最後の将軍・徳川慶喜「本読みたくねンだわ。天下とか興味ねンだわ。」
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名君?暗君?「徳川慶喜」強情だけど聡明な魅力
4/25(日) 8:01
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東洋経済オンライン
■「本を読むより灸の痛さのほうが楽」
日常的にこれほど厳しかったのだから、イタズラなんてしようものならば、容赦なく灸を据えて懲らしめられた。言うことを聞かなければ、座敷牢に閉じ込められることさえもあったという。
そんな厳しい水戸家にしつけに対して、慶喜がただおとなしく従ったかといえば、それなりの抵抗も示している。慶喜は剣・弓・馬など、それぞれ専門の師につくほど武術には励んだが、その一方で、読書はどうしても好きになれなかった。
そんな様子から、学問に不熱心だと、灸の罰を何遍も受けて指が腫れ上がったが、慶喜はこう言い放ったという。
「陰気な本を読むよりはこの痛さを我慢するほうが楽だ」
父に座敷牢へとぶちこまれても、なお本を読むこと拒否した慶喜。食事も禁止されるとようやく懲りて、以後は学問に励んだ。22〜23歳ごろにもなれば、『資治通鑑』『孫子』などを愛読するようになったというが、こうした慶喜の強情さは、その後もしばしば顔を見せることになる。
聡明だった慶喜は、物心ついたころから「次期将軍に」と周囲からいつも期待されながら、育つことになる。斉昭があれだけ厳しくしつけをしたのも、慶喜には将軍になる器量があると踏んでいたからだ。12代将軍の徳川家慶も、慶喜の将来を見込んで、11歳にして一橋家を相続させたくらいである。
しかし、慶喜のほうはというと、将軍になるつもりは毛頭なかった。斉昭にこんな手紙を書いたことは有名である。
「天下を取り候ほど気骨の折れ候事はこれ無く候。骨折れ候故、いやと申す義にはこれ無く候得ども、天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(『慶喜公伝』)。
全文
https://news.yahoo.co.jp/articles/61b5c3138754e44bda68a06c5b1440021f9022fa?page=1 >>1
>「天下を取り候ほど気骨の折れ候事はこれ無く候。骨折れ候故、いやと申す義にはこれ無く候得ども、天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(『慶喜公伝』)。
候すぎだろ 徳川政権自体は家光の時に集団指導体制が確立してたけど
それまでの情勢でもう政権の先がないってわかってたんだろね 頭はめちゃくちゃいいけど性格的にあんまりやる気がないんだよね、この人
そのおかげで薩長とガチ内乱にならずにすんだけど たぶん、現代でいうとひろゆきとかホリエモンみたいなヤツなんだろ
慶喜「昔の漢文なんか暗記しても意味なくないすか?」みたいな まーバタバタと第1第2候補が死んで棚ボタ的に自分に順番回ってきた人だしな
将軍とは違う自分の人生設計あったんだろ 写真家でもあったんだよな
当時の写真は今では貴重なものもある 凄い趣味が多い人文化人であって上に立つ人ではなさそう 細川護煕思い出しちゃうんだよなあ(´・ω・`)
まあ器は段違いだろうけど >>11
例えばあれだがキレる人であったのは間違いないな
大政奉還は国力を下げずに日本を存続させる最善手だったと思ってる >>20
慶喜の構想は朝廷の政権に入り込んで実務の運営を担うことでしたが
それをされたら困るので薩長が王政復古の大号令をだした 若い時に政治から降りて自分の趣味に没頭できたんだよな。楽しそうだわ 長州征伐とか言う15万の幕府軍が4000人の長州軍に負けるとかいう訳のわからない戦争で幕府の命運は尽きた 出来たてほやほやの自動車を引っ張ってきてお偉方でドライブしてた >>25
歴史的というより現実的に見たら新撰組=公安機動警察
薩長土etc=攘夷暴力集団
京都放火計画、坂本龍馬の奉行所捕り方射殺、薩摩の江戸騒乱等どうみてもテロリストですね。 薩長の言い分のほうが正しかったからな
黒船が来た後ならなおさら >>16
その前に天狗党350人の斬首を命じてんだけどな
そもそも孝明天皇が風見鶏なので徳川慶喜も右往左往せざるを得なかった
だがこの国では天皇家を悪く言えないので徳川慶喜が全被りだよね >>19
細川護熙さんはあんなだけどものすごい
野心家だったそうだがな
父のようなパッとしない学者よりも
祖父のような国の中枢で目立ち尊敬されたい
みたいな でも細川護熙さんはお父さんに政治家続けるなら財産やらん言われて辞めたのよ イギリスから最新鋭の大砲やらガトリング砲を使う薩長軍
刀と弓の幕府軍
そりゃ長篠の戦いみたいのもんだわ。戦意喪失するわな まあでも武闘派の薩長を最終的に肩透かしさせたのは良かったと思うよ
あそこで膿は出せたし 将軍家と朝廷が対立したら朝廷につけと教えられた水戸家出身だから、朝廷の御稜威の前に戦わずに降伏したのもやむを得ない >>41
西洋式の幕府陸軍だけで1万人、長州軍全軍よりも多いんだぜ
海軍力も圧倒してる >>41
武器入手を阻止できなかったのが敗因だよな 直筆の書が多すぎて大した値段つかないの笑うわ
1万くらいで買えるのもあるくらい 身内からすれば敵からやりたい放題にされているのに逃げ出して大政奉還、幕臣無職で憎たらしい将軍だけど、時が経つほどあの行動は評価され英断となった不思議な御仁だな。 本を本当に読まない奴って多いよな
あれなんなんだろ >>12
デリヘル偉人バトル
イキリ鯖太郎
剽窃家になろう
ことFGOはさっさと滅べ >>46
あの将軍の方は幕府権力の維持で配下から望まれた行動をする良い子また悪く言えば操り人形、でも健康面で問題があったか簡単に死んだんで暗殺されたかもしれない。
肝心な時に死んでしまうとは平時ではなんて事無いが、大事な時に死んでしまうのは幾ら能力があっても運が悪い。 家康がせっかく要所に親藩・普代を配置してたのに、
戊辰戦争では役に立たなかったよな、御三家でさえ >>48
北海道を担保にしてフランスから買おうって意見があったが
それが実現してたら、その後の歴史は大きく変わってただろうな >>53
全国から意見を求める、これが痛かったな。 俺も貧乏でいいから自由な時間がある人生を選んだ
毎日が夢の様に過ぎて行き初めて季節の美しさに星空の美しさを知った >>59
その意見を出したのが勝海舟のライバルと言われていた小栗上野介。
小栗が勝海舟と比べ人気が今ひとつなのはこの売国奴的行動が原因だと思う。 全てにおいてやる気が見られない
世の中と関わりたくないのが透けて見える >>40
熊本城、まるごとではないが一部細川さんの所有物だから自費で修理したりしてる。
大変だよお殿様は。 >>2
「です。ます。」調みたな単なる丁寧語やぞ
現代でもやたら「です。ます。」調は揃えろと言ってくる奴おるだろ 倒幕と幕府側が内戦にならないように、あほなふりしてたんよ
真正のしんじろとは違う 慶喜がやる気がないって…w
歴代将軍でもトップクラスに頑張ってたっちゅうねんw 武器や金を流して恩を売ったり土地を手に入れるのは昔からの侵略の常套手段 >>68
頑張らざるおえない時代だったからな
家康の次に大変な時代じゃない?
この人が平和な時に将軍だったら淡々と時間が流れていっただけだろう >>20
これよく言われるけど
慶喜の目的はあくまで徳川家の存続で日本じゃないからなあ >>2
何でこんなに候う候う言ってるの?
ふざけてるの? >>57
またイキリ鯖太郎に親を殺された基地外か。 民衆には愛されてたみたいだからなんだかんだ平和的なほうが名君なんじゃねえの 大政奉還後駿府に帰ってからも民から敬愛されて「ケイキ様」と愛称で呼ばれて気さくに応じてたみたいだし まあ勝ち目の薄い内戦とかはよう諦めてくれた方がマシではある やる気も能力もないのに結果全てがうまく転んだ運のいい人
自軍ほったらかして単身逃亡はまともな人間のやることじゃない スペイン風邪に罹ってすっかり気力無くなって大政奉還したって話もテレビでやってたな その後の余生は趣味に生きたらしいし好きな事だけやって生きていきたいタイプの人だったのかもね >>56
アレクサンドロス大王も早死にだったな
32歳だっけ >>58
西日本でもこれだからな
豊後杵築松平藩→新政府側
豊前中津奥平藩→新政府側
肥前島原松平藩→新政府側
備後福山阿倍藩→新政府側
出雲松江松平藩(越前松平系の親藩)→新政府側
美作津山松平藩(藩主は11第将軍家斉の実子で松平家養子)→新政府側
これじゃあ止められないわ 知らんけど、写真観るに顎が歪んでるやん、真っ直ぐ座れてなかった臭い
読書で一番の問題は姿勢の維持やし、どうしたってくねくねしたくなる 勝ち気な人だったら薩長軍とやり合って
江戸の街が火の海になったはずと読んだな >「天下を取り候ほど気骨の折れ候事はこれ無く候。骨折れ候故、いやと申す義にはこれ無く候得ども、
>天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」
実際将軍になってから嫌というほど苦労してんのでやはり先見の明はあったな >>35
悪く言えないどころか実権取り戻そうとしたら討伐対象によって島流しにまでされてるわ。
大政は武士が担ってたんだから
カルトにかぶれて天皇持ち出す勢力が悪い >>56
運じゃないと思うで、動画があればもっと分かるが
何かこの人歪んでる、おっさんども、君らも姿勢悪くして正座したら右肩上がってたり
するんちゃうか?早死にするで、おもっくそ神経痛めてるしそれ
街に出て驚く事が一つあって、前は葬式場多いな思ってたんやけど
親父の姿勢が悪いので整骨か整体探してたんやけど、よく観たら
ものすごい数あってああ現代病や思ったw >>7
いつものトンキン節で徳川アゲしてるだけだろ
大阪城から勝手に帰ったりかなりのバカ 『転生したら徳川親藩の7男に生まれたので今度こそのんびりスローライフを過ごしたいと思ったら幕末動乱期の将軍に推挙された』 慶喜がガチって内乱になってたら外国に占領されてたかもしれないし日本という国を守ったよな
徳川幕臣にしてみたらたまったもんじゃなかっただろうけど 今の大河のもう一人の主人公っぽいポジだな。頭いいけどやる気はなくて、でもプライドは高いっていう慶喜像に草なぎ剛がピッタリはまってる。 御三家筆頭の尾張藩主徳川慶勝は
岩倉具視が仕掛けた王政復古の政変を一緒に参加して主導的にやってるわけだから
徳川譜代の大名達は江戸の将軍家と敵対してもこっちも徳川家だし家康公のご恩には影響無いと言い張れたしな 薩長には関ヶ原以来の恨みを返す裏ミッションがあったのは分かるし、家康もその事態に備えて大名配置をやってるんだけど、譜代や御三家まで静観を決め込むようになるのは想定外だっただろうな。
前田や伊達、池田辺りの大藩が藩論をまとめきれずウダウダやってるのを見ると、尊皇攘夷だなんだの大義名分も大事だけど、恨みのモチベーションって凄いなと思う。
山口とか九州の奴らもよく覚えておけよ。嫁や娘を好き勝手されて、幼児の肝臓を取り出して強壮剤代わりに食われた恨みが150年で消えると思うな。 >>7
政権は不要
徳川家は存続、その一点だけで行動力したひと >>99
ボロボロのまけぐみの濡れ衣を着せられた悲劇の将軍。
上手く立ち回って内乱を結果的に最小限に抑えた。 >>79
そりゃあ駿府だからだろ
他の場所ならリンチだ >>70
大政奉還と江戸引き渡しという形で責任とっただろ >>53
黒船なければナオスケは大老になってないだろ。 暗君は暗君だろ
命懸けで戦っている大勢の部下を放り出したんだから
確かに結果論でいえば、慶喜のキャラのおかげで
日本が内戦状態に至らなかったというのはあるはずだけど
本人それを見越していたわけでなし、単なる暗君だよ >>16
新撰組なんて、クソみたいな組織がなぜ評価されるのか不思議。 250年周期みたいだから生きてる内はアベの次見れそうにないな >>112
やつは、やれる工作をしつくして
鳥羽伏見で賊軍になってしまったから
事実上の全面降伏だよ。
暗君というなら13代14代だろ 戦うだけが正義とも限らんからなあ世の中
今もそうだろ >>99
あそこから幕府を建て直せる人はいない。
責任とらされるだけだからやる気はないだろ。 >>37
細川忠興さんなんて外面の良いキチガイサイコパスだったからな。 >>81
よくも悪くも決断できる人だった。
300年続いた大政奉還、無血開城、は凡人には出来ないよ。 慶喜のことは大嫌いだったが、
彼の年表を知れば知るほど、大変だったなーと思う。 徳川慶喜下げ明治政府のプロパガンダだからな
新撰組も会津藩も明治政府に下げまくられて
いまだにその洗脳でdisってるアホも多いし
逆に水戸黄門なんて旅もしてない世直しもしてない
どっちか言えば暴君なのに水戸学アゲアゲされて
良い人ドラマ作られて水戸光圀を好感してるとんでもない勘違いバカも多い >>123
光圀の大日本史編纂が水戸学の尊皇攘夷や革命思想や戦前の右翼思想を生み出したんだぞ
若い頃はヤンチャしてましたけど厚生したらすげえやつなんだよ >>101
恨みいうてもその恨みもってそうな島津毛利当主達は幕末当時全然乗り気じゃなかったというのは忘れちゃあかんと思う
島津当主と西郷大久保が反目しあってたのは有名だし、毛利当主に至っては「そうせい侯」と言われるくらいに好きにさせてたが
当人振り返って「あそこで何か言うてたら自分の命が危なかった」と言ってるくらいだし
結局のところ「大名間の恨み」じゃなくて「大名が支配する世界」をひっくり返す流れに島津と毛利は真っ先に飲み込まれたのよね そういう人だったんだね・・・でもあの人いうことが、本当の時とその場しのぎの時と何パターンも
あるからな・・・手紙一通だけじゃねえ・・・。ある種、この頃からもう政治家の片鱗があったと
みるべき >>125
昔から多いわけじゃないからねぇ
知り合いに1人いるな
以前知り合った時、お城に住んでるのか?って冗談で聞いたら
母子家庭でアパートに住んでますとのこと 織田信長の血筋も入ってるらしいけど
どっからきてるの >>133
うん? 多くの徳川姓がなくなったことに対してのコメントだよ。
ずれてるよお前は この人フランスで遊んでる時に明治維新で呼び戻されたんだっけ >>140
公人としては武家の棟梁だから、武家のお手本の生活をしないといけないから、自由はない。
ただ私人部分としては自由だろうなあ。 まあ、でもインドや東南アジアみたくならんですんだのは
この人がすぐに朝廷に屈したからだから
この人は英雄よ >>141
親切だけど、
よけいに混乱するとおもうわ。 >>119
いやいや
開城後も好き勝手やって生きてたのは勝ち組といっていい >>149
徳川幕府消滅、将軍返上だから負けだ。
個人が生き残れば勝ちじゃねーだろ。 >>150
笑わせんなどう見ても個人の話だろ
見解の相違だな
政権強奪して10年程度で暗殺される人生が勝ち組というなら
お前の言い分で合ってるけど >>151
あのさあ、将軍は
武士の棟梁としての視点と
一人の人間、つまり私人としての視点があるんだけど。
おまえ慶喜の私人の視点をみて勝ち負け言ってるの? >>152
だから見解の相違だって前置きした上で
お前の意見も間違ってないって書いてるでしょ?
何で同じ事言わせんだ >>16
それはケイキー徳川じゃなくて厄介払いした勝つ海舟に言うべきことでは
ただ厄介払いで新撰組に軍資金渡してお侍にも取り立てて甲府城守れ、とやっても
新撰組は女郎屋を借り切ったりで道中遊びまくって長逗留しまくり、新政府軍に先に城に入られる有り様だったけど >>153
ヨッシーは水戸出身なんだから擁護したれよ。 >>7
それでも徳川宗家も水戸の実家も自分も守り切ったんだからたいしたもの >>59
北海道フランスに貸している状況だったら第二次世界大戦の時、枢軸側にならなかった気もするけど、今度は欧米に日本を分割統治されていたかもしれないし結局第二次世界大戦の事はどうにもなりそうもないな 「水戸藩より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」か… >>162
そう考えると、慶喜すげえな。
織田も足利も源氏も平氏も藤原も滅亡だからなあ >>39
家康よりあとの歴代将軍、まともな食べ物食べてないのか?
おしろいの鉛が云々とは聞くけど 現代なら、倒産するのが時間の問題の会社の社長になるようなもんだよな
そりゃ本人も乗り気じゃなかろう 廃藩置県が上手くいったのは
各藩経営で大名が疲弊してたってのもあるんだよね
殆どの大名が大名貸で借金付けだったし
借金から逃れられる〜って考えただけで、
人民と土地を天皇にお返ししますってなった 戦国の復讐とか勢力争いみたいな小さなレベルなら慶喜や親藩だって屈しない。
国全体が危機に瀕してる中で大名や武士そのものまで消滅させて、天皇を中心にした新たに国民国家を作るという大きなイデオロギーがあったからだ。 織田信長の楽市楽座も兵農分離も通説が今では否定されとる
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652 信長の出した楽座令とは「座の廃止」どころか逆に座を認めた上でその税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
実際の座の廃止にあたる「破座」は後年の豊臣政権下で発令された。
「楽市楽座」の通説は皇国史観で知られる戦前期の歴史学の権威・平泉澄が確立させて以来
「鎖国」「士農工商」同様に実態と異なる通説が戦後まで教科書に乗り続けてしまった。
関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続していた。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである京の七口が引き続き存在していて
琵琶湖においては堅田衆の関税を織田に上納までさせていた。
こうした商業関の廃止が進むのは信長ではなく秀吉の時代
「織田信長=既得権益を破壊し革新的な政策で新たな時代を築いた英傑」という史観は近年の歴史研究においてもはや時代遅れの虚像であり
むしろ畿内における既得権益との癒着や支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など一見前時代な方針が織田氏の権力拡大に多いに寄与したとされる ●見直される「兵農分離」
90年代に大ヒットした井沢元彦の歴史ファンタジー長編「逆説の日本史」等によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその史料の内容を要約すると「信長は安土に移転後も未だに妻子を城下に移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する北条氏の百姓動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓が直接戦闘に参加する事は少なかった。 織田信長の肖像について、従来は緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)がポピュラーで教科書などにも載ってきたが
近年の真面目な歴史関係の書籍ではこちらの肖像画(大徳寺蔵)が採用されてきている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://star.ap.teacup.com/tensi/timg/middle_1308435680.gif
この肖像画は生前の信長に何度も面会していた絵師の狩野永徳本人が制作したもので緑のものより写実性に優れ、信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
有名な緑色の肖像画は狩野永徳の弟が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他の複数の肖像画もやはり原画やその模写を基に描かれたとされる。
また、ネットでは白黒写真のようにリアルな「信長の肖像画 」の画像が流布されているが、
この三宝寺蔵の肖像画にはもともと明治時代の地元写真館の所有物であった事を示す印があり「信長の死後に宣教師が描き天童織田藩の子孫が代々所有したものを明治に複写したもの」とされているが…
(16世紀西欧の表現技法? )(信長に面会した絵の上手い謎の宣教師?)など非常に胡散臭い代物であり、明治以降の捏造の可能性が極めて高い。
そのためまともな歴史研究の資料ではほぼ使用されていない。 >>181
なんで池沼が将軍になれたんだろうな
こんなん小室圭が天皇なるようなもんだろ 徳川家慶が一橋家を継がせなければもっと幕府は続いたよ
頭のよさよりも正統性による一体感が大事 >>1
>灸の罰を何遍も受けて指が腫れ上がった
灸って指にやるの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています