https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E9%81%94%E9%83%8E

居酒屋を経営していた両親の間に生まれ、一人っ子として育った。飲食業を嫌がる母親の希望もあって、長男の誕生を機に父親は転業を決意し、もともと電気職工であった祖父が経営していて倒産した工場を引き継ぐ形で再興を図った。

神武景気を当て込んでのことであったが、この年の7月、景気は急速に冷え込み、なべ底不況(57年不況)が到来すると、山下家の工場はその煽りを受けて倒産してしまった[25]。

達郎は池袋のアパートで暮らす共働き夫婦の下でカギっ子として生活することになった[25]。

達郎は豊島区立池袋小学校[gm 1])に入学。
小学生時代は、宇宙と読書が大好きな、まじめに塾通いする典型的優等生タイプで、児童会役員にも選出された。
小学6年生の時、当時の音楽担当教師に勧められクラブとマーチングバンドに所属し、太鼓を担当する。
当時のお気に入りは三波春夫の歌謡浪曲であった[26]。

豊島区立高田中学校(現・豊島区立千登世橋中学校[gm 2])へ進学する。ここではブラスバンド部に入部し、やはり小太鼓を担当する。
、ウクレレを買ってもらったことをきっかけにギターにも興味を持ち、独学で練習し始めている。友人の影響を受けてベンチャーズをきっかけに洋楽を聴くようになったのもこの頃

一家は練馬区平和東京都立竹早高等学校[gm 4] へ進学する。前年から始まった都立高校入試への学校群制度採用により、竹早高校へ進学することになったという経緯から、別の高校に入っていたら自分の人生は大きく変わっていただろうと振り返っている。
都立の進学校に入学できた褒美として、以前から欲しかったドラムセットを親に買ってもらう。
台[gm 3] へ転居し、どうしても商売がしたいという父親の意向で菓子屋を開いた。

進学校特有の管理体制への違和感と、国立一期校(当時)で受験一辺倒のクラスメートの中にあって孤立感に悩み、教員からは長髪を理由に恫喝を受ける学校生活が続いた。
目指していた学問の道から挫折した。