元・稀勢の里の二所ノ関親方、茨城県稲敷郡阿見町で部屋開き。教派神道の施設のような建物 [292723191]
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大相撲の二所ノ関部屋が5日、茨城・阿見町で部屋開きを行った。
師匠の二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)は「自分の『城』ができたという感じです。この地から強い力士を輩出し、将来的には横綱、大関を輩出するために一生懸命精進したいです」と力を込めた。
昨年8月に田子ノ浦部屋から独立して荒磯部屋を創設。
同12月には所属する一門で伝統の名跡「二所ノ関」を襲名し、部屋名称も二所ノ関部屋に変わった。
つくば市に部屋を設け筑波大の土俵で稽古を行ってきたが、夏場所後の今月から茨城・阿見町に設けた新たな部屋でスタートを切った。
建物の敷地は1800坪。両国国技館をイメージした黄緑色の屋根が出迎え、2面の土俵、トレーニング室、外にはバスケットボールのゴールも備える充実ぶり。
二所ノ関親方は「天井も高く、入り口も広く、ドアも高い」と、力士が生活しやすい空間を完備したと胸を張る。
最寄り駅から10分程度の所にあり、付近には大型スーパーが立ち並ぶ立地の良さも特徴。
「非常に良い土地。運命的に出てきました」と喜びながら、詳しい総工費について尋ねられると「リンゴ何百万個ぐらいですか(笑)」とおどけて見せた。
同部屋の力士たちも、その環境の良さを絶賛。
幕下の友風(27)は「記者さんたちより、住む僕たちがびっくりしていますよ」と驚きを交えて語り、
「個室が多いんですよね。2人部屋の人が多いんですけど、そういう環境に横着しないのが二所ノ関部屋の力士たち」とより一層稽古に身が入った様子だった。
冷房の利いた部屋で快適に過ごしていると喜ぶ花房(19)は「相撲に完全に集中できる環境なので、頑張りたいです」と意気込んだ。
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202206050000563.html
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https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/img/202206050000563-w1300_3.jpg イバランドのあるとこか。
あそこどうなん?今度、6歳と2歳の娘を連れていこうかとおもぅてるんだが >>3
ポティロンの森の頃に何回か行ったけど楽しかったよ
今でも花火やってるか知らんけどもし行くなら花火の日がオススメ しかし立派な建物だな
数少ない日本人横綱だとタニマチの資本力もエグいほど集中するのか >>1
阿見で部屋やって場所始まったら両国でも通うの大変やろ めちゃくちゃ立派だな でも田舎だから出稽古大変そう 茨城の社長さん達から現ナマを出してもらえているんだろうけど
こんな田舎だと後継者に土地建物を譲る事も無いかもしれないから
自力でローン組んだりして部屋作ってたら大変だな 現役の時のイメージと違って
解説とかやらせると
よう喋るのな(´・ω・`) 元の二所ノ関親方(元大関若嶋津)は定年退職してどうするのけ?
病気とかしたからもう隠居するのかな
女将さんの高田みづえファンやったんやが 相撲場?の近くに部屋借りないとデブなんだから移動が面倒だろうし謎過ぎるわ >>1
お父さんカッコいいな。スーツが似合ってる。 立派な建物だな、どんだけ金かけたんだよ
つかそんな金どっから湧いて出てきたん パラディソ親方から二所ノ関とはまた凄い名跡手に入れたな >>28
元行司が作った部屋もあるで
式秀部屋と木瀬部屋 現役のときは仏頂面だと思ってたけど、解説でよく喋る奴なのがワロタ 横綱の技量はなかったけど、老害審議で無理矢理・・・ 阿見町?なんてあったっけ?
と正直思ったから調べてみたら
土浦の下で霞ヶ浦に隣接。
予科練記念館とかあるみたい
という町のイメージとは裏腹に
ちゃんと部屋の位置確認したら
知ってる所だったぞ
ガッツリJR「ひたちのうしく」の駅裏
スゲー便利ないいとこだよねここ。
ビジホの「ライフツリーひたちのうしく」
ってとこに何度も泊まった事あるからわかる
周りは郊外型店舗何でもござれだ。
SEIYU、ホーマック、千葉でよく見るカスミ、
部屋の前にワークマンあるぞw
車でイオンつくばまで10分程度かな、
そこのインターから圏央道、常磐道へ出る
都心もそれ程遠くはないかな
けど両国国技館への通いはどうかな
中野あたりから渋滞込みの所要時間よりは多いかも >>17
横綱になってからサボってばかりだったイメージ NHKで巨乳ちゃんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
乳首黒すぎwww
と実況に投稿するのが大相撲の醍醐味 チバラギとかフクスマに部屋開いて場所中毎日両国まで通うの大変だろ 別に何も変じゃないな
両国国技館に似せてるだけだしね
しかし金あるなw 二所ノ関の名跡と新築の相撲部屋とかどえらいスポンサーがいるんだろうな 江戸時代は三男と言われるモテる職業が三つあたった
ひとつが力士で江戸時代は身体が大きく浴衣を着た力士は凄くモテた >>30
再雇用で相撲協会には残るらしいよ
ただ部屋持ちや理事にはなれない 稀勢の里
生い立ち
1986年7月3日に兵庫県芦屋市で父・萩原貞彦と母・裕美子の間に生まれ、「寛」と名付けられた。きょうだいは1歳上の姉。名前の「寛」を「ゆたか」と読むのは「ひろし」より語感がいいという父の思いからである[9]。生まれたときの体重は3,600gであったが、乳児期から食欲旺盛でもらい乳までして育った[12]。
萩原が2歳のとき、一家は茨城県龍ケ崎市に移住。「丈夫な体に育つように」と両親からは清涼飲料水やスナック菓子は一切与えられずに育ち、母からはさまざまな手料理を振る舞われた。食卓には煮干しや酢の物などの子供が敬遠しそうな食材が必ず並び、油は全てオリーブ油が使われた[15]。龍ケ崎市在住時代、龍ケ崎市総合体育館近くの山にある140段の階段で足腰を鍛えた[16]。
父方の祖父は画家で、父・貞彦は祖父が62歳くらいのときに生まれた。父方の祖父は東京の中井から疎開して群馬県太田市に行ったが、ずっと東京が本籍であった。祖父が画家として働き盛りのころは、戦後日本人の多くが絵を買う余裕がなかったため、米軍兵を相手に肖像画を描いて商売した。曾祖父は彫刻家であり、このことから萩原家の家系は芸術家の家系であると言える[12]。しかし画家の子の父はかつて本格的にボクシングに取り組んだ格闘家であり、脱サラしてIT関連の仕事を始めた経験を持つ[13][12]。
萩原が中学2年のときに一家は茨城県牛久市へ引っ越したが、その後も龍ケ崎市の中学校に通う。牛久市で過ごしたのはわずか1年あまりであり、出生から入門までの間そのほとんどを龍ケ崎市で過ごしている。出身地が牛久市とされているのは、部屋入門時の住所地が牛久市であったことによるものである。寛は幼少期から相撲が好きで、小学2年のころからよくテレビで観戦していた。相撲は同じころから始め、初めて廻しをつけた地元の相撲大会では上級生5人に勝ち抜き優勝。父によると、その次の日に朝礼で表彰を初体験したことが相撲を行う大きなきっかけになったという。
小学校4年生から野球もやっており、能力も高かった。小学生時代は捕手を、中学1年からは投手を務め、中学3年のときには常総学院などの強豪校からの勧誘もあったが、「自分はでかいだけ。野球はうまくない」という理由で断った[17]。中学3年野球地区予選で右手首を脱臼骨折、1か月以上も二の腕までギプスで固定された[9]。中学時代には美馬学(現プロ野球ロッテ投手)との対戦もあった[18]。中学時代の野球部の監督は野球部員としての寛を「長身の本格派。器用さもあった」と語っており、大関時代にも本人がトークショーでそのころの自分を「技巧派」などとふざけ半分で語ることがあった[19]。父親としては、中学時代は柔道をやらせた方がよかったそうだが、中学校には柔道部がなかったので野球部にしたという。 稀勢の里 2/3
出身中学で2、3年次に担任をしていた教員の証言によると、「アンバランスな印象の子でした。見た目は大人以上に大きいのに、中身は子供なんですから。わんぱくでしたよ。男子はよく休み時間にじゃれあって遊びますが、ほかの子より腕力が強いとか、体格が良いとかを忘れるんでしょうね。相手を泣かせてしまう。それで叱ると、涙をこぼすんです。でも、彼は男子の間で人気者でした。人を笑わせたり楽しませたりすることが大好きで、掃除をさぼることがあっても憎まれない。スポーツが好きで、部活や体育祭に一生懸命に取り組む。給食もたくさん食べる。そんな子です。体は大きいけれど、普通の中学生でしたよ」とのこと。 >>6
幕下は公共交通機関で通勤せなあかんのよね?確か 稀勢の里 3/3
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%80%E5%8B%A2%E3%81%AE%E9%87%8C%E5%AF%9B
入門
角界入りを考えたのは中学2年生のときであり、鳴戸部屋を訪ねた際に鳴戸からは「これは、末は大関横綱に必ずなる。ぜひ入門してほしい」と太鼓判を押された。入門にあたって難色を示す両親や中学の先生を鳴戸親方が熱心に説得して実現し、萩原親子は他の部屋を回ることなく入門を決めた[14]。
本人は引退後に、美馬学の才能を目の当たりにして野球に限界を感じ、そこでプロで通用する見込みがあり稼げる相撲にシフトした旨を語っていた。また、父は「身長180センチを超える日本男児は相撲取りになるべきだ」とよく口にしていた[15]。
中学卒業後に鳴戸部屋に入門。入門の関係上、中学校は3年生の2月上旬までの登校となった。入門前から力士としての自覚は持っていたようであり、中学の最後の登校日にサインを求められると一人前ではないからと断った[21]。卒業文集には「努力で天才に勝ちます」と書き残している[22]。入門の際、母からは入門後3年は相撲を続けて家に帰ってこないようにと言われて送り出された[14]。
勧誘の際に両親を交えて13代鳴戸と食事を行ったが、焼肉に始まる豪華な食事を次々と平らげ、「食事を残してはいけない」という両親の教えを守り、焼き鮭は皮まで食べた。そのとき最後に出た料理は目玉焼きであると伝わる[23]。
初土俵~十両
鳴戸親方が萩原の足の指を見て、「初めて見たとき、てんぐのうちわのような指をしていた」と評したほど5本の指がきれいに分かれるなど、身体的な素質が認められていた[9]。萩原は中学2年の途中から卒業まで毎晩、ちり紙を丸めたものや市販のスポンジを親指と人さし指の間に詰めて睡眠することで、外反母趾にならないように気をつけた[9]。萩原を大器と見込んだ13代鳴戸は、入門したばかりの萩原を若の里(現西岩)の付き人に指名し、若の里は毎日萩原を泥だらけになるまで稽古づけた[24]。その稽古熱心さからある親方からは、「もうやらなくていい。そのへんでやめておけ」と言われるほどであった[14]。
(以下略) >>21
新弟子の相撲教習所時代と年3場所だけだから
なんとかなるんちゃう? 横綱を育んだ父親と母親はどんな人?稀勢の里誕生のルーツを探る!
https://sumo-sekai.com/kisenosato/1176/
稀勢の里のお父さんは、萩原貞彦(はぎわら・さだひこ)さん。
昭和21年1月生まれの72才です!(平成30年8月現在)
現在は茨城県牛久市に住んでおられます。
短大を卒業後、会社員をしておられましたが脱サラし、IT関連の仕事を自営業でされていました。
現在は自営のお仕事はたたまれて、お仕事はされていないそうです!
貞彦さんは群馬県太田市の生まれです。
疎開のため東京から移り住んだのだそうです。
貞彦さんはその後、太田市から同じく群馬県の桐生市に移り、中学校、高校は桐生で育ちました。
貞彦さんは体も大きく運動能力も高かったそうで、学生時代からスポーツ万能だったそうです!
高校時代はボクシングをやっていたそうですが、将来はプロスキーヤーになりたかったので、ボクシングはその為に体を鍛えたくてやっていたそうです。
母親はどんな人?
稀勢の里のお母さんは、萩原裕美子(はぎわら・ゆみこ)さん。
昭和30年2月生まれの63才です!(平成30年8月現在)
お母さんは新潟県のご出身です。
明るくてとてもおおらかな雰囲気の方ですよね!
お母さんの裕美子さんは稀勢の里が小学1年の頃から、稀勢の里も通っていた、茨城県龍ヶ崎市のみどり幼稚園のバスの運転手さんを60才の定年までされていたんですよ!
稀勢の里の父・貞彦さんは短大を卒業後、家電メーカーの会社に就職しました。
東京から群馬、神戸と転勤族だったそうです。
群馬の転勤先の時に、同じ職場だった裕美子さんと出会い結婚しました!
その会社での転勤先が神戸だった時に芦屋市に住んでいて、稀勢の里の寛(ゆたか)少年は昭和61年7月3日、芦屋で生まれたのです。
稀勢の里が2才の時に茨城県龍ヶ崎市に引っ越してしまったので、稀勢の里自身は芦屋での記憶は全然無いそうです。
ちなみに、稀勢の里が生まれた芦屋市の同じ病院で、現在幕内で活躍している貴乃花部屋の貴景勝も生まれているんですよ!
関取が2人も誕生しているとは縁起のいい病院ですね!笑
稀勢の里には1つ年上の姉がいます!
萩原央恵(はぎわら・ひさえ)さん、昭和60年生まれの33才です!(平成30年8月現在)
稀勢の里は昭和61年生まれですので、年子の姉弟ということですね。
今でも仲のいい姉弟で、よく色々な話をするそうですよ!
ご両親の子育て方針として、2人の子供には色んなスポーツをさせて、丈夫な体を作るために、食事は手作りのものを食べさせていたそうです。
炭酸飲料も稀勢の里は子供時代に飲んだことが無いと言っていました。
これも、ご両親の食育の一環だったのですね。
食事中はテレビは消して、家族で話しをしながらしっかりと食べることに集中させていたそうです。
この様なご両親の子供の頃の教育が、今の横綱・稀勢の里を作った基本になっているんだなぁ~と思うのです! お父さん 東京→群馬県→兵庫県芦屋市→茨城県龍ケ崎市→茨城県牛久市
お母さん 新潟県→群馬県→(同上)
稀勢の里 兵庫県芦屋市→茨城県龍ケ崎市→茨城県牛久市→田子の浦部屋(東京都江戸川区)→茨城県牛久市 >>3
ゴールデンウィーク以外は快適に遊べる
小学校高学年まで楽しく遊べる >>75
ダウンタウン浜田が物を買ってくれる番組に去年くらい出ていて
建設中だった部屋の完成予想図を見せてたけど
確か、場内に大型バスが数台停められるとか話してた。 【故郷に錦(にしき)を飾る】
立身出世して立派な仕事を成し遂げ名声を得て故郷へと帰ること。「錦」は金糸や銀糸などで華やかに織り込まれた絹織物のことを指します。
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/img/202206050000563-w1300_0.jpg >>78
まぁさすがに電車ではきついわ
行きはまだしも帰りが東京→茨城の混雑してる電車に乗らなきゃいけなくなるしさw >>6
牛久との境目に建てたからひたち野うしく駅から割と近いよここ
>>34
高安は真面目に二所ノ関部屋に移籍したほうがいいと思う
同郷の直属の先輩であるキセがいたから大関まで上がれたようなもんだし >>6
ひたち野うしく駅に歩いて行けるよってか場所は阿見町だけど3m先は牛久市 無理して横綱にならなければあと5年は相撲取れたな
誰が望んだのか知らんが担がれまくってた >>87
横綱がモンゴル人だらけだったからな。日本人になってほしかったんだろ >>86
そうそれ
陽光子とかいう気持ち悪さが本当の新興宗教の建物だよ
一度だけドライブの途中で前の道を通ってみたけど近くで見ると更に気持ち悪いぞ 二子山部屋の所沢も遠いなぁ言われてたけど更に上を行くのか 阿見の予科練平和記念館はとてもいいところだぞ。泣いちゃう。
競馬好きな人は近くに美浦のトレセンもあるし、大杉神社内の勝馬神社ってのが面白い。 牛久の先で土浦の手前
とんでも無い田舎
牛久から上野まで電車に乗ってから60分弱かかる
ちなみに荒川沖は土浦市 >>94
いやいや、親方になれる資格って十両以上だぞ >>31
この後ろに近代的な建物があるのよ
どれだけ太いタニマチ捕まえてんだか >>102
一応駅前だけどな。50m離れたとこにはショッピングモールがあってスタバなんかもある >>1
ハリセンボンの春菜と結婚したんか
知らんかったわ 見たが凄い建物だな
土地代が安いのか?
後援会やタニマチが金をだしてるのか? >>105
両方とも考えられるしそもそも金はあるだろ
大関と横綱時代は億稼いでたろうしな あと50年は出ないかもしれない茨城出身の横綱だからね
茨城の社長さん達も金の出しどころよ
二所ノ関の名跡だって安くは無かっただろうよ >>81
幕下以下は車移動不可で公共交通機関通勤限定だってよ。
関取になれば交通費支給でタクシー使えるけど、現役中は自分で運転不可だって。 2つ離れた龍ケ崎駅の近くにも最弱力士として有名になったやついる部屋あるしな >>110
大関は出るんだよ。武双山とか雅山とか
でも歴代73代の横綱のうち4人が茨城出身って考えると率は高い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています