【野球】秋山幸二が語る西武の黄金期 「『必勝法・必敗法』という冊子があった」
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西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(33)
【背番号1】西武・秋山幸二 前編
四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。
1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、"黄金時代"を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。
森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。
1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。
両チームの当事者たちに話を聞く好評連載を再開する。
第9回のテーマは、「背番号1」。連載の17人目、西武・秋山幸二のインタビューをお届けしよう。 【西武のほうがずっと早く「データ野球」を取り入れていた】
――1992(平成4)年、翌1993年に行なわれたスワローズとの日本シリーズについて、みなさんにお話を伺っています。
秋山 うーん、あんまり覚えていないんだよね(笑)。森(祇晶)さんと、野村(克也)さんの2年間ですよね。1992年はうちが勝って、1993年はヤクルトが勝ったんだよね?
選手っていうのは自分が活躍した時のことは覚えているけど、あまり活躍しなかった時のことは覚えていないんですよ。
――でも、1992年のシリーズでは優秀選手賞を獲得し、翌1993年のシリーズでは3本のホームランを打っていますよ(笑)。
秋山 えっ、そうなの? (記録を見ながら)全然覚えていないや(笑)。1992年の日本シリーズは野村さんの何年目でしたっけ?
――スワローズ・野村監督は1990年の就任でしたから、1992年は3年目になります。
秋山 あの頃のヤクルトはキャッチャーの古田(敦也)を中心に、岡林(洋一)、西村(龍次)、川崎(憲次郎)とか、いい投手陣がそろっていた。
あと、打撃陣ではブンブン丸(池山隆寛)、広沢克己(広澤克実)が中心となって引っ張っていって、バランスがとれていたチームだった気がします。
監督がともにキャッチャー出身者同士で、細かい野球をやっていましたよね。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190909-00870720-sportiva-base
9/9(月) 6:57配信
https://www.youtube.com/watch?v=HMaLSi-qkVI&t=58s
秋山 ホームラン
https://www.youtube.com/watch?v=j0RDyuCjYiw
1992年日本シリーズ 秋山の同点打と大塚の好走塁 ――戦前には、森、野村両監督を称して「キツネとタヌキの化かし合い」とも言われていました。
この連載に登場した石毛宏典さんは、「野村さんのID野球ばかり注目されていたけど、うちだってデータに基づいた細かい野球をやっていた」と言っていました。
両チームはやはり、似ていたのでしょうか?
秋山 両チームともに細かい野球をやっていたのは間違いないですね。
石毛さんの言うように、うちだってヤクルトよりも早くデータ野球はやっていました。
広岡(達朗)さんの頃からずっとバント守備、けん制でのサインプレー、1球ごとの守備位置の変更などを徹底していたし、
当時は「必勝法・必敗法」という冊子があって細かい野球を学ばせられたし、ミーティングもいっぱいやっていましたから。
チームとしては似ていたと思うけど、野村さんよりもずっと早く、西武はそういう野球をやっていたと思いますよ。
【「西武のON」を目指して背番号1に】
――この連載で共通しているのは、スワローズOBは一様に「ライオンズに勝てるとは思っていなかった」と話すのに対して、
ライオンズ関係者は「シリーズを楽しんでいた」と語っていることです。秋山さんはいかがですか?
秋山 ペナント開幕前には、パ・リーグではうちが勝つ前提で「セ・リーグはどこが(日本シリーズに)出てくるのかな?」という思いは持っていたと思いますよ。
それに、何度も日本シリーズに出場して"シリーズ慣れ"していたこともあって、みんな楽しんでいた部分も大きかったんじゃないかな?
たぶん他の選手もそうだと思うけど、僕の場合は「どうやってアピールしようか?」とか、
「MVPを獲りたい。優秀選手賞がほしい」という思いで、楽しくやっていた感じはします。
――スワローズサイドでは、広澤さんなども「シリーズ初戦は震えが止まらなかった」とおっしゃっていましたが、それとは対照的ですね。
秋山 もちろん、西武の選手だって最初はそうでしたよ。でも、それがだんだん慣れていくんです。
うして、「日本一」に対しての思い入れが強くなっていったし、緊張するよりも先に「どうやって目立とうか、どうやって賞を獲ろうか」というところに意識が向いていったんだと思います。
むしろ、シリーズよりも普段のペナントレースのほうが、危機感がありましたから。
――当時のライオンズではチーム内の競争も激しかったそうですね。
秋山 当時の西武の選手はみんな常に危機感を持ちながらプレーしていたと思います。もちろん、僕だってそうです。
ケガで休んだらすぐにポジションを奪われるという危機感があったし、たとえば試合前にテーピングをしていると、
石毛さんが「おい秋山、その程度のケガでまさか休まないよな?」なんて言われていましたから。
だから僕も、石毛さんがどこかを痛めても、「もちろん試合には出ますよね?」「当然、出るよ!」なんて会話を普通にしていましたね(笑)。 ――当時、スワローズの背番号1は池山隆寛選手でした。
秋山さんは自身の背番号1に対して、どのような思い入れがありましたか?
秋山 僕は背番号1に、そんなに強い思い入れがあったわけではないんですよね。
最初は背番号71で入団して、24になってから試合に出られるようになって活躍したから、むしろ背番号24に愛着があったんです。
でも、清原(和博)が入団してすぐに背番号3で活躍したことによって、「西武にもONを作ろう」ということになったんです。
――背番号1の王貞治、背番号3の長嶋茂雄の「ON」に対抗する形で、西武球団としては「AK(秋山・清原)」を売り出そうとしたわけですか。
秋山 そうそう。背番号1は自ら望んだわけじゃなくて、球団のほうから「背番号1でどうか?」って打診されたわけだから。
最初は悩んだけど、周囲の勧めもあって1をつけることにしたんです。
でも、王さんの背負った背番号1と僕の背番号1とでは、あまりにも違いすぎて特に意識はしなかったですけどね。
【普段はバラバラでも、試合になると一気に集中する】
――秋山さんと清原さんとのコンビは「AK砲」と呼ばれました。また、そこに(オレステス・)デストラーデ選手を加えて「AKD」とも呼ばれていました。
当時の3人の役割はどのようなものだったのですか?
秋山 「役割」というのは監督が考えることなので、とくに自分の役割を意識したことはなかったです。
長打を求められる場面、走者を進める場面などに応じて、野球をしていました。
ただ、僕の場合は「足を見せたい」という思いは強かったですね。
四番・清原、五番・デストラーデが自分の仕事をしてくれるので、ほとんどの場合が(三番の)自分と勝負してくれるのはありがたかったですよ。
――秋山さんが走者として出塁している時には、どのような意識を持っていましたか?
秋山 キヨ(清原)の場合は、ファーストストライクが来るまでは絶対に打たなかったですね。だから、なるべく早いカウントで盗塁をすることを心がけていました。
当時の西武は、僕に限らずみんなが自分の役割をきちんと理解していましたよ。みんなそれぞれに役割があって、「この場面は何をしなければいけないか」ということをみんなが理解していた。
そんなチームだったと思います。プライベートではみんなバラバラなんだけど、いざ試合になるとパッと集中する。そんな感じでしたね。
――あらためて1992年、1993年について伺いますが、当時の秋山さんはプロ12年目の30歳、13年目31歳という、まさに脂の乗り切った時期にありましたね。
秋山 いやいや、ずっと試行錯誤していた時期ですよ。「もっといい打ち方があるんじゃないか?」
「もっといい方法があるんじゃないか?」って考えていたと思います。
年齢と共に筋肉も変化していくわけだし、常に試行錯誤していました。(1992年シリーズの映像を見ながら)ほら、
"当時の秋山さん"の打ち方だって、"今の秋山さん"から見れば課題が多い打ち方ですから、まだまだだよね(笑)。
(後編に続く) あの時代の西武は 大人の野球 だった。
日本シリーズで巨人に勝ち、
ビールがけした時、インタビューで
塩崎が(うん、巨人弱い)とサラリと
答えていたのが記憶にある。 秋山は身体能力が凄くてメジャーに最も近い男って言われてたな
離婚した元妻にマザコンだと暴露されたりもしてたがw 秋山選手は選手としても良かったけど監督としても良い監督でした。
阪神の監督をお願いしたいです。 >>6
次元が違う。
あの当時のパリーグのレベルは
高過ぎ。 筋肉番付でもパワースピード共に万能だったイメージ
もちろん室伏の域ではないが ソースの写真を見るだけでも
今の西武の選手と輝きが違う
スター性の有無というかな
成績も素晴らしかったがそれ以外の何かがあった >>9
パリーグのレベルというか西武がずば抜け過ぎてた
他チームは残念ながらち密さはなかったな
ただそれが魅力でもあった 今の西武も打つだけなら当時を超えてるんだろうなきっと
打つだけならな あの当時の西武は異常な強さだった。技術レベルがどうのではなくチーム全体が強いチームだった。 何が嫌って、当時の西武は全員足が早く
(清原、デストラーデすら走れる)
気を抜ける場面が無かった
そして相手の守備が鈍そうなら隙をついて
さらに先の塁を狙う狡猾さがあった
勝てる気がしない >>15
何かか…
スター選手は勿論だが、
バブルの日本だった。
西武黄金期と日本のバブルは重なる。
幸せだったよ。 >>14
晩年の秋山や飯田が全盛期の日本代表サッカー選手に余裕で勝ってたからね、全種目 >>1
バク宙ホームインの1986年日シリ、実は戦犯寸前。
3連敗の前半不振で3→6番に打順降格 91 西武ライオンズ
1辻(二)
2平野(右)
3秋山(中)
4清原(一)
5デストラーデ(指)
6石毛(三)
7吉竹・笘篠・森博(左)
8伊東(捕)
9田辺(遊)
投 郭 工藤 渡辺久 渡辺智 石井丈 潮崎 鹿取 92年のピッチングスタッフ
石井丈裕 防1.94 15勝3敗 沢村賞受賞
郭泰源 防2.41 14勝4敗
工藤公康 防3.52 11勝5敗
渡辺久信 防3.81 12勝12敗
潮崎哲也 防2.94 6勝2敗10セーブ
鹿取義隆 防2.47 10勝2敗16セーブ
93年は杉山賢人、94年は新谷博が加入して鹿取の衰えをカバー。 当時朝にやってたライオンズの番組を子供の頃見てたな
今と違って清々しいイメージだった西武 1992年ゴールデングラブ賞 パ・リーグ
投手 郭 泰源 西武
捕手 伊東 勤 西武
一塁 清原和博 西武
二塁 辻 発彦 西武
三塁 石毛宏典 西武
遊撃 田辺徳雄 西武
外野 秋山幸二 西武
平野 謙 西武
佐々木誠 ダイエー >>27
まーでもドラフト絡みはアレだったけどな西武は 俺は物心ついた時から西武ファンだが秋山幸二が一番好きな選手だ
秋山翔吾も結構好き >>5
中日時代の星野監督が
選手のこと
ぼこぼこに殴ってリーグ優勝したけど
日本シリーズで西武に負けたとき
殴られるのが恐くてやってる子供のちーむと
1人1人が考えてやってる大人のチームじゃねぇ 92年と93年は史上最高の日本シリーズだよな
翌年の巨人と西武もなかなか捨てがたいけど
前年があまりにも凄すぎて霞んでしまうな >>25
中日から行った平野なあ
まあ西武に行って良かった >>25
歴史上、傑作たるスタメン‼
リアルで見てきたから、
清原に関しては本当に残念だ。
ただ ただ残念だ。
社会的に犯罪した清原は絶対に許されない。
しかし心では清原はこのまま死んでいくだけかと思うと切ない。
全ては清原自身の責任だが、
水の合わない&運気下がる巨人入りを
避けたかった… >>22
ショートダッシュ30回やマラソンやったら
サッカー選手勝つんだろうけどなぁ 俺は近鉄ファンだったから
どうやっても届かない西武に何度も悔しい思いしたけど
一矢報いることが出来ただけでも今ではいい思い出 打線と守備、走塁なら今のチームも引けを取らないよ
投手陣は… >>1
>>1
>――1992(平成4)年、翌1993年に行なわれたスワローズとの日本シリーズについて、みなさんにお話を伺っています。
>秋山 うーん、あんまり覚えていないんだよね
>選手っていうのは自分が活躍した時のことは覚えているけど、あまり活躍しなかった時のことは覚えていないんですよ。
ーーー
1番語らなきゃいけないのは、
9回二死1塁から起死回生の同点安打打ったが、ホーム送球の間に2塁に進まなかったので、
奇跡の同点で球場全体が沸く最中、3塁走塁コーチ伊原や、森監督、黒江ヘッドがブチキレてた、
てことなんだけどなぁ
1992年日本シリーズ 秋山の同点打と大塚の好走塁
https://m.youtube.com/watch?v=j0RDyuCjYiw
こういう所が当時の西武の強さを象徴してた 【西武黄金期OB】
田淵 監督経験あり
東尾 監督経験あり
森繁和 監督経験あり
石毛 監督経験あり
辻 監督就任中
秋山 監督経験あり
伊東 監督経験あり
工藤 監督就任中
渡辺久 監督経験あり
田辺 監督経験あり
大久保 監督経験あり
清原 監獄経験あり
※野村、伊原の現役時代は黄金期前なので除外
※田尾は黄金期在籍だが西武OBとして扱われる機会がほとんどないので除外
コーチのみは含めてないし、その他独立リーグや学生野球の指導者まで含めたら監督・コーチ経験者はまだまだいるからな
レギュラーも控えも多くのOBが指導者として球界に携わっているという事実
西武黄金期はいかにレベルの高い野球をやっていたかがうかがい知れる プロ野球の価値が下がってきてるから
あの頃はよかった言っても虚しいだけ >>37
近鉄も強いチームさ。
ただ、西武の森監督が秘蔵っ子みたく
育ていた鈴木という若手バッターが
近鉄戦で西武に機運が出てきた時に
出てきてヒット打ち、西武に打点が入るんだよなw >>25
当時の西武ファンだけど
左翼の森?だけ知らないなあ
安部か吉武あたりのイメージ >>5
>塩崎が
一瞬オリックスかと思った
潮崎だよね 当時のパリーグがつまらんかったのは色々球団経営に力を入れる前にせよ
西武が強すぎたのも一因かもしれんな
あんだけの常勝軍団なんて普通作れんだろ常識的に 元プロ野球選手ですごくイイ人なんじゃないかなと思う人
秋山
達川
桧山 勝って当たり前の時代だから思い出すのは負け試合ばっか
ブライアントに打たれたハゲQとか… >>46
森博幸はレフトというより
1塁か代打の方が多かった >>19
だな。
清原やデストラーデですら走れるから
怖い。
相手チームの隙をついて先の塁を狙うんだよな。
一つでも先の塁に進み、最後は点数に繋げる。
川上巨人のチームとどっちが上なんだろうか? >>37
近鉄もいいチームだった
1989 近鉄
1大石(二)
2新井(中)
3ブライアント(指)
4リベラ(一)
5淡口(左)
6鈴木(右)
7金村(三)
8山下(捕)
9真喜志(遊)
投 阿波野 小野和 山崎慎 高柳 加藤哲 村田辰 佐々木修 佐藤秀 吉井 >>50
今のソフバンも十分常勝軍団
怪我人多すぎでコケ気味だけど >>49
すまん。
西武ファン失格だな。
潮崎だよ、潮崎。
渡辺久信も人気あったが、
潮崎ファンは凄い。 藤井寺球場での阿波野・赤堀vs工藤・杉山・潮崎・鹿取の息詰まる熱戦が忘れられない。
登板した潮崎に一旦外野を守らせてまた投手に戻す奇策に出たんだよ。 西武は強かったけど横浜時代のこと考えると森が名将かっていうと微妙だな 西武は強かったが他球団もお粗末すぎた
川崎球場の外野で流しそうめんやってた時代だからなw >>61
チームは監督一人で作るものじゃないからな
今のソフトバンクだって基盤は根元が作ったようなもんだろ
現場でも秋山や工藤をみて小久保松中が育ったわけだし >>25
左翼は苫篠が左投手用、吉竹が右投手用
安部はその二人より守備力が落ちるせいか
一塁やDH兼任
ただ、出てくるとチャンスに強く嫌なイメージがある
森はさらにその下かな
遊撃は打てる田辺と守備力に勝る清家との併用、 >>64
平野はコーチ止まり
まぁあの人は星野とバッティング嫌いでちょっと変わった人だしな >>61
そうなるな。
良い選手だらけだから勝っていたと
言われても仕方ない。
東尾でも西武はイマイチだったから、
選手&監督両方が良くないと
傑作集団にならないな。 >>6
ここ10数年のライオンズはパワーヒッターと先発は揃えて派手な試合で勝つけど、中継ぎは弱いままで優勝はたまにしかしないようにして年棒大幅アップを防ぐという経営スタイルな気が 本当に強かったよね
王者と言う言葉がピッタリの風格と言うかオーラがチーム全体にあった
今のソフトバンクより強いイメージあるわ パリーグの監督西武の人ばっかの時点でわかりきったことだろ 秋山選手好きだったな
当時の西武は今のソフバンに似てる
今の西武は西鉄ライオンズに近いw原点回帰かな >>61
あんだけぶっちぎりなら誰が監督やっても一緒 数学者の秋山仁を講演に呼んだはずが
手違いで秋山幸二を呼んでしまった
でも秋山幸二はそのまま講演した 当時は別に言われてなかったけど、勝利の方程式、勝パを確立した
先駆けだと思う 人気があるから、過大評価されがちな選手だな
成績を見ると、歴代ベストナインには入れない 打つだけなら今の西武なんだろうけど
走攻守トータルで見たらあん時の西武の方が上だろうなぁ 運動神経と顔がいいから過大評価されがちな選手だが安定感はなかった
まあ、しかし通算400本塁打300盗塁は華がある 西武とヤクルトは何回優勝しても、横浜やダイエーの優勝と比べたら、
世間の注目など、盛り上がりに欠けていたのは寂しかった。 >>63
外野ガラガラ時代は80年代の阪急黄金期のときじゃね
阪急黄金期は西部黄金期以上にやばかった
とくに外人のブーマー、マルカーノが反則 秋山選手は走攻守三拍子揃ったバク転も出来るパフォーマーだった
ダイエーにトレードされた時はショックだったな
いつか西武に戻って来てほしい >>35
一回目の複数年契約最終年であった2001年に好成績残しちゃったのがなぁ…
あれで脱出失敗したのがね。あの年もパッとしない成績で自由契約になってたら
他球団で再び輝けたのかも知れない。 90年頃秋山が草野球に助っ人で
来てくれた事があった
相手チームだったけど秋山が投手をしてくれて
すげぇすげぇ秋山だぁって ガキの自分は
大騒ぎしてた 一緒に羽生田って人が来てたんだけど
みんなで誰だあいつって近寄らなかった
外野守ってるし地味だなって
何年かして羽生田は歴代でもトップクラスの
外野守備の名手って知った
そんな人が草野球の外野守ってたなんて
あいつライパチ君だろなんて言ってすみませんでした >>25
神戸グリーンスタジアムで見た、西武負けたけど >>71
西武常勝期に対極にあった近鉄みたいなチームだよね
今の西武打線はいてまえ打線と被る >>82
40-40を実質達成できたのは秋山だけ
しかし実際の数字で見ると43本塁打に38盗塁だったから
余分なホームラン3本を単打にしておけば
あの年の盗塁成功率なら達成可能だった 秋山は.250 40の人でよかったのに
.300 30目指すようになってつまらなくなった >>77
その話聞いたことある
会場の子供らはハプニングに大喜びだったろうな 秋山は足速いけど実は意外と打率低い
だから好打者じゃなくて完全な長距離砲で三振も多い >>6
打力ならいい勝負だと思うけど投手力が全然違う
特に先発の完投数がずば抜けて高かった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています