『生まれてこないほうが良かった』――そんな衝撃的な題名の哲学書の邦訳が2017年10月に出版された。著者は南アフリカ共和国のケープタウン大学教授であるデイヴィッド・ベネター。
原書は2006年に出版され、哲学業界では大きな話題になっていた。本書の中でベネターは「(人間を含むすべての感覚のある存在者は)生まれてこない方が良かった」とする「反出生主義」を大真面目に主張した。
ベネターはどのような論理構成でその結論を導いているのか? また、ベネターとはそもそもどういう人物なのか? 哲学史における本書の意義とは何なのか?
翻訳を手がけた学習院大学の小島和男准教授に話を聞いてみた。

――小島先生はそもそもなぜこの本を翻訳しようと思われたんでしょうか?
小島和男准教授(以下、小島) そもそも、本書で扱っているような応用倫理学は僕自身の専門分野ではありません。
僕の専門はギリシア哲学で、主にプラトンを研究しています。プラトンの考える哲学には――プラトンの作品の中でソクラテスが話しているのですけど――
「私たちは善や美など大事なことについて何も知らない」っていう前提があるんですね。いわゆる「無知の知」です。
テクストに正確に言えば「無知の自覚」です。無知を自覚しつつそれでも善く生きようとするのが大事であると。
でも、「善く生きろ」って言われても、その「善く」がどういうことか知らないわけですから、それを考えないといけない。
そこで、「善く」を探究するのがその「善く生きろ」という命令に従うための第一歩である、っていうふうにプラトンを読んだ人は考えるのだと思います。

一方で「そもそもなんで善く生きなきゃいけないのか?」という問題もあるわけです。でも、プラトンはなかなかそういうのを問わせてくれないんですね。
おそらくソクラテスやプラトンに言わせればそれは自明だったんです。今でも「善く」という言葉の意味から自明だと言われたりもします。
しかし、私にとってそれは大きな疑問でして、そこから、分析的実存哲学(これはベネターの作った言葉ですが)とかメタ倫理学(「善」とは何か、「倫理」とは何か、という問題を扱う倫理学)というものに興味を持って、ベネターにも出会ったわけです。

http://tocana.jp/2018/03/post_16107_entry.html
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