卑弥呼が魏と外交したり初期の神社を作っていた頃、天皇家は何をしていたの?
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邪馬台国の最有力候補地とされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡を考える「第13回纒向学セミナー」(市纒向学研究センター主催)が7月13日午後1時半から、同市河西の市立図書館で開かれる。「神社のはじまりと纒向の王宮・王権」をテーマに、神戸大大学院教授の黒田龍二さんの講演などがある。
同市辻地区では2009年、女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかり、黒田さんは建物の復元図を作成した。セミナーでは、黒田さんと同センターの寺澤薫所長との対談もある。
入場無料だが、事前申し込みが必要。定員270人で先着順。問い合わせは、同センター。【藤原弘】
毎日新聞 2019年6月25日
https://mainichi.jp/articles/20190625/ddl/k29/040/512000c?inb=ra >>575
邪馬台国が今でいう宮崎にあったという説はいまや多数派になりつつあるよ。魏誌倭人伝に出てくる邪馬台国は温暖で冬でも薄着だったなんていうのが当てはまるのも、沖縄除けば宮崎だし、少なくも畿内ではない。 文字が無いって想像を絶してる
全て脳内暗記と口伝え 闘争と支配ばかりが神話の製造ではないだろうね もっと融和的な変化もあったはず
他の部族と姻戚関係を結ぶというのは単に利害や価値観を共有する人々が繋がるだけでなく、
お互いの部族の神話や風習も伝播し合い、結合させて新しい物語を産み出す機能を持っていただろう
ある程度の地域に拡がった人々の文化圏を後世に時系列でまとめようとしたら、
別々の人物の良く似たエピソードが繰り返されることになったとか、いかにもありそうだ もひとつ間違いがあったので、記しておく
延喜式祝詞のところで「スメミマノミコト」としるしたが、
スメムツカムロギカムロミノミコト」やった。少し酔っているもので失礼しました。 >>547
まあそういい加減なこと言うなって
学者も琉球南九州ルートを必死に探してなかったうえに
炭化米、石包丁、水田跡がもう山東→朝鮮→北九州のルート辿ってるんだからな >>438
これなんだよね〜
天皇制はせっかくだし続いて欲しいけど、続いてる間は古代史の解明が進まずつまらない。
でも、宮内庁指定じゃ無い古墳が実は本物の天皇墓っぽいってのいくつかあるでしょ。
そっちは発掘出来るのに大したことわかってないよね >>325
宮崎というのが神話との絡みでロマンがあって好き >>592
ソースと思われているものが間違いというのが主流
資料批判だっけ
正しいものが伝わっているとは限らないという前提で
他の資料に照らし合わせて考える 伊勢神宮がなんであんな辺鄙な所にあるのかが不思議だわ
奈良とも出雲とも九州とも関係ない交通の便が悪い僻地やん? 日本という国号が気になる
西日本には東向きの海岸は三重と宮崎くらいしかない
日出づる国って 外洋航海もできないのに
自分たちより東に国が無いって認識があったのか お前らの歴史と宇宙の話しは
話し半分に聞くのがベスト 卑弥呼は実は即位して時点で60過ぎのババア
壱与ちゃんは13歳の美少女だったけど そもそも卑弥呼の時代でも7世紀の大和政権の
時代でも日本列島に統一国家ができていたのかは
疑わしい。複数の王権が存在していたはず。
邪馬台国と大和政権は別の場所にあったかもしれな
いし卑弥呼の時代はまだ天皇家は邪馬台国に臣従する
一豪族レベルの力しか持っていなかったのかもしれない。
>>578
日本書紀の国譲り神話では皇祖はタカミムスヒであって
アマテラスと見なしているのは異伝の一つだけだもんね
でも誰もがこの重大な問題をスルーする というか位置的に北九州から南下ていうと台湾あたりにならないか?
でも逆に台湾なら呉から直接渡るほうが近いような… 第33代推古天皇が即位したとされる年が西暦593年。
神武天皇から履中天皇までは17世代じゃなくて
単に17代と考える。ここでは神功皇后の摂政期間を
含めないとして、推古天皇の前に32人の王さまがいたこと
になる。古代の天皇の平均在位年数を11〜13年とすると、
神武天皇が即位したとされる年は西暦177年〜241年の範
囲に収まる。つまり、初期の天皇家と邪馬台国の時代は
確実に重なる。なぜ神武から九代の王について内政、外交、
戦争等の記録がほとんど記されていないのか? >>624
その頃の日本にまだ文字がなかったからじゃね? >>617
壱与はまだ デッデデッデ 13だ〜から〜 >>622
海流黒潮だろ
日本鰻はマリアナ海溝で産卵し台湾沖縄鹿児島土佐紀伊半島伊豆房総沖を流れる 蔵の中で米の盗み食いした後、女とSEXしてたんだよ >>628
鹿嶋神宮諏訪大社豊川稲荷伊勢神宮宇佐大社鬼界島のラインは航空写真でも見えるように日本大断層の上で、フィリピンプレートで続いている >>614
高天原かもしれない宮崎に似ている点が一つ有る。それは >>615
>日本という国号が気になる
漢字で書いているんだから中国を意識しているわけで
中国との位置関係のことを認識した国号だと思う
倭(中国の浸けた民族名・地域名・卑称)
大和(倭→和と佳字に変え大も付けて自尊)
やまと(自称の地域名)
邪馬台国(中国によるやまとの音訳による国号)
日本国(中華圏の最も東という自負からくる自称の国号)
ではないかしら >>615
>自分たちより東に国が無いって認識があったのか
東方面から渡ってくる人がいなかったらそういう結論に至るでしょ 天皇は30000年程前から居る
初期は神と記され
その後 神と人間の中間
そして人間となる
間違いなく宇宙の人が地球に降りてきた
その昔道路も地図も無い伝達技術も無い時代にどうやって日本全国あちこちに同じような様式の神社を造った?
空を飛んでいたんだよ ちなみにB型の発生は15000年前のパキスタンあたりな >>583
江戸期までにかけて世界有数の金産出量を誇っていたはずだが。 >>583
戦国期にはアホみたいに掘りまくったからだろ
ピーク時は当時の世界の1/3の産出量に達したとか >>635
マジで?私ってパキスタン人の子孫だったのか >>635
それ言い出したらお前もアフリカだったりとかになるだろ? >>638
>パキスタン人の子孫
たぶんパキスタン人は別の所から来てる 邪馬台国は沖縄与那国と台湾にあった
紀元0年に発生した地震でプレートごと海底に沈んだ
難民が大量発生→九州に漂着、各地を転々
難民から卑弥呼が生まれ邪馬台国という新しく国をつくった
https://pbs.twimg.com/media/D3cQ_OZUUAAfwYk.jpg:large
因みに天皇のルーツはインドネシア→伊是名&百済 昨夜のザ・セサミブラザーズ(和歌山県)です
昨夜は、ヒミコ(もう以後ヒミコと表記させていただく)の祀った神は如何なる神であったのか。
というところで、寝たのだが、今回はヒミコの時代情勢について考えてみたい。
ヒミコが女王として即位する前に、倭国は大いに乱れたとある。倭国の大乱だ。
その倭国の大乱とはなんだったのか。大きな争いが続いたということは、その原因はなんだったのだろう。
天候不順による凶作での食料不足か、小さなナショナリズムによるぶつかり合いなのか。
中華の史書ではその原因に関する記述は無かったようにおもう。
そして、いくつもに分かれ争っていた国々が突然女王をいただき、安定する。
何故女王ヒミコにより争いがおさまったのだろう。それ以前の史書に登場する倭人の国々は皆、男王であると
推察される。ヒミコの時代の国々も男王が通常のようだ。ヤマタイ国と後に争った狗奴国もしかりである。
ヤマタイ国周辺においては女王という存在はかなり特殊であったと思われる。
次は記紀にある女王の存在について考えてみたい。 >>615
[旧唐書]
703年 倭国では、倭国と言うのが優美で無いと嫌って
自身で日本と改めた
外交文書として残ってるのは、これが初めてだけど
実際、7世紀に遣唐使として派遣された留学生が中国で死んで
その墓の墓碑銘に日本人と刻まれていたのが解った >>542
現代にしてわずか8年前の世界史的事故の経緯すら既に有耶無耶だもんな
その辺ホントに頭おかしいと思う 何で国号を豊葦原瑞穂国にしなかったんだ
これが一番の疑問だ >>656
倭は中国に贈られた日本の国名だったんじゃないの?!
日本人は自国をヤマト國としてた筈
だから、倭を便宜上ヤマトとよんでいたに違いない
倭が大和に変わった変遷は
倭→大倭→大和に変わったと考えるのが自然で、読みは常にヤマト
なんの違和感もない >>1
卑弥呼は、祖先。
邪馬台国(ヤマト国)ならね( ・∇・) 台湾や沖縄が邪馬台国なら
神武が宮崎なのも納得ですわ 俺は巻向は邪馬台国ではないと思うし
箸墓は卑弥呼の墓でもないと思う
そこに決まったかの報道オンリーなのは危険な事
奈良はまだ観光地が欲しいのかねゲスいわ ヤマタイコクと読むのかも怪しいもんだ。
ヤマトの蔑称が邪馬台国なんじゃないのか。 日巫女で、天照大御神の使徒
天皇家そのものなんじゃないの? >>658
最初に日本から中国に遣いを出した時に「ヤマト」の音に「倭面土」と当てられて
そこから「倭」「倭国」になったんじゃないかな
日本側は一貫してヤマトと名乗っていたんじゃないかと >>647続き
記紀を紐解いてみるに、推古帝以前においては女王、亦は女性が長と目される例は
それほど多くはない。これは記紀の編纂の時代背景によるものかもしれないが、
皇統譜でみるに神功皇后のみであろう。あとは神功皇后の熊襲征伐の折と神武東征の折に
2・3見られる程度である。それから、歴史解釈によっては崇神・垂仁帝の御世にみられる
伊勢の斎王の扱いだろうか。広げてみればスサノヲの夜這い先のヒメガミを解釈次第では
そうみられないこともないだろう。風土記などを参考にしてみると女王といえるのかどうか
微妙ではあるのだが、土蜘蛛の首長、在地勢力の首長として、女王の存在がおおくみられる。 上記は年代区分もバラバラなので、ヒミコの時代に限ればどういう結果がでるであろうか。
国より小さな集団の場合には女性首長という存在が普遍的であり、国とされる集団で女王を
おくというケースがとくしゅであったのであろうか。 >>5
古事記とかって
700年以降だし
どこで知ったの?
中国でも記載があったとしても200年くらいだろ この時代は中華や半島の史書によれば、倭人の新羅・百済地域への進出が盛んであった
時代でもある。ここでいう新羅・百済は後の時代の高度な政治システムを持った新羅国
百済国というよりも、新羅地域・百済地域というエリアとしての名称と解釈すべきではないかとおもう。
私見になるが、日本から半島南部には倭人の居住地域があり、勿論半島北部の高句麗・扶余族と新羅地域
百済地域の民族の内訳については今後の研究を待たねばならないだろうが、日本・半島南部に居住していた
倭人集団が新羅地域・百済地域に拡大進出していた時代であるのは確かだろう。 半島南部の倭人集団がどのような政治機構を持った集団であったのか。おそらくは
日本にあった倭人集団とあまり変わらない形であったのではないだろうか。
魏志倭人伝に見られるヤマタイ国には、魏の役人と意思疎通のできる役人・役所が
存在していたようだが、魏の役人と交流を持っていたということは、文字・言語において
その知識をも持っていて当然のようにも思われるのだが、この時代の文字資料は日本には存在していない。
これは、文字資料を残すことは無意味と考えたのか。他になにか理由があるのだろうか。 >>48
お前がそう習っただけで見てきたわけじゃないよね
よく断言できるねw 当時の半島情勢は半島北部には扶余族の高句麗があり、辰韓・馬韓(めんどいのでこう記す)
諸国はその高句麗に盛んに朝貢、属国関係を結んでいたようだ。
時代は少し下るのだが有名な広開土太王碑にみられるように、高句麗は当然
文字を用いていたし、その高句麗と直接交流していた辰韓・馬韓の人々も文字を知らなかったとはおもえない。
これは記紀の各年代設定にもよるのだが、魏志倭人伝の年代より古いとおもわれる景行帝の御世において、辰韓
よりの移民・交流が盛んであったことが示唆されている。なかでも新羅王子を名乗るアメノヒボコ伝説が有名だが
仮にも新羅王子を名乗るアメノヒボコ集団さえも文字資料をのこしていない。これはなぜなのか。
考えられるのは、記紀編纂時の景行帝の記述の年代設定の意図的変更。景行帝の実在性の問題であろうか。 >>665
俺はは文才がないな
そう、一貫してヤマトを名乗ってたんだろうね。
ほんの40年前迄は確定で、沖縄のジジババは本土の事をヤマトと呼称してたんだよ
今はどうだか知らないけど。 つまり、他国も日本をヤマトと呼んでいたんですね。 紀元前1世紀頃の『漢書』
地理志燕地条
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#%E3%80%8E%E6%BC%A2%E6%9B%B8%E3%80%8F
歴史学の見解
日本は弥生時代に成立した百余国が次第に連合を組み、各国の諸王(豪族)を大王(天皇)が束ねる形で大和朝廷が成立した。
歴史学的に、紀元前1世紀頃の日本は百余国に分かれており、漢と同じ暦を駆使していた。
考古学的成果
北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/244000c
考古学的に、紀元前1世紀頃の日本は国産の硯を使っていたので、文字の使用が考えられている。
記紀は7世紀より昔に書かれていた書物を再編したものであるとされる。 >>676
倭の時代に日本も東北にあったんだよね? 天皇の御陵は密かに発掘されてると思うんだけどどうかな? 日本書紀
神代紀第四段本文
「日本、此には耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に効(なら)へ。」
日本最古の正史では、日本と書いてヤマトと読むと書かれている。 記紀編纂時の景行帝の記述の年代設定の意図的変更。とは、
記紀編纂時において、古事記の場合。神武天皇からの神武朝、崇神天皇からの崇神朝、
応神天皇からの応神朝、k古代の天皇の皇統においては大体このように分けられるが、
昔から研究者に唱えられているのが、神武朝と応神朝の類似性であろう。
その顕著な例が九州からの東征であろう。
神武帝はもちろんであるが、応神朝においては神功皇后の東征である。
これを神武帝と同じように東征とみなすかどうかは意見解釈の分かれることではあるが、
事は神功皇后の実在性の問題ともなってくるとおもわれる。
景行帝の実在性であるが、これは記紀よりうかがわれる崇神朝の在り方である。
眠くなってきたのでこのへんで。 ヤマト
邪馬台、倭、大倭、大和、日本
音は一貫して変わっていなかった
日本の国号の音はヤマト
当てる漢字が変わっていった
中国側から、邪馬台→倭→大倭
倭という漢字が気に入らないと思った日本側が、大倭→大和
日本書紀編纂時に、大和→日本
むしろいつから日本をニホン、ニッポンと言うようになったのか? >>666
>風土記
肥前国風土記逸文だっけ佐賀の女王が卑弥呼かもと言う人も居るな 応神天皇の時代に王仁博士が論語と千字文を日本に伝えてるように
日本特有の文字はなくても漢字はすでに伝わり使用していたと見ていい
千字文っていうのは漢字をならう教書のようなもの 日本で例えればいろは歌 >>669
>卑弥呼って本当はなんなの?
>どこに埋まってんのよ
幅が百歩の塚を探せ >>670
うむ
儂は和人は元々朝鮮半島から日本列島に広く同族意識を持つ集合体として存在していたのだと思って居るよ
その後朝鮮半島の勢力は衰退したか日本に皆渡ってきたか
あるいは新勢力と混交したのだろう 春秋時代の越は百越と言われてるように無数の支族の連合国家
その中の一支族の倭人が稲作と文化を携えて朝鮮半島南に住み着いたのが中国側の資料にある
倭国とは朝鮮半島南部と北九州を領域とする倭人の国家の可能性は高い ヘブライ語のヤマトゥがヤマトになり、日の弥呼は徳島県の八倉比売神社に眠る。
なんてね >>10
同一ですよ
卑弥呼も中国側の呼称で、おそらく皇后か女性天皇 呉越の入墨・漁業・髪を切る風習と倭人→倭国(邪馬台国)の入墨・漁業・髪を切る風習は相似していると中国側の資料にある ところで、古事記とか日本書紀に邪馬台国も卑弥呼も一切出てこないのはなんでや?
中国と交流なかったわけじゃないのにおかしいやろ
卑弥呼が天皇と関係あったら載ってるはずだよな >>693
別の国だと考えれば辻褄があう っていうかそれが自然
記紀には北九州地域を領有している記述が全く無い これは読めばハッキリわかる
そこにあるのは同盟国的な記述だけだよ 邪馬台国出雲王朝とズブズブで東征ヤマト王権に国譲りした説っていうのを新書で読んだ
中学の卒論のときにこういう壮大なテーマを選んだがために地獄を見た 三国志
邪馬台=ヤマト
台与=トヨ
日本書紀
興台産霊=こごとむすび
どちらも台=トで一貫している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています