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2020.4.20

一生懸命にがんばろうとはしない。「汗を流す」が似合わない。そんなスチャダラパーが、デビュー30周年を迎えた。

ラップを始めたきっかけは、1987年のビースティ・ボーイズの来日ツアーだった。
「彼らは楽器も弾かずに叫んで暴れてるだけで、これなら自分たちにも出来るかもと思いました。でも、実際やってみたら難しくて、当たり前ですが、ビースティも、ただ暴れていただけじゃないということが、わかりました」ヒップホップグループ「スチャダラパー」のボーズ(51)が、そう振り返る。

東京・原宿の桑沢デザイン研究所で出会ったアニ(52)とボーズが、アニの実弟・シンコ(49)をDJに加えて88年に結成した。
ヒップホップという文化が日本であまり知られていなかった時代に、DJコンテストで「太陽にほえろ!」のテーマソングをアレンジした曲がバカウケすると、90年にアルバム「スチャダラ大作戦」でデビュー。その翌年には人気ゲームソフトのCMソングを担当し、たちまち話題になった。デビューから一貫してメジャーとマイナーを往還してきたが、変わらないのは「ユーモア」だ。これは冒頭のビースティ・ボーイズもしかり。人種差別などで虐げられていた黒人たちの間に広まったヒップホップのカルチャーに、白人3人のビースティが“何でもあり”と“ユーモア”で爆発的な人気を得た。

「それまでラップは黒人のものだと思っていたから、パンクの流れからビースティが出てきたのはいいなと思った。それに、ラップは身一つでできるハードルの低さがある」(アニ)
日本語ラップの“創始者”いとうせいこうやタイニー・パンクス(藤原ヒロシ、高木完)といったラッパーたちは、80年代後半のポストパンクの文化圏──近辺にはパルコ文化や小劇場ブーム、少し遅れて裏原宿のストリートファッションの動きもあった──にいた、ある意味「文化系」。そんな彼らに見いだされたのがスチャダラパーだった。

90年代半ばになると、日本語ヒップホップは空前のブームになる。なかでも象徴的なのが、96年7月、土砂降りのなか日比谷野外音楽堂で開かれたラップイベント「さんピンCAMP」だ。
主催者のECDのほかブッダブランド、キングギドラ、ライムスターといった最重要グループがのちにクラシックと呼ばれる楽曲を次々披露。
一方、その翌週に同じ会場で、スチャダラパーを中心とした「リトル・バード・ネイション」のメンバーが出演した「大LB夏まつり」が開催。ファンの間では「さんピンCAMP」がハードコア系、「大LB夏まつり」が文化系とみなされ、対立しているような構図が独り歩きしたこともあった。だが両者は人脈的に重なりもあり、交流もあった。
「ブッダブランドやYOU THE ROCK☆も知り合いだったし、ヒップホップ好きが集まってくるクラブにはみんないましたよ」(アニ)

デビュー30周年の記念アルバム「シン・スチャダラ大作戦」には、先の「さんピンCAMP」の出演者で、第一線で活動し続けているライムスターとのコラボ曲「Forever Young」が収録されている。ついに実現した「夢のコラボ」だ。
「ライムスターはちゃんとしてますよね。うちらにはない日本語ラップをしっかり盛り上げたいっていう使命感がある」(アニ)

スチャダラパーにはコラボのイメージも強いが、なかでも記憶に強く残るのは、小沢健二とのコラボシングル「今夜はブギー・バック」だ。
「オザワ君と楽しんでやって売れたことが、とにかく大きい。それでスチャダラとコラボすると楽しそう、みたいな感じがずっとある。のちにリップスライムとやらせてもらったり、清水ミチコさんや、デビューしてすぐに谷啓さんとご一緒させて頂いたり、いろいろな方とコラボさせてもらいました」(ボーズ)

自分たちのペースで、好きな仕事だけやる──ある意味文化系男子の夢のような存在だ。

「30年をならすと、トータルで最大週3日労働でしょう、週2日かもしれない」(ボーズ)
「(新型コロナウイルスの対策で)フリーランスへの所得補償が最低賃金で4時間勤務相当なのは酷すぎですが、自分たちは、そんなものだろうと」(シンコ)

配信シングル版「Forever Young」のアートワークには、杖をついたスチャダラパーとライムスターの計6人が写っている。これからも死ぬまでスチャダラパーですか?

「いまのところそう。いよいよ引き返せない」(アニ)
「世界情勢や国の音楽への対応なんかを見ているとラップだけでは大変かも、でもスチャダラパーという屋号は何をやっても自由だからね」(ボーズ)

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