SMAPのデビューは散々なものだった(左から草g剛、稲垣吾郎、香取慎吾)/(C)日刊ゲンダイ

【芸能記者稼業 血風録】

 ジャニーズのルーツ編(5)

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 国民的なアイドルとして後にジャニーズ事務所の屋台骨となったSMAPだが、そのデビューは散々なものだった。

 1991年発売のデビューシングルはジャニーズ史上、最低の売り上げ。ジャニー氏がジュニアの中から独特の感性でピックアップしたメンバーでグループを結成。メリー氏のマネジメント力で売り出し軌道に乗せるパターンが崩れたのだった。

 このピンチに事務所は奇策に出る。事務をしていた飯島三智氏を初の女性マネジャーに抜擢。SMAPの運命を託した。

 飯島氏は大学卒業後、音楽プロデューサーの推薦でジャニーズ事務所の事務職として就職していた。

「女性を採用する際、男性アイドルのファンである子を優先するといわれています。ファンは裏切らないし、タレントのために一生懸命、仕事をするというのがメリー氏ら幹部の考え方」(芸能関係者)

 飯島氏は自らマネジャーを志願。斬新なアイデアで勝負をかけた。

 当時、在京キー局の歌番組が激減。正統派のアイドルも活躍する場をなくしていた時期だ。目を付けたのが関西ローカルのバラエティー番組。それまで距離を置いていたお笑いへの挑戦だった。

 関西は芸人の番組が主流の中、東京から来たアイドルがタブーを破り、かぶり物をするなどお笑いをやらせたのだ。在阪テレビ関係者が振り返る。

「街ロケや食レポもやるのが芸人ではなくイケメンアイドル。インパクトがありました。あっという間に話題になり、やがて東京に戻り、後に大人気になった時は驚きました。一緒にロケした中居(正広)君が手の届かない存在になってしまった」

 その後のSMAPの活躍は言うまでもないが、アイドルのバラエティー進出はジャニーズ事務所に革命を起こし、今では普通に後輩たちが芸人並みに体を張っている。

「たのきんトリオ」がドラマから入ったのに続き、お笑いから入った飯島氏の着眼点は語り草になっているが、当時はさほど話題になることはなかった。むしろ、ジャニー氏の少年を発掘する審美眼が着目された。

 とりわけ木村拓哉の存在は別格だった。「他のアイドルとは違う飛び抜けたアイドル」と業界内でも評されるほどだった木村。映画全盛期でも二枚目俳優は珍しくなかったが、「美しい」と言われたのは故・市川雷蔵ぐらいしかいない。飛び抜けたアイドルは男性の見る目も「あれだけカッコいいと特別な存在」と変えた。

 木村は事務所内でも別格の扱いを受ける。それが2000年、工藤静香との結婚だった。それまで事務所には「恋愛は仕事も人気も失う。それでもいいの?」というメリーの教えで暗に恋愛禁止になっていたのを結婚まで認められた。

 人気ピーク時の28歳である。デキ婚、工藤が面識のあったメリー氏に頼み込んだなど諸説流れたが、「木村は結婚しても、父親になっても潰れることのない永遠のアイドルになる」という確かな手応えを感じていたからこそ許した判断だったと思う。

1/9(土) 9:26配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/2993a841487e9fc97ea87f3a3e595f1e4148a561