隋の煬帝って唐が事さらに暴君と書いてあるだけで事実はそうでもなかったらしいね。 [194767121]
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● 中国史に名を残す「暴君」
世界史の魅力はなんといっても、登場する歴史人物たちが多彩なことだろう。世界史を学ぶことで、
時代だけではなく国境をも超えて、個性的な歴史人物の生き様に触れることができる。
といっても、決して英雄ばかりが歴史を動かすわけではない。独裁者や暴君たちもまた
世界史では注目される。隋の皇帝である煬帝(ようだい)も、その一人である。
『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』での解説にもあるように、中世の中国は「黄金時代」と呼ばれていた。
220年に漢王朝が滅亡すると、隋が王朝となり、約370年間もの間、分裂していた南北中国の統一に成功している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/25475ea0b0a15e5ee5e6c6fd6edc505963f2dcac 東京マスコミは
東京を地上の楽園と宣伝してるが
実際の東京はただのスラムだもんな 中国には歴史改竄の伝統があって前王朝の全否定は必須 クーデターで自害拒否して
左右からロープ引っ張って首締められて殺されたんだっけ 事実はどうだか知らんが、時の政権を阿るために前の政権を悪魔化するのはチャイナあるある 歴史は勝者が記すからな
家康なんて脱糞したなんて言われてるけどあれは秀カスの陰謀と明治政府の印象操作だからな
もっと家康は脱糞してないって広めなきゃいけない 土方工事をさせて運河をこしらえるってムチャクチャな暴君じゃないとできんは。 読み方が一人だけ特殊なのは限りなく皇帝と認められねいないからって聞いたけど >>12
唐「我らが悪人を滅ぼしたんじゃ~我々が皇帝やってええじゃろ?」 >>10
あれ自分で言ってて絵にまで書かせてるんだぞ?
お前らアホだろw 中国に限らずどの国だって少なからずそんなもんだろう。
日本で政権変わっても前政権を攻撃してるくらいだし。 中国人は三国志の頃からまるで進歩してないよ
アイツらは中国に閉じ込めて中国人同士で潰し合いさせるのが正解 始皇帝だって俺らみたいな顔じゃなくてアラブ顔だしな。 煬帝が暴君なんて印象はないけど
中国ではそうなのかな
隋が短命で終わったのは何か評判が良くなかったからかもしれないけど
南北朝時代を日本の戦国時代に喩えるなら、隋が豊臣秀吉で唐が江戸幕府みたいな、
乱世から安定政権への過渡期だっただけかもしれないじゃん?
中国史で次政権から暴君にされた君主と言えば
夏の桀王や殷の紂王だよね >>11
その運河は重要な交通インフラとして後世まで使われたが? 漢が滅びて隋ってまた随分乱暴な教科書だな
五胡十六国とか南北朝はどこいったよ
所詮アメ公、猿の歴史なんてテキトーでええやろの精神か。 >>25
晋「一応私統一したんですが…ノーカンですか… 高句麗に負けたから暴君設定なんだと思うわ
負けた責任を全部ひとりにかぶせた >>22
暴君の印象がないから「煬帝」などと言う字を当てて、唐が暴君に仕立て上げているんだ
王羲之の蘭亭序を自分の墓に埋めさせて、この世から永久に消滅させた時点で唐の李世民の方がよほど暴君だと思う >>20
小早川が寝返らずにいて東軍の横っ腹に突撃 >>27
すまん素で抜けてたわ…
というかその前に三国時代もあるよな 隋の帝室煬と唐の帝室李は元々親戚だし
煬や李を名乗ってるが元々北方の騎馬民族 >>7
40年間、没落しまくってるのはジャップだぞ、ネトウヨ
現実をみるんだ
そして死ねよキチガイ馬鹿ネトウヨ 暴君であるけど名君でもあるよ
改革的政策を強く実行するには独裁力が高くないといかんから
秦の始皇帝もそう >>34
李の方の祖先は李信でしょ
キングダム的に >>22
唐も何気にgdgdだけどね
一度女帝に乗っ取られたり、黄金時代に安禄山の乱で内戦時代に突入したりで 人口が増えたから戦争して減らすとか正しいじゃん
かわいそう教の現代には暴君だが
ネロとかに比べたら天使 君主本人が暴君より、外戚(もしくは后本人)や宦官の専横の方が多いイメージ 秦と隋は、似ている
後に興る長期政権の礎を築き、自らは短期で消えていく 東昏候とか海遼庶人とかと比べると名君要素があるだけ煬帝は上
五胡十六国南北朝とか見てるとやばいぐらい暴君が出てくるからな >>20
これ小早川が裏切らなかったら徳川結構ヤバいだろ
現地を見てないが西軍側がなだらかな斜面の上側みたいだし、小早川が動かなければ勢いに押されて東軍じり貧だったんじゃないか? 天命思想があり、天から託されて世界の中心を支配するという考え方
古い王朝が滅ぶ時はボロクソに
新しい王朝ができる時は素晴らしい名君と書かれる 煬帝は眼が蒼いと言われたが、民族はトルコ系
歴代王朝は漢族の方がむしろ少ない
漢族も一度滅亡しかかり、今の漢族と繋がるか怪しい 高句麗てなにげにすごいな
嘘つきまくりで中国負かす
今の北朝鮮と同じw >>49
実際漢民族の国だと言えるのは、
漢・普・宋・明くらいだな。 >>51
宋も怪しいぞ
テュルク系の可能性がある
林羅山が劉備や超教員のような素性の怪しきものといってるしな 大阪の知事だった人も前任の知事をひたすら罵倒するもんな >>46
その原因を作った晋、司馬一族の罪は重い
まともな奴が一人としていなかったのは逆に凄い
あの司馬懿の子孫や親族なのに >>47
西軍も小早川が裏切ること確定わかってて
裏切ったときの抑えとして大谷と朽木とかを配置していた
流れで裏切った抑えの朽木とかが想定外だな >>55
賈充とかそっちの一族の方が問題だったんじゃね(´・ω・`) 後漢の丞相「魏王」として後漢の皇帝から実権を奪った曹操の息子の曹丕は
220年 後漢の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となった(魏の文帝)都は洛陽
曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると
226年 司馬懿は、曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させ
曹礼を即位させようとしていた公孫氏は激しく反発
233年 公孫氏は、呉から九錫を受け「燕王」となり
237年 韓と倭を掌握して玉璽を与え挙兵する
238年 曹叡は司馬懿に全権を託し4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じ公孫氏は滅亡
曹叡が病床に伏し、死期を悟った曹叡は、幼年8歳の皇太子の曹芳の補佐をすることを司馬懿と、皇族の曹爽に命じて崩御して
239年 司馬懿は魏の皇帝から実権を奪う
魏の皇帝から実権を奪った司馬懿の孫の司馬炎は、
265年 魏の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となった(晋の武帝)。都は洛陽におかれた
武帝は勢いに乗り、280年には江南の呉を滅ぼし、晋が中国を統一した >>56
五代の北側の世襲軍人って時点でかなり怪しいと思うよ
もちろん確定するような証拠は出ないと思うけど 元王朝の正当性を示す必要があるからね
正史とはそういうもの 純粋な中国人(漢民族)は晋までで
その後のヒャッハー時代と異民族漢化政策のおかげでごちゃ混ぜになり
調べようも無くなる
また都合の悪い歴史は棄損されるわけで
異民族出身なんて話も消されるわな 孔子は2m近い大男で一族皆デカかったらしいな。父親は軍人だったらしいし。
多分始皇帝と同じくトルコ系だろうな。 >>20
実際はそれぞれの兵力はもっと少なかったらしいな
ゆえに小早川が寝返った程度でも戦況がかき回される >>20
右の方にいた吉川毛利安国寺長束長宗我部をうまく使えてれば... >>1
唐が事、さらに…て読んで意味がわからなかった
「殊さら」だろ 煬帝って知らないけど隋ってことは聖徳太子に手紙で煽られた人? >>68
聖徳太子「日が出る所の君子が日が沈む所の君子に書をおくる」
煬帝「…野蛮人は礼儀を知らぬ。もう野蛮人の手紙は見せるな。」 清の正史ってとりあえず作られてたんだな
てっきり無いものかと >>71
民国編纂の清史と人民共和国編纂の清史(作成中)の
2つあるよ >>72
満州国はどういう位置づけにするのだろうか 唐「悪夢の隋帝国」
自民「悪夢の民主党」
完全に一致 >220年に漢王朝が滅亡すると、隋が王朝となり、約370年間もの間、分裂していた南北中国の統一に成功している。
このざっくり感よ
まあでも、そんなもんだよな >>74
王朝雇われ史家なみのいちゃもんなら「もういっべんくらいやらしてもらってても」いいんじゃないの?
でも国民は頑なに政権交代を拒んでるよね、これは厳然たる事実だしそれが示すものは至極シンプルだよ >>73
それは中国史(次の王朝が書く)の東夷伝とかに入る諸外国だろう >>22
シナは蛮族と漢族の交代制だからな
そこを知らないと歴史がわからなくなる >>63
元の時代に相当数の民族が滅ぼされてるからな
ここで文明の停滞が起きてもおかしくない 中国の歴史って後漢光武帝のような
なろう系チート主人公出してくるけど
あれ絶対脚色してるよな
諱が「光」「武」だから大変優れた実績残したんだろうけど 中共王朝の正史はどんな名前になるんだろうね
そろそろ命脈尽きて次の王朝に交代しても不思議じゃない >>60 つづく
しかしまもなく一族の内紛から八王の乱が起きて急速に衰退し、華北を五胡に奪われ
304年 漢王朝の姻戚である匈奴の武将「劉淵」が漢王と称して
漢王朝から皇帝の座を簒奪した司馬王朝を打倒し、漢帝国を再興するとして独立を宣言
311年 匈奴が都洛陽を制圧(永嘉の乱)
316年 匈奴に長安が陥落
司馬王朝は洛陽から、江南の建康の王族の司馬睿に移る
その後、宋→斉→梁→陳と続く江南の南朝は
589年 長安の北朝の隋に滅ぼされて滅亡し、中国は統一を回復する 遣隋使以降の日本の歴史も出鱈目
朝鮮半島からの侵略、征服がなかったことになってる 後漢の丞相「魏王」として後漢の皇帝から実権を奪った曹操の息子の曹丕は
220年 後漢の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となり(魏の文帝・都は洛陽)漢王朝は滅亡、曹王朝となる
曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると
226年 司馬懿は、曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させ
曹礼を即位させようとしていた公孫氏は激しく反発
233年 公孫氏は、呉から九錫を受け「燕王」となり
237年 韓と倭を掌握して玉璽を与え挙兵する
238年 曹叡は司馬懿に全権を託し4万余の兵を与え、公孫淵征伐を命じ公孫氏は滅亡
同時に司馬懿は倭王を、
公孫氏に掌握されて玉璽を与えられ、公孫淵征伐に参加しなかった北部九州の倭奴國から
公孫氏とはほぼ無関係であった奈良と出雲の連合国の邪馬台国に変更する 後漢の丞相「魏王」として後漢の皇帝から実権を奪った曹操の息子の曹丕は
220年 後漢の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となり(魏の文帝・都は洛陽)漢王朝は滅亡、曹王朝となる
そして曹丕(文帝)が病床で重体に陥ると司馬懿は
226年 曹叡(明帝)を皇太子に立てて皇帝に即位させる
すると、曹礼を即位させようとしていた公孫氏は激しく反発
233年 公孫氏は、呉から九錫を受け「燕王」となり
237年 韓と倭を掌握して玉璽を与え挙兵する
曹叡は司馬懿に全権を託し4万余の兵を与え
238年 公孫淵征伐を命じ公孫氏が滅亡させると
司馬懿は曹叡に
公孫氏に掌握されて玉璽を与えられ、公孫淵征伐に参加しなかった北部九州の倭奴國から
奈良と出雲の連合国の邪馬台国に
倭王を変更させる
曹叡が病床に伏し、死期を悟った曹叡は、幼年8歳の皇太子の曹芳の補佐をすることを司馬懿と、皇族の曹爽に命じて崩御して
239年 司馬懿は魏の皇帝から実権を奪う
魏の皇帝から実権を奪った司馬懿は
247年 公孫氏に掌握されて玉璽を与えられた韓を滅亡させて、朝鮮半島の直轄化を完了させて
司馬懿の孫の司馬炎は、
265年 魏の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となり(晋の武帝・都は洛陽)曹王朝は滅亡、司馬王朝となり
司馬炎(武帝)は勢いに乗り
280年には江南の呉を滅ぼし、司馬王朝(晋)が中国を統一した
しかしまもなく一族の内紛から八王の乱が起きて急速に衰退し、華北を五胡に奪われ
304年 漢王朝の姻戚である匈奴の武将「劉淵」が漢王と称して
漢王朝から皇帝の座を簒奪した司馬王朝を打倒し、漢帝国を再興するとして独立を宣言
311年 洛陽を制圧(永嘉の乱)
316年 長安を陥落させて
司馬王朝は洛陽から、江南の建康の王族の司馬睿に移り、これが南朝の始まりとなる
その後、宋→斉→梁→陳と続く江南の南朝は
589年 長安の北朝の隋に滅ぼされて滅亡し
中国は統一を回復する >>84
そうだね任那返して日本のだから
あと属国の百済も 『魏志』(倭人伝を含む)は
247年に公孫氏に掌握されて玉璽を与えられた韓を滅亡させて、朝鮮半島の直轄化を完了し
280年に江南の呉を滅ぼし、中国を統一した
司馬王朝(晋)が
297年に成立させたもので、言い伝えではなく【ほぼ実録】
そこには
【朝鮮半島東岸の】狗邪韓国から、絶海の孤島の對海國
對海國から【南に進んで】一大國
一大國から【南に進んで】末廬国
末廬国から【東南に進んで】伊都国
とある
しかしそれからわずか7年後の304年
漢王朝の姻戚である匈奴の武将「劉淵」が漢王と称して
漢王朝から皇帝の座を簒奪した司馬王朝を打倒し、漢帝国を再興するとして独立を宣言し
司馬王朝は洛陽から、江南の建康の王族の司馬睿に移って
そこから続く宋→斉→梁→陳と続く江南の南朝は、朝鮮半島の支配権を失う
すると奈良と出雲の連合国である邪馬台国は、江南の宋→斉→梁→陳には朝貢できなくなり
北部九州の倭奴國が、倭の五王として朝貢する 247年に公孫氏に掌握されて玉璽を与えられた韓を滅亡させて、朝鮮半島の直轄化を完了し
朝鮮半島を自由に使えた司馬王朝(西晋)は
帯方郡ー韓国-対海國-一大国-末廬国-伊都国-奴国-不弥国-投馬国を経て邪馬壱國
漢帝国を再興するとして独立を宣言した
漢王朝の姻戚である匈奴の武将「劉淵」に滅亡させられ
王族の司馬睿により再興された江南の司馬王朝(東晋)から続く宋→斉→梁→陳と続く南朝は、朝鮮半島を使えなかったから
帯方郡-一支国-末廬国-伊都国-奴国-不弥国ー投馬国を経て邪馬臺国 >>92
他国どころか
中原以外の所を辺境とか馬鹿にしていた
これはもはや思想的なもんだから気にしてはいけない 漢代の貴族は三国時代に没落し曹操が始めた九品官人法で新たな貴族層が形成されたって世界史で習ったろ
晋から南北朝はこの門閥貴族どもが王のクビをすげ替えてただけで動乱というほどの時代ではない
隋煬帝と唐太祖李淵は従兄弟どうしでその門閥貴族の一族
隋唐で王朝変わったつうても中身は殆ど変わってない >>94
漢の貴族がその後もずっと貴族だぞ
チングンやジュンイクの子孫なんかたくさんでてくんぞ 小野妹子とかいう口が達者な滋賀作に挑発されてブチ切れて凄まじい返書書いた奴だろ
帰りに立ち寄った百済で返書紛失しました!とか言って聖徳太子の面子を護ったという >>98
それはキングダムでやる予定
まあ暴君でないとその後の楚漢戦争の流れと辻褄が合わないけどね >>99
焚書坑儒はどうするんだろうね
これだけは避けられないよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています