B'z のライブサポートや編曲で活躍し、ZARD、倉木麻衣、大黒摩季、ももいろクローバーZ、BAND-MAID等への楽曲提供でも知られるdoa・徳永暁人。そのキャリアに迫る【インタビュー連載・匠の人】
12:00 SPICE
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doa・徳永暁人
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B'z のライブサポートや編曲で活躍し、ZARD、倉木麻衣、大黒摩季、ももいろクローバーZ、BAND-MAID、三枝夕夏 IN db、浦島坂田船など、様々なアーティストに楽曲を提供。自身のバンドdoaでも精力的な活動を重ねている徳永暁人。ボーカリスト、ベーシスト、作曲家、編曲家、作詞家、マニピュレーターとしてキャリアを重ねつつ、大阪音楽大学ミュージッククリエーション専攻の特任教授でもある彼は、まさしくプロフェッショナル=匠の人だ。音楽に目覚めた少年時代、音楽大学で学んだ日々、駆け出しのミュージシャン時代、作家としての姿勢、doaのニューアルバム『CHEERS』についてなど、幅広い内容について語ってくれた。


(※中略)

■17歳の時に幼稚園児に交じってピアノを習い始めました

――高校は厚木高校だったそうですが、名門じゃないですか。

進学校ですけど、僕はそんなに勉強が好きだったわけではなくて、馴染めなくなってしまって、落ちこぼれていきました。高校で1人も友だちがいない感じでしたから。バンドは地元の中学時代の友達とはやっていましたが、高校ではそういうのもなくて。「死のうかな」というくらい悩んだ時期です。今から思うとバカだったなって思いますけど。そして、「悩み過ぎてどうかなっちゃうくらいだったら、音楽の世界に行こうかな」ってなったのが高校2年の真ん中くらい。学校帰りに本屋さんで音楽大学の案内の分厚い冊子を見つけたんです。開いた最初のページに、「ポピュラー音楽の作曲について教える科ができます」ということが書いてあって。映画・放送音楽コースという、三枝成彰さん、カシオペアの野呂一生さん、鳴瀬喜博さん、僕がすごく好きで聴いていた作曲家の堀井勝美さんが講師の学部で、「ここに行きたい!」って思いました。クラシックやピアノとか何も習ったことがなかったのに(笑)。

――音大受験には、ピアノ演奏や聴音とかが必要ですよね?

そうなんです。だから17歳の時に幼稚園児に交じってピアノを習い始めました(笑)。どうしたらいいのかわかっていないまま厚木の音楽教室を訪ねて行って、若い先生と話したんですよ。長い学ランで裏地が紫の男子高校生の僕が「音大を受けたいんですけど」って言ったら、「は?」って。

(※中略)

■作家事務所に100社くらい応募して、受かったのがビーイングでした

――ベーシストとしては、在学中にカシオペアの鳴瀬さんに習ったというのは、ものすごく大きかったですよね?

そうなんですよ。入学してから鳴瀬師匠の前で「俺、ベース弾けるんですよ」っていうくらいの感じで一気にバアーッ!って弾いたら、「こらあっ! 全然基礎がなってない! ドレミからやり直せ!」って言われて、メトロノームに合わせてドレミを練習しました(笑)。

――(笑)。大学時代の90年代初頭は、作曲やアレンジをする上でDTMも急速に重要度を増した時期ですよね?

そうなんですけど、お金がなかったのでパソコンが買えなかったんです。でも、パソコンで打ち込む授業があって、持っている人は自分のパソコンでできるから点数が良いんです(笑)。僕は学校のパソコンでしか打ち込みができないので、単位を落として留年ギリギリになりました。レポートで反省文を8枚書いた記憶があります。パソコンを買ったのは大学を卒業して、仕事を始めて少し経った頃です。それまでは高校生の時に手に入れたシーケンサーのローランドMC-500で打ち込んでいました。

――大学を卒業した後は、どのような道に進むことをイメージしていました?

歌ものの作曲をしたいと思っていました。でも、「音楽の仕事だったらなんでもやろう」という姿勢でしたね。だから先生の紹介でジングルやインストを作ったり、ゲーム音楽や時代劇の音楽、カラオケのデータを作る仕事もやりました。バンドをいくつかをやりながらそういう仕事もやるようになったのが、大学の後半辺りからです。