今後の自身の活動については、こう即答する。

「もうやりたいことないよ、全部やりつくしたから。若手はもう、僕のこと怖がっちゃうでしょ(笑)」

中略

それにしても、松本の書く歌詞はなぜ日本人の心をつかみ続けてきたのだろうか。

「よくわからない(笑)。僕は学級委員には選ばれないような人だから。どちらかといえば、クラスにひとりかふたりいる変人なんだよ。そういう人間がさ、なんで大衆の気持ちをつかめたのかなんて、自分でもよくわからない。僕はサブカルが本当は普通だと思っていて。だから、はっぴいえんどは水が合ってたけど、作詞家になって、ずっと居心地が悪いんだ。椅子に座っていばりだしちゃうと、人生終わりだなと思ってる。で、今はもう、座りたくても椅子がないわけ(笑)」

松本は、日本語でロックの作詞をはじめたが、当時はロックは英語で歌うべきだという批判もあったため、「日本語ロック論争」が巻き起きる。そして、1973年から松本は歌謡曲の世界へ進出するが、そこでも「歌謡曲に行った裏切り者」と言われることになった。近年は、日本のロックの歴史を語るとき、はっぴいえんどが重視されると「はっぴいえんど史観」だと揶揄する人々もいる。

「はっぴいえんどはエイプリル・フール(松本が細野らと1969年に結成したバンド)から日付も発言もはっきりしていて、全部最初からオープンになってる。なんにも史観の作りようがないはずなんだけど(笑)」

中略

この日の撮影と取材は、松本がかつてはっぴいえんどとして出演した渋谷のロック喫茶、B.Y.Gで行った。地下のライブスペースに、松本が叩くドラムが響く。約半世紀を経ても、その演奏ははっぴいえんど時代を彷彿とさせる。

「ドラムはたぶん高1のときに買ってもらって、高2ぐらいで全国大会で優勝したんだよね。細野さんに会ってから『おまえは下手くそ』と言われて、『俺は下手なのかな?』と思ったぐらいで、ドラムで苦労した記憶がない(笑)」

その細野こそが、いつも書籍を手にしていた松本に作詞をするように言った人物だった。

「はっぴいえんどのときに詞を書き出したから、詩人としてのアマチュア時代もないんだよ(笑)。いきなり『ゆでめん』(アルバム『はっぴいえんど』の通称)をつくって、『風街ろまん』をつくって。解散したあと、どうやって食おうかと思って、作詞家になろうかなと思ってさ。他人のために仕事として初めて書いたのが、チューリップの『夏色のおもいで』(1973年)とアグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』(1974年)。2曲ともヒットしてくれたから、また下積みゼロだった(笑)。仕事をくれた知り合いには感謝しかない」

中略

松本は、「毛細血管まで、自分がきちっとコントロールできてないと気に入らない面がある」と語るほどの完璧主義者だ。だからこそ、ロックやポップスのシーンで活躍していた仲間である細野や松任谷由実などを歌謡曲の世界へ招き入れた。太田裕美や松田聖子のプロジェクトに長く関わることで、作詞家としてだけでなく、再びプロデューサーとして新しい音楽シーンを牽引することとなる。

「力っていうのは、同じ方向を向くと加算されて倍になるわけ。ところが、作詞家と作曲家が逆の方向を向くと半分になってしまう。だから、自分と同じ方向に向ける作曲家を連れてくるのが一番手っ取り早い。『お金を払ってやるから、俺の言うこと聞け』っていうタイプのプロデューサーが多いけど、僕はそれを愛でやったんだ。だから、仕事も愛でできたんだよ。愛があるから、みんなお返しで愛してくれる、みたいな。それははっぴいえんどのときから、ずっとそうだった。あんなに才能ある人たちが周りに集まってくれたのは、きっとそういうことなんだろうなって思う」

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