銀座にある岡星さんに旧式のかまどはあったのか。藁はどこで用意したのか。 [134367759]
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玉締め法のごま油とか、産婦人科の岩倉病院とか、
既に出てるのに後に初めて知ったみたいな感じで出てくるよな 初期はよかったが長く続くにつれ、政治アピールが多くなった 伊勢神宮では20年ごとに「式年遷宮」(しきねんせんぐう)が行なわれています。
式年遷宮とは、定期的な造営や修理の際にご神体を本殿にうつすことで、
その際に2つの正殿と14の別宮、さらには装束や須賀利御太刀を含む714種1576点の御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)などを
すべて新しく造り替える伝統行事です。式年遷宮が始まったのは奈良時代の690年。そして伊勢神宮の歴史はさら
に古く、創設は皇室の祖先である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の時代、日本神話まで遡ります。 バブルの頃は会社の経費で外食出来たらしいな
美味しんぼはバブルの頃の話だからな 朝廷の律令軍によって東北地方が制圧支配されると、蝦夷の騎乗武器・戦法の特徴が和人へ伝わり、
蕨手刀が段階的に改良発展された結果として、下記に述べるように日本刀の原型とされる毛抜形太刀へ至った。 蝦夷(東北日本)は、騎馬および蕨手刀を取り入れ、彼ら伝統の弓術と組み合わせ、騎馬戦術を身につけた。また威力向上の改良を続け、刀は湾刀に近づいた。
和人は、伝統的な長い直刀を改良し、この高い威力の刀(および作製技術)を取り入れ、平安時代後期に日本刀を生むこととなった。 直刀 黒漆平文太刀拵(附刀唐櫃1合)
直刀は鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の神剣として神宮の内陣深く秘められてきた神宝です。 黒漆剣
黒漆剣(こくしつけん)は、京都府京都市にある鞍馬寺が所有・所蔵する大刀(直刀)[説 1]。
日本の重要文化財に指定されている。口承によれば、平安時代の征夷大将軍としても高名な
大納言坂上田村麻呂が同寺に奉納したと伝えられる。 >>1
赤坂は路地で焼いてる
銀座も六本木ヒルズも、炭火と藁の許可が出てる空調あり >>2
ササニシキをありがたく食うなんて時代だなあ 標剣は節刀のことを指し、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた任命の印となる刀剣で、
蝦夷征討においては天皇から征夷大将軍に賜与された記録がある[注 1]。賜与された節刀は、
将軍職や遣唐使大使などに任命された者の任務が終わると、その報告とともに天皇へと返還される。 黒漆の太刀
① 柄(つか)、鞘(さや)から金具に至るまですべて黒漆塗りにした太刀。公家では六位以下の所用。
製作が容易で実用的なため、武家や寺院の僧兵に多く用いられた。 本作は平安時代中期の平安時代から鎌倉時代に見られる太刀の過渡期に製作され、
明治8年に整理された「太宰府神社宝物目録」では菅原道真の所持品だったことが記されている[7]。 毛抜形太刀は、平安時代に御所の警備を行う衛府の役人が佩用していたとも、
平安貴族が外出又は儀仗用として佩用していたともされており、
柄と茎(なかご)が一体でかつ毛抜きを左右に並べた形の透かし彫りがなされているのが特徴である[1][2][3][4]。 毛抜きを左右に並べた形の透かし彫り
これがよくわからんな。 舎人
5世紀又は6世紀頃に舎人の制度が確立した。屯倉が集中し大王家の経済的・軍事的基盤となっていた
東国の国造の子弟を中核として、大王家に従属する舎人は大伴氏・物部氏の軍よりも更に大王親衛軍の側面が強かった。 門号氏族
靫負は西国の国造の子弟を中核として、宮城門の守衛に当たる軍である。 左右衛士府(えじふ)
衛士を中核とする。衛士は農民出身者によって構成されるため、人員が多い。 騒速
いずれも平安期の作。いずれが騒速か判明していないため一号大刀、二号大刀、三号大刀と呼称されている[1]。 >>2
ササニシキは越よりかなり粘り少ないだろ
岡星さん営業トークが過ぎる 藤原利仁
延喜15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千(蔵宗・蔵安)を鎮圧し
武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。この年には鎮守府将軍となり、
その最終位階は従四位下であったとされる。 利仁は延喜年間に豪族の泰豊国の女婿となり敦賀に居館を構えた[3]、
現在の敦賀市御名県道211号沿いのエノキの大木付近に館があったと伝えられている[4][5]。
また、寛和2年(986年)鎮座の敦賀市公文名の天満神社は菅原道真と藤原利仁を祭神としており、
利仁の家臣の子孫という藤原姓の村人は明治維新まで帯刀を許され、古くから毎年1月17日に
天満神社にて利仁を祭るという[3]。神社敷地内には将軍塚と言われる石塔(宝篋印塔)を祀った祠があるが、
これは利仁の供養塚であるという[3][6]。 宇都宮市関白の関白山(かんぱくさん)神社内に藤原利仁の墓と伝わる石塔(宝篋印塔)があり[7]、
平成3年9月に市の文化財に指定されている[8]。延喜12年(912年)に高座山(たかくらやま)の盗賊を征伐するために
派遣された利仁が鎮圧するも病に倒れ、同年10月18日に亡くなったとの伝説がある[9]。関白山神社は、
もとは高座山神社と称し、利仁を祭神としている[10]。なお、利仁の葬送時にわかに黒雲が巻き起こり荒天となった、
それを鎮めるために、3匹の獅子舞で退散させ、無事に埋葬できたという[10][9]。この言い伝えから、この神社では
天下一関白神獅子舞を奉納する行事がおこなわれている[9]。 埼玉県東松山市
東松山市下野本にある野本将軍塚古墳に、延長元年(923年)の創建という利仁神社がある[11]。
古墳自体は利仁とは関係ないが、利仁将軍にちなみ「将軍塚」という名称をもつ4世紀後半の前方後円墳であり[12]、
後円部の高まりに神社社殿が建つ[13]。古墳近くの無量寿寺が利仁の陣屋跡であるといわれ、もとは無量寿寺に社があったが、
明治の神仏分離で現在地に遷されたという[11]。社殿には利仁の木像と愛用の弁当箱が伝わっている[11]。 646年の薄葬令で古墳時代が事実上終わりを告げた後も、東北地方や北海道では墳丘墓の築造が続き末期古墳と呼ばれるが、
末期古墳が古墳であるかどうかについては議論が分かれる。 ロマントピア藤原京'95
ロマントピア藤原京’95(ロマントピアふじわらきょう95)は、1995年(平成7年)に
奈良県橿原市の藤原京跡をメイン会場として開催された地方博覧会。 ドーム型パビリオン。メインシアターではアニメ「ストリートファイターIIよみがえる藤原京~時を駆けたファイターたち」を上映。
ゲーム「ストリートファイターII」のキャラクター、「ケン」「リュウ」「春麗」「エドモンド本田」が、1300年前の藤原京へタイムスリップをして、冒険をするというストーリー。 金銅荘環頭大刀拵・大刀身
本大刀が作られた正確な時期は分かっていません。古墳時代末期(飛鳥時代)の7世紀前半ではないかと推測されており、
日本最古の伝世品(でんせいひん:出土品ではなく、長く世に伝えられてきた美術品)とも言われています。
本大刀のもともとの所持者についても分かっていませんが、高知県高岡郡日高村の「小村神社」において、
古来御神体として本殿奥深くで祀られていました。 環頭大刀の柄頭はこう止まっていたのか
その答えは以下の本「古代刀と鉄の科学(著:石井昌國、佐々木捻)」に載っていた。
こちらの本、上古刀の特徴などについてとても詳しく載っているので読んでいてとても面白い。 で吐きこう
ゆたぼんのボンとはなんだ
シャッキリポンの仲間七日
一週間待ってくれ 美味しんぼは権威を否定するのに別の権威を持ち出してくるところが気に食わんわ
本末転倒じゃん >>58
女の子は上半身はパジャマだよ
下半身はスッポンポンのポンとはなんだ 談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。 神仏分離以前は「多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)」と称する寺院であった。現在は桜と紅葉の名所として知られる。 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、
長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津国安威(大職冠神社=将軍山1号墳。
参照:阿武山古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが発祥であるとする。 談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、
後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。 大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。 延長4年(926年)、国内最古となる惣社を創建し、
「談山権現」の勅号が下賜される。これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社が神仏習合して一体化していった。 日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、
平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。 平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げたが、
当社・妙楽寺は天台宗の寺院であり、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺、及び藤原氏の氏神である春日大社との仲は良くなかった。
永保元年(1081年)3月、興福寺に焼き討ちされる。天仁元年(1108年)9月には浄土院、食堂、経蔵、惣社、大温室、多宝塔、灌頂堂、
五大堂、浄土堂に加え、近くの鹿路の村々が悉く興福寺の僧兵に焼かれた。承安3年(1173年)6月には十三重塔を含む境内全域が
興福寺の焼き討ちで焼失してしまった。 承元2年(1208年)2月には金峰山寺の衆徒による焼き討ちを受けた。
安貞元年(1227年)8月、そして安貞2年(1228年)4月にも興福寺の焼き討ちを受けている。
また、大和国の国衆も十市氏、越智氏は妙楽寺側に付き、楢原氏、布施氏、北隅氏らは興福寺側に付いて合戦を繰り返していた。
観応2年(1351年)11月、失火により全焼する。
永享7年(1435年)、南朝の遺臣に占領されて反室町幕府の拠点にされてしまう。これにより、
永享9年(1437年)から始まった越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦・大和永享の乱に巻き込まれてしまい、
翌永享10年(1438年)8月、幕府軍に焼かれて全山焼失した。 応仁3年(1469年)2月、寺内での紛争により焼失する。 江戸時代に入ると徳川家康の命により、江戸幕府から3,000石余の朱印領が認められた。 元々寺社は寺領・神領などと呼ばれる広大な所領を有していたが、戦国時代に諸大名により所領が次第に侵蝕され、豊臣秀吉の太閤検地でほとんどが所領を失った。
江戸時代に入り、各寺社に、かつて領有していた土地の一部が返還され、幕府・大名より朱印状・黒印状によってその所領が安堵された。
朱印地・黒印地は寺社の私有地ではなく公領という扱いであるが、領内の租税は免除されており、収益は全て寺社のものとなった。 朱印地・黒印地からの収益だけで寺社の経営が成り立った例はほとんどなく、
多くは自ら開墾した土地、あるいは大名などから寄進された米や金銭で経営を維持していた。 長岡宮司 多武峰に降臨されたのは、生命の創造と結びを司る高御産巣日神(たかみむすびのかみ)とされ、
多武峰は皇室の先祖の神々を祀っていたようです。また水神も祀っていることが、権殿の西にある磐座と竜神社から分かります。
密談の場となったのも、まさに人を寄せ付けない聖地だからです。本殿の裏に位置する談い山(かたらいやま)は、
お椀をふせたような形をした神奈備(神体山)です。蘇我氏と言えども聖山の神は恐ろしかった。対して鎌足公は、
麓の大原に住んで代々この山を祀った神官・中臣氏の出ですから、裏山のような感覚で登ってゆけた。身を隠して話し合う場所としては最適でした。
もっとも中臣氏と言っても鎌足公は本家ではなく傍系の出ですから、あれほど上り詰めるには相当苦労されたことと思います。 藤原氏の前身である「中臣氏」は神祇に関わり、仏教伝来に際しては中臣鎌子、中臣勝海らの強硬な反対者を出している。
しかも鎌足は当時の重臣であり、その長男である人物[注釈 2]が出家するというのは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においてもなかった
前代未聞の事態であった[注釈 3]。 これに関しては定恵の出生に関わる謎がある[注釈 4]、あるいは僧侶になった方が唐留学に優位であった、
鎌足が日本の外交責任者で当時は僧侶が外交使節として活動していたことと関係している等の意見があるが、未だ定説を見ない。 中世から近世にかけて、神が本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれる事が通常であった[1](「鹿島大明神」「香取大明神」など)。 ■名神は、神仏習合説による、神様の尊称です。つまり仏教側からのみた神様のことです。
■権現は、仏様が人々を救うため、仮の姿をとって現れることです。
つまり、どちらも同じようなものですが、権現には「人を救う」という目的があるのです。 ホンのひと昔、150年前、
日本には、おびただしい数の「ご神像」があったんですよ。
各神社に2~3体はあったらしいです。
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でも、明治時代の「廃仏毀釈運動」で、
たくさんの仏像と一緒に、ことごとく燃やされてしまったんです。
.
仏像は、護る人がいたので、何とか残ってますが、
神社にあったご神像は、99%燃やされたと聞きます。 吉田神道で神号として用いられる。
豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。
「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味である。
それに対し、仏教系の山王神道山王一実神道で神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味である。
徳川家康の「東照大権現」が有名である。 行成の孫である藤原伊房までは、代々公卿の地位に昇っていたが、伊房が大宰権帥時代に起こした遼との密貿易事件によって失脚して以後は、
四位もしくは五位止まりの中下級公家としての地位に止まり、入木道(書道)を家業・家学とすることで辛うじて公家社会に踏みとどまった。
だが、それも摂関家から登場した法性寺流が流行して後白河法皇の保護を受けるとその地位も揺らぐことになる。 藤原鎌足の墓 - 当社の背後にある御破裂山の山頂にある。 このように、興福寺とは主に領地を巡っての争いの上に抗争となり、最後は焼き討ちをされるという事件が多数起きている。 ばさらは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。婆娑羅など幾つかの漢字表記がある。 (1333年)3月、幕府北条氏は下野の足利高氏(後の尊氏)らを船上山討伐に派遣した。しかし高氏は幕府に反旗を翻し、
丹波国篠村(京都府亀岡市)で反転して京都の六波羅探題を攻略した。 しょうがねえな。理由をわかりやすくいうと戦後は間接統治。
植民地でも統治者の顔が見えなかったけど今進んでるのは直接統治。
まずは資本の直接統治から。次に政治行政を支配される。 戦後「間接統治されてきた」という自覚を持てない人間には
今起きてる資本の直接統治も、今後起きる政治行政の支配も
その事態の深刻さが自覚できない。
これまでの間接統治が続くだけとしか認識できないし、
もとより自分の頭で考える能力がないから。 日本が戦後どのように間接統治されてきたのかを
ほとんどの偉い人間が黙って隠してきた結果だよ。
いくら対処療法を提示したところでアメリカによる戦後の
間接統治がどれだけ酷いものだったかを自覚できないと
現在とこれからのことも自覚できない。 本来権威が何もない人間が、
アホにとっては面倒臭い上に百姓身分には他人事の歴史を
結構な量知らないと自覚はもてない。
アホが自覚できた時には完全に手遅れ。それが今だ。 売りつけられるってことはもう起きてるけどあらゆる物の値段が上がるということだ。 たぶんアホが気づくのは物価が上がり、それに土地を中国人に買い占められて
家賃が住めないレベルで上がってからだろう。都市部からは追い出される。 すでに日本人の名前で日本人の顔してるけど
実は中国人で中国人のスパイってのがゴロゴロいるんだよ。
何十年も前から日本社会に浸透してきた。 そういうことを感じるのは理屈でなく勘。
それに感じて問題意識を持つことが百姓にはできない。 いちばん自覚がないのはただでさえ少ないそれに反抗する人間が
そう遠くない未来に人材が完全に枯渇するってことだ。
精神論だけで酷使してきたからな。 守らないといけない人間を守らず、
守る価値のない人間に媚びへつらってきたからな。 あと地味に問題なのは京都より東の人間が言うと
何を言ってもむずかしくなる。それは無理だろうと。
西の人間が言うとなんとなくできそうというか
普通のことだろう?という気持ちになる。
その差は大きい。 おなじ難しいことでもな、西と東じゃ人間の育ちに差が出るってことだ。
東の人間はそれだけで弱体化の原因なんだよ。
己をでかく立派に装うのが身に染みてるから何事も難しく感じさせる。 女の人が自覚した時は本当の終わりじゃないかな。
もとより脳内少女マンガでこの世は自分が輝いて楽しむ舞台!
っていう今だけ金だけ自分だけの権化なわけだから。
そいつが自覚できる時がきたらそれが手遅れの時だ。 いままで散々でかい口と態度取ってきたんだから
ばしっと死んでみせてくれるだろう。
戦争に負けて死にたくなくて米兵の便所になった連中がねえ。 維新をやったのは西日本の人間が多いわけだけど、
その根底にあるのは立派な哲学思想とか武士道だとかいうものじゃないだろう。
もちろんそれもあるだろうけど本当の心の奥底にあるのはそれをやりたいという熱だ。
何か暴れたいというようなそういう熱。
その熱を冷やすことばっかやるんだよ東の猿は。 その熱を爆発させるためにいざとなったら死を恐れないとか、
あれやこれやの教えがあるんだろう。
教えがあってその教えの先に熱が生まれるんじゃなくてな。 警察が完全に中国人に支配されたら終わりだな。
何が起きても警察は出動しなくなる。 安倍元総理暗殺はそういうことだが自分が被害に遭うまでわからんだろう。 いまも実のところ外国人犯罪は多すぎて取り締まりが追いついてない状態のようだからな。
捜査して逮捕までに半年から数年掛かってるもんなあ。 こんなところで運営するしか人生の楽しみがない老人がいるからなあ。
楽しい老後になりそうだな。 聖徳太子「十七条憲法」を徹底解説。現代語訳を読んでみたい!
https://intojapanwaraku.com/culture/10397/
第十四条、羣臣百寮嫉妬あること無れ 訳文
「群臣や百寮は人をうらやみねたむことがあってはならない。自分が人をうらやめば、人もまた自分をうらやむ。
そのような嫉妬の憂いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分よりまさっていることを喜ばず、
才能が自分よりすぐれていることをねたむ。そんなことでは五百年たってひとりの賢人に出会うことも、
千年たってひとりの聖人が現れることも難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたらよいであろうか。」 訳文
「私心を去って公の事を行うのが臣たる者の道である。人に私心があれば他人に恨みの気持ちを起こさせる。
恨みの気持ちがあれば人々の気持ちは整わない。人々の気持ちが整わないことは私心をもって公務を妨げることであり、
恨みの気持ちが起これば制度に違反し法律を犯すことになる。
第一の章で上下の人々が相和し協調するようにといったのもこの気持ちからである。」 旧式のまどかに空目して少しウェヒヒヒと笑ってしまったw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています