1992年から始まったオフトジャパンについて語る、当時のキャプテン柱谷哲二

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第12回オフトジャパンの快進撃とドーハの悲劇〜 柱谷哲二(1)

「キャプテンをやってほしい」

1992年3月、ハンス・オフト日本代表監督からそう言われた時、柱谷哲二は、うれしさと不安が同時に込み上げてきたという。

92年3月17日、日本のサッカー史上、初となるプロの外国人監督としてオフトが日本代表を指揮することになった。その直後、最初の日本代表合宿が静岡県・浜名湖で行なわれ、柱谷はキャプテンの指名を受けたのである。

「小・中・高・大とずっとキャプテンをやってきて、大学時代はうまくいかなかったので、そのリベンジをしたかったし、日本代表のキャプテンって特別じゃないですか。だから指名された時はすごくうれしかった。
でも、すぐにラモス(瑠偉)の顔が浮かんでね。これからチームをまとめるのは、かなり大変になるなって思った」

チームのメンバーを見渡すと福田正博、井原正巳、中山雅史らは大学時代からよく知る仲間で、B代表でもプレーしていたのでさほど問題はなかった。
だが、読売クラブの選手は一癖も二癖もあり、しかもラモス瑠偉がいた。さらに新しい選手や先輩の選手がおり、チーム内はカオスのような状態だった。

「どうやってチームをひとつにしようか。かなり悩みましたね」

あの頃を思い出し、柱谷は少し複雑な表情を見せた。

柱谷は、キャプテンとして2つのことをチームの指針にした。

まず、なんでも言い合えるグループにすること。そして、戦う集団にすることだ。

「90年のW杯予選の時、1次予選で敗れたんですけど、その時はチーム内で何でも言い合うことができなかった。先輩・後輩という体育会系の縦社会があって、まだアマチュアだった。
でも、ラモスやカズ(三浦知良)が来てくれて雰囲気がガラっと変わったし、これから自分たちはプロになる。プロに先輩も後輩もない。
オフトからも『日本人はコミュニケーションの取り方が下手だから、コミュニケーションが取れるチームにしてくれ』と言われた。
まずはラモスや吉田(光範)さんにも遠慮なく話ができるように、なんでも言い合えるチームにしようとそこからスタートしました」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200130-00884880-sportiva-socc&;p=1
1/30(木) 6:00配信

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