【音楽】尾崎豊の制作秘話「何も考えずにやってほしい」木暮“shake”武彦が振り返る [フォーエバー★]
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尾崎の4枚目のアルバム『街路樹』に収録の『紙切れとバイブル』に、小暮はギターで参加
1992年4月25日、26才の若さでこの世を去ったシンガーソングライター尾崎豊。それから30年の時が経ったが、尾崎の楽曲の魅力は色褪せない。アルバム『街路樹』に参加したミュージシャン・木暮“shake”武彦(62才)が、尾崎との制作を回顧する。
【写真】死の直前、尾崎が泥酔し全裸で倒れていた現場
デビュー当初から才能を感じていた
ロックバンド「レベッカ」や「レッド・ウォーリアーズ」のリーダーで、ギタリストの木暮が尾崎を初めて知ったのは、1984年3月のことだった。
「当時のおれは、『レベッカ』のメンバーとして4月にデビューを控え、レコーディング中だったんだけど、途中でスタッフが、“尾崎のデビューライブを見に行く”といって出かけたの。でも、すぐに“会場に入れなかった”と帰って来て……すごいやつが現れたなと思ったんだ」(木暮・以下同)
そのライブ会場とは、新宿ルイード(1987年閉店)。佐野元春や浜田省吾などもその舞台を踏んだ400人収容のライブハウスだ。そこに、デビューしたての尾崎は800人近い観客を集めたという。
「この時代の日本のロックはまだマイナーで、世の中に流れている曲は、歌謡曲や演歌が主流。おれや尾崎がメジャーデビューした1984年は、BOOWY(※2つ目のOはストローク符号付きが正式)やHOUND DOGがロックバンドとしては人気を誇っていたけど、音楽業界そのものがロックとしてのセオリーを持っていなかったので、やりたいことができた。
そんな中で、尾崎は思ったことをそのままメロディーに乗せて飛ばす才能があったと思う。現実をストレートに歌っているのに、思慮深さがある。パフォーマンスには疾走感があり爽快だった」
木暮が感じた尾崎の才能には周囲も黙っておらず、デビュー翌年、19才にして、国立代々木競技場第一体育館で単独公演を実施。2日間で3万人を動員した。しかし、前述のようにその後スランプに陥り、渡米することになる。
「成功したら、今度はその先をどう進むかが大切なんだ。直感だけでは何も生まれないから。新たな感情で違う作品を作りたくて、ニューヨークに行ったんじゃないかな」
尾崎が求めたのはシンプルさだった
帰国後、3年のスランプを経て4枚目のアルバム『街路樹』が制作されようというとき、木暮はマネジャーを通じて尾崎から参加オファーを受けたという。
「オファーをもらえてうれしかったね。それで、数パターンの演奏を考えてから行ったんだけど、尾崎は“何も考えずにやってほしい”と言う。求められたのはシンプルな演奏で、尾崎はおれの目の前でしゃがみながら聴いていた。“こんなんでいいの?”と聞いたら、“最高!”と笑顔を見せてくれたんだ」
木暮が参加したのは、アルバムの中でもひときわ明るい楽曲『紙切れとバイブル』。爽快かつポップな曲調で、アルバムタイトルの候補曲だった。
「尾崎はおれに勝手気ままなエネルギーを求めていたのかもしれないね。アルバムタイトルの候補になったってことは、彼の中での自信作だったんだろう。そこにおれのギターを必要としてくれたってことは、いまでもうれしいね」
それから5年もしないうちに、尾崎はこの世を去る。
「当時、おれはアメリカで音楽活動をしていた。ロス暴動が起きて、街には銃声や火の手が上がることもあった。そんな中、尾崎の訃報が入ってきて、呆然としてしまった」
尾崎が破滅的な酒の飲み方をしているのは、かねてから目の当たりにしていたという。
「世間が求めるスターの自分と、本当の自分が違い、引き裂かれるような感覚があったんじゃないかな。おれも、次のヒットを出さなくてはいけない、動員数を増やさなくてはいけないというプレッシャーを感じた経験があるので、その苦しさはわかる」
いま再び、2人で演奏するならどんな曲が生まれていたのか。聴いてみたかった。
【プロフィール】
木暮“shake”武彦(こぐれシャケたけひこ)/1960年生まれ。1984年バンド「レベッカ」でメジャーデビュー。以降、「レッド・ウォーリアーズ」などさまざまなバンドで活動を続けている。最新アルバムは『Birthday Song』(ClearSky)。
4/24(日) 7:15配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/32ae8e3cb3a033a8c3d826a76b9424629151ec36?page=1
https://i.imgur.com/UWtlMLl.jpg
https://i.imgur.com/BiI8B7D.jpg 最近
きっと忘れない
って曲を聞いたら涙が止まらなくなった
若い頃は捨て曲だと思っていたんだが >>7
カートとかみんなそうだよ、若くて亡くなると こんなの知らなかったので聴いてみたけど全然わからんな
バックでかすかにシャケっぽいカッティングのジャリジャリ音が聞こえるくらい
ギターソロもないし完全に空気 シャケはスタイル保ったまんまでカッコいいね。娘も売れてるし良かったね。 尾崎は思ったことをそのままメロディーに乗せて飛ばす才能があったと思う。現実をストレートに歌っているのに、思慮深さがある。パフォーマンスには疾走感があり爽快だった」
実に的確で詩的な表現 尾崎なんて80年代の終わりにはもうダサかったのに何言ってんだよ
それ以降もダサい奴が好きになる曲の代名詞だったのに 尾崎豊・・・
盗んだバイクと校舎の窓ガラス割った人って感じでまったく興味なくてバカにしてた方だけど
つべで僕が僕であるためにとか傷つけた人へとか聴いたらガラっと印象が変わったよね
それとかデビューライブとか見て圧倒された
つべ見てなかったらバイクと窓ガラスの人で終ってた 過大評価じゃね?
坂本九もだけど
夭逝や非業の死と本業の評価をごちゃ混ぜにしている気がする >>24
須藤晃と組むと、どんなアーティストもプロレタリア色強くなる件 街路樹地味すぎなアルバムだったからなあ
表題曲の足元に降り注ぐ心模様辺りしか覚えてないや >>29
15歳であんな曲書けて歌えたの
それ以降宇多田ヒカルくらいしかいない 豊かな時代にこういう曲だから受けたんだろうね
今の若い子だとはまらないんじゃないかな 秋山幸二とルーダイヤモンドフィリップスをモーフィングするとシャケになる >>22
尾崎豊と同世代だけど当時からツッパリやオタクからも相手にされてなかったよ。 いろんなものを売り付けられる通りでは〜
詐欺師と音楽にチップインする〜
いや〜いい曲だよな〜 尾崎とシャケが一緒にやってた曲が紙切れとバイブルだったとはまったく知らんかった凄い
一緒にやってたんだね知らんかった
そうだったのかぁ シャケとかシャーとかチャーとかチャラとかチャカとかチャゲとか
この時代ややこしすぎる ぬんでカッコつけたミュージッシャンってアイドルとくっつくん(・ω・`) ミドルネームみたいなの入れるの流行ったよな
ひょうきん族のスタッフが走りだったような気がする
未だにやってんの見るとすげえ痛い >>52
とか決めつけてるとマジの洗礼名でミドルネーム付いてたりするから気を付けろ タケカワユキヒデ NOKKO 尾崎豊
埼玉県出身者が息巻いてた時代 音楽的にはベタ
歌詞はド直球
ダサいと言われても仕方ないな
だがたまに聴きたくなるのはなぜだろう ザ・カセットテープ・ミュージックに出てたけど林芳正みたいになってるな シャケはレッドでストーンズ動をまい進して欲しかったけどリズム隊がアレじゃあなあ
しのぎを削る僚友と出会えなかった悲劇か 尾崎豊が売れて先が見えなくなりニューヨークに行ったのは先行者の佐野元春の影響だろうな
佐野はヒップホップとミクスチャーロックを持ち帰ったが
尾崎はドラッグを身につけて帰ってきたいわゆる破滅型タイプで海外から音楽を輸入する才能はなかった そう言えば尾崎風ネタやってた井上マー最近観ないな。 > 尾崎が破滅的な酒の飲み方をしているのは、かねてから目の当たりにしていたという。
酒にシャブ入れる経口摂取派だったんだよな >>60
尾崎の曲は音楽ではなく詩の朗読だと思って聴いてる ドラムのキヨシもバックで参加してたしレッズは尾崎と関わりあったほうなんだな >>33
尾崎自身も街路樹はあんまし評価してないと思った >>64
尾崎のNY生活を収めたビデオを公開してくれないかな
何年か前に一部だけアップされた記憶がある
街路樹ツアーのCMにも使われてたNYの青空と雲と歩く尾崎が印象的な映像とか >>60
古舘伊知郎だったかな?寝落ちしてた時に尾崎豊の曲が流れてて夢の中で泣いてて目が覚めたら本当に泣いてたって言ってたような >>70
それまでの日本情緒や郷愁の路線から変化が出て来た頃に、そういう曲が増えていった印象
「詠み人知らず」とか「群衆」、「教訓」みたいな ただのマザー繫がりじゃね?
ていうか、まだマザーって存在してるのな もうすぐ命日だったと思う
今でも毎年お墓にたくさんの花が供えられる >>57
カッティング聞いても分からなきゃ死ぬまで分からんよ フォーク好きのあんちゃんがスプリングスティーンみたいなロックシンガーを演じたら当たってしまい苦しかっただろうなと今は気の毒に思う。当時はパクリじゃんかwと否定したが。 もし岸田智史がロックをやったら?ってのがCBSソニーの企画のひとつの狙いだったと思うよ
83年当時、このまま岸田智史のような哀愁フォーク路線で売り出すのも前時代的で違うとは思ったろうし
本人の意向を汲んだら佐野や浜省やアナーキーなんかも好きらしいからそういう観点からCBSはプロデュースしていったと思う ダンスホールや街の風景を聴いて須藤さんが
「これは尾崎の周りの大人の誰かが作っててアイツが作ったんじゃないよ」って断言したって話好き
そりゃ普通そう思うよね >>80
あの頃のCBSソニーは小山卓治のことはどう考えていたんだろうな 1983年というと長渕なんかもまだ順子のヒットの後に秋元康と組んだグッバイ青春のヒットとかでロックっぽいのに片脚を突っ込んだ時代だからそういう一般リスナーのニーズの移り変わりはあった時代なわけで 尾崎はなんでヒップホップに影響されなかったんだろ
当時にNYって中心地だろ >>82
CBSソニーからすれば、当時30過ぎた浜省を筆頭に、20代半ばの小山、10代の尾崎、
とキャッチする網を揃えたんだと思う
スプリングさんタイプの日本における市場調査をする意味合いもあったろうな フォークだロックだ言ってるがじゃあ違いはなんなんだよw
僕の思うロックに合わないとかくだらん事を言ってんなカス >>3
こんなのロックじゃないとか昭和だな
昔はみんなそんなこと言ってた 夢を壊す事言っちゃいけないけど市ぬ前の尾崎が一番悩んでたのは
大学行かなかった事を後悔してる事をファンにどう伝えようかということ タバコの空箱〜
丸めて投げつけた〜
う〜ん、ダサいw ファンの大半は団塊ジュニア。リアタイとちょい遅れて聴き始めた世代。
ここは管理教育が激烈を極めた時代だった背景もあるし。神戸の事件が
その最たるもの。 >>94
それは嘘でしょ。行こうと思えば何歳でも行けるわけだし。
悲劇のヒーロー気取りのナルシシズムが一番マズかった。 >>35
あの「Automatic」をわずか14歳で書いていたことを考えると、宇多田ヒカルには100年たってもかなわない。 死んで神格化されたが、当時尾崎なんて聴いてるやついなかったよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています