全文はこちら
http://news.yahoo.co.jp/articles/a999bae5ac3faf7b64eeb05c14b4312ce209c4eb


昭和のプロレス界で活躍したストロング小林さん(本名・小林省三)さんが2021年12月31日、東京都内の病院で死去した。81歳だった。


なぜ新日本プロレスに移籍することになったのか?
プロレスラーとしてのストロング小林には、光と影がある。

選手としてのハイライトシーンを挙げるなら、日本中の注目を集めた前述のアントニオ猪木戦(1974年3月、12月)。
一方、実質14年間でプロレスラー引退を余儀なくされた経緯については、本人も「不完全燃焼」を認めている。

2017年、ミスター高橋氏とともに小林さんの自宅を訪ね、長時間にわたり話を聞く機会があった。
ファンを熱狂させた猪木戦よりも、どちらかと言えば苦難や痛恨を包み隠さず淡々と語る小林さんの口調からは、自分で自分の栄光を語るまいとする昭和のプロレスラーの矜持のようなものが感じられた。

国際プロレス時代、全盛期で187センチ、125キロという恵まれた体格を買われ、団体の若きエースとなった小林さんだが、なぜ新日本プロレスに移籍することになったのか。

団体移籍の原因となった「ある選手との確執」
当時、「小林は団体を捨ててカネに走った」との批判が渦巻き、国際プロレス側が小林さんに対し違約金を求める騒動にも発展した。本人は「ある選手との確執が原因」と語っていた。

「国際プロレスではグレート草津がね、吉原社長に『小林がどうのこうの』と言い始めて、それを吉原社長が本気にしてしまったところがあったんだよね。それで社長がこうしはじめて…」

小林さんは、手で人を追い払う仕草をしてみせた。ラグビー出身で、国際プロレスのマッチメーカーもつとめていた主力選手・グレート草津(2008年死去)と手が合わず、かといって相手を叩き潰すような性格でもなかった小林さんは、退団を決意したという。

当時、国際プロレスの所属選手だったマイティ井上氏(72)が語る。

「草津のオッサンが巡業で下の選手をイジメたりするのは、事実としてありましたよ。でもね、小林さんもなんでいろいろやられておとなしくしてたんかなと。俺らは不思議に思っていました。確かに草津のほうがこの(プロレス)業界に入ったのは少し先だけど、年齢も小林さんのほうが上だし、団体のエースなわけですよ。

腕力で言ったら、なまくらの草津あたりじゃ小林さんに勝てないのに、何も言わない。俺だったら、先輩だろうが何だろうが理不尽なことであればハッキリ言いますよ。国際プロレスっていうのは(ラッシャー)木村さんや(アニマル)浜口もそうだったけど、見かけと違っておとなしい人が多いんですよ」

グレート草津との不和の一方で、和解できた人も…
だが、グレート草津に対する小林さんの不信は晩年になっても氷解することはなかった。小林さんはこう語っている。

「ずっと後になってね、熊本にいる知人から電話がかかってきたことがあったんですよ。『小林さん、ちょっと珍しい人と代わります』というんでね。相手はグレート草津でした。開口一番『オイ、お前何やってんだ、いま』と言うもんですから、僕は黙って電話を切ったんです。業界を離れて長いのに、いまさらお前呼ばわりされることはないと思ってね」

草津のことは許せなかったが、和解できた人もいる。

小林さんは1985年、胃がんを患い、埼玉県川口市の病院に入院していた国際プロレスの吉原社長を見舞いに行っている。国際プロレス退団時のわだかまりを解消したいと思っていた小林さんに対し、病床の吉原社長はこう語りかけた。

「小林、会いたかったよ」

小林さんの目から、一筋の涙が落ちた。

「いろんな選手をつくってきたけれど、小林がいちばん、俺のことを思ってくれたな」 

小林さんは、吉原社長の手を固く握ったという。この面会の直後、吉原社長は他界した。55歳の若さだった。