
秀吉は盛政の武勇を高く評価していたので、家臣になったら一国を与えると述べたが、盛政はこれを拒否した。それどころか、早く秀吉に処刑するよう懇願した。
そこで、秀吉は盛政に切腹を命じたが、その前に願いがあれば応じる意向を示した。
盛政は秀吉に対して、京都市中を引き回しにすれば、秀吉の威光が天下に轟くだろうと述べたという。盛政が引き回しにされると、驚くほどの群衆が集まった。
その後、盛政は槇島に連行され、首を刎ねられた。こうして盛政は、その生涯を閉じたのである。
以上の逸話は『川角太閤記』に載せるものだが、『佐久間軍記』でも秀吉がその死を惜しみ、家臣になるよう説得した話を残している。盛政が市中を
引き回しにされたとき、多数の見物人が集まったが、盛政はこれを睨みつけたと書かれている。
『川角太閤記』、『佐久間軍記』も盛政の死を美談に仕立て上げている感がある。こうした点は二次史料の特徴でもあるので、
史実かであるか否かは慎重な検討が必要である。盛政が洛中を引き回しにされたこと、処刑されたという端的な事実は、『兼見卿記』に記録されている。
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