■佐々成政(?〜1588)
 天正15年(1587)の九州平定後、国分によって肥後国を与えられたのは佐々成政だった。秀吉は成政が肥後に入部するに際して、
@国人らに従来どおり知行を許すこと、A検地を3年間実施しないこと、を求めた。

 理由は、国人らの激しい反抗を恐れるがゆえであった。ところが、早急な支配を望む成政は、秀吉の命に従わず検地を強行した。
このことが原因で肥後国一揆が勃発したのである。

 最初に叛旗を翻したのは、隈部親永・親泰の父子であった。成政はただちに隈部父子を攻撃すべく、親永の籠もる隈府城
(菊池城:熊本県菊池市)に軍勢を向わせた。

 隈府城は落ちたものの、成政が城村城(熊本県山鹿市)の攻略に手間取っている間、肥後国人は結束して、大規模な一揆が
形成された。成政の居城・隈本城(熊本市)は一揆勢力に攻囲され、予想さえしなかった苦戦を強いられた。

 結局、小早川隆景、立花宗茂の援軍があり、一揆は沈静した。成政は危機を脱したが、翌天正16年(1588)閏5月、
秀吉から切腹を命じられ、摂津尼崎(兵庫県尼崎市)で自刃したのである。

https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211106-00265180