今年もドラフト会議が行われ、夢のプロ入りをかなえた選手たちの、初々しく希望に満ちた笑顔と言葉が連日報道されている。

3年前、そこにいた佐藤世那は、「あっという間ですね」と苦笑した。

佐藤は3年前の夏の甲子園で、エースとして仙台育英高校を準優勝に導き、その年のドラフト6位でオリックスに指名された。しかしプロ3年目の今年、戦力外通告を言い渡された。

10月4日の朝、チームのマネージャーから、「今日はグラウンドに行かずに寮に残っておいて。話があるので」という連絡を受けた。そのときにある程度は悟った。ただ、「育成(契約)かな」と考えたという。

しかし、球団から告げられたのは戦力外通告のみだった。

「(戦力外になる)恐怖というのは、1年目も2年目も今年も、毎年ありました。でも本当の実感はわいていなかったというか……。まさか育成もなしだとは、正直思っていませんでした」

サイドスロー転向1年足らず。

まさか。そう思ったのは、まだ3年目だからということもあるが、何より、もともとのスリークオーター気味のオーバースローから、サイドスローに転向して1年足らずだったからだ。

昨年オフ、台湾で行われたウィンター・リーグに参加した際に、監督やコーチにサイド転向を打診された。

1年目はファームで12試合52イニングを投げて4勝4敗、防御率5.37。2年目は12試合45イニング、2勝1敗、防御率5.00。2年目の終盤に一軍に合流したが、登板機会はなかった。

佐藤自身、納得できる成績ではなかったが、まだ体ができあがっていない状態での2年間だった分、これからだという思いもあった。

一方で、「2年間何もできなかった」という焦りもあった。昨年は山岡泰輔、黒木優太、澤田圭佑、山本由伸といった新人投手が一軍で多く活躍。二軍にも有望な若手が増えて投手陣の競争が一気に激しくなっており、危機感もあった。

球速140kmも超えるように。

もともと佐藤は、体の横回転を使う投げ方だったため、以前からサイドスローをすすめる声はあったという。

「比嘉(幹貴)の次を担えれば」という話も佐藤の心に響いた。そこで、悩んだ末に、「そっち(サイド)のほうが生きていけるのかな」と、最後は転向を決断した。

ただ、1年で結果が求められるとわかっていれば、その決断はしなかったのではないか。

しかし逆に、もし転向せずにそのまま3年目を終えて、戦力外通告を受けていたとしたら、「あの時、転向しておけば」と後悔したかもしれない。改めて、プロ選手にとって転向の決断は難しい。

今年の前半は手探り状態だった。新しい投げ方では、今までは痛まなかった部分が痛くなる。ブルペンでは感覚がよくなっても、実戦で投げてみなければ、それが通用するのかどうかわからない。
しかし二軍は投手陣が飽和状態で、少ない試合数の中ではなかなか実戦登板の機会が訪れず、もどかしい時間が続いた。

それでも8月には、「やっと感覚をつかめてきました」と明るい表情だった。ウエスタン・リーグの最後の3度の登板は無失点で終えており、球速も140kmを超えるようになっていた。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181102-00832384-number-base
11/2(金) 11:46配信

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