【緊急】古代日本語と朝鮮語が酷似していると話題に。ネトウヨが続々と憤死、敗走★3
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エンコリ翻訳掲示板ってなにげにあっちで影響あったんじゃないのかな。 たまにニュー即で韓国掲示板の反応貼られることあるじゃん。 あれ読んでるとあの時翻訳掲示板にいたやつらが騒いでんじゃねぇのかなって。 韓国人がそいつらのこと在地倭寇とかそんな感じで呼んでる奴ら。 >>747 そうだよね、徴兵された軍隊で教える奴だよなw つまり成人男性の99%が教えられる奴だな ニュー速でよく見る文体だが68歳が書いてたんだな 在日の母を持つ中学生に対しブログで執拗なヘイトスピーチ、大分に住む68歳の男 https://news.yahoo.co.jp/articles/f9f90f8ba44c8cdc45475a39d67c1029418b610f?page=1 判決によると、そもそもの発端は、2018年上旬に川崎で開催された音楽イベントに関する新聞記事。 地元紙で、当時中学生だった中根さんのコメントが紹介されていた。 「写楽」ではこの新聞記事や中根さんの名前を掲載した、「在日という悪性外来寄生生物種」などというブログ記事を公開。 「見た目も中身ももろ醜いチョーセン人」「おまエラ不逞朝鮮人」「チョーセン・ヒトモドキ」などという言葉を並べていた。 弁護団によると、ブログ記事は、中根さんの名前で検索すると上位に表示されていた。 また、この「写楽」に限らず、ネット上では匿名掲示板をはじめとし、同様の書き込みが大量にされていたという。 また、不特定多数が閲覧可能なインターネット上に投稿されていたことから、「中学3年生という多感な時期」であった中根さんに与えた 「精神的苦痛は多大であり、その成長にも悪影響を及ぼしかねないもの」だったと結論づけた。 そのうえで男に対し、一審判決を大きく上回る、計130万円の支払いを命じた。 中3在コが個人批判されるとか、 何書き込んで個人攻撃されてんだよw 寝られんから書いとく(´・ω・`) >>793 日本から援軍欲しくて百済は最新の仏教教典とか お宝とか人材とか日本に献上してただけ。 日本は仏教に熱狂してあんま百済を 顧みなかった。その後日本人の特質として 仏教を自国文化として昇華した。 無文土器人をムムンと呼ぶ呼び方はキモい。 >>802 「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」 「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」 「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」 「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」 「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」 「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」 96 あなたの1票は無駄になりました 2021/03/01(月) 17:28:19.61 ID:9m3oPTtE0 【コリアン(朝鮮民族、韓国人・北朝鮮人)が認めたがらない歴史的事実一覧】 ・稲作が九州から朝鮮半島に伝わったこと ・唐辛子が日本から朝鮮に伝わったこと(足袋(たび)に入れて足を温めるものとして朝鮮半島に持ち込まれたのが唐辛子) ・半島南部の先住民が日本人(倭人)であったこと ・新羅の建国時の宰相が日本人(倭人)であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても日本人説(倭人説)があること ・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと ・大和朝廷による任那(伽耶)地域の支配があったこと(半島南部における多数の前方後円墳の存在) The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer) [2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages] Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type https://image.prntscr.com/image/0dgg1B_hT7uRbCaiCEqE1Q.png まとめ 北九州弥生人(扶余系・伽耶語・倭語) ← 現代日本人のベース(平民) 土井ヶ浜弥生人(韓系・新羅語) 出雲人(韓系・新羅語) 西北九州弥生人・肥前国土蜘蛛(琉球祖語) ← 奴隷 南九州弥生人(琉球祖語・奄美等訳語) ← 奴隷 隼人・熊襲(琉球祖語・奄美等訳語) ← 奴隷 蝦夷(夷語・プロトアイヌ語・アコロイタク) ← 非人・悪鬼 奈良飛鳥人(扶余系・百済語) ← 日本の支配層 >>803 だーかーらー、 古代朝鮮半島の国は現代の朝鮮人とは関係の薄い倭人の国だったってことだろ^^; 何で頑なに現代の国境線でモノ考えるんだ?ってゆー。 ちなみに「血がどうこう」ってのは極めて土人的な朝鮮人みたいな感覚での発言だからねw オックスフォード大学のこの分類はかなりわかりやすい Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type https://image.prntscr.com/image/0dgg1B_hT7uRbCaiCEqE1Q.png 古代日本の朝廷には朝鮮語を流暢に操る高官がいたなんて指摘は右翼に展開した大親分小室直樹でさえしていたし 京都にもそういう類いの人々がいたというから、特段不思議な話でもない いや大昔には朝鮮半島にも日本人が住んでたんだから当たり前だろう。 そういえば新潮45にも古の京都と朝鮮半島の関係について敷衍する連載があったかな あの雑誌には適菜収や小田嶋隆や野坂暘子や、ほかにも多彩な人々が書いていたのにイデオロギーやPCが昂じて戦前の内務省みたいになるっていうのは皮肉なもんだね >>1 あんたのHNにある「大峡谷を繋ぐ村」って何を暗喩してるつもりなのかしらないけど やってることは色々と溝を深めてるよ 「国号の由来」 喜田貞吉 1937年 https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。 朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一??、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。 叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。 支那を日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。 喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった」 >>110 史実を言うと恥ずかしいってどんだけだよ 倭も支那が言い出したからだからなぁ。 位置的に百済の方が中華に近かったから大陸の文化が早く伝わって 日本がそれを取り入れたってだけなんだよな。 古代は中国が世界的にみても圧倒的に進んでたから 日本もそれにならって何でもかんでも真似て律令制にしたけど 失敗したもんな。結局、墾田永年私財法とか発布する事になってたしな。 大陸みたいな強力な中央集権、専制君主制とか共産主義みたいなのは合わないんだろな。 3000年前まで日本にいたのは縄文人だけ。 その後、弥生人が日本列島に入ってくる。 どこから来たかというと朝鮮半島から。 DNAが近いのは韓国人だから、朝鮮半島しかないじゃないの。 縄文時代、弥生時代な 平安人とか江戸人とは言わないだろ あと古代大陸系民族は泳げない、海が怖い、ゆえに航海術は持たない >>755 なんで日本で起きている内戦の事になってるの? >>768 平均的な地球人なら、そりゃ縄文人由来の割合はそんなものだろう、というか多すぎないの? 朝鮮半島の北に住んでる人の遺伝子はどれくらい今の日本人と近いの? >>826 北はお国の事情でそう言った調査も遺跡調査もできない。 >>1 基地外なの? 日本の文化は中国からだし、チョンはずっと中国の支配下 >>1 これ、日鮮同祖論の焼き直しだろ? 昔からあるヤツの。 日本人と朝鮮人は祖先が同じ、だから一緒になるべきだ。 この論法で日韓併合を正当化したのだよ、その昔のことだが。 チョンは小中華の国。チョンの価値観は、中国>チョン>日本。 日本は目下格下とチョンは勝手にみなしている。 そして、中国は親、チョン自身は兄、日本は弟とチョンは親子兄弟の 関係でこの3国を序列づけしている。 だから、チョンは中国にはなにも言えない。その一方日本には“弟”なのだから “兄”を敬え、“兄”に従えとチョンは考えている。 残念だったな、テメエらクソ食いチョンを“兄”と思う日本人はいない。 “兄”と敬う日本人はいない。 国力経済力技術力、どれもチョンは日本とは比較にならない。 さらにチョンが気にするノーベル賞。受賞者(自然科学系だよ)の 数は言うまでもない。チョンはゼロ、誰もいない。 わかっただろ、クソチョン。兄貴風吹かせるのやめろ。恥をしれ。 魏志倭人伝にはすごいあれこれ書かれてるけど魏志韓伝はすごく短くて概要程度しか書いてないんだよね 半島には大して書くことがなかったというのが理由w なんで敗走なんだよ 任那日本府があったんだから不思議なことじゃないだろうが 卑弥呼についても単純なロマンからではなく、 中国との関係において卑弥呼が古代の日本を統治していたことにしたい人達というのがいるらしいとかなんとか 自国の歴史書をどうにかして否定したいんだろうね サッカーのワールドカップを共同開催してたから兄弟なんだろ >>5 日本人と朝鮮人の先祖が同じ 言語も日本語と朝鮮語の祖語が同じ 朝鮮半島はただのストローだからな 支那と日本のあいだにたまたま地理的にあっただけ 文化も言語も文字も通過しただけの存在 文化に影響がゼロとは言わないし 言語的な共通性が無いとも言わないけど 基本的に支那か日本の影響下にずっとある場所 というだけ >>839 ハルウララはディープインパクトの遠い親戚だから優秀な馬だよね!ってならないだろ 始祖が同じでも分かたれて何十代も経てば別物 >>840 司馬遼太郎 「平安時代までの日本文化は外国のもの。王朝文化は百済と同じ。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」 韓鍛冶部(からかぬちべ) 朝鮮半島から4〜5世紀に渡来し,鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。 畿内地方に住み,その技術をもって伴造 (とものみやつこ) に率いられ大和政権に仕えた。 《古事記》応神段に百済より韓鍛の卓素が貢上されたとあり,百済系技術者を組織したもので,宮廷工房に上番した。 陶作部(すえつくりべ) 『日本書紀』の垂仁天皇3年(紀元前27年)条には、近江国鏡村に新羅の王子天日槍の従者であった陶人がいたこと、 雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。 弥生文化の名残であった土器である土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられるようになる。 鞍作部(くらつくりべ) 大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。 《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎(いまきのてひと)の中に鞍部堅貴の名がある。 《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが, これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。 錦織部(にしこりべ) 錦部とも書く。大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。 《日本書紀》雄略7年条に百済より貢上された今来才伎の内に錦部定安那錦がいる。 5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものであろう。 日本音楽の歴史 継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来した。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。 名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。 百済の瓦博士 飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。 瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。 要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫 >>842 陶器も養蚕も雅楽も中国発祥だよ 半島にも伝わったってだけ で、職人や技術者を卑賤として迫害したから日本に逃げて帰らなかった ついでに韓国に音楽を伝えたのはベトナム人だ 史部(ふひとべ) 古代日本において文書や記録の作成など文筆をもって奉仕した氏族。 史部は知られている限りにおいて70氏ほど存在が確認されているが、全て朝鮮半島からの渡来人系であり、 そのうち70氏余りいた史部全体を統率した東漢氏は直、西文氏は首の姓を与えられた他は「史」の姓を 与えられていた(「東西史部」)。 衣縫部(きぬぬいべ) 大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。 百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。 門部(かどべ) 日本古代、宮城諸門の守衛にあたった武人の集団。 古来のカドモリとよばれる人々が、7世紀ころ百済の部司制の影響を受け、門部に編成されたと考えられる。 >>844 麻による製紙技術を確立させたのは中国(エジプトはもっと古いが別の素材を使っていた) 魏志倭人伝には既に布でつくった服をまとっている描写があり、飛鳥時代には漢服を取り入れた ついでに守衛も魏志倭人伝の頃には既に存在してた(役職名が違うだけ) >>845 トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *par?-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。 Table 1. https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_tab1.png トランス・ユーラシア言語圏における紡錘車の最古の証拠は、興隆華文化 (Xinglongwa) と招巴溝文化 (Zhaobagou) に遡る。Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。 韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60 BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。 日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。 紡錘車の証拠がある新石器・青銅器時代の文化は、農業の証拠を持つ傾向がある。Table 1にある遺跡の大部分は、雑穀の栽培や農耕具の証拠として肯定的なスコアを示している。 繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。 沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかった。 中国東北部の遼河西岸地域が、新石器時代に雑穀農業だけでなく、紡績や織物のための言葉や道具の普及の中心地であったことがわかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる