金刀比羅宮が所蔵する歴史的価値の高い刀27点を展示「日本刀展~こんぴらさんの刀~」【香川・高松市】 [134367759]
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香川県の金刀比羅宮が所蔵する芸術的にも歴史的にも価値の高い刀などを集めた日本刀展が高松市で開かれています。
日本刀展~こんぴらさんの刀~は12月24日まで開かれています。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rsk/204236?display=1 僕の股間に付いてる名刀に招集が来なかったのは七不思議 coi********さん
2018/11/10 8:57
鍛冶屋です、折り返し鍛錬の回数を増やしらちみつな肌になります 研磨時に肌が出にくい様酸化クロムでこすると
ピカピカになります 無鍛えと同じ外観ですね 地景は無いですが沸 匂いは出ます
ちなみに完全に鏡肌はなく鏡に近いが正解で無鍛えでも緻密な肌はあります 日本刀の地金の最高峰は梨子地肌であり、梨子地肌は古刀にしか存在しない。
私の知る限り南北朝期の刀まで。
それでいて梨子地肌を打った刀工は数える程度しか存在しないのだ。
それほどまでに難しく、相当な鍛錬技術を必要とした事は容易に想像できるだろう。 階段がすげえと聞いてたけど全然だったわ
普通に走って本殿まで行ける 室町以降、地金の詰みは劣化する一方で村正、之定、忠吉の様な例外を除けば
時代が下ると共に地金の質は悪くなっていく。
理由は簡単。
良質な鉄は全て取りつくされてしまったから。
優れた鍛錬技術があるのに質の落ちた鉄ではその技術が十分に発揮できなかった。
その時の鉄質に合わせた製法で刀を打つしかなく、本当の製法は日の目を見ることなくそのまま技術は衰退。
真の伝統製法は受け継がれないまま時代は下っていったというわけだ。 倉、南北朝、室町の刀を並べてみると鉄の色が違う事に気付く。
それは鉄質が違うからなのだ。 そして、まったく折り返し鍛錬を行っていない刀は現代刀にも存在するのだ・・・
これ、本当は日本刀って言えない代物なんだけど
とある流派の先生が刀鍛冶ではなく鉄工屋さんに頼むんです。
一本10万円くらいで日本刀の形に鉄を加工してもらうんです。
で、コイツをグラインダーで適当に刃付けるんです。
そしてそれを弟子に30万とかで売りつけるんです。
昇段記念だ。そろそろ真剣を使いなさいと言って。
酷い話です。武道家の風上にも置けません。 一見すると何も無い様に見えるが、よく目を凝らしてもやっぱり地金がまったく確認できないステンレス肌。
そして、蛍光管の光を当てると丁子油が反射して七色に輝くのだ。 無地肌=変化の無い鏡の如き肌,過度の折り返し鍛錬による。新〃刀の特徴。 松田 例えば、『景光』という古い刀を、5倍から10倍のルーペで拡大して見ます。
すると、その刀の持っている肌模様がやや荒く見えてきます。そのとき、刀じたいにはちょっとした傷というか、
鍛接面のくっついていない部分が見えるのです。研ぎ上がると、それが非常に美しい地肌になってきます。 新刀から現代刀にかけて、傷はほとんどありませんが、鎌倉時代のものには結構あります。
一般に傷は良くないもの、傷のないものが良い刀だといわれていましたが、実は古刀にも傷はあるのです。 二つの傷の大きさを比べてみて、どこで合わせられるのかを考えていくと、
どうも下鍛えか上鍛えの間のちょっとしたことで地肌が出るのです。
傷は、もともと玉鋼の状態からあり、もっと大きな傷としてボツンボツンとあるのです。
それを満遍なく散らしていくことで、傷の大きさが調整されていくのです。 金比羅山ってイメージキャラがすごいんだよな
寺の偉い人の子供が書いた絵らしいんだが
「普通の子供が書いた絵を忖度して採用しました」感が強くて思わずグッズを買ってしまった 松田
昔は、弟子が向槌を叩きました。私などは、コバを出されて叩くと、細いので狙うのが大変で、
外したりしたものです。本当はそのまま叩いていく方が、叩く側も楽だし、仕事も速くなります。
妙に仕事をきれいにしようという思いで横に伸ばしていくと、時間も長くかかるし、脱炭も進みます。
だから、叩きっぱなしにする必要があります。ただ、そうすると横に広がってしまいます。
だから縦に切らなければなりません。それで、縦に切ると、今度は細長くなるから横に切る。
それは昔から「十文字鍛え」と呼ばれてきたやり方です。
向槌を叩くのは、そういった意味があったと私は確信しています。コバを叩くと、鍛錬の時間が長くなりすぎてしまうのです。 向鎚
機械ハンマーの無い時代、先手が使った向槌。
野鍛冶さんだと奥様が勤められることも多かったようですね。 金毘羅山行ったことあるけどあんなとこにも菅原道真の神社あるのな
どんなけ日本怨んどふねん しゅらしゅしゅしゅ
金比羅山行くと
これとうどんしか記憶に残らない 日本古来の和ヤスリ(和ヤスリ)と現代のヤスリ(機械ヤスリ)の違い 明治末期から手製の和ヤスリが使われなくなり、
現在に至るまで機械製のヤスリによって中心仕立てが行なわれております。
これが所謂、機械ヤスリであり、以前の手製の和ヤスリは現在ではまず見ることはできません。
機械ヤスリと和ヤスリの大きな違いは、機械ヤスリ目には刀工による違いがほとんどないことです。 その結果同じものを入手することも容易であり、偽造防止も困難です。その為、
昭和初期の関の刀などでは、刻印を使うことで追加的に製作元を明らかにしておりました。 さて、室町時代以降はすべて数多くの実作があると言っていいのですが、南北朝時代以前は五ヶ伝本国でも
極少数の実作しかない人が沢山います。それは山城国では来一門以外のすべての刀工、大和国ではほとんどが無銘で、
相模国ではすべての刀工が、また美濃国も相模国同様です。極論すれば備前国以外は作刀が相当に少なかった、
または使われて残らなかったと言えます。さらに天国、光世、宗近、長円、等にいたってはほとんど存在が神話じみています。 南北朝期、足利尊氏に仕えたと伝えられる本阿彌妙本を祖とする本阿彌家が主に時の権力者の刀剣研磨、
鑑定を司り、九代本阿彌光徳の時代に差し込み砥ぎ研磨法、刀剣鑑定法を確立した。 本阿弥成重(ほんあみなりしげ)
本阿弥分家の光意系15代当主
平十郎
本名は江口倉次郎。
養子として本阿弥成応の後を継ぐ。
通称は平十郎。
砥ぎの名手として知られ、金肌拭い法を発案した近代研磨の創始者。
本阿弥宗家の没落に伴い折紙台帳を手に入れている。
明治15年(1882年)7月16日没 本阿弥日州(にっしゅう)
1908年(明治31年)、研磨・鑑定を業とする平井千葉の長男として生まれる。
平井千葉は明治から大正まで活躍し名人と謳われた。
本名は猛夫。
15歳で本阿弥琳雅に師事。
19歳で養子となり、光意系本阿弥家17代を継ぐ。 本阿彌琳雅に子がなかったので、先生(杉山茂丸)と同じく国士内田良平先生とが仲人となって、
その高弟平井千葉の長男猛夫を養嗣子として本阿弥家に入れ、千葉と猛夫の両人に研磨の秘伝を伝授させたことも、
先生なくしてはのことであった。
この伝授の席には先生が立ち会われたそうであるが、秘伝といっても「誰にでもできる簡単なことで、
ただ誰も気がつかないまでのことだ」とおっしゃったそうである。 杉山茂丸
龍造寺隆信の長子、龍造寺龍丸が家臣に伴われ黒田長政の元で庇護され、
播州の儒者杉山如庵の娘を娶ることとなった。この時長政手づから延寿国時の刀を下賜し、
杉山三郎左衛門誠隆と名乗ったという。この経緯については「百魔」にて詳細に語られている。
長男は作家の夢野久作(杉山直樹)
元治元年(1864年)に福岡藩士・杉山三郎平の長男として生まれる。 明治13年(1880年)16歳の時に家督を相続し、諸国巡査の旅立っている。この時の様子が長男夢野久作の文章に出てくる。
父は十六の年に、お祖父様を説伏せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌って
いい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。
白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈なる生存競争、
血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子が猛獣の檻の中に
ヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍の惨毒から救い出すためには、
渺たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、
御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」 東京へ出ると、山岡鉄舟の門人となりさらに後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。
滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)には熊本の佐々友房から旅費を借りて上京し、
伊藤博文を「悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁」と目してその暗殺を企て、
山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、お互い国家のために身を大事にと逆に説伏されて断念する。
キタムラさん
東京国立博物館一緒に行きませんか
ワイ高田馬場住みなんですよ
在銘の綾小路見に行きましょうや 舞妓ちゃんとするこんぴらふねふねはすごく良かった! 刀って人殺しの道具ガーとかそっち系の人に絡まれないの? 本阿弥は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする。
本阿弥三郎兵衛家
菅原姓を称し、家紋は「梅紋」を用いる
古くより「ほんなみ」と訛って発音する 親に愛されずネットがないと孤独で死ぬ奴がストーカーになる。ざまあ。 五条 高長(ごじょう たかなが)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。
菅原高長・高辻高長とも。参議・菅原為長の子。官位は従二位・式部大輔。五条家の祖。 本阿弥の始祖妙本、諱は長春、實は従二位五條高長老年の庶子なるも、高長嗣子長經の子秀長の弟と称す。
日静上人(尊氏叔父)に帰依し薙髪して妙本阿彌佛といふ、後、子孫其上下の二字を省きて本阿彌氏を冒せり。 日静(にちじょう)、父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、
姉の上杉清子が征夷大将軍足利尊氏の生母にあたる。 同朋衆(どうぼうしゅう)
室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
阿弥衆、御坊主衆とも。 一遍上人の起した時衆教団に芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。時衆における遊行は、
室町幕府から関所自由通過を許され、さらに時衆に加わる手続きも簡単だったため芸能を生活の手段とする人々が
時衆集団に加わるようになる。 五条家
代々朝廷主催の相撲節会においては相撲司としてその運営を取り仕切ったことや、
野見宿禰の子孫ということもあり、紀伝道のみならず相撲の司家として鎌倉時代以来君臨してきた。 しかし、相撲の司家としての五条家の名声は、熊本藩主・細川家の家臣である
13代吉田司家当主吉田追風が積極的な相撲興行を展開し、
江戸相撲において横綱免許を発給するようになってから失墜することとなる。 江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19世吉田追風は「横綱」を考案し
1789年(寛政元年)11月、谷風梶之助・小野川喜三郎に横綱を免許した。
その伝達式の後、両力士は太刀持ちと露払いを1人ずつ従える現代と同じ形の横綱土俵入りを披露。
1791年に上覧相撲が予定されていたこともあって、19代吉田追風は派手なデモンストレーションとして
横綱土俵入りを企画したが、これがたちまち江戸中で大評判となった[1]。 1791年(寛政3年)および1794年(寛政6年)に、11代将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、
武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。 1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、翌1828年(文政11年)正月、
江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、司家としての権威を固めた。
同年2月には阿武松緑之助に横綱免許を与えたことにより、事実上ここに横綱が制度化した。
また、行司の最高位である立行司の免許も吉田司家が発行していた。 起源
志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ
初代の吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗る。
元来、京都の二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていた。
その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。
以来、熊本県熊本市に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたという。 千阿弥
千利休の祖父(『千利休由緒書』)で、子に堺の有力町衆である田中与兵衛(利休実父)がいる。
足利義政に仕えて同朋衆を務めた。応仁の乱の際、敵方に内通したとの疑いをかけられて逃亡し、
戦災を避けるため、堺へ移住したという。 会所の発達は、寝殿造りから書院造りへの変遷を促すこととなり、さらに座敷飾りの場として床の間が出現し、
「唐物」と呼ばれた絵画、墨跡、文房具、法具などが唐物数寄として発達していく。 刀は中の刃だけ飾られてること多いけど個人的にやっぱ柄とか鍔着いた状態が好きですわ 今は機械式のハンマーが出ているから、日本刀製造に相槌を打つ人は必要無いと思う。
むしろ、原材料と作り方(鍛造や火入れや冷却)の方が大事だと思う。 剣道形に残っている脇構え、八相の構え。 脇構えは、相手に刀の長さを察知されないようにした構えだ。 ある、剣道形講習会の太刀の形6本目。
相手の打ってきた小手を小さくすりあげて小手を打つ箇所で、相手の先生が、「そこは、大きく打たなければ。」と言われた。そうだったかなと思いながら、大きく打つように改めた。
家に帰って解説書を読むと、「小さく半円を描く気持ちで・・・」と書いてあった。
気持ちには違いないが、大きく打てとは書いてない。
近頃の剣道は、画一化されて面白くないということを聞く。
「こうなければならない、ああなければならない。」という指導がなされているからだ。
これって、正しいことなのかと、この剣道形の講習会の経験から思い当たった。
画一化された剣道だから、味がなくなっているのではないか?
全日本選手権は観ないと言う人もいる。味がなく、面白くないからだそうだ。
戦前の剣道は、基本は同じだが、応用面で、色々な剣風があった。
長年、精進してきた、それぞれの剣風は、成熟した時には、それぞれ独特の味を出していた。
https://plaza.rakuten.co.jp/abe0731/diary/200805030000/ 駄目押し
もう一度書いておきますが、刀を作るには「何が何でも刀を作りたいと云う執念」と、溢れるような刀に対する情熱が必要です。
よほどの覚悟がない限り刀鍛冶になることをお勧めはしません。この仕事は、自分の周りの人に迷惑をかけることを
気にしていては出来ない仕事である事だけは事実です。何が何でも刀を作りたいという執念と、丈夫な体が有れば何とかなりますが、
つまらないプライドや世間体を気にする心は決心を鈍らせますから、捨てる必要が有ると思います。ひらったく言えば頭を丸めて
出家するぐらいの気持ちが必要です。貴方は大丈夫ですか? 真鍋純平鍛刀場
http://www.eonet.ne.jp/~sumihira/index.html これらは元の材料が不均質 であったり、わずかな不純物が混じっていたりするために現れます。
現在の鉄と異なり、言わば天然素 材とも言える和鉄ならではの不思議な模様です。 鉄はよく精錬する程綺麗になりますが、反面、個性がなくなり面白味に欠けてきます。
よく精錬された玉鋼で造られた江戸時代の刀に比べて、鎌倉時代の刀はどれも、とても個性的な地鉄をしています。
私の所ではその古い時代の地鉄を再現するべく、玉鋼を使わず自分の所で 「たたら」を行い、鉄を造っています。 山砂鉄(出雲や千種)と木炭を使い自作の『たたら炉』で氷目銑(こおりめずく)を吹き、
下げ場で蜂目銑(はちめずく)に脱炭させ、本場で包丁鉄に仕上げます。
通常の包丁鉄は炭素量が 0.1 %程度ですが、刀には0.3 %の鉄が必要なのです。 鋼材造り・鍛錬 注:古刀など古い時代の刀は、はたしてこの様な段階を踏んで作刀したかは、甚だ疑問です。
現存する古刀と新刀を見比べると、古刀の地鉄は、自然に地鉄の変化が現われているのに対し、新刀の地鉄はいかにも作られた様な
地鉄の変化が目につきます。
おそらく古刀は、材料の地鉄自体が不均質で、その地鉄に必要以上に鍛錬を加えずに刀にしたため、あの様な自然な変化に富む地鉄
が出来たのではないかと思われます。 造り込み 注:古刀などの特に古い時代の刀は、総てこの様な造り込みをしたのか甚だ疑問です。
古い刀でも明かに芯鉄と思われる地鉄が刀の表面に顔をのぞかいて(ママ)いる場合もありますが、全てがそうではありません。
そもそも芯鉄を入れるのは、刀が使用中に折れるのを防ぐのが目的です。
ところが古い時代の刀の地鉄は総体に柔らかく、そういう目的で芯鉄を入れる必要はあまりありません。
どちらかというと、焼き入れで刀全体の剛性を高める工夫がしてある物が有るぐらいです。
刀が折れるのを防ぐために芯鉄を入れると云うのは、おそらく硬い玉鋼を使うようになって、刀が折れる心配が出てきた、新刀以降
の工夫ではないでしょうか。』 (以上原文から必要部分のみ引用、字句は原文のまま。原文は推奨リンクよりご覧下さい) 慶長の役後、「焼き物」後進国だった山口、九州の大名が多くの朝鮮陶工を連行し、
計画的に唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、その他で窯業(ようぎょう)を開始した。
それらが在来の日本の陶芸に様々な影響を与えた。
それまでは自然降灰(筆者注: 穴窯で焼成中に降りかかる灰)からの自然釉(ゆう)であったが、
役以降、人工釉薬を使用するようになった。
さらに、登り窯(がま)の導入により大量生産が可能となり、窯の効率の向上により高温での窯焚の時間が短縮され、
失敗が少なくなったが、非効率的な穴窯で長時間の焼成により表現できていた自然降灰釉の雰囲気や釉肌が表現出来なくなった。
つまり、桃山期に焼かれていた焼き物が焼けなくなったのだ。
その理由は窯(かま)の性能の向上と、人工釉薬を利用することによるものであった。 「釉薬」という観点からみると、藁灰・粘土汁のガラス化する作用をうまく利用した方法だと考えられる。
これは、藁灰・粘土汁がガラス化し始める温度と、酸化鉄皮膜が溶け始める温度の合致性が生み出した独特の鍛接方法ではなかろうか。
鍛打されることで、ガラス化された酸化鉄は除去されるため、鍛打回数が増えるごとに刀に残される非金属介在物は小さく、且つ少な
くなる(3)。 古代の鉄には「ウスタイト系」(善玉)のノロが多く含まれ、このノロを多く含む鉄素材は粘土汁・藁灰を用いなくても折り返し鍛接
が可能である。
つまりこのようなノロを適量含む鉄が古刀期の鉄であり、鉄そのものに鍛接剤が含まれていたといえよう。 つまりこのようなノロを適量含む鉄が古刀期の鉄であり、鉄そのものに鍛接剤が含まれていたといえよう。(「中世地鉄は銑鉄」参照)
このノロの効用は、元㈱安来製鋼所社長で古刀研究の第一人者と目されている工藤治人博士の「鉄滓を逃さないように鍛錬回数を少なくして低温で鍛える」という古刀に対する洞察とも一致している。
鍛造工程で藁灰・粘土汁を用いなければならなくなったのは、鉄素材に鍛接材となるものが含まれていないか、もしくは少なくなったからであろう。
これら鉄質の変化(多様な鉄の流通)の時期と、粘土汁・藁灰の組み合わせ利用の時期が、丁度この慶長期前後である。
鉄素材そのものの変化が鍛接剤を必要とするようになっていた。
逆説的には、鍛接剤の出現により、新たに出現した商業鋼の鉄が、ようやく刀に使用できるようになったと言える。 つまり、低温還元(1200℃以下)による海綿鉄には、もともと鍛接剤(介在物)が含まれるため、
鍛接剤(藁灰・粘土汁)無しで5~7回の折り返し鍛錬が可能とされている(7)。 藁灰には他の木灰などと比べて格段にガラス質(シリカ、Si)が多く含まれる。
しかし、木灰などの他の灰はガラス質が少ないだけでなく、1300℃には耐えられない。 鉱石系鉄素材から低温還元製錬を行い、ノロを多く含む海綿状の鉄を得ている。
この炉は直径約40cm、深さ20cm程度の炉(精錬炉及び鍛冶炉兼用)であり、得られた鉄塊から刀子を鍛錬している。
温度は平均1120℃程度であり、新刀期以降の固定観念で藁灰・粘土汁を用いているが、藁灰が作用する1300℃には
達していないにもかかわらず鍛接できている。
ここで用いられた鉄素材はノロを多く含む鉄であった。 慶長期前後の商業鋼は、ノロをほとんど含まないため、藁灰・粘土汁を用いた高温での「積み沸かし」や
「卸鉄」という2次加工によって、結果的に古代の鉄に近づけようとしたのではなかろうか。 8.まとめ 8
以上のことから、慶長期前後に鉄質が変化して、従来工法で鍛接出来なくなった鉄を、
丁度文禄慶長の役前後にもたらされた藁灰・粘土汁を介在させる新たな工法を用いることで、
新たに出現した鉄素材で作刀できる環境ができた。
古刀作刀の秘伝書が見つからないのは、古刀期には、簡単に鍛錬できた鉄であったために、
あえて文書に残す必要性もなければ隠す必要性もなかったと推量する。その為に新たな工法の広がりとともに失伝・自然消滅した。
名刀匠・堀川国広は新素鉄(千草鋼、出羽鋼)を用い、新しい鍛え方を工夫して新刀を作った。
新しい鍛え方とは、それまで使っていた鉄とは違い、従来の作刀法では困難なノロの少ない鉄でも、
藁灰・粘土汁を高温で用いることにより鍛接できるようになったという善後策的な工法であったと考えられる。 南北朝の内乱の中で上杉氏が八幡荘を奪って守護領[3]に編入[4]し、以降守護・上杉氏の上野国経営の中心となった。
戦国時代後期に入ると、武田氏が侵入して同地を支配している。 里見義俊
田中義清
田中千阿弥
田中与兵衛
(田中与四郎) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています