イギリスは本土決戦に備え、徴兵検査不合格者や兵役対象外の若年層、高齢者など17歳以上65歳までの男性からボランティア(志願兵)を募り「ホームガード(本土防衛隊)」を編成します。
ボランティアは文字通り無給でしたが、1940年末に168万の志願者を集めるなど、戦争終結まで100万を下回ったことはなく、また非戦闘任務において女性も多く参加しました。

国民が一致団結し徹底抗戦する意思を固めたものの、この時点におけるイギリスのライフル保有量はわずか100万丁でした。
これらはフランスから逃げ帰った兵の再武装と増強に最優先で割り当てられ、また世界中の植民地、特に対日関係悪化が懸念されていたアジアの防衛に必要だったこともあり、ホームガードへはほとんど支給されませんでした。
そのためホームガードは、軍用ではない狩猟用ショットガンやライフル、それが無ければ、もはや博物館の展示物と化していたマスケット銃、さらには農具、ゴルフクラブに至るまで、武器になるものは何でも自前で持ち込んで使う必要がありました。

明日にでも本土決戦が始まるかもしれないなかでの深刻な武器不足にあって、イギリス政府は、ともかく彼らに何かしらの武器を支給しなくてはなりませんでした。
この難題に対する首相のウィストン・チャーチルと戦争省次官ヘンリー・ページ・クロフトの解答は、「素手やゴルフクラブよりはマシ」であり「すぐにでもそろえることができる」武器であるパイク(槍)やメイス(こん棒)を量産するという決定でした。

 かくしてイギリスは、ドイツの爆撃機が頭上を飛んでいたにも関わらず1941(昭和16)年中までに約100万kgもの貴重な鉄資源を消費し、約25万本ものパイクを完成させました。
主導者の名前をとって「クロフトのパイク」と呼ばれたそれは、当然、現場での評判は最低でした。1942(昭和17)年のイギリス議会 議事録には、ホームガード志願者の言葉として以下のようなものが残されています。

「弓と矢、投石器(スリング)の配備はいつごろになりますか?」

https://trafficnews.jp/post/105552