プロ野球の名監督、野村克也。84年の人生を振り返ると「嫉妬にまみれていた」。幼少期の劣等感、そしてノムさんが嫉妬した男とは。

■海水入り酒瓶で素振りユニフォームも買えず

「嫉妬」とはつまり「やきもち」のことだろう。最近ではやきもち妬く相手もいなくなったが、若い頃はずいぶんと妬いた。
育ちからして他人を羨まざるをえない。思えば俺の人生、嫉妬にまみれていた。

俺が3歳の頃に親父が戦争で死んで、そこからずっと母子家庭。
当時は学校で「父親がいない」ってのは、それだけでもう劣等感の塊だ。

母親が必死になって働いて、それでも生活はカツカツ。
俺も小学3年生から新聞配達をして、夏はアイスキャンディー売り、冬は近所の子守なんぞをしたもんだ。
子どもはさっさと寝かすに限る。そうしたらこちらは楽だからね。でも、その親からは怒られたねぇ。
「昼間寝かすから、夜寝ないのよ!」って(笑)。学校ではいじめられてたよ。
4つ年上が仲間を引き連れて校門の前で待ち伏せして、教科書をぶちまけたりしょうもないことをしていた。

野球を始めたのは中学3年生から。でも貧しくってユニフォームなんて買えねえの。
集合写真撮っても俺だけ短パン、ランニング姿。試合では後輩からユニフォームを借りていた。

実は俺の野球人生は中学で終わるはずだったんだよ。
母親から「中学を卒業したら働いてくれなきゃ困る」っていわれて。だけど兄貴が「高校くらい出ていないと将来苦労する。
俺が大学進学しないで働くから」と後押ししてくれたんだ。もう頭が上がらないよね。
俺と違って頭がいいのに、その言葉どおりに高校卒業後に就職して、しかもその後、ちゃんと夜学で大学までいったんだから、俺とはまったく出来が違う。

だいぶ後になって兄貴に聞いたことがあるんだよ。
「俺の野球の素質を見抜いていたのか」って。そうしたら、「いい素質しているなとは思っていたけれど、プロになれるとは夢にも思っていなかった」とさ。

野球部の顧問にもお世話になった。金がないから野球ができないというと、わざわざ自宅にまで来て母親に「野村君は野球の素質がある。
私が父親代わりとして就職まで世話をします」と直談判してくれた。こう考えると、俺の野球人生はいつも首の皮一枚でつながっていたんだな。

高校には1日4本しか走らない汽車で登校していたからバイトもできない。
ユニフォームや道具は先輩からの払い下げ。海水入りの酒瓶をバットにして、必死に素振りした。

高校卒業前に、南海ホークスの入団テストを受けた。
部活の監督が「お前ならひょっとするとひょっとするぞ」と大阪までの汽車賃まで貸してくれて、それで見事受かったんだから、自分でもびっくりよ。

でもこれには後日談があって、実は田舎者ばかり受かっていたんだよ。
キャッチャーはとにかくピッチャーの球を受け続けなきゃいけないから絶対数が必要だ。
あるとき二軍のキャプテンにいつ試合に出られるのか聞いたら、「がっかりするなよ、後は自分で決めろ。
テスト生から一軍に上がった奴なんて過去にひとりもいねえよ。お前らは全員ブルペンキャッチャーとして採用されたんだよ」と。

もうショックもショック。田舎者は純粋で忍耐強いだろうと採用されたんだ。
でも、3年後に仲間は全員クビになったが、俺だけ残った。不思議だ。いまだに理由がわからない。

https://news.livedoor.com/article/detail/17334587/
2019年11月5日 11時15分 プレジデントオンライン