日本書紀『白村江の戦いで負けた後に、2000人の中国人が来ました。』👈これ占領軍だろ [237216734]
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なんで来たのか理由が全然記述されてないけど特に意味もなく2000人なんて送ってくるわけねえよな
後の平城京にいた五位以上の貴族皇族全員合わせても1200人程度だから相当な数だよ
>又大唐遣郭務悰等二千餘人。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_27.html >>278
事実上の百済王家による倭国乗っ取りだわな 「万葉集」に描かれた額田王・大海人皇子・天智天皇のスキャンダル >>233
古代韓国史と古代日本史は同じなんだよ
同じ血を分けた異母兄弟 >>280
その時代を日本書紀で描写しちゃうと
藤原家も外国人だとモロバレしちゃうので
その時期は不自然に隠蔽して
ホラ神話にすり替えているのも、
これまた事実ではあるんよ
日本会議がしきりに中世以降は連呼しまくるのに
縄文時代だけは避けまくってきたのは
そういうこと >>234
直轄地ではなかったけど
卑弥呼を大守として委任していた
そうでなければやすやすと魏と何度も行き来できるわけがない
文字もないのに >>285
だって日本も古代は別の国だから
中世の直前、7世紀の終わり、
8世紀から正式な歴史が始まった ホント現在の韓国北朝鮮が存在してるのは中国の失態。
あんな半島すら自国領土として専有できなかったのかと。
モンゴルとかチベットのように。
そしたら日本にとって敵は一国で済んだのに 魏志倭人伝は、卑弥呼の周囲が顔に入れ墨していたって言うんだから縄文人だろ
もし卑弥呼が近畿なら、卑弥呼の時代から400年の間に弥生人によるクーデターがあったことになる
も卑弥呼が九州なら卑弥呼の時代は分裂国家だったことになる
なので卑弥呼は大化の改新のときに日本史から抹消されてたが中国様が記録していたと >>235
清は眠れる獅子とか言われてたけど
実際は奇襲とはいえ日本ごときにやられた猫だったでしょ >>284
238年に公孫氏を倒した魏が朝鮮半島を直轄地として支配した
邪馬台国は238年からすぐさま何度も魏に朝貢をくりかえして敵ではないことをアピールし
倭国まで攻めないでもらうよう貢いでただけ
半島が魏の直轄地であり、倭国は朝貢していたんだから邪馬台国も魏の都には行きやすい状態 >>290
Good.
日本書紀では天皇はその頃何をしてたって書いてあったと思いますか? >>1
当時の平城京周辺の人口が10万人なのに
例え2千人が占領軍だったとしてその程度で何ができるとw
だから帰ったんだろ 白村江の戦い(663年)で敗れた国家は、進駐してきた支那軍(藤原政権)とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系(南朝鮮系。のちに大和朝廷で貴族化する)によって支配されることになった。
白村江の戦いの時期はざっくり言って大化の改新のころである。 卑弥呼の存在はどっちにしても万世一系を否定するものなので、
歴史から抹消したし今の宮内庁もそれを受けて
卑弥呼の問題に口を閉ざす >>299
卑弥呼って九州説で決まりってこと?
そもそも卑弥呼って何者なの? >>245
中国人がカタパルト作ってた時代にこちらはどんぐり拾って鍋パーティーだからな 敗北で日本式じゃダメだと思って唐から招き入れたお雇い外国人では? >>247
あえて海のない場所に隠れ住んだ意味を考えてみてほしい >>300
宇佐神宮の比売大神が卑弥呼
山門の支配者であった筑紫の君磐井は、
現在の福岡市の糟屋に屯倉を持っていた。
邪馬台国の卑弥呼が一大率を置いて伊都国を支配していた構図と良く似ている。
古代の山門の支配者には、北部九州を支配するだけの力があったのは間違いない。
邪馬台国最後(邪馬台後身)の王が磐井 卑弥呼が亡くなり、殉葬100人。
人の生贄は殷の河伯信仰から来ている可能性があるな。
殷は更に亀トもある。
卑弥呼の鬼道、縄文系と殷系のミックスじゃないかな。
鳥居、烏帽子、鳥の格好で舞う、鐸、鈴を鳴らす、現代の神道とはあまり似てない。 >>56
横からだけど
裏社会がやりたい放題やって、表はつじつま合わせしたり皆殺しにしてなかったことにしたりが普通。 >>45
神武天皇の頃は、日本の1年は183日しかなかった。1年で2歳年を取るので、そのころの100歳と言えば今でいう500歳の事。長生きではあるけどごく普通。 >>307
じゃあ皇紀はデタラメだな
皇紀2600年 皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(きげん=歴史上の年数を数える出発点となる年。 紀年法)で、1872(明治5)年に明治政府が、神武(じんむ)天皇が即位した年を、記紀(古事記と日本書紀)の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とした。 >>308
やめとけ
カルトはダブスタが定番だから
理攻めじゃ開きなおるだけ 直径の子孫なのに天に唾を吐くような真似するんだな
天智、天武
大きく出た名前だなあいきなり 神武もそうだけど起源とかのフェチなんかね
自称神、みたいな 天皇諡号についての森鴎外の帝謚考と言う論説に
周王朝の紂王が自殺したときに身に付けていたのが、「天智玉」という宝玉だった。
紂王の死後、天智玉を手に入れたのが武王で、それが「天智」「天武」の諡号の由来である、ということが書かれている >>314
文字を持たないはずの日本人がよく周王朝なんて
知ってたね
始皇帝とかならまだわかるけど
外国人あるあるかもね >>315
漢字は伝わってるだろ
片部遺跡の 平成7年12月、三重県一志郡嬉野町の片部遺跡から4世紀前半の土器が出土、口縁部に「田」とみられる約2.5cm四方の文学が見つかった。 町教委などは8年1月に「日本で書かれた最古の文字」と発表したが、「記号ではないか」「虫という文学では」なとと異論も出ている >>304
へ~。
じゃ、「邪馬台国」は「山門の国」ってことなのね。
私、奈良県民なんだけどね 少し前に巻向で「桃の種」が出てきたもんだから機内説組は
うぉー!ってなったんですけど、なんなんでしょうね。 >>317
桃の種は吉備の遺跡でも大量に出てるけど
誰も「卑弥呼の鬼道の証拠だ」何て言わないからね
まぁ畿内説じゃないと困る奴らが都合よくマスコミ使って騒いで発掘資金集めてるだけの話 >>319
福岡に住んでた頃は
「邪馬台国は奈良県だろ」と思ってたけど、奈良に住んで色々調べたら「怪しいな…」と思い始めた。
日本書紀が改竄されてるとして、天皇家ってのは筑紫にあった天皇家の分家ってこと? ある時期を境に女性天皇は絶滅したでしょ
その時期に民族が入れ替わったわけ >>36
この部分が根拠になって、この来日は戦後の捕虜交換の交渉と言われてる。
日本からの物資が端数になっているのは、捕虜や受取品の品目と数に合わせたからとされる。 そのころ2000なんて数を数えられたのだろうか
数えられたとしてどうやって記録できたのだろ
千とか百とか漢字でなら記録できたのかな >>320
書紀は天武が編纂開始で死んだあと藤原が書き換えだと思う
642年に百済国内で政変があり、百済義慈王により、百済武王一族が島流しになります
この時、「百済武王の息子である、翹岐王が列島に亡命してきます、これが「中大兄皇子、天智」です
天智は乙巳の変にも、白村江にも関与していません。
乙巳の変の時は、亡命直後で、そんな力がまだありません
白村江は、成り行きを近畿地方で静観していたものと思われます。 九州倭国サイド、筑紫君薩野馬(後の天武)は
百済―高句麗側に組し、660年の百済の滅亡にともなって、百済の復国運動と、高句麗の支援の為に、白村江に軍隊を派遣し大打撃を受け
筑紫において唐側による戦後処理で大混乱に陥ります。
この混乱の最中に天智が近江に滅亡した百済からの王族や遺民を結集して政権を樹立します
「九州倭国に対する天智の乱」です
672年に唐の捕虜となっていた九州倭国王筑紫君薩野馬が帰還してきます
そして弟の大海人皇子と息子の高市皇子に天智近江朝の討伐を指示します、これが壬申の乱で一旦「天智―大友」の皇統が途絶えます
その後「九州倭国」は、九州から新益京(藤原京)に遷都してきます
九州倭国側は、政治運営において白村江で大打撃を受けていますので、官僚が不足していて政略的な婚姻関係により
天智系を使わなくてはなりませんでした
これが奈良時期を通しての九州倭国系と天智ー藤原系の暗闘の始まりで血統が途絶えたあと天智系の復活になります Good.
後に馬脚を顕し実権を握る
天皇家をアゴで使っていた黒幕鎌足についてももう一声あればperfect. >>325
亡命を受け入れた朝鮮人に乗っ取られるなんて日本の歴史は悲し過ぎる
しかも、その痕跡を消されて日本人のフリまでされて、今も藤原氏の子孫は上級国民だし
日本の歴史がいつもあと一歩の所で必ず暗転し、上手く行かない、必ず悪い方向に転がるのは藤原氏の血のせいだと思った >>282
重なる部分は古墳人の部分だけだろ
古墳人も漢人その他ごちゃまぜで韓人だけではない
縄文人は古モンゴロイド
弥生人(日本語話者)は韓人が朝鮮半島に南下する遥か前から
朝鮮半島にいた先住民族 >>326
逆に考えるんだ
あげちゃってもいいさ、と
そう悪いことばかりでもありませんよ
今の私たちには緑の木々が見える
赤い薔薇の花々も
私たちと、あなた方のために咲いているんだ
そしてひとり思うんだ
なんて素晴らしい世界なんだと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています