【音楽】岡林信康がはっぴいえんどをバックにロックへと転向した『見るまえに跳べ』 [フォーエバー★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
OKMusicで好評連載中の『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』のアーカイブス。今回は岡林信康の『見るまえに跳べ』を紹介する。1968年に岡林が「山谷ブルース」でデビューした時、彼の音楽はそれまでのフォークソングとはあまりにも乖離しており、当初は戸惑うフォークファンが少なくなかった。しかし、徐々に彼に“本物”のプロテスト性を感じ、多くの音楽ファンがのめり込んでいった。そのメッセージ性はフォークというよりは過激なロックのようであり、実際デビューしてから彼はすぐにロックへと転向する。『見るまえに跳べ』は彼の2ndアルバムで、デビュー直前のはっぴいえんどをバックに従え、岡林のヒリヒリするような苦悶が記録された、優れたドキュメント作品である。
60年代後半の若者
岡林信康がデビューした60年代後半、この時代の若者たちは何をしていたのだろうか。僕は小学校の高学年でまだ何も分からなかったけれど、今から振り返ってみれば、激動の時代であったことはちょっとだけ知っている。ビートルズ、学生運動、ベトナム戦争、映画、前衛芸術、アングラ芝居、グループサウンズ、歌謡曲、深夜放送(ラジオ)、フォークソング、アイビー、アポロ計画(月面着陸は69年7月)、沖縄返還の準備、3億円事件、各種の公害などなど、いろんなことが起こっていた本当にすごい時代であった。
僕はまだ小学生なので、今挙げたようなことを横目で見ながら、洋楽やグループサウンズ、そしてエレキバンド(ベンチャーズとか寺内タケシとかね)のシングルを買い、駄菓子屋に行き、近所の広場で草野球をやったりしていた。巷ではフォークソングはかなり流行っていた。高石友也、フォーククルセダーズ、森山良子、ジャックス、中川五郎らのレコードは近所の4歳上の従兄弟が買っていたので、一緒によく聴いた。悪いこと(夜更かし)とは知りながら、時々、深夜放送も聴いて笑い転げていた、そんな時代。
フォークソングについては、“カレッジフォーク”とか呼ばれていて、テレビなどに出演していた森山良子とか五つの赤い風船の音楽は、きれいな音楽だと思っていた。ただ、高田渡、加川良らのような泥臭い関西フォークはあまりテレビには出なかったし、深夜放送でオンエアされていたものの、カレッジフォークとはかなり音作りが違っていて、中学に入るまではあまり好きになれなかった。唯一、フォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」は大好きで、毎日聴いては笑い転げていた。そのしばらく後、小学校でフォークルの「イムジン河」が発売中止になったという事件について、友達と話をした記憶があるのだが、小学生の間でさえ、フォークルの話が出るぐらいなのだから、当時はそれぐらいフォーク周辺の人気が高かったのだ。
12/11(土) 18:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/afe586117da7ee5c071824746b8ecc580cfb4fdc?page=1
https://i.imgur.com/x1uMDjz.jpg イムジン河の発売中止は
朝鮮総連が「わが本国の曲のパクリだ」とクレーム入れたからやろ 実は岡林信康の曲は政治色の強い曲より「Gの祈り」などの政治色のない曲に名曲が多い 特に深い考えがあって、フォークからロックに転向したわけではない。
ボブ・ディランがフォークからロックに転向したから真似しただけ。
はっぴいえんども、ザ・バンドの真似 岡林の「山谷ブルース」は貧困格差をテーマにしてる点で
れいわ新選組のイメージだな ラジオ番組で岡林が反戦フォークの歌手が日本共産党に
暗い歌を歌うなと言われたと聞いて
共産党はロクでもない自由のないところだったのかと幻滅したな 「はっぴいえんど」が日本語ロックの先駆者なんて
当時のミュージシャンは誰も認めてない 実際フォークフェスに出てたんだから はっぴいえんどが練習してるスタジオに突然岡林がやってきて
「こいつらでいいよ!これで俺もディランとザバンドのマネができる!」とご満悦だったとか
岡林にとってロックなんてただのビジネスでしかなかったのだよ 当時の岡林は世直し願望に溢れたキケンな熱さがある
私たちの望むものは/岡林信康Withはっぴいえんど
https://www.youtube.com/watch?v=bO7GNzRz2vE 大江健三郎ルートでタイトル聴きしたことある
タイトル格好良いよなあ はっぴいえんどはもう再評価が行き渡った感あるな
風街ろまんの完成度は今でもエバーグリーン 今発売しているアルバムが岡林さんの最後のアルバムなんだっけ。
買おうかな。 まあ急にキリストみたいに祭り上げられてコントロール出来なくなってたからな
チューリップのアップリケみたいな曲が書けたんだからディランにならなくても良かったんだろうが 敏いとうとはっぴーえんど ブルー、レッド、イエロー、グリーン、ピンクの何色の人? こいつは影の軍団のエンディングみたいな曲をバシバシ作ってたら良かったのに 90年代中期頃、『コロンブスのゆで卵』とかいう誰も見てないような島田紳助司会の安い番組に
なぜか岡林がレギュラーで出てて謎だった 豊田勇造の方が関西アクセントで曲作ってるからな
岡林は曲になると標準語のアクセントになるから
関西弁じゃなくて関西アクセントね
これが重要 good-by my darling って曲しか知らんがあれは好き 岡林は資質としてはディランよりはニールヤングのボブに近いタイプだと思うんだが >>29
部落差別による失恋の歌だっけ。テーマがキツイな >>29
俺は初聞きで別に二人で0から商売始めりゃいいじゃん思ったけど 知らん若い奴はサブスクとかで聴いてみればよい
俺も最近聴いておもろいなーと思ってる 当時の若者が何故エレキギターを持たずにフォークギターを持ち辛気臭い歌やり始めたのが不思議。レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバス、グランド・ファンク・レイルロードが席巻し始めたのに。 いやいや...
岡林知ってるなんて70代以上では
70過ぎて5chね... Goodbye My Darlingは名曲
山谷ブルースはかなり後から知った >>43
エレキやバンドは金がかかるし練習も大変
フォークはギター一本でコードをいくつが覚えればできる
バンド関連は昔は金持ちのボンボンばかり
安い貸スタジオもそんなになかったし
自宅でドラムを鳴らせるような豪邸のボンボンしかできない世界 80年に加藤和彦が岡林をプロデュース
サウンド志向の加藤だから曲にケチつけると思いきや、
歌詞にダメ出しされて驚いたとか >>44
岡林信康とか友部正人らのレジェンドクラスになると後追いリスナーも案外多いんだよ
フォークだけじゃなくロックファンからも一定の評価が脈々とあるし チューリップのアップリケが好きすぎて服にワッペン貼ってしまった 自分はリアルタイム世代では全然ないけど日本のアングラフォークは掘っておいて損はないと思う
嫌儲な人達とかハマると思う なんかこんな名前のYouTubeチャンネルない?
ここからとってんの? >>7
Gの祈りは売れた方じゃない?
人気ドラマのエンディングに使われてたし >>44
名前は知ってたが聴いたことなかったな
最近ちょっと聞いて
なるほど団塊の世代がはまったのもわかるとなった
やっぱ学生闘争とシンクロしすぎて
しまったんだろうな
時代と寝すぎてそのあと敬遠されてしまった と〜おいうた〜
き〜きな〜がら〜
いま〜は〜
まつ〜だけ〜 >>59
エレキでギンギンでワルじゃないからか?
単純だなお前w 岡林信康
加川良
高田渡
ここら辺を聞いてない奴は人生損してる >>66
友部正人の一本道だな
あれこそ名曲中の名曲
エロサイトの一本道と間違えないように >>29
クロンボや土人と結婚するより全然マシなのにな。 第三回フォークジャンボリーで岡林から吉田拓郎の時代になった
左翼は岡林をよく持ち上げる。
吉田拓郎の夏休みもテレ朝が「反戦歌」みたいに取り上げたが
吉田拓郎が即否定した 渋谷凪咲が見てるYouTubeチャンネルのタイトルだな爺ちゃんと孫のやつ >>43
アルフィーの結成物語みたいな漫画あったけど
フォーク大好きなグラサンと眼鏡がツェッペリンなどハードロックやってる高見沢に
反感持つってエピソード会ったな フォークブームはアメリカの反戦運動やフラワームーブメントの波が
日本にも押し寄せたんだろう
ビートルズも解散間際でディランやPPMなどで政治の時代になったが結局はファッション なぜか美空ひばりと仲が良かったんだよな
どういう繋がりだったのだろう 今年の初めにアルバムを出したときのインタビューだと
「友よ」は右左関係なく歌われてるみたいだけどな。
北海道の自衛隊でも歌われているらしい。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/35564 岡林はフォークジャンボリーで行方くらまして
その後に出した政治色排除した曲のほうがずっといいよ
26番目の秋、とかね 友よ
絶対に聞くべきだ
右も左も関係なく名曲だから 75歳の母ちゃんが若い頃は部落は一般日本人とかなり生活がかけ離れてはいたらしい
貧困とかでなく文化のほう >>87
そうか?
エンヤトットもサムルノリも岡林の味かええやん 70年代初め頃に日比谷野音?でやったライブ盤しか持ってないけど
「友よ」歌うの恥ずかしいというか嫌そうにしてたのが印象的
それを察した親切な観客から「ナンセンス!」ってヤジが飛んで
「ありがとう、異議なしw」と笑ってから歌い始めた記憶 はっぴいえんど自体は好きだけど、はっぴいえんど史観は好きじゃないな 青森の三上寛が一番面白いフォークって聞いた事あるけど 苦学生の友達が新聞配達やっていて、港区の三田の古いアパートに住んでいた。
アパートはひとつの玄関で、回廊みたいな作りで四畳半の部屋がいくつもあった。
しかし、住んでいるのは老人が多く、少しでも物音を立てると怒鳴り込んで来る。
あそこは芝園橋の職安も近く古川も近かった。
山手線の線路を挟んで向こう側は芝浦。
さらに南に行くと港南。
後になって考えるとなるほどなって地域なんだよな。 1962年
ラブ・ミー・ドゥ
1963年
風に吹かれて
1968年
山谷ブルース イムジン河 自衛隊に入ろう 帰って来たヨッパライ
サウンドオブサイレンス ヘイ・ジュード
1969年
チューリップのアップリケ 風 白いブランコ カンドレ・マンドレ
アビイ・ロード ザ・バンド スイートキャロライン
1970年
見る前に跳べ イメージの詩 黒ネコのタンゴ ズンドコ節
レット・イット・ビー 僕の歌は君の歌 いや俺(>>91)も満たないが岡林ってそれ以上の世代とそれ未満の世代じゃ知名度が全然違いそう 学生運動真っ盛りの時に「私たちの望むものは」なんか歌っちゃったからヤバさに気付き逃げ出した
あれが無ければもうちょっとまともなキャリアを積んでたかもしれない 大江健三郎は元気かな
石原慎太郎と同世代だったような 革命、貧困、部落差別とかのタブーに切り込むから
社会騒乱を恐れて放送禁止扱いというのがな Spotifyで聴いてるけど岡林さんの歌だけ歌詞が出ないw 当時コンサートのあとに討論会があったんだよな
それが岡林さんはいやで山奥にひきこもったらしい
当時の労音の気持ち悪さ ここまでチー様なし
岡林さんといえば真っ先にチー様が思い浮かびます
自分のステージに上げて歌わしちゃうくらいですから >>59
>はっぴぃえんどはどこをどう聴いてもフォークだ。
ん?
どこをどい聴いてもフォークに聴こえない
フォークをバカにしてるわけじゃないが >>79
共に演歌への接近というアプローチがあったから 岡林信康より吉田拓郎の方が年上ってのは近年知った
先に出てたのが岡林だったからてっきり岡林の方が年長かと >>1
> 実際デビューしてから彼はすぐにロックへと転向する。『見るまえに跳べ』は彼の2ndアルバムで、デビュー直前のはっぴいえんどをバックに従え
Bob Dylan が The Paul Butterfield Blues Band や The Hawks をバックに従えて超名盤アルバム製作や伝説のツアーした血の轍をフォロワー的に歩んだ的な宣伝? >>116
フォーク畑から出てきてロックへ転向してDylanが全然関係ないとか泣ける いや間違えた
もちろんそれはディランとバンド
小倉エージのアイディア 岡林は反戦歌歌ってた頃に寄ってきた左翼連中が嫌で辞めて田舎に引っ込んだといってたな。
ラブソング歌うと糾弾されるとか >>59
はっぴぃえんどと山崎ハコはフォークでは無いと思うなあ。 >>122
フォークっぽい曲がある。それだけの話
ひとりのアーティストでもそりゃいろんな曲がある 当たり前の話だろ この人ピンクレディが出てきたあたりでメチャメチャポップ路線に変更してなかったっけ? 金魚の番組で自宅披露してたけど
まだそつちに狂ってるのかな どフォークの時代は知らんけど
グッバイマイダーリンって曲は好きだった >>120
政治信条的にノンポリのジョー山中にムカついてジョー山中のステージに乱入した跳ねっ返りもいたな
二人で乱入してプロボクサーでもあるジョーに飛び掛かって二人ともKOされてたけどw >>122
フォークもロックの源流のひとつ
ブリティッシュロックがロックだと思ってる人にはそれがわからんのですよ 坂本龍一「ライディーンったら…あれでしょ?
♪今日の〜仕事はつらかった〜
っていう…」 >>59
はっぴぃえんどはカレッジフォーク(近田春夫) >>51
と言っても若手(?)で岡林好き(しかも初期のやつ)を公言してるのってサンボマスターくらいしか知らんな…
個人的に松本隆プロデュースの金色のライオンが好きなアルバム。 >>43
吉田拓郎が語ってたぞ
ディープパープルみたいにギター弾きたかったけど弾けないと感じてやめるのよって 拓郎も売れてからかなりロックに走ったよな
ほぼほぼ無視されてはいたが 吉田拓郎は元々GSバンド(ダウンタウンズ)をやってたからなあ
モップスに提供された、たどりついたらいつも雨ふり はその時代に演奏していた楽曲らしいし。 頭脳警察のセクトブギウギに登場する人か
♪民学(民主主義学生同盟)プロ学(プロレタリア学生同盟)セクトの幹部の爺ちゃん婆ちゃん辞めちまえ
岡林のように言ってるだけで何もしないよりマシだけど
…岡林なる人が何をを言って何をしなかったのかは知らない >>1
岡林信康も、その後の吉田拓郎も、
所詮偽物だった。
メッセージ性の強いフォークは偽物。
彼らの人生が示している。
ただし、金儲けに対する意志は、
筋金入りの本物。
彼らの人生は金儲けだった。
それはそれでいいことだ。 ディランの真似事と言いたいところだが
ロック化は必然ではある ロックはちゃんとしたPAがないと出来なかった時代に貧弱な設備しかなくてもやれたフォークにはそれなりに意味があった
ま、大衆が和製ディランを求めてたからだけど、歌詞の世界とか全然違うんだよな、ほんとに形だけ真似しててダサい ボブディランがロックに行ったからそうしただけでしょ
カタチを真似しただけ
吉田拓郎もそう >>70
おまえ、曲の中に出てくる「おじいさん」と同じ奴だな >>44
俺はアラフィフだけど岡林のライブに行ったことがある
ギター一本独奏で何百人の観衆を持って行ってた、凄かった ちなみに「これ知らないない奴は人生損してる」は老害ワードなんで使わない方がいいよ >>142
あの歌聞き取りにくすぎ
ずっと聞き間違えてた >>32
豊田勇造を知ってる奴はこのスレにはおらんだ >>135
大江健三郎がオーデンの詩から取ったんだよな
見よ、ただし跳ばねばならない
で合ってる? 中学の時、岡林信康とはっぴいえんどのライブレコードを見て、はっぴいえんどは岡林信康のバックバンドと思った俺は55歳w 噂の街角 ラナウェフリー
誰も明日を ノーバディノウズ
↑
これもプカプカと同じく西岡恭蔵
幅広い >>147
その後の演歌フォークが若者の最前線だったのが信じられん。その中でキャロルはよく頑張ったわ。 拓郎かぐや姫のつま恋コンサートの動画見たら
土方みたいのや大学生軽井沢でカフェするようなのまで
あらゆる若者が集ってたもんな はっぴいえんどは演奏が下手くそで評判悪かった
岡林の次のバックバンド柳田ヒログループは演奏が上手くて評判が良かった そうだったんだ
当時の柳田さんカッコよかったよね
今は普通のおじさんの風貌だけど この時のリハーサルで岡林が忙しくて
スタジオに来られなくて、はっぴいえんどをバックに早川さんが歌ったことがあったんだよね
それを見てたのが慶一さんとあがたさん 下手くそで評判悪いというか当時の未熟なPAでは音がこもって聞きづらかった
柳田ヒロの方は音がデカくて目立って上手く聞こえたが正解
これについては加藤和彦がラジオで明言してる
PAの会社立ち上げた時の話だな フォークの神様っていうのは今考えたら
牧師の家に育って神学部まで行って顔もなんとなくキリストぽいから
冗談でキャラ的に呼ばれてただけなんだよな
それがいつのまにかフォークの神様だったんだよとカリスマ的な意味で伝わるようになってた
後追い世代はそれ勘違いしたよ
あと歌い方というか声の出し方がミサで司祭が歌う感じそのものだよねと思う >>171
知ったかぶりどころか感想書いてるだけだけどなんか文句あんの? 否定するなら自分の見解書けばいいのに
どっちが逃げてんだかw 昭和24年生まれの団塊の岡林ファンに聞いたことあるんだよ
フォークの神様っていう称号はすべてシャレで言われていたなんてことはない、
ほんとにガチでそうやって祭りあげられていたってな >>170みたいな後追いの知ったかぶりの捏造は
ほんとひどいw ID:3egYpTAvO
あれ、深夜にまだ絡んできてたのかw
酔っぱらいだろうからとっとと寝てくれよw
なぎら健壱とかがあの人は神様だったんですよーとか適当に解説してたから間違って伝わったと思うよw >>178
で お前みたいな低脳が知ったかぶるわけだ >>179
ええ歳こいてそんなアホみたいな絡み方して楽しいか?w あれだなそもそも
「フォークの神様」なんてワードを本気でカリスマ的に使ってたなら
ありえない文化であってヤバいわけで
本来は冗談的に使ってたワードであるに決まってるわけだよな
そこに即時気づくべきだわ本来は
しかしまあ「あのときの尾崎は神だった」みたいな伝説みたいなファン信仰が
なぜか普通に流通しがちなのが音楽商業であるから致し方ない面はあるよねw >>168
松本隆のドラムは下手くそなので有名だろw
柳田ヒロの話では細野晴臣は松本隆にやんわりとドラムはやめて作詞一本でいった方が良いのではないかとアドバイスしたそうじゃないか >>182
蜷川幸雄が太地喜和子に「役者(才能ないから)やめて演出家一本にしろ」ってアドバイスされた話思い出した >>1
金色のライオンの
ホビットは凄い曲
16ビートファンクで10分間のライブ
はっぴいえんどがバックじゃないけど
プロデュースは松本
左翼の神に祭り上げられて
内ゲバで殺されかけて
もう嫌だ!って曲 >>170
違う
偶像的に実際に「神」的に持ち上げられた
70年前後の岡林は
80年代の尾崎豊のような存在だった >>175
瀬戸内寂聴が今後数十年後に神格化されて
「名僧だった」と言われるか
「テレビ受けする単なるコスプレ尼僧の破戒僧タレントだった」
と言われるようになるかのさかい目 >>181
ダウンタウンはお笑い界の神だった
ってあと20年後に言われるよ >>101
その頃かな、岡林が道頓堀でゲリラライブを決行→人が集まり過ぎて警察出動、事情聴取のため交番に連れていかれる岡林。
で、客層はパヨクがメインだったんでそれに反発、知り合いに電話しまくって集合をかける。
岡林は交番で和やかに説明、お茶だされて「今度から許可とってね、それじゃお疲れ様」と解放された。
歩いて現場に戻ると、ヘルメット被った集団がシュプレヒコールを上げてた。
リーダー「我々は岡林を奪還するぞ!」
ギャラリー「おぉぉぉ!!」
リーダー「国家権力の横暴を許すな!」
ギャラリー「うぉぉぉぉ!!」
岡林「ただいま」
リーダー「なんでそんな早く帰ってくんねん!」
岡林「えぇぇ…」
ソースは月刊ガロのインタビュー。 今となってみれば
アジる歌の数々で左翼の神に祭り上げられて
それが嫌になって逃げ出して山奥で農業で暮らし始め
それでリリースした個人的なことを歌うようになった金色のライオンこそ意義が深いわけ
それまでの左翼のファンは離れたので
カリスマ性みたいなものも徐々に薄れたけど
社会現象と個人のあり方ということを今も問いかける そういう意味じゃ日和った帰れと言われてた拓郎は正しかったし本物だったんだな。 >>193
拓郎は一貫している
ずっと変わらないし、結局正しかった
ただ、いわゆる転向とも言える岡林の人生は
拓郎より面白いかもしれない ユダ!ユーアライアーみたいなかっこいいエピソードにならないのが日本人って感じ 俺は岡林ファンじゃないが
高田渡信者のなぎらがメディアで嘘を吹聴して史実を嘘でねじまげるのは
犯罪 >>186
「ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど」
若い歌い手が死んだ まだ26の若さ
彼は祭壇に置かれ ジェームス・ディーンになった
俺が歌に疲れ果て 山の村に逃げたのも
ちょうど同じ26 あれからもう20年
ジェームス・ディーンにはなれなかったけれど
生きつづけることが 出来てよかった 岡林さんが京都の山奥に引きこもったのは
当時のライヴの主催者の労音(≒共産党)や学生ファンらが
ライヴのあとに岡林を交えて討論会やるんだよ、そこで歌詞の批判とか
いちいちそういうのをやるのにアホらしさを感じたゆえ
当時の左翼の気持ち悪さは今も同じ
中川五郎とかなぎらとか見たらわかるだろ なぎらは自分の著書でも嘘ばかり書いて歴史の捏造をしてるからな 小学生の頃、兄が聴いてた「チューリップのアップリケ」が好きだった!
歌詞の意味も解らずに。 >>198
それだけじゃなくて
部落問題のことを歌った
「手紙」を封印した経緯とかがある
漏れ聞く限り危険な話なので
推測でしか語れない経緯だが 大江健三郎死ぬほど読んでたなあ
文庫本で出てるのはほとんど読んだ 冗談呼ばわりではなく
松本隆が言ってる、
私たちの望むものはを歌っていた岡林が神に見えた(瞬間がある)ってな。
おれは岡林ファンでも松本ヲタでもまったくないが なぎらや中川五郎や
ああいうインチキ左翼が
嘘で真実を糊塗するのはおかしい。昔からのインチキ左翼のやり口 岡林の堕天使ロックは
〽さあみんなでーエッ
のエッで上がるのが笑える 鈴木茂がこの人の後で吉田日出子と付き合ってた話聞いた時は吃驚したわ
吉田は鈴木があまりにも普通過ぎて吃驚して別れたらしいけど >>202
岡林が近江八幡の解同を除名された理由が解らないんですが
何かご存知ですか? ドノヴァンのバックバンドがツェッペリンのメンバーだったみたいな感じ? 山谷ブルースはダウンタウンブギウギバンドのカバーが最高です >>194
拓郎は一貫してるか?
GSが流行っている頃はGSのコピーバンド
岡林とかのメッセージソングが流行れば広島フォーク村
歌謡フォークが流行れば歌謡フォーク
バンドのブームでフォーク氷河期になれば「俺、元々ロックだから」と言い出して神田川はロックアレンジでカバーする始末 >>212
そりゃ吉田拓郎の音楽を知らないからそんなとんちんかんが言える 未だに反戦だのプロテストだの今でも恥ずかしげもなく歌えるのはあのニヤけたおっさんぐらいか >>212
時代もジャンルも吉田拓郎の経歴も認識が全部間違い >>186
ああいう時代だったから周りが勘違いしただけだよ
本人が言ってたが
自宅に急に高校生か大学生が訪ねてきて
「アルバム聞いて学校退学してきました。一緒に戦います」とか言われたり
完全に勘違いした信者みたいなのが増えて嫌になったんだと
戦いますって何やねん?、と >>168
岡林の昔のライブ音源を聴けば分かるのだが
音がデカいのは、はっぴいえんどの方で肝心の歌を邪魔して評判が悪かった
柳田ヒログループの方は歌を生かす演奏 >>158
ちょっと違うかな
もともと英語の諺に
Look before you leap.(転ばぬ先の杖)
というのがあるが、オーデンはこれをひっくり返して
Leap before you look.とひっくり返した詩を書いた
内容も諺が安全無事を祈るものなのに対して、詩の内容は
「(ファシズムが忍び寄る世界に対して)さっさと反対行動してみせろ」
という正反対のもの
いわば政治的アジテーション詩で、それを大江が引用して作品を書いた
それを岡林がアルバムタイトルに引用した、という流れ
詩の邦題は「見る前に跳べ」だが、意味としては
「さっさと跳べよ、ボケ」とでもいったほうが相応しいw >>43
そりゃまぁ一般市民の若者じゃ無理だろ
当時の海外エレキギターとアンプは死ぬほど高かったんだから フォークでどうこう言われるのが嫌になったから転向したんだろw
だいたい重荷になると投げ捨てるようなことは音楽じゃよくあるw 柳田ヒログループファンの老害も必死に張り付いてるなw >>220
1973年まで1ドル360円だったからな >>165
はっぴいえんどは細野のベースと鈴木のギターは上手いとしても
松本のドラムと大瀧のギターは下手な高校生レベルだからな 大滝詠一は元々ボーカリストなんでリズムギター程度だろうけど松本隆は下手ではない
第一そんな素人みたいに下手なら細野晴臣は一緒にバンドを組まない >>227
大瀧詠一と山下達郎は元々ドラマー、これ豆な
エイプリルフールを解散して細野はもっとマシなドラマーとバンドを組みたかったのだが、
松本が粘着してきた はっぴいえんどのファーストできた1970年
ライブのリハを御苑スタジオでやってたら「おかばやしさん」がきた
「あ、これや!」かなんか急にいいだして「わしのバックはこいつらしかおらへん」とかなんか遠くの方でいってて
「なんだあの人は」ってな感じで
しばらくしたらマネージャーの石浦がやってきて「バックをやらないかって」
はっぴいえんどの録音は終わってたが岡林は途中だったから転ぶ前に転べに途中から参加した
岡林はディランとバンドのような関係にしたかったんだろうけどぼくらには全然そんな意図はなかった。お金がないからバックやった方がいいよって感じだった。岡林って人がどういう人かぼくは知らなかった。レコード聴いたこともないし。でもいい人だったよ。松本がドラム持って歩きたくないとわがまま言った時なんか岡林さんもってくれたよ。オレも松本のシンバル持って大阪から家に帰ってきたこともある。ひどいもんだ。自分のものも持って歩かなくて。いまだに恨んでるよ。 はっぴいえんどのエピソードのコピペする奴はものすごいバカ 1枚目がリリースされた頃「はいからくち」の詞ができるんだ。ぼくが日比谷の野音にコンサート見に行ってたら松本が後ろから肩をトントンとたたいて「今度こういうのできたから曲つけて」って、またさっと立ち去ったね。またカッコつけてね(笑) チョロが首を吊って死んだのは衝撃だったが
最終回で生き返ったのはもっと衝撃だった 反ワクって言葉は最近にしてはロックだなあと思うわ
思うところがあって皆じっと耐えて立ち上がる頃合いを見定めている
来年以降健康に生き残った奴らが何かを生み出すんじゃないかな >>59
フォークシンガーがはいからはくちや颱風なんてやり出したらビビるわ
細野の本質はフォークシンガーだとは思うが
大瀧は違う 大滝詠一は「ジャンルなんて聴く側が決めてる話で
作る方なんてそんなこと全然考えてないから」
また「以前の音楽じゃない新しいことやろうとしてやってきたんだけど古賀政男さんと同じことやってるんだとわかった」
セゴビアという当時の最先端の音楽を日本に取り入れてた古賀政男を紹介つつ自分がバッファロースプリングフィールドみたいな音楽を作ってどーだそれまでの日本の音楽とは違うだろと思ってたのを顧みての発言
大滝がポップスの歴史を辿るのをライフワークにしてたのは結局みんな元があるってこと繋がってるってことを悟ったから ルーツが何かはわからんけど細野はフォークじゃないだろ
歌詞にメッセージはない、それっぽい雰囲気あればいい
ただ好きなリズムやベースラインはどういう訳か大滝詠一とは相性が良かった
ぱらいそ辺りや東風聞いてもそう思う 細野さんのルーツが知りたいなんてのはナンセンスな話で
細野さんは俺と同じであらゆる音楽と技術に熱心になれる人間だろ
このスレでワールド音楽からシンセの音声技術の歴史まで網羅してるのは俺ぐらいだろうしな
>>236
「セゴビアという当時の最先端の音楽」ってなんだよw
アンドレス・セゴビアというギターの歴史を掘ってる人間なら誰でも知ってる人物だぞ
戦前に来日していたぐらいの有名人だから古賀氏が影響を受けたのは
特別にマニアックな話でもない >>230
1970年にURCからレコード出して岡林を知らないとかw
完全に話作ってるわ >>233
あれを「生き返った」って解釈するキチガイが実在するとはw アラウンド1970年の時代に
大衆音楽界最大のカリスマだった岡林が
私たちと歌ったり
命令形で歌ったりしていたものが
山奥での隠遁生活以降
個人的なものに変わる
そしてカリスマ性は失われ
あの頃は「岡林のバックバンド」ほどの扱いだったはっぴいえんどが
今は岡林より遥かに語られる ある日パニックっていう新宿の花園にあるディスコに遊びに行ったの。ブルースクリエーションとエイプリルフールがでるというので。そこで細野がエイプリルフール解散するんだよっていいだして。そこで最近何聴いてるって話になってさ。丁度バッファローの話になって「バッファローは実に良いというのに最近気づいた」といったら「そういうやつは日本に少ない」っていわれて「一緒にやんないか」って。要するにバッファローが良いと言っただけでメンバーにしてもらったんだよ。細野からモビーグレープとかザ・バンドとかかりてね。こういう感じでいきたいということで。 当時松本は候補のひとりというだけだったらしいよ。(林立夫にしようとしてた)でも松本はいい詞を描くのでメンバーとなったというところかな。松本の家にはよく細野と遊びに行ったりしてたけど松本にしてみればよくブルースクリエーションに飛び入りしてプレスリーの真似をする人ってゆうぐらいの印象しかなかったとおもうね。 ある日布谷のアパートにいたら松本がふらっときたんだ。で出来た曲を聴いてもらった。「12月の雨の日」は全部できていて「春よこい」がなんとなくできていた。それでこういうのができたんだよってギターでうたったんだ。
あいつは側にあった永島慎二の漫画読んでて。それで12月は曲聴いて詞をつけて。春よこいは「これ曲つけてみてよ」って渡してカッコよく去っていったね。去り方はカッコよかった(笑) >>243
語ってるのはなんとか過去の資産でカネになるものを探してるレコード会社だよ
はっぴいえんどがとくにすごかったってのよりもその後の売れた音楽を作った奴らがそこに一堂に会していたという源泉的意味合い
レコード会社にしてみれば芋づる式に資産が使える
風前の灯のレコード会社はともかく金になるところを蔵出ししてでも食いつながないといけない
一方で岡林はそのあとがないだけ当時の威厳はちっとも陰らないだろ
金にならないと相手にしないようなのは今だけ
どっちもカネにならないあと100年後には両方とも歴史として語られてるよ
当時はオレは全く岡林もなんたるかを知らないのに「友よ」はこころの歌なんだよな
なぜって小学生のときのボーイスカウトのキャンプファイアの締めの曲だったんだよ
後になって「時代だったんだな、体に染み付いてる音楽ってこういうことなんだな」ってわかった 岡林にしても高田渡にしてもはっぴえんどは単なるバックバンドでしかない
歌を聞こうと思う側にとっては邪魔でしか無い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています