【訃報】元阪急高井保弘さん死去 代打本塁打“世界記録”
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代打本塁打の“世界記録”を持つ元阪急(現オリックス)の内野手・高井保弘(たかい・やすひろ)さんが、13日午前9時44分、腎不全のため兵庫・西宮市内の病院で死去した。74歳だった。通夜は14日午後6時から、告別式は15日午後0時半から西宮市高畑町2の25「エテルノ西宮」で執り行われる。喪主は故人の妻・高井安枝さん。
愛媛県出身。今治西から名古屋日産を経て64年に阪急に入団。9年目に代打要員として1軍に定着。投手のクセや配球を徹底的に研究し、勝負強い打撃で活躍した。「打席に立ったら、絶対相手の投手に気持ちで負けない。自分が4番打者だと思って打つ」のが信条で、74年のオールスターでは、史上初の代打サヨナラ本塁打を放つなど「代打男」として知られた。通算27本の代打本塁打はプロ野球記録で、米大リーグ記録のM・ステアーズ(ナショナルズ)の23本を上回る。後年は指名打者などでもプレー。77年にはベストナイン、78年には22本塁打をマークし、チームの優勝に貢献した。通算1135試合に出場し、打率2割6分9厘、130本塁打、446打点。
82年限りで引退後は、解説者などを務め、ビル管理会社でガードマンとして勤務していたこともある。長女は元宝塚月組・松波美鶴で、天海祐希と同期。
◆高井保弘(たかい・やすひろ)1945年(昭20)2月1日生まれ、愛媛県出身。今治西高から名古屋日産を経て64年に阪急入り。9年目に代打要員として1軍定着。通算27本の代打アーチは日本記録。77年にはベストナインに輝く。82年に退団。実働16年間で1135試合に出場し、130本塁打、446打点、2割6分9厘。右投げ右打ち。
▽通算代打本塁打歴代5傑
(1)高井 保弘(阪急)27
(2)大島 康徳(日本ハム)20
(2)町田公二郎(阪神)20
(4)淡口 憲治(近鉄)17
(5)川又 米利(中日)16
<MLB>
M・ステアーズ(ナショナルズ)23
【注】所属は最終
▽山田久志氏(阪急・オリックスOB会長) 先日7日のOB会でも高井さんの話が出て、みんな心配していたんだよ。2年前にお会いしたのが最後になってしまった。やせられていたので「先輩、気をつけてくださいよ」と声をかけさせてもらった。「頑張るよ」と言われてたんだけどね。代打での執念は本当にすごい人だった。私も何度助けてもらったことか。強い阪急になくてはならない存在だった。代打日本一は間違いなく高井さんだと思っている。本当に残念。心よりご冥福をお祈りします。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191213-12130598-nksports-base 新人が入ってきた。47歳。警備業界では珍しくはない。
定年を迎えて、入ってくる新人も多いからだ。まぁ、新人は立たせておくのが一番いい。
無線を持たせて何か分からないことがあったら、連絡して来いと言って、ビルの外で
立哨させておいた。折りしも、外は小雪がちらついていた。
長時間ただ立っていると、色々なことを考える。夕飯は何を喰おうか?
今度の休みは何をするか?今までの人生。これからの将来。色々なことが頭を過ぎる。
契約先の人がヒョイと顔を出して、
「外に立っている新人さん、泣いているよ。具合が悪いじゃないの?」と言ってきた。
「何だ?」と思って見に行くと、本当に立ちながら泣いている。
通行人は泣きながら立っている警備員を呆れながら通り過ぎて行く人、怪訝な顔をする人、
笑う人、反応は様々だった。
「どうした?」と声を掛けると、やや間があってようやく振り絞るような声で一言。
「つらいです。」
よくよく話を聞くと、立っている間に今までの人生を振り返り、
何で俺はここまで堕ちてしまったのか?何で今、こんな所で罰ゲームのようなことを
やっていなければならないのか?
そんなことを考えていたら、涙が溢れて止まらなくなってしまったそうだ。
結局、彼はやめた 今の野球界なら大スターな実績なのに当時は代打の功績が低く見られてて
サラリーマンよりチョイ上くらいの給与しかもらえてなかったんだよな 代打専門だったけど、それまで4番を打ってた長池が衰えだして代打に回り、
その代わりにこの高井がDHとしてレギュラーになった > M・ステアーズ(ナショナルズ)23
中日にちょこっとだけいた、あのステアーズなんだよな 球団は売却されても、阪急のOBは阪急グループの葬祭会場を利用するんやな。 オールスターゲームでランナー三塁 外野フライでタッチアップの場面
左腕を壊した飛雄馬を外野に起用する古葉監督
そこに登場する高井
みほよ星を狙い撃ちの大飛球を飛ばしパが1点と思いきや というので知った とにかく守備が下手だった
当時阪急には同じくらい守備の下手な加藤秀司が
在籍しててレギュラー争いしたこともあったが結局
高井保弘は代打要員に甘んじることになった 明日のおは土でこの話題するかなあ。
もししたら、ふくもっさんなんていうんだろ 1975年からパ・リーグにDH制が導入されるものの
主砲長池徳二の指定席となり高井の出場機会は
増えず
だが1977年よりようやくレギュラーを掴み78・79年
と2年連続で打率3割を残した >米大リーグ記録のM・ステアーズ(ナショナルズ)
ステアーズ大リーグ記録作ってたのかよ。
高井って人は知らないからピンとこないが、こっちの方がびっくりしたわ。 何年か前にテレビで見たが物凄く痩せていて、巨漢で豪快な現役時代の面影は全くなかった
あの時既にかなり具合が悪かったんだろうなあ 昔は巨人の試合しかテレビでは見れなかったので
高井とか有藤とか門田とか長池とかパリーグの強打者はリトル巨人君でしか
イメージ出来なかった。
そのため実像とかなりギャップが出来てしまった。 高井・八重樫・香川といった連中は
今じゃ考えられないような
メタボ体型やな あぶさんて高井の要素も入ってるよな
メインのモデルは永淵だけど >>13
唯一出場した74年のオールスターで松岡から代打逆転サヨナラ本塁打打った >>42
セが1点リードで迎えた9回裏一死からエラーで出塁、代打高井が本塁打という
嘘みたいな展開だった。エラーしたのは人気だけで選ばれてたルーキー
山下大輔 ピッチャーの癖を見極める達人。
ちょっとした癖を見破り、速球、変化球を事前に予測していた。
そのために試合中、バックネット裏で投手を観察し、細かくメモをつけていた。
その極秘メモをチームメイトが
「ベンツ1台と交換してくれ」と頼んだが断った逸話もある。 高井選手好きだったわ
ご冥福をお祈りいたします
合掌 高井ブーちゃん亡くなったのか・・・好きな選手だった
しかし本当に阪急っていい選手多かったのに人気なかったな 代打、高井、阪急が強かった時の選手
こんな形で名前を聞くとは >>50
西武ライオンズが誕生してメディアに金を注ぎ込む
ようになるまでパ・リーグは本当に日陰者だった
グループ会社に関西テレビのある阪急が何もしない
んだからどうしようもない >>54
2位に大島康徳が入ってることからも分かるように守備
がうんこという恥の証明でもあるから 昭和の頃のパリーグはセよりも一段レベルが高かったように見えたけど
実は阪急がダントツで強かったって話もあるな >>57
同じ阪急の山沖の娘は次期トップスターだぞ >>38
香川を同列にするのは二人に失礼。
当時でも野球選手の体じゃなかった。香川。 >>50>>55
それ以前に『阪神タイガース』があるからなぁ…。
今は阪神電車も阪神タイガースも、阪急東宝グループの一員だから。
関西のプロ野球は、阪神関連以外は記事にならん。
スポーツ紙も平日は、報知以外は勝っても負けても基本はタイガース。 >>50>>55
それ以前に『阪神タイガース』があるからなぁ…。
今は阪神電車も阪神タイガースも、阪急東宝グループの一員だけど。
関西のプロ野球は、阪神関連以外は記事にならん。
スポーツ紙も平日は、報知以外は勝っても負けても基本はタイガース。 あぶさんのモデルは永渕たが
代打稼業は
高井がモデルだな 1番 8 福本
2番 9 蓑田
3番 3 加藤秀司
4番 7 長池
5番 DH 高井
6(番 5 島谷
7番 4 マルカーノ
8番 6 大橋
9番 2 中沢 >>59
黒い霧事件とかもあって他球団が激しく弱体化してた
ライオンズは没落東映は身売り南海は沙知代のせいで
内部崩壊
日ハムと近鉄が徐々に地力を付け新興西武が強豪化
する一方頑張ってたロッテが落合放出でジ・エンド >>63
国際プロレスのパートナーもTBSと東京12チャンネル
だもんなあ
西武ライオンズっぽいw ニックネームはブーちゃん
とにかく酒が好きな人だった >>55
何もしてなくはないよ
土日のデーゲームは、定期的に中継して
ブレーブスレポートなんて、チーム広報
番組をやってた。ただ、阪神一辺倒の
関西ではどうしようもなかった >>69
衰えた森本潔との交換で島谷金二が獲れたんだから
笑いが止まらない
中日も森本を諦めて大島康徳を使わざるを得なくなり
結果レギュラーとして開花するんだから人生何が幸い
するか分からない リアルでは知らないけど色々な書籍読んでリアルで見たかった人
永射保さんといいこういう必殺仕事人的な選手は好きだな 残念だ
>>16
落合博満が当時「絶対切っちゃだめだ」って言ったのに中日は切ってその後大リーグで活躍したな >>75
カンテレとフジテレビの関係が良くなかったから東京
で阪急の番組が流れないのは痛かったなあ あとイチローの師匠
河村健一郎という人も代打の切り札だった >>18
しかも西宮球場跡に出来たショッピングモールの隣 >>75フジの巨人戦を差し替えたり、年一で月曜ドラマランド潰して阪急戦の全国中継やっていたな >>80
河村の奥さんと山倉和博の奥さんが姉妹で義兄弟なんだよな オヤジが70年代の阪急の選手が阪神よりもキャラも立っていて実力のある選手が多かったのに
マスコミは阪神ばかりだから、どうしようもないとボヤいていたのを思い出した 代打の神様とか持ち上げられて人は?
何本代打本塁打ってるの? >>49
そちらの父親は元近鉄バファローズ内野手の高井準一。 あぶさんでは、
もう35やで、とうに引退してもおかしくないオッサンや
みたいなこと言ってだけど、当時は引退が早かったんだな >>18
阪急という言葉に愛着があるって
山田さん言ってた やっぱり名前なんだよ
同じチームといっても「オリックスバファローズ」
では人心は離れる。
オリックスのフロントや宮内はアホだからそういうことがわからなあ >>29
来週水曜の『伊藤史隆のラジオノオト』18時台「福本豊の虎スタグラム」でも取り上げそう。
共演の笑福亭松喬(大の阪急ファン)も残念がるだろうなぁ。 黄金期の阪急には当銀とか平林とか控えにも渋い選手が多かったなあ 長池は日本シリーズで外木場にぶつけられてから調子崩した印象あるな これだけ打撃はいいのにレギュラーなれんかったんか?
守備がひどかったんか? >>95
それ
いつまでバファローズなんて使うのかね 2019年に亡くなった主な有名人
高井保弘(元プロ野球。代打本塁打世界記録)
梅宮辰夫(俳優)
松本ちえこ(歌手)
中曽根康弘(元首相)
ク・ハラ(KARA)
木内みどり(女優)
鴈龍(俳優。勝新&中村玉緒の息子)
平川幸男(漫才師。Wヤング)
田口光久(元日本代表GK。生ダラ)
中山仁(俳優)
きよ彦(着物デザイナー)
八千草薫(女優)
和田誠(イラストレーター)
金田正一(元プロ野球監督)
逆鉾(元関脇。寺尾の兄)
佐藤しのぶ(ソプラノ歌手)
佐藤忠志(元予備校講師。金ピカ先生)
安部譲二(作家。塀の中の懲りない面々)
吾妻ひでお(漫画家。失踪日記)
高須基仁(出版プロデューサー)
竹村健一(経済評論家。だいたいやね)
ジャニー喜多川(ジャニーズ事務所創設者)
高島忠夫(司会者)
田辺聖子(作家)
横山たかし(漫才師。たかしひろし)
木村進(元吉本新喜劇)
白石冬美(声優) 京マチ子(女優)
湯浅実(俳優。中学生日記教師)
小出義雄(マラソン指導者。高橋尚子の恩師)
モンキー・パンチ(漫画家。ルパン三世)
福岡翼(芸能リポーター)
ケーシー高峰(漫談家)
北尾光司(元横綱)
萩原健一(俳優)
近藤昭仁(元プロ野球監督)
内田裕也(ロック歌手)
ザ・デストロイヤー(プロレスラー)
山田スミ子(女優。元吉本新喜劇)
降旗康男(映画監督。高倉映画)
笑福亭松之助(落語家。さんまの師匠)
織本順吉(俳優)
堺屋太一(経済評論家)
岡留安則(元「噂の真相」編集長)
梅原猛(哲学者)
市原悦子(女優)
兼高かおる(旅行ジャーナリスト) 打てても守れない投げられない少年時代に憧れた最初の選手だ 3大本塁打記録
王貞治 868
高井保弘 27
鈴木啓示 560 >>50
阪急がブレーブスを阪急野球部みたいな位置付けにしてたんじゃないの?
だからメジャー式経営を取り入れた宮内はオールドファンから嫌われてる >>100
田淵も外木場にぶつけられて、今も耳が聴こえにくい ベルトレスがズリ落ちないか心配になるお腹してたねw 1977年の日本シリーズ第4戦9回裏1点ビハインドで蓑田がバックホームかいくぐって同点に追いついた場面
蓑田が大きくクローズアップされてたけど、あれ二死無走者で四球選んだ高井の代走だったんだよ。 西宮球場で出待ちしてサインもらったわ
確か骨折かなんかで包帯してた あの逆転サヨナラ本塁打はリアルタイムで見ていた。なんか打つ感じがした。
照明灯が妙に明るかったのが今も記憶に残る >>125
松岡と堀内を勘違いしてたが あのカーブは凄かったがあれを打った高井もスゴい >>69
長池と蓑田は時期が違う
島谷がいる頃には長池じゃなくてウイリアムスの方が主力だった ここへ来たら Good Old Pacific Fanと会えるな
阪急 南海 近鉄
西宮 大阪 日生 藤井寺 西京極
オレは近鉄 親父は南海 兄貴は阪急 嗚呼!あの頃に戻りたいわ 親父が今西でクラスメイトだった。
高井が本を出版してそれが実家においてある。
同窓会で貰った
とか言ってたが。。合掌。 >>128
wiki読んで知ったが173cmしかなかったのか
デカいイメージあったんだけどな 阪神とエリアが西宮と被っていたのが弱点、京都がホームならね。 京都は学生スポーツを尊ぶ土地柄
プロスポーツが根付かないのはサンガの惨状をみればわかる >>137
阪神と同じ、大阪神戸間に球場したのは間違いだたかもな
大阪京都間の球場だったら、どうだったかな?高槻とか茨木とか
阪急は昭和10年ぐらいの戦前設立だが
当時の阪急京都線は、京阪電車の所有で、京阪は大阪京都間2つ線を持ってた
戦中に国から無理やり阪急と京阪を合併させられ、戦後また分離した
その時のどさくさで阪急は京都線を獲得した
戦後阪神に差を付けられ、それから球場を京都方面に、また宝塚って方法もある
西宮に固執し続けたのが、人気低迷の原因の一つだったかも? 川藤幸三(阪神)代打HR11(通算 16HR)
川藤幸三著『代打人生論〜ピンチで必要とされる生き方〜』 >>48
w
と言うかお前らいくつだよw
人のこと言えないけどwww ワシもかろうじてギリギリ知ってる世代かな? あぶさんにも出てた気がする。 西宮球場は広い球場だったのでラッキーゾーンがあった
外観もかっこよかった 場所かなあ
パリーグはどこもガラガラだったからな
西宮だけじゃないよ どこも2000人ぐらいしか入ってなかったからな
それでも観衆1万って発表してた >>129
長池さんも出場はしてたけど指名打者だったね
だから高井・長池が両方スタメンに名を連ねることは
DH制導入後はほぼなかった(ファースト高井なら) >>140
京都には松竹があった
大洋と合併して大阪球場に移転したが パリーグなんか川崎であれ後楽園であれ平和台であれガラガラ
川崎なんか500人ぐらいだったろ 川崎球場は消化試合で対日ハムとかなら50人とかあった >>102
そう。守備と走塁がお粗末だった。守備の本職は一塁だったけど、そこは加藤秀の指定席だった。 >>17
見てたら涙出てきた
勇者たちの記憶という本でインタビューされた頃は、こんなに早く逝くとは思わなかったのに >>158
父は元野球選手肩書でデビューしたAV女優やな
スタイル良くハーフっぽく、ええのん出てきたなと思ってたら数作で消えてしまった
さすがに年齢の差があり、本名でデビューする訳がないので
また違う元野球選手やろけど
高学歴肩書AV女優の身元バレたら、中央大在学でホンマだったって事があった
アナウンサー肩書デビューは、町内のウグイス嬢とかやろな
AVって嘘ばっかりと思ってしまうが、結構真実な事が多いのよね >>159
どうでもエエけどお前、めっちゃ読みにくい文章書くね 昨日の梅宮といい今日の高井とか若い方の訃報が続くな 町田なんて阪神にいたか?広島のイメージしか無いけど? あぶさんがアホみたいな代打記録打ち立てたので
あの世界では小物に成り下がってしまった。 阪急チラ裏
山田、足立、山口
福本、蓑田、ブーマー、加藤 >>58
大島は野球歴がやたら短いのに運動神経の良さだけでプロ入りしちゃったから
そもそも基本がよく分からず、調子の良い時はとんでもない長打を連発する代わりに
一度調子が落ちるとバッピの球すら当たらなくなったから
レギュラー期間は俺の予想より遥かに短かった
ってゲラゲラ笑いながら言ってた ロッテの夢は〜観客動員100万人〜
テレビじゃ見れない川崎劇場、
川崎球場や日本生命の日生球場に比べると箱物、スタジアムは西宮球場って後楽園球場や甲子園球場に比肩する規模で、
わりと阪神ファンもパリーグは阪急ファンやねんけどなぁ、と多かったり、
阪急のリトルかなんかの野球団、野球チームがあったり、で子供の会に入ってる子がクラスメイトにいたり、
当時、CSやケーブルテレビがなかったり地方に根付いた球団がパリーグに少なかったので今のように観客動員には結びつかなかった印象。
だけど阪急は他のパリーグの球団に比べれば球場がラッキーゾーンや電光掲示板があるなど大きかったイメージでそこまでマイナーなイメージではなかった感じはしていた。その辺はさすが東の東急グループに並ぶ阪急東宝グループといった感じ。
今は阪神と一緒になり阪急阪神東宝グループとなり、阪急阪神ホールディングスの下にそれぞれ阪神電気鉄道、阪急電鉄がぶら下がり、その阪神電気鉄道の下に阪神タイガースがあり、
阪神タイガースは阪急阪神ホールディングスの系列ではないが阪急電鉄の子会社ではなく阪急阪神東宝グループの一員といった感じになってる。
近鉄は朝日放送との関係からアベロクさんのバファローズアワーなどのラジオ番組など、ファン獲得など経営努力はしていた。
阪急といえばグループに関西テレビがあり、宝塚歌劇団を上演する番組の花の招待席という番組があった。
近鉄とオリックスの時、バファローズのチアガールの役をやっていた近鉄グループのOSK日本歌劇団も経営危機となった時、
ニュースステーションのコメンテーターが「宝塚のようにどうして東京に進出してこないんですか?東京宝塚劇場があるじゃないですか、東京に来ないと全国にアピール出来ないじゃないですか、でないと我々はわからないですよ」みたいな事言っていましたが、
OSKって元は大阪松竹歌劇団で松竹で東京は松竹歌劇団って棲み分けてたから、
松竹は新橋演舞場とか歌舞伎座とかたくさん劇場があっても、、、
のちに松竹を離れてOSK日本歌劇団となり、近鉄となれば、また一からだから。
で、阪急は日比谷が阪急村で帝国劇場、東京宝塚劇場、日比谷シャンテ、東宝本社、日本劇場、有楽町マリオン、有楽町阪急men's東京など、
だいたい日本勧業銀行本店から古河総合ビルヂングまでの間を戦前の小林一三の一大構想で丸の内、大手町のサラリーマンの為のアフター5の娯楽として計画されたもので、そこに宝塚歌劇団の常設劇場があった。
なので近鉄も吉祥寺に近鉄百貨店があったもののその辺りでOSK日本歌劇団との差がついたのかも。
OSKも京マチコさんなど有名な俳優さんなどを輩出している。
東宝は小林一三が東京の映画会社を買収し東宝宝塚劇場から出発したため東京宝塚を略して東宝。 南海戦で監督兼捕手だった野村とヤマの張り合い勝負を仕掛けて見事打ち勝ったり、
9回裏同点の場面で代打に出てベンチに向かって「お前ら、帰る支度しとけよ」と言って
見事サヨナラ本塁打を打ったりと伝説がかなりある御仁だった 打率は大したことないんだな
立浪やヤギの方が上だろ >>162小林一三がアメリカの球場巡りして、シカゴカブスの本拠地で今もあるリグレー球場をモデルにした
内野に天然芝もあり野球を知っていた 偵察要員の代打本塁打を省いた数字が見てみたいな
実質スタメンだしプレッシャーのかかる試合終盤の代打とは少し違うから >>28
芸スポおじさんはネット老害そのものだからしゃあない(´・ω・`)
まだおっさんだろうにボケ老人みたいなレスばかりで見てて哀れになってくる >>98
おは土で、野球コーナー一番の話題だったな。
ふくもっさん曰く、守備はアレやったけど、えげつない打球やったと。 >>173
OSKは松竹を離れた事が結果的な運の尽き
近鉄なんか何等芸能界にコネの道筋が無いからな >>173
OSKは松竹を離れた事が結果的な運の尽き
近鉄なんか何等芸能界にコネの道筋が無いからな やっぱりオールスターの代打逆転2ランだよな
オープン戦での一度の対戦で松岡の癖を見破ったらしいが見事という他ない
飲み屋を経営した時はそんなに酒が強くないのに客に飲まされて
体を壊したような話を聞いたんだが、やっぱり店は畳んだんだな
ご冥福をお祈りします 代打の記録で名前だけは知ってる
ご冥福をお祈りします よく阪神ファンのヤジがエゲツナイといわれるが、西武参入前のパリーグにくらべたら・・・
西宮球場、なんせ人いないからヤジの通ること通ること
2人しかいない日ハム応援団、抑えの山口高志が出てきたら「こらアカン、帰ろ」って7回でいなくなってた >>181
加藤秀司の控えだから偵察メンバーの代打で出場
する機会そのものが年間一桁台
加藤って凄い打者だけど評価が低いのはムラっけ
のせいなんだろうなあ >>139
被らないな。
遠井は無頼派気取りで毎晩酒ばっかりくらって野球をおろそかにしてたイメージ。
当然実績も全く作れなかった。
酒を呑みながらもきちんと代打で輝かしい実績残した高井さんと比べるのは失礼や。 >>195
阪急時代は間違いなく凄かった。
評価も日本を代表する打者みたいな扱いだったと思う。
けど、性格がヒネてて嫌われてたのと阪急出てからの成績が全く振るわなかった事で
著しく評価落としたな。 広島、巨人と全くダメだった。 加藤はクロマティにも自著で性格が最悪だとボロクソに言われていた >>198
近鉄時代、新人の金村義明がバットをパクって殴られるエピソードが笑える >>197
苗字が加藤というだけで「チャ」というニックネームを付けられたんだよなw >>197
交換相手の水谷実雄が打点王という皮肉
まあ水谷は翌年の頭部死球で終わっちゃったんだが >>201
自分のベンツと引き換えに高井ノートをくれと言ったのがその水谷だけど、
高井は82年限りで引退、水谷は83年に広島からトレードで移籍加入と僅かにすれ違ってる。
引退したからもう不要と思って持ちかけたんだろうか? >>204
ただ結局そのノートが役に立ったのは1年だけだったな >>200
巨人の斎藤雅がセイロクって呼ばれてたようなもんか >>204
水谷なの?
高井が現役時代の話なのかと思ったが 西本監督が加藤秀司を代打に出そうとしたが、
加藤がベンチにいない。
探したら加藤はベンチ裏のテレビを見て遊んでいた
言うまでもなく西本の鉄拳が降りた 世界の誰も知らない世界記録www
焼豚はすぐしょうもない世界記録アピするよねwww 加藤秀司は最初二軍からスタートしたが、
あまりのヤンチャぶりに二軍監督が手を焼いて、
「加藤は二軍では預かれません」と、
追い出されるように一軍昇格。 >>196
遠井はバリバリのレギュラーだぞ。高井ブーちゃんを貶める気は全くないが
比較すること自体に無理がある。 自分を使ってくれない西本監督(守備重視の采配)を嫌って信任投票事件で不信任に入れた、と西本存命中から公言していた。
西本が近鉄に移ってから近鉄戦で打つたびにざまあ見ろと思っていたらしい。
ただし出番が少なかった高井を解雇やトレードに出さなかったのは西本なんだよな。
高井が代打で目が出始めたのも西本阪急末期の72年だし 今度の週刊ベースボールの野村克也のコラムで
高井はスペンサーから学んだ って話が確実に出るはず ああ検索したらマルカーノは亡くなってたのか…(つд;) >>213
加藤秀司がライバルの高井保弘と誰もライバルが居ない
遠井吾郎を同列には扱えんだろ
しかも遠井は名手どころかとんでもなく守備が下手だった
んだし 今朝の「おはよう朝日です」でも高井氏のの訃報を伝えていたけど
福本さんもやっぱり、足が遅かったような事をコメントしていた。
>>217
遠井はほとんど動かず鎌田(この人も今年逝去)がカバーしてたらしい
打球も送球も来た球をちゃんと捕ってればいいという感じかw >>214
現役晩年その西本に会ったら「あのとき(79年の日本シリーズ第7戦)お前がいたらなあ」と言われて、ざまあみろと思ったらしい >>195
見るからに大阪のオッサンって感じの加藤が巨人移籍時の会見で
「静岡出身で子供の頃から巨人ファンだった」
と言ったので子供ながらにズッコケた記憶がある >>221
カープで肝炎になったのは広島が合わなかったせい
なんだろうなあ >>217
でもレギュラーずっと張った遠井と1000本も打てなかった高井じゃ比較にならん >>220
なんかしょうもない人に思えてきた(´・ω・`) >>202
南海に阪田という選手がいたな。当然そう呼ばれたけどw えぇええーー好きな選手だったからショックやぁ
もっと若いと思ってた結構なお年だったのか
仕方ない話だけどだんだん居なくなって寂しい >>201
ぶつけたのロッテの土屋だっけ
頭部死球後ダメになる打者って多いよね
蓑田巨人の井上キーオにぶつけられてダメになった >>228
近鉄戦
引退後近鉄でコーチやるんだから不思議な縁だ >>214
ライバルが加藤秀司だからなあ
両方使うにはどっちかを外野に入れなきゃならん
そうなると高井ベンチという判断しかない 最初のDHベストナインは長池だけど既にピークは過ぎて物足りない成績だった。
長池を追い落とした高井こそが他球団も含めて最初のザ・DHだと思う。
南海門田はまだ怪我前で外野手がメインだったし >>77
ステアーズ解雇は馬鹿なことを・・・と思ってしまうが
ディオン・ジェームズが取れたんなら仕方なかったか
前年メジャー378打席で.332の高打率をマークし、キャリアでも.290近い打率の好打者
やや長打力には欠けていたが、ナゴヤ球場ならというのもあったろうな
まあジェームズは思うような率を残せなかったのだが >>121
四球は代打の藤井栄治で、代走蓑田が二盗
同点タイムリーがこれも代打の高井じゃなかった? >>182
こういうのって、書かれてる球団は
現役最終所属球団になってることが多いからな
町田公二郎(一時期、康嗣郎)は最後は阪神に移って、そのままコーチやって
また広島にコーチで戻って、三菱重工広島のコーチを経て今は監督だな 3:「西宮七園」・住宅地の開発 〜 西宮・宝塚 | このまちアーカイブス ... - 三井住友トラスト不動産「西宮七園」・住宅地の開発
大正から昭和にかけて、西宮周辺にあったリゾート地は、住宅地・別荘地に姿を変えていった。
「甲陽園」「甲東園」などは、甲山に名称の由来があり、「苦楽園」「昭和園」なども開かれた。また、阪急は神戸線・今津の「西宮北口駅」付近で開発を行い、「阪急西宮球場」などが誕生した。
神戸線・今津線の交差点として生まれた「西宮北口駅」
箕面有馬電気軌道から社名を変更した阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が1920(大正9)年、神戸線を開通させたとき、「宝塚駅」と結ぶ将来の路線(現・今津線)の接続点として、この「西宮北口駅」を置いたが、当時、ここは市街地から離れた瓦木村(現・西宮市)だった。
駅の北東側には西宮車庫が設置されている。1921(大正10)年、今津線の前身である西宝線の西宮北口・宝塚間が開業、さらに1926(大正15)年、西宮北口・今津間が開業し、現在の今津線が誕生すると、神戸線との間で平面軌道交差(ダイヤモンドクロス)が誕生した。
このダイヤモンドクロスは1984(昭和59)年まで続いた。【画像は1982(昭和57)年】
神戸線・今津線の交差点として生まれた「西宮北口駅」
駅近くの「阪急西宮ガーデンズ」内にある商業施設「阪急西宮ギャラリー」のジオラマでは当時の様子を見ることができる。
日本初の二層式スタンドをもつ 「阪急西宮球場」
阪急電鉄は1937(昭和12)年に「阪急西宮球場」を建設した。
建設地には、「西宮北口駅」南東の所有地が選ばれた。この球場は、米・シカゴの「リグリー・フィールド」などを参考とし、日本初の二層式スタンドを有する全面天然芝の野球場として、大きな話題になった。
当時創立されて間もない職業野球(プロ野球)の「阪急軍(後の「阪急ブレーブス」、
現「オリックス・バファローズ」)の本拠地となって野球の試合が開催されたほか、多くのイベントにも使用された。
2002(平成14)年、施設の老朽化などを理由に営業を終了した。【画像は昭和戦前期】 西宮の住宅地開発と「西宮七園」「甲陽園」「甲東園」「甲風園」の由来である甲山の様子
明治初期、大阪の工業化による住環境の悪化などを背景として、風光明媚な別荘地として注目され始めていた阪神間の地域には、都市部の実業家たちが多く移り住んだ。
西宮周辺も、その環境と国鉄(現・JR)東海道本線、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の各路線の開通に伴い、様々な開発が行われた。
現在それらの地域は「西宮七園」と並び称される高級住宅地となっているが、それぞれ形成された過程は異なっている。
「香櫨園」は1907(明治40)年に香野蔵治と櫨山慶次郎が、現在の「阪急夙川駅」の南側に開設した遊園地。1913(大正2)年に閉鎖され、その後住宅地となった。
「苦楽園」は明治後期にラジウム温泉が発見されると、大阪の実業家、中村伊三郎によって別荘地として開発された後、温泉リゾート地として賑わったが、温泉が枯渇し住宅地にその姿を変えた。
「甲子園」は、阪神電鉄が武庫川改修の際に取得した土地に総合リゾート地として開発された。
野球場のほか、テニスコート、遊園地、ホテルなどが建設され、周辺は住宅地として開発された。
「甲陽園」は1918(大正7)年から本庄京三郎により温泉のある郊外遊園地として開発され、旅館や高級料亭も多く存在した。
「甲東園」は、大阪の実業家、芝川又右衛門が開発し、ぶどうなどの果樹を植えた「甲東(芝川)農園」が起源。当時植えられた梅の木は現在、「甲東梅林」として残されている。
1900(明治33)年に「甲東農園」は「甲東園」と変わり、阪急西宝線(現・今津線)の開通時には、その名称が駅名となった。
純粋な住宅地として開発されたのは、「甲風園」「昭和園」のみ。どちらも昭和初期に開発された住宅地で、「甲風園」は、阪急の「西宮北口駅」北西の地名として残っている。
「昭和園」は年号の「昭和」に由来し、「西宮北口駅」北西の北昭和町、南昭和町がその名残りといわれている。 高校野球の聖地「甲子園」の誕生と発展
「甲子園」は、「枝川」を埋め立てた場所にあり、主に阪神電鉄によって遊園地・住宅地として開発された。
その中心は、高校野球の聖地、「阪神タイガース」の本拠地に発展する「阪神甲子園球場」で、1924(大正13)年に開場した。
また、「鳴尾浜」には「甲子園娯楽場」(後の「浜甲子園阪神パーク」)が開設され、「武庫川」沿いに建てられた「甲子園ホテル」は当時の文化を伝える建築物として今も残されている。
1924年に誕生した「阪神甲子園球場」
1917(大正6)年から「全国中等学校優勝野球大会」(現「全国高校野球選手権」)は「鳴尾球場」で開催されていたが、地元「甲陽中学校」が優勝した影響などから野球人気が高まり、観客を収容しきれない状態であった。
そこで阪神電鉄は甲子園における開発構想の一環として、「枝川」の流路(埋め立て地)に1924(大正13)年「甲子園大運動場」を建設した。
その後、阪神電鉄は周辺に遊園地、動物園などの建設を行い、「甲子園大運動場」は「甲子園球場」に改称、さらに1964(昭和39)年に「阪神甲子園球場」に変わる。
職業野球(プロ野球)の「大阪野球倶楽部」(現「阪神タイガース」)の本拠地として球団設立当時の1935(昭和10)年から使用された。【画像は昭和戦前期】
1924年に誕生した「阪神甲子園球場」
2010(平成22)年にリニューアル工事が完了した「阪神甲子園球場」。
球場内には「甲子園歴史館」も併設され、球場や高校野球の歴史などに触れることができる。
「西の帝国ホテル」と呼ばれた「甲子園ホテル」
世界的に有名な建築家のフランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新(あらた)の設計による、昭和初期のモダニズム建築として知られる「甲子園ホテル」は1930(昭和5)年、武庫川右岸に竣工した。
初代の支配人は、「帝国ホテル」の支配人だった林愛作(あいさく)が務めている。
洋風建築に和の要素を盛り込んだモダニズム様式のホテルは「西の帝国ホテル」と呼ばれ、皇族や国内の要人、軍人らも宿泊した。
1937(昭和12)年に公開された原節子主演の日独合作映画『新しき土』のロケ地ともなった。【画像は昭和戦前期】 アラフォーだけどこんな選手全く知らんぞ
普通に語ってる奴らは何歳なんだよ・・・ 1928年、「鳴尾浜」に開設された「甲子園娯楽場」
「甲子園阪神パーク」は、1928(昭和3)年に「甲子園」で開催された「御大典記念国産新興阪神大博覧会」の海岸側(「鳴尾浜」)の跡地に翌年、「甲子園娯楽場」という名称で開設された。
1932(昭和7)年、「浜甲子園阪神パーク」と名称を改めて、動物園や水族館などの施設も充実させたが、「太平洋戦争」中の1943(昭和18)年に閉鎖、海軍に接収されて飛行場となり、戦後は住宅地や公園に変わった。
1950(昭和25)年、「甲子園球場」(現「阪神甲子園球場」)の東側に「甲子園阪神パーク」として復活した遊園地は、
「阪神・淡路大震災」で被災し、入場者が減ったことで遊園施設複合型住宅展示場「阪神パーク 甲子園住宅遊園」となった後、2003(平成15)年に閉園した。
1928年、「鳴尾浜」に開設された「甲子園娯楽場」
「鳴尾浜」にあった「浜甲子園阪神パーク」の跡地は、スポーツを楽しめる「浜甲子園運動公園」になっている。
阪神電鉄、「大林組」の手で、「甲子園住宅地」を開発
阪神電鉄は、後の阪神甲子園線沿線となる土地を手に入れて、球場や遊園地とともに住宅地を造成する複合開発を行った。
阪神による開発は当初、鉄道より南側は遊園地、北側は住宅地という計画だったが、後にはリゾートに隣接する「南甲子園住宅地」を開発している。さらに浜側では、「大林組」による「浜甲子園健康住宅地」が開発された。
「大林組」はここで、「大阪毎日新聞社」とともに健康住宅の設計コンペ、「浜甲子園健康住宅実物展覧会」を開催するなどのPR活動を行っている。
また、1932(昭和7)年に「浜甲子園健康幼稚園」を「大林組」が開園し、その後は「浜甲子園町会(自治会)」に経営が移ったが、現在も学校法人として運営が続けられている。 阪神電鉄の「甲子園」開発 「甲子園」にあったテニスコート
「甲子園」といえば、高校野球の聖地であり、プロ野球チーム「阪神タイガース」の本拠地として、全国から注目を浴びる場所である。
しかし、過去には、現在と異なる面を有する土地であった。
この地を主体的に開発したのは、阪神電鉄であり、その開発は鉄道の敷設、運動場・遊園地の建設、そして住宅地の開発の三つが柱となっている。
阪神電鉄が開通させた阪神本線や阪神国道線(路面電車)は、国鉄(現・JR)東海道線に比べて駅(停車場)数が多く、甲子園線(路面電車、後に廃止)も含めて、阪神間の発展に大きく貢献した。
1905(明治38)年の阪神本線開通当時、「鳴尾駅」と「今津駅」(現「久寿川駅」)の間には駅は置かれなかった。
現在の駅のある場所には「枝川」が流れており、現在の「阪神甲子園球場」付近は「枝川」と「申川」に挟まれた三角州や流路であった。
1920(大正9)年、「武庫川」の改修工事により「枝川」、「申川」が姿を消し、河川敷を含めて新たに利用可能な土地が生まれた。
この土地(約22万4千坪)を手に入れたのが阪神電鉄であり、1924(大正13)年に完成した大運動場(野球場)を干支の「甲子(きのえね)」の年にちなみ「甲子園」と名付けた。
この「甲子園大運動場」はやがて野球専用の球場となり、その南側に「甲子園南運動場」「甲子園娯楽場(浜甲子園阪神パーク)」を建設し、「百面コート」と称されたテニスコート群があるなどスポーツを中心とした総合レジャーランドを誕生させた。
一方、阪神本線の北側では、住宅地の開発を進めることとなる。
阪神によって、1929(昭和4)年以来、「阪神国道」から南に向けて住宅地が開発され、その後は阪神本線の南側にも住宅地が誕生した。
こうした町や施設を結び、地域住民、観光客の足となったのが阪神甲子園線で、1926(大正15)年に甲子園・浜甲子園間が開通し、1928(昭和3)年には上甲子園・甲子園間が延伸した。 >>239
あぶさんに出てたから知ってるけど、現役時代は知らないw 「香櫨園」は遊園地から高級住宅地へ 現在は西宮市内の地名として定着している「香櫨園(こうろえん)」は、
「西宮七園」と呼ばれる高級住宅地の一つであるが、もともとは1907(明治40)年、夙川の西岸に香野蔵治(くらじ)・櫨山(はぜやま)慶次郎が開設した「香櫨園遊園地」が起源。
「香櫨園」の名称は、この二人の姓から採られた。
阪神本線にも同年、「香枦園駅」(現「香櫨園駅」)が新設されている。
この「香櫨園遊園地」は、写真の左側に見える「ウォーターシュート」の遊具などで有名だったが、1913(大正2)年に閉園となり、跡地が住宅地として分譲された。一方、一部の遊園地施設は海岸近くに移転し、「香櫨園浜」の海水浴場でその後も利用された。
「香櫨園」は遊園地から高級住宅地へ 遊園地から高級住宅地に変わった「香櫨園」だが、ボート遊びなどで利用された遊園地の池は、今も残されている。
廃川の上にできた阪神本線「甲子園駅」 廃川の上にできた阪神本線「甲子園駅」
阪神本線が開業した明治後期には、現在の「甲子園」付近に駅は設置されておらず、この地を流れる「枝川」の橋梁を渡るのみであった。
1920(大正9)年、兵庫県による「武庫川」の改修工事(第一期)が始まり、「武庫川」の支流である「枝川」、「申川」を廃川することになった。
この2本の廃川により埋め立てられた土地を取得したのが阪神電鉄であり、「枝川」と「申川」の三角州の頂点にあたる場所に「阪神甲子園球場」が開場した。このとき、「甲子園駅」は臨時駅として1924(大正13)年に開設された。
さらに、1926(大正15)年には、「枝川」の流路を利用して「甲子園筋」が整備され、ここに軌道線(路面電車)の阪神甲子園線が開通した。
この甲子園線は同じく軌道線だった阪神国道線とも連絡し、地元住民や「甲子園」を訪れる観光客の足となっていたが、1975(昭和50)年に廃止された。 鳴尾浜・御前浜 海浜リゾートの発達 1905(明治38)年に阪神電鉄が開通させた路線は、阪神間の海岸地域の発展を加速させた。
交通の便が増したことで、風光明媚な西宮周辺には、別荘地、遊園地、競馬場などが開かれ、今でいう海浜リゾート地が各地に誕生した。こうした海岸は、夏には海水浴場として賑わった。
大地主・辰馬半右衛門が開いた「鳴尾百花園」
「鳴尾百花園」は、1905(明治38)年、地元の名士である鳴尾辰馬家十五代当主の辰馬半右衛門が造った庭園。席亭や築山を設け、四季の草花の鑑賞、散策などを楽しむことができた。
また、付近では明治後期から「鳴尾いちご」が栽培されており、いちご狩りが楽しめたこともあり、多くの観光客を集めた。大正末期に阪神電鉄に売却されて「武庫川遊園」の一部となり、その後跡地は軍需工場などを経て住宅地となった。【画像は明治後期】
大地主・辰馬半右衛門が開いた「鳴尾百花園」
鳴尾でのいちご狩りの様子。大正期頃からはジャムなど加工品の製造も行われ、昭和初期には全盛期を迎えたが、戦時中にいちご畑の多くが収用され、衰退していった。【画像は1936(昭和11)年頃】
1907年に誕生した「鳴尾競馬場」1907(明治40)年、「鳴尾浜」の西浜に「関西競馬倶楽部」による競馬場が開場し、「鳴尾競馬場」と呼ばれた。
翌年、東浜にも「鳴尾速歩競馬会」の競馬場が開かれたが、その後両倶楽部は西浜へと統合され、「阪神競馬倶楽部」となった。
1916(大正5)年には、阪神電鉄により競馬場内に2面のグラウンドを持つ野球場などを含む総合運動場が造られ、翌年から「全国中等学校優勝野球大会」(現「全国高校野球選手権大会」)が開催された。
1937(昭和12)年に「日本競馬会阪神競馬場」と改称されるが、戦中には「川西航空機」の飛行場となり、戦後は進駐軍に接収された。
1949(昭和24)年に現在の兵庫県宝塚市に完成した「阪神競馬場」にその機能を移した。 >>41
あぶさんて名前のモデルは景浦 將で、物干し竿のモデルは藤村富美男、バッティングのモデルは土井正博だと聞いてた。永淵は初めて聞いた。 >>245
景浦は南海OBの蔭山と杉浦をくっつけたんじゃなかった? >>248
昔、水島新司がかっこいい名前だなあと思って拝借したと見たことがある。 >>88
西武の土井は出前のうどん食ってから打席に入るので試合がその間中断 >>229
そのキーオがアメリカ戻ってマイナー?で打球頭に受けて大怪我したんだよな。 >>232
テレビ中継で見てた。
阪急が大差をつけて勝敗は決まっているのになんであんなコースに投げるのか理解できなかった。
まさかあれで選手生命が事実上終わるなんてその時は思わなかったから
振り返ってみて本当に怖いなと思ったよ。 >>235
ありがとう
やっぱり広島の代打二枚看板だった町田なんだなw
懐かしい >>134
高井保弘氏が書いた「代打男」(83年 恒文社)が俺の本棚にある。
高井氏のサイン付き(誰宛とは書いていない)。
なお、手に入れたのは数年前図書館の払い下げ。誰かが図書館に寄贈したが、図書館の選書基準に該当しなかったようだ。
Amazonで検索したら7,000円ついてたが、売らんぞ(笑)阪急がオリックスに変わった頃からの在阪パリーグ党やからな。 perspectives光雲荘の移築について |日建設計 - Nikken Sekkei
光雲荘(こううんそう)は、1937(昭和12)年から3年の年月をかけ、
若き実業家・松下幸之助氏(当時42 歳)によって兵庫県西宮市に建設された私邸です。
その後、松下電器産業に移管、管理されてきましたが、2008年、社名を「松下電器産業」から「パナソニック」に変更するにあたり、氏の「ものづくりの心」を学ぶ場として大阪府枚方市にあるパナソニック人材開発カンパニー内に移築されました(設計・監理:日建設計)。
鹿島:KAJIMAダイジェスト:ザ・サイト:パナソニック株式会社光雲荘移築 ...
ザ・サイト
伝統技能と現代技術を駆使して
パナソニック株式会社 光雲荘移築工事
パナソニック(旧松下電器産業)の創業者・松下幸之助氏の私邸として1939(昭和14)年に建設され,後に同社の迎賓館として使われた「光雲荘※」が,兵庫県西宮市から大阪府枚方市の同社研修施設内へ移設された。
当社は,日本の伝統建築技術の粋を集め,幸之助氏の「三百年先にも残したい」との“こだわり”を実現したこの広壮な邸宅を,移築・復元する栄誉を担った。
※「光雲荘」は,社内研修用として活用され,一般公開はされていません。 会館概要 | 芦屋仏教会館
芦屋仏教会館menu Home会館概要
会館概要 施設・文化財 建築情報
設計者 片岡 安 施工 大阪?橋組 構造 RC造3階建
建築面積 200? 竣工 1927年
会館の建物は、当時奈良ホテル、大阪中之島公会堂など多くの名建築を手がけた片岡安(かたおかやすし)氏の設計になるものです。
昭和2年に既に免震工法で設計建設され、丁度お堀の形をした船に建物が乗っている構造で、非常に珍しい事例といわれています。
この建物は、戦火を免れ、阪神大震災にも耐えてきた明治・大正時代の洋風建築と東洋風建築の特徴を折衷した建物で、原型のまま残していて、その美しい姿は、伝統の継承の意義を物語っています。
また、終戦直後には、約6ヶ月間のみでしたが甲南高等女学校の仮校舎としても利用され、
昭和24年から同29年までの約5ヵ年間は芦屋市立図書館として市民に親しまれました。
芦屋仏教会館について〜 会館の生い立ちと理念 〜
伊藤長兵衛翁
芦屋仏教会館は昭和2年誰もが気兼ねなく集える、開かれた聞法の道場とするべく、
伊藤長兵衛翁〔丸紅商店社長(現(株)丸紅〕が、私財を投じ、
大阪の財界人、宗教家等の人々の賛同を得て創設しました。
なお、芦屋仏教会館は特定の宗教団体には属さず、従って特定の宗派を押し付けたり、祈祷を行ったり、寄付などを強要することは一切ありません。
また講座等の継続的参加を強要することも致しておりませんので、お気楽にご来館いただきますようお待ち申し上げます。 >>232>>253
確か水谷則博か仁科だったか、開幕投手が大炎上してわずか打者一巡半で早々にKO(村田兆治は肘手術後のリハビリ中で、このシーズン終盤に復帰)
間の悪いことに、2番手土屋が出てきて最初の打者が水谷実雄だったよな そういえば土屋も中日からロッテへ移って開幕一軍を掴み、新天地最初の登板だったんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています