公権力は手ごわい。ミャンマーで映画祭に参加したことがある。参加するにあたって、まず説明を受けたのは、映画祭で上映される作品全てに事前の検閲が義務付けられることだ。
ここでいう「検閲」とは、事前に全てのデータを行政機関に設置される委員会に提出し、その内容が公開に値するか否かを判断させるプロセスのことである。
対象となり得るのは、喫煙や女性のヌードなど社会に悪影響を与えると判断される描写と、現政権にとって不利益になる政治問題を扱うものや反政府的な主張を含む描写である。

しかし、これらの判断基準は不明確で、審査を受けてみないと結果がわからない。また、事後の反論は認められないし、根拠が説明されないことも多い。「日本は自由で楽だ」。東南アジアを拠点にするアーティストの友人たちから何度も言われた言葉である。

軍事政権下や社会主義体制の下では、制度化された検閲というかたちがあるように、「公権力」があからさまにその力を行使する。
無論、そこは表現者にとって、生きやすい場所ではない。
何より困難なのは、こうした「検閲」が、表現と創作の前提条件になってしまうことだ。芸術家は、理不尽な検閲を想定しながら表現を作らなくてはいけない。戦後、民主主義という国家体制を選択し、「表現の自由」を保障する憲法が社会的に尊重されてきた日本は、それらの国々と比べると、自由にも見える。  

しかし、「あいちトリエンナーレ2019」で起こったことは、国際社会に対しても、日本の民主主義の崩壊を示す警告的な出来事となった。
私は、会期中に2度、足を運んだ。作品展示だけでなく、映画やパフォーミングアーツ、音楽などさまざまなジャンルのプログラムが設けられている。また、沖縄の米軍基地建設をはじめ、植民地や東アジアの歴史認識に関する史実、各国に広がる難民の現状など、現在の世界が抱えるあらゆる問題を扱った作品が並ぶ。

芸術家の視点で多様な主題を表現へと変換し、国という枠組みを超えた創造的な観点を提供することが国際芸術祭の役割だと私は理解しているが、その意義を十分に果たしている。
一時閉鎖に追い込まれた「表現の不自由展・その後」も、既に多くの説明がなされているように、その趣旨は、偏った政治的プロパガンダでもなければ、侮辱行為でもない。
同芸術祭は、少なくとも国際社会に向け、多様な価値観を求める思考を提供するアートの現場であることに間違いない。 

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/488427
続きます