らせたペットボトルをみて「その氷どうやっていれたの」 アイフルのCMの今野(元キングオブコメディ)を見ると、なぜか三球師匠を思い出す 今でこそ郊外に路線が伸びているから地上の駅が当たり前にあるけど、
それこそ最初の頃は都心部の地下区間しかない路線がかなりあった。
だから東西線あたりは地上からクレーンで降ろしてたし、
新宿線は東大島の近くに搬入するための穴があった。
(東大島は地上だが駅舎は川の上で搬入は不可) >>65
三球さんと、あとケーシー高峰だったかな
松戸在住をネタにしてた
NHKのラジオでよく聞いたよ
ラッシャー板前はたけしのANNで松戸を馬鹿にされた時、松戸が栄えて居る証として当時駅前にあったポンテってローカル百貨店あげて余計馬鹿にされてた 地元紙の記事がとても小さかった
あれだけの人なのに
なんか日本の文化ダメだなあ、と あの世で名コンビ復活でしょうか
ブームの時俺は高校生だった
よく似た顔の先生がいて、その先生も温厚な人だった
穏やかな晩年を過ごされたご様子、安らかにお眠りください 照代さん51歳で亡くなられてたのか 今だと岡村が52歳やからな 三球照代のLPレコード持ってるんだけど
M1出ても確実にファイナルの決勝で争えるくらいデカイ笑いを引き出して来るよね
まああの声であのテンポで話されたら「またあ~」だけでも笑っちゃうんだけどね そういやお待ちどうさまって、昭和から
平成半ばまで、いいともや日テレの
おもいっきりテレビに押されてたTBSが
平日昼で唯一抵抗出来た番組なんだよな。
お待ちどうさまが終わった後、森本タケローが
焼け野原にして、ひるおびが始まるまで
20年近く、暗黒期が続くわけで 箸がなかったら山芋とか食べるの大変よ
照代「山芋くらい普通に手で食べればいいでしょ」
あなたはやったことからそう言うの
私はやったんだから あの頃の夫婦漫才ってドツキ漫才とか声を張り上げる芸風が多い中、おだやかな漫才は癒されたよ
89歳での永眠は見事で手本になる人生だな >>187
だいたい嫁のほうがどつくとか怒鳴るパターンだったから
穏やかな奥さんポジションは珍しいね 本当の江戸前漫才やな
照代さんは上方漫才師の娘だけど さっき新聞開いて知ったわ
有名な漫才師なのに扱い小さいなあ
もっとも自分もご存命かどうかあやふやではあったが 地下鉄の電車はどこから入れているかは大体わかったが、
渋滞の先頭は何やってんだかは全然わからない 地下鉄はどこから入れたんでしょうね、のネタは覚えてたけど
照代さんが「そんなものは改札から入れたに決まってるでしょ」
とかボケを乗っけてたのは忘れてた >>181
一時山田邦子がやっていた『山田邦子の幸せにしてよ』をナンシー関が「女子高の昼休みレベル」と一刀両断してたな 東京でドツキ漫才ってあんまり見ないな
やっぱりドツキ漫才は関西(吉本)なんだな >>1
春日照代がそんなに若くして亡くなってたのは知らなかったわ。
女の人は「くも膜下出血」になる人が多いが。
三球は天寿を全うしたかな。
穏やかな漫才で面白かったな合掌🙏 地下鉄漫才、漫才ブームの前だったか
昭和ヒトケタ世代、古き良き時代やった
ご冥福をお祈りします >>196
ヤマダはホントつまらなかった
ドリフやひょうきんが終わった後の真空状態に取り敢えず使える奴を入れただけであの頃からバラエティは急激につまらなくなった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています