「滬城(上海)の人吾輩を見て琉球人と目するもの多し」。それというのも「琉球使臣支那の来騁の時」や琉球の「商舶の上海へ来る時」などに、「吾邦人も竊(ひそか)に同行して此に至り同しく琉球人なりと偽」っていたからだろうと、名倉は考えた。ということは武士か商人かは判らないが、鎖国にもかかわらず密かに上海を訪れ「琉球人なりと偽」る日本人がいたと考えられる。

 琉球王国時代の沖縄が清国の冊封体制に組み込まれていたことから、沖縄と上海との間に政治・経済面などでの正式な交流があり、このルートを利用し「吾邦人」が上海との接触を試みたいたらしい。とするなら、この時代の沖縄は日清非公式交流ルートの中継基地の役割を果たしていたことになる。


本土復帰50年 中国は沖縄をどう考えてきたのか
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