>>434
「日本」の国号成立に百済人が関与か
https://livedoor.sp.blogimg.jp/rakushigotojyutsu/imgs/5/7/57d59532.jpg

 中国の古都・西安で見つかった墓誌に「日夲」の文宇が見つかった。墓誌は678年の作としている。
 日本と名乗るようになったのは大宝律令(701年)からとの見方が有力だが、墓誌が本物ならさらに遡ることになる。

 祢軍という百済人の軍人の墓誌で、676年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
 百済を救うために倭国は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江の戦いで唐・羅連合軍に敗れる。
 その後の状況を墓誌は「于時日夲餘噍據扶桑以逋誅」と記述している。

 墓誌銘で倭国はヘジュァ(海左:海東側)、ヨンドン(瀛東:中国東側)と表記されており、
 碑文の「日夲」は現在の日本を指したものではなく、中国から見る「日が昇る所」という意味で、すなわち百済を示す。
 日本書紀に「傾覆百濟、君臣總俘、略無噍類」とあり、「餘噍」は、百済の君臣の残党と推定できる。
 「扶桑」は、中国神話で東方のはてにある太陽を生む樹と言われ、後世、扶桑国は、中国における日本の異称となった。

 よって、碑文の解釈は「日夲の餘噍(百済の残党)は、扶桑(日本列島)に立て籠もり、誅伐をのがれた」となる。