コント55号vsドリフターズ 萩本欽一が明かす「土曜夜8時戦争」の真実 [幻の右★]
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「強敵」と書いて「とも」と読む……昭和という時代には、そんな“くさい”言葉がふさわしいライバル関係があった。芸能、文化、スポーツ、ビジネス……さまざまなジャンルでの切磋琢磨が、この国を豊かにしていった。
バラエティ番組史に残る戦いが、1960年代後半の「土曜夜8時戦争」だ。
先鞭をつけたのは、萩本欽一と坂上二郎の「コント55号」が舞台上を駆け回る『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系1968〜1970年)だ。当時、「土8」といえば歌謡番組かドラマと決まっていたが、萩本と坂上のコントに視聴者は釘付けに。放送開始からわずか半年で視聴率30%を超えるお化け番組になった。
この牙城に切り込んだのが、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS系1969〜1985年)である。
アドリブ主体のコント55号に対し、ドリフは徹底的な作り込みで知られた。水曜昼にドリフとスタッフが集まり、土曜の生放送まで連日連夜の打ち合わせ。いかりや長介は一切の妥協を許さず、稽古が深夜に及ぶこともザラだった。
スタート直後の『全員集合』の視聴率は15%前後。『世界は笑う』にダブルスコアをつけられていたが、キャンディーズや沢田研二など大物ゲストを次々と投入し、わずか1年で逆転。『世界は笑う』は1970年3月に終了し、コント55号の2人はソロ活動に移った。
萩本が振り返る。
「もともとドリフとは仲良かったの。当時ぼくは大井競馬場で馬を持っていて、コーちゃん(仲本工事)とは大井でしょっちゅう一緒になってた。カトちゃん(加藤茶)交えて3人で麻雀したりね。でも、メディアがライバル構造を作るもんだから、お互い意識しちゃってさ。カトちゃん、コーちゃんとある時、『プライベートで一緒に歩くのはやめよう』って決めたんです。
当時、二郎さんとよく『ドリフに敵うわけないよ』って話してたっけ。彼らの稽古はすごいもん。毎週毎週、何時間もさ。TBSの他の番組に行くたびにドリフの稽古を見ていたから、肌で感じてたんだ。僕らは稽古なんてしないし、瞬発力で舞台を駆け回ってただけで、ドリフの『計算された団体芸』とは力の入れようが違ったよね」
盛んに取り上げられた『全員集合』との視聴率戦争について、萩本は一歩引いて見ていた。
「会場のお客さんにウケたかどうかがすべてだから、数字なんて教えてくれるなとスタッフには言っていたの。僕らは台本もペラ1枚だし、ぶっつけ本番で勝手に動き回るからカメラが追い切れない。テレビ向きじゃなかったよね。『全員集合』とは作り方が何から何まで違ったから、比較しないようにしていたんだ」
一方、コント55号を追いかけたドリフも苦労は絶えなかった。仲本が語る。
「相手のことを考える余裕すらなかったってのが正直なところ。毎週、いかりやさんの指示に従うだけで、もう必死ですよ。『全員集合』の合間には地方興行もあるし、ヘトヘト。いかりやさんは『他のことは考えるな。自分の番組のことだけ考えろ』ってよく言ってた。TBSからは数字のことも散々言われていたと思うけど、そういうやり取りは全部いかりやさんが引き受けてくれた。あのワンマン体制があったから、『全員集合』は成り立っていた」
そんなドリフが『世界は笑う』を追い抜いた要因について、「僕らがバンドマンだったことが大きい」と仲本は話す。
「ステージで生演奏してるから、もともと生放送に向いてたんだ。間が空けば自分で繋げる。あとはリズム感。ドリフの強みは5人がリズムに合わせて一斉にずっこけられること。くしゃみひとつで転ぶのは音楽のリズムと同じ。ある種の“踊り”みたいなものでね。分かりやすくて、子供も大人も楽しめたんでしょう」
その後、1975年に『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジ系)がスタートし、第二次土8戦争が勃発。萩本が語る。
「お笑い番組が花開いた時代だったよね。いまの芸人は言葉で笑わせるけど、僕らもドリフも『動き』が基本だったから、脳で笑うっていうより、直感でお腹を抱えてくれた。当時は笑いが起きると文字通り会場が揺れたもんです。お茶の間でも家族全員でドカンとね。そういう笑いは、今は難しいのかもしれないね」
※週刊ポスト2021年5月7・14日号
5/3(月) 7:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/da9ca3898aab06edac852ab5f45c82a6bcaf8785 俺が見始めた頃は古臭えジジイだなって感じの氷河期世代です 悪の組織が日本のコンテンツを潰し合わせる編成に口実を与えてはならない >キャンディーズや沢田研二など大物ゲストを次々と投入し
記者が当時を知らず、資料にキャンディーズの名前を見つけて「大物ゲスト」と思い込んだか
キャンディーズはもともとこの番組のアシスタント
だからデビューしたときも、「8時だよ全員集合」のアシスタントの女の子が
歌を出しましたってイメージで企画物っぽかった
.
当時、ちゃんとしたアイドルはソロでデビューするから、グループという時点でB級臭。
しかも同期は、山口百恵、桜田淳子、浅田美代子らだからアイドルの主流は当然そっち
その3年後にピンクレディがデビューした。アイドルで3年違いは一世代の差に近い
これが大ブームになったことで、同じグループアイドルとして
ピンクレディのライバルみたいな形で先輩のキャンディーズも引っ張り上げられた
ピンクレディは女子小学生がはまって社会現象的な人気があったが
キャンディーズファンは若い男がメイン。そいつらにとっては神だったろうが
一般的にトップのアイドルだったとは言えない。実際ランキングでも1位になったことはない。
解散が発表され、最後の曲くらい1位にしようとファンらが運動して実現した >>10
ゴールデンハーフやろアシスタント
キャンディーズはどちらかというと伊東四朗、小松政夫のテレ朝の番組 今にして思えば何で同じ時間にやるんだよ?って感じだw 8コント55号→6全員集合→8ひょうきん族→6ごきげんテレビ→8ごっつええ感じ 今の土曜ゴールデンのつまらなさ終わってんだろ
見る番組ねーんだが ダウンタウンてかけだしのころ
欽ドンにでてなかったっけ? 志村も東村山までウケなかったからな
すわしんじのほうがウケていた ついこの前ラジオで欽ちゃん出てたけどフガフガで全く聞き取れなかった
晩年の永六輔のようだった アラフォーだけど記憶に残ってるのはごきげんテレビくらいからだもんな
5ちゃんじゃアラフォーなんてまだまだ子供だな 土曜の夜は昔のテレビを探して見るようになってきたな >>7
まーそれもそうだけど
いかりや長介とかが年齢的に番組を作り上げるのが厳しくなってきたってのも >>19
めちゃイケって金曜だったっけ?
土曜じゃなかった? お笑い土曜八時の都を目指して上洛せんとするものたち
今日はお笑いの歴史です
今川萩本、ぼんち光秀の乱 >>11
あんたの記憶が「みごろ!たべごろ!笑いごろ」からってだけ
ゴールデンハーフはキャンディーズの前のアシスタント
伊東四朗・小松政夫の「みごろ!たべごろ!笑いごろ」は1976年スタート
この前年にキャンディーズはやっとヒットが出て人気者になったからメインに抜擢された
1972年4月: NHK『歌謡グランドショー』のマスコットガール兼アシスタントとして「キャンディーズ」誕生。
1973年4月7日: TBS『8時だョ!全員集合』のアシスタントとしてレギュラー出演
1973年9月1日: 「あなたに夢中」でレコードデビュー
1975年 センターをスーからランに変更。シングル5枚目年下の男の子が初ヒット
1976年 ピンクレディデビュー
1977年 解散
huluに入ってるならこれ
https://www.hulu.jp/watch/100020984
太田が同じことを語ってる あまりお笑いの仕事がなくて関西制作のドラマばっかりやってた頃のさんまが
欽ドンに出たことがあった
素人もタレントもアドリブでイジり倒してた欽ちゃんに
ガンガンツッコミ入れてタジタジにさせてたのは後にも先にもさんまだけだった
さんまにとっては雲の上のような存在だったはずだが
物怖じしない肝っ玉な上に恐ろしく頭の回転が早い人だなと感心した記憶がある
今みたいな芸人の先輩イジリなんてご法度だった時代の話 あー俺コント55号まではぎり分からんわー
小松政夫のしらけ鳥
デンセンマンを覚えとるく位や 萩本欽一といえば祖母にチンポしゃぶられてたというコピペ
本当に本人が言っていたのかよ >>13
ごきげんテレビ→ウンナンのやるやらじゃないの? 全員集合はひょうきん族に最後やられたという話は良く聞くけど
、ひょうきん族はなんの番組に負けたの? 昔話→クイズダービー→全員集合→Gメン75
TBSが強すぎた >>28
その前の関西落語家が身体を張っていたセットが檻に囲まれて本物の虎を投入のドッキリは知らんか 結構有名だけどこの人で笑ったことないランキング
1位萩本欽一
2位蛍原徹
3位恵俊彰
4位太田光
5位土田晃之
6位西野
7位梶原
8位宮迫博之
9位村本
10位後藤 西山浩司(ワルオ)曰く、欽ドンを土曜の7時半に持ってきたのは、全員集合と同じ時間帯だと敵わないので、30分早く番組を始めてそのまま観てもらおうという狙いがあったとか
それでもドリフの牙城は崩せず、結局月曜9時に移動したけど 欽ちゃん知った頃はもう欽どこと月9の欽ドンだったから
ドリフとライバルって感覚なかったな
というかコント55号はほとんど知らない 50歳くらいなら
欽どん・欽ドコ・週間金曜日
欽ドンは月曜日21時だろ? >>32
昔話→クイズダービー→全員集合→Gメン75→金田一耕助
TBSが強すぎた コント55号としてネタやってたのって
ドリフみたいに舞台の公開収録でやってた「なんでそ〜なるの」あたりが最後か?
車だん吉とかがまだ取り巻きとして一緒にやってた頃 ライバルと思い込んでるだけだろ
ドリフは知ってたが55なんて知らん ウンナンって土曜枠の冠番組あったっけ
とんねるずは持ってたと思うが ヤッターマン見ながら飯食ってクイズダービーの間に風呂入り全員集合見終わったら寝る
幸せな昭和の風景 ただの世代の違いだろ
俺もクレージーキャットはさっぱりわからんしさんま世代までは行けるけどダウンタウンは反吐が出るほどきらい ひょうきん族は
とんねるず、ダウンタウン、ウンナンあたりにやられた感じかな
さんま、たけしはタレントとしてはまだまだ活躍してたけど 今のテレビ番組で全員集合や欽ドンに相当するような番組ってある? >>55
少し前までの鉄腕ダッシュとかイッテQ辺りかなぁ
それでも数段落ちるとは思うけど >>54
ひょうきんはたけしのフライデー襲撃事件で低迷し
全員集合の後番組である加トちゃんケンちゃんごきげんテレビに負けたのが大きい ひょうきん族もタケちゃんマンやらなくなってオクレとかジョージが出てきたころはつまらなくて退屈だった 欽ちゃんと仲本工事って同い年(昭和16年生まれ)なんだね
なんか意外だけど 萩本って天下取れてた期間短いだろ。ドリフは今でも通用するけど萩本は見れたものじゃねーよ。 全員集合とか欽ちゃんの番組とかは
そのなかで話題になると社会現象的な感じになったから
今は難しいかもね
今の芸人がダメというよりは
芸人がたくさんいるから、特定の人が特別のポジションになりづらい 時間枠違うけどフジテレビの19時代の所ジョージ司会で
子供相手の番組があった気がする ドリフが受けたのは大物ゲストとか関係なくシンプルに面白かったからだわ >>51
ウンナンのやるならやらねば
3年くらいで終わったから印象薄いかも 土曜夜は、バカボン→ライダー→ドリフ→キイハンターだよな 陰キャはキカイダー、デビルマンか >>62
練ったお笑いじゃなくその時の客にウケそうな事やる
そんな感じだから年数経ったVTR見てもつまらんよ >>64
カケフくんと間下このみのやつか
懐かしい >>73
そうだね
隙間を上手く使ったよね
今観ても面白いし ドリフの生放送が始まって直ぐに会場が停電になった回だけは幼い頃の記憶に残ってる 仮装大賞見るにいじりが得意なんだろw
それだけじゃ弱いよなw🔥 >>26
スクールメイツから出てきた賑やかしって感じだもんな。 >>63
第7世代という大きい括りはあるけど
突出したのはいないね >>27
動画上がってるから見てみたけど面白いなぁ
さんまの芸風今と変わんねえ >>66
番組内のゲームで香港の人気バンドのVoが亡くなってしまってそこで打ち切りだったな >>77
西城秀樹がその場にいたから西城訃報スレで飽きることなく語られたな 今みたらおっくんがなぜ人気者なのか
理解されないだろな >>15
マイルド欽ドンってのに出てた記憶ある
欽ドンのかなり末期の頃だね
紙相撲みたいなのをダウンタウンが実際にやってた >>1
「水曜昼にドリフとスタッフが集まり」とあるがこれは間違い。
水曜は作家だけが集まってネタ出しを含めた打ち合わせをする日。
木曜からドリフが入る。
木曜午後からは翌週のネタ出し。時には日付変わるまでひたすらネタ出しに費やす。時間のほとんどが沈黙。それはそれは重苦しい、有名ないわゆる「木曜会議」。
ここで出されたネタを元に美術や小道具を準備し始める。
一週間しかないからタイト。
金曜は前週の木曜会議で決めたネタをひたすら稽古。
土曜は本番。全国を回っていたので、朝から現場でリハーサル。
夕方から客入れを始めるが大抵の場合リハはまだまだ続く。
本番前、いかりや自身による前説。
午後8時、いよいよ幕が開く。 浅草投げ出し
番組投げ出し
野球投げ出し
大学投げ出し いま改めて観ると全員集合は面白いよ。
当時はそう思わなかったけど ひょうきん族はカトケンに負けたってより
たけしのフライデー事件で自粛した事の失速だよね。 80年代中盤からたけしとか自分のタイトル番組増えて
ひょうきん族で見なくてもいいやとか思い始めて >>32
アラフォーだから
昔話じゃなくて
所さんのただものではないだわ 50年以上前の番組だぞ
見てた奴ほとんど死んでそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています