現役引退から3年。12球団すべての春季キャンプに足を運び、横浜ベイスターズでは臨時コーチも務めた2001年に、
落合博満が自らの歩みと重ねて語り、現在でも変わらないホームラン論を3回にわたって掲載する。

ホームランへのこだわりはない。だから、「何本くらい打ちたい」という目標もなかった。長打力のある打者なら、ケガや大きなスランプなくシーズンを過ごせば、だいたいこれくらいは打てるだろうと目安にしていたのは30本かな。
今だから言えるけど、2年連続で記録した50本塁打だって、あくまで結果に過ぎないんだ。

そういう俺が、1982年に史上最年少の28歳で三冠王を獲ってしまった。これで、俺もスラッガーの仲間入り。ある野球評論家に「こんなに数字が低い三冠王は価値がない」と言われた時は腹が立ったけど(笑)、じゃあどうするということもなかった。

25歳でプロになり、一軍定着も遅かったから、王 貞治さん(巨人)の通算868本塁打や張本 勲さん(東映・日拓・日本ハム−巨人−ロッテ)の通算3085安打は、どんなに頑張ったって追い抜けない。
でも、三冠王という形で自分の名前が世に出た時、「これで俺も、プロ野球の歴史に名前が残せるな」と思ったくらいだな。

翌年(1983年)も首位打者を獲ったけど、契約更改では「前の年に3つ獲った選手が、今年はひとつなら減俸だ」とか言われた(笑)。でも、それで三冠王に執着したわけじゃない。
俺を三冠王獲りに駆り立てたのは、1984年のブーマー・ウェルズ(阪急)の三冠王なんだ。

ブーマーが打撃タイトルをひとりでさらってしまったわけだから、それまで3年続けて首位打者だった俺もノンタイトル。これがとても不愉快でね(笑)。
この時、「あぁ、ひとりで3つ獲ってしまうことは、他の打者にもこんなに影響を与えるんだ」と実感した。それで「来年は俺が獲ってしまおう」と決意して、ここから三冠王にこだわるようになった。

三冠王を狙うにあたって、課題になったのはホームランだった。40本台を打ったこともなかったから。そこで、何試合に1本打てばいいのかと考えた。
当時は130試合制だから、3試合に1本なら40本をクリアする。これを2.5試合にすれば52本。まさに、1985年の俺の本数になるじゃない(笑)。こういう計算のもとに、春のキャンプに臨んだ。
タイトルって、自分と闘い、数字と闘い、ライバルと戦って手にするものだからね。

幸い、この年(1985年)の俺には、ホームランを量産できそうな要素が2つあった。ひとつは技術的なこと。俺は感性を磨くことが大切だと考えてやってきた。
例えば、山田久志さん(阪急)のシンカーを攻略するために、ボールをすくい上げようとしないで上から潰そうとした。沈むボールを上から叩くという発想は、感性を研ぎ澄まさないと出てこない。

実際、これで攻略したんだからね。それじゃ、ホームランを増やしたいと考えた時、まず思いつきそうなことは何だ? パワーをつけて、飛距離を伸ばすということじゃないかな。でも、俺は違った。
ファウルになってしまう打球を、何とかポールの内側を通したいと……(笑)。出てこないでしょう、こんな発想。

本塁打量産につながった信子夫人のひと言

https://news.yahoo.co.jp/byline/yokoohirokazu/20200602-00180232/
6/2(火) 12:00