国民的演歌歌手・吉幾三さんの出世作となった「俺ら東京さ行ぐだ」。
出身の青森県北津軽郡金木町の田舎ぶりをオーバーに歌った自虐ソングといわれ、大いに人気を博しました。

写真:金木町の荒馬踊りの様子<出典:『金木郷土史』>
http://image.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/20/tatsu_170628yoshi01.jpg

しかし同時に、「さすがにここまでド田舎じゃない!」と、地元金木町からはたくさんのクレームをもらってしまったとのこと。
ですがあの曲の舞台は、(歌詞の一部分を除き)曲が発表された1984年ではなかったよう。後に吉さんはこう告白しています。

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田舎を出てきたときの気持ちを歌にしようと思った。「なんにもないのがイヤで出てきたんだよな」。
テレビもねぇ、ラジオもねぇ、車もそれほど……。田舎にないものをぶつぶつ言いながら書き出すうち、いつしか調子をとっていた。(中略)
でも、地元の反応は散々。「今はテレビもラジオもある、ばかにするな」と事務所まで抗議の電話がきた。
吉さんが「子どもの頃はなかっただろうが」と反論し、けんかになったこともある。
<出典:朝日新聞 2008年11月29日号 日曜別冊版>
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つまり1984年ではなく、吉さんが東京に出てきたとき、1968年3月当時の「なんにもない」ふるさとを歌った曲だったのです。
ならば! と、「吉幾三さんのふるさと、当時のホントの姿はどうだったの?」を聞いてきました。
インタビューに答えてくれたのは、金木町ご出身で金木商工会にお勤めで吉さんより1歳下の63歳、伊藤さん。

吉さんが育った金木町。
さらに詳しくいうと、中心部から2キロ離れた農村地帯・旧嘉瀬村地域にお住まいだったそうです(昭和30年に金木町へ吸収合併)。
そこで1967〜1968年ごろの金木町(および嘉瀬地域)のことについて聞きました。

「俺ら東京さ行ぐだ」歌詞のウソ・ホントを伊藤さんに1つずつ聞きました
(以下、伊藤さんの体験による見解になります)

● テレビも無ェ→× ラジオも無ェ→×

「当時からテレビもあったし、ラジオもあった。カラーテレビも既に出ていたが、ちなみにウチは白黒テレビ」
(ただし吉さんの家は、吉さんいわく「町一番の貧乏家庭」だったそうで、本当にテレビもラジオもなかったとか。つまり金木町というより、吉さん宅の事情だったよう)

● 自動車(クルマ)もそれほど走って無ェ→○ 信号無ェ→○

「確かに車はあまり走ってなかったし、信号もなかった。車の往来が少ないので、金木町の中心あたりの交差点も信号はなかったが、大丈夫だった」

● ピアノも無ェ→△

「学校にはアップライトピアノがあったが、おうちにあるのは見たことがない。ピアノなんかを習っている人はいなかった」

● バーも無ェ→○

「しゃれたバーなんてものはなかった。「一杯飲み屋」はあったが、カウンターと小上がりがあるくらいの小規模のものばかりだった」

● 巡査(おまわり)毎日ぐーるぐる→○

「本当に事件らしい事件はなかった。おまわりさんも平和に散歩しているような感じだったと思う」

● 朝起ぎで 牛連れで 二時間ちょっとの散歩道→△

「『牛』でなく『馬』ならよく見た。田んぼの道を散歩させているところ。農耕馬は田んぼをおこすのに当時はまだ使われていたので。牛を散歩させるところもほんの少し見たことがあるが、馬のほうが一般的だった」

● 電話も無ェ→△

「多くの家には電話がなかったので、よそに電話を借りに行くことが多かった。私の家にもなかったので、よそヘ借りに行っていた。電話交換手を通して、電話料金を教えてもらえるスタイルで、その都度料金を電話主に払っていた」

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/20/news009.html

※続きます