太平洋戦争中、田原市内を走る電車が、米軍機から機銃掃射を受けて15人が亡くなった命日の14日、空襲体験を語り継いでいる市内の山田政俊さん(76)は、豊島町の慰霊碑の前に生花を手向け、冥福を祈った。
「前日の会」の設立発起人である。東日新聞のインタビューに応じ、この日をどう感じ、これからどのような活動を展開していくのかなど、その思いを語った。15日、終戦から76年―。

■歴史から学ぶ

 ―終戦間際に起きた、いわゆる「渥美線電車機銃掃射」の現場で何を祈ったのか

 一日早く戦争が終わっていたら、みんなは助かっていたと悔やみました。
その犠牲の上に立ち、今の日本の繁栄につながり、安心安全の日々があると手を合わせました。
そのうえで二度と戦争を繰り返さないためにも、次世代に機銃掃射の出来事を伝えていくと誓いました。

 ―地元の小学校を中心に空襲体験を語り継ぐ出前授業は、会が設立された2015年から約80回を数えている。何がそうさせる?

 日本は、アメリカとイギリス、中国の3カ国の連名によるポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏したのが76年前の8月14日。
宣言は7月26日に発せられており、すぐ対応すれば、広島、長崎の原爆投下はもちろん、2500人以上が死亡した地元の豊川海軍工廠(こうしょう)の空襲もなかったはずです。
「走り出したら止まらないのが戦争」と太平洋戦争の歴史から学びました。退職前まで小学校で教員を務めたこともあり、若者を戦場に送り出したくないとの思いが強いからです。

■戦争の恐ろしさ

 ―語り部である機銃掃射の被害者と目撃者、救護にあたった人たちは具体的に何を語っているのか

 語り部の一人、90歳のお年寄りは体験談と自作の紙芝居を上演するのが恒例。「日本は戦争に負けない」と思っていた「軍国少年」だったそうです。
4日、豊橋市の桜丘高校での出前授業で機銃掃射の犠牲になった電車の車掌見習いを取り上げ、「うらやましい」と当時、思っていたが、「今はその考えが間違っていた」と後悔し、「戦争は絶対にいけない」と訴えました。
説得力があり、戦争の悲惨さや恐ろしさが生徒に届いたと思っています。

 ―今後の活動は

 語り部の多くは90歳前後です。健康上のこともあり、今年も11月14日に慰霊祭を開きます。
元気な限り活動を続け、機銃掃射の出来事を後世に残すため仲間と相談して、慰霊碑の近くに案内板の設置を関係機関に働きかけていきたいと考えています。

平和・非戦の思い新た
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