関ヶ原合戦後の処遇ってバランス悪くないか?
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毛利輝元 (西軍総大将・大老) → 減封
上杉景勝 (会津征伐・大老) →減封
宇喜多秀家(関ヶ原合戦大将・大老)→ 八丈島に流罪
豊臣秀頼 (豊臣家棟梁) → 67万石の一大名になった挙げ句、大坂の陣で滅ぼされる
安国寺恵瓊(毛利家家臣) → 斬首
増田長盛 (五奉行) → 高野山に追放
長束正家 (〃) →切腹
島津義久 (関ヶ原合戦西軍) → 本領安堵
徳川秀忠 (関ヶ原合戦遅参) → 二代将軍
重罪な大名ほど助かり、小物ほど処分されるなどの処分 例えば山口組の組長をいきなり処刑したら、子分が襲いかかってくるしお前も自分の身が危ういと思うだろ?(´・ω・`)
小物から絞め殺して最後に親玉、これはどの時代も同じだよ 反乱起こしたらやべーやつは遠くへ置きつつやりすぎないように
主犯関係はとりあえずもう再起できないようにって感じだな オガワスケタダが所属してた陣営は必ず落ちぶれてる。とんでもない疫病神なので改易もやむなし 長宗我部をか胃液はやりすぎ
せいぜい幡多没収ぐらいにしろや よく「家康に野心はなかった!石田三成の暴走!」とか見るが
本当にそうなら江戸幕府なんて出来てないよな
その後の秀頼の扱われ方からしても石田三成は間違ってなかった あくまでも豊臣家臣団の内紛という体裁で外様は減俸
中国攻めの時から秀吉に從い、関ヶ原でガチった宇喜多は改易
毛利も裏切りものの小早川も上杉も島津も丸々戦力残ってるから 戦国武将大名なんて大小頭おかしいからな
島津なんて負傷させた直政に仲介頼んで領土増えてるし >>1
ニセ源氏の徳川は名門コンプレックス凄かっただけだろ
高家なんてのを創設したりな
長宗我部や宇喜多なんていう何だか解らん成り上がりはどうでもいい >>1
こんなもんだろう、秀吉が死んでから家康の野望はあらわになっていたし、総仕上げが大坂の陣なんだから、いい具合よ? >>10 三成は恨まれすぎた、秀吉の代わりにいろんなことをやりすぎた。
でも、三成の代わりになる人物が居なかった、三成一人だった。 あまり厳しすぎると余力で一斉蜂起されるからだろ。力を削いでから各個に潰す。単なる常套手段 >>1
豊臣秀頼の名を連ねてるが
徳川家康は豊臣軍として秀頼の元で戦ったと
ちゃんと歴史を理解出来てるのか? 毛利軍なんか無傷なんだから取り潰しとか言ったら領国に立て籠もるだろ
それを攻めに行ったら北の上杉が暴れ出す
取り潰すなんて無理だから
取り潰すつもりだったけど情けで減封なとか言って恩売っといたほうが得
小物には恩売っても意味ないので処分 散々イキってたくせに大局で役に立たない伊達の無能さよ 吉川が必死になって自分への恩賞の防長ニ国を
差し出してまで庇ったから徳川も毛利を潰さなかった
吉川が守らなければ毛利輝元は真っ先に切腹させられてた >>22
吉川の根回しが半端だったからの体たらくじゃねえか
弁当でも食っとけ >>10
強大な外様五人の内閣なんざ機能するわけ無い
豊臣は武権を放棄する以外生き残る道なんか無かったろうよ 島津ってなんで敵陣の正面に退却したんだろ
現地の地理に疎かったのか >>30
少数手勢での一番生存確率が高い退却戦が
敵中突破からの脱出だったのではないかと言われてる。
敵に横や背を向けて逃げると一瞬で揉みつぶされるからね
島津が稀代の戦上手と言われてる所以でもあるよね。 >>10
小牧長久手で長期戦になっても家康を潰さなかった挙げ句に
関東あげた秀吉の自業自得。 >>1
1600年関ヶ原の戦い
毛利輝元 (西軍総大将・大老) → 減封 →・・・・・・→長州→→1867年大政奉還
島津義久 (関ヶ原合戦西軍) → 本領安堵 →・・・・→薩摩↑
1600年に徳川家にとどめを刺せたのに・・・267年後にやっとトドメさしてやんの! >>30
ゴキブリも最期こっちに突っ込んでくるだろ、それと同じことだ。 >>33
潰そうと準備してたら大地震がおきて、もうそれどころじゃなくなった、清正公(せいしょこさん)がいなかったら
秀吉は死んでたかも >>35
土佐も含めて徳川にうらみ深い連中が結局倒幕したな
それに比べて上杉の義理堅いこと、つねに負け組み側につく >>21
長期戦になると踏んでじっくり領土を拡大しようって目論見を立てたが
蓋を開けてみたら短期に終わってしまって焦って上杉にちょっかいかけたはいいがあっさり返り討ちにあい
合戦後、家康と約束した書状をたてに大幅加増を訴えるが自身の不義をつっこまれて微加増で渋々了承
そんな梵天丸さんが僕は大好きです >>1
でも、結局300年後に助けた島津と毛利に滅ぼされたよね徳川幕府m9(^Д^)プギャー >>40
上杉景勝に仕官してて長谷堂城の戦いと撤退戦で無双してた とりあえず九州四国は安定さすために放置だよね、いつも 秀吉は晩年呆けてたのかね。
早めに政権譲ってれば豊臣政権はもっと長く続いたかも。
老害が居座るのは駄目という教訓ですな。 >>1
毛利輝元は恵瓊と三成の密約で担がれただけの名ばかり総大将で、戦闘にも不参加かつ敗戦後は大阪城もすぐ明け渡した。一門の吉川が裏で本領安堵のため暗躍もしてる
宇喜多は実戦参加組では西軍最大の動員兵力で大活躍
増田と長束はほぼ首謀者、敗戦後は自滅自爆
島津はそもそも家康の味方するはずだったのが家康側の連絡不備で追い出されてやむ無く敵対。撤退時に大金星あげるがそもそもゴミ兵力。それでもぶち殺す予定だったがドサクサにまぎれて紛れて本領安堵。死ぬ前まで家康は悔やんでた
全部意味がある >>49
後継候補が早死にしすぎた(石松丸秀勝という実子が浜松城主時代にいた説)
何事にもストッパーだった秀長が先に死んでしまったしその後継も早死にしてる
実子かは怪しいが鶴松も早死にしたしこっちも実子かは怪しいが後の秀頼が生まれたら時の関白秀次が邪魔になって一族粛清(ここで最上ブチギレ)
とにかく一族みな早死にしたのと秀頼てか淀殿可愛さに家中ぐちゃぐちゃにしたのが悪い 家康は後付けの、征夷大将軍をとれるためだけの清和源氏だし、その血縁者として挙げていたのが鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞だし、要するにお偉い武家とか大嫌いなんじゃないの。
江戸時代は藩への締め付け厳しくしてたし。その割に多摩千人同心や服部家など、独立系の武装農民を重用していたし。 >>50
これがだいたい正解よな
毛利は明らかに何かしらの思惑で動いてたわな。じゃなきゃ弁当食わねえよ
島津の当日の実況見てみたいわ。すげぇ混乱だったろう。俺東軍行きたいのに・・・みたいな。
長期戦を誰も疑って無かったのも面白い
伊達に上杉黒田真田清正あたりの実況聴いてみたい 毛利は元就の遺言でもある本領安堵が逆に災いになったな
本領安堵=最善手という思考停止を家康にまんまと利用された 家康は家柄マニアだからな
ぽっと出の成り上がりは潰させて大身名家は残す
明朗ですわ >>49
朝鮮出兵の時すでにボケてたんじゃなかったか? >重罪な大名ほど助かり、小物ほど処分されるなどの処分
何びゃく年も前から変わらないジャァァァップ仕草
ジャァァァップ!
ジャァァァップ!
ジャァァァップ! >>44
どう考えても
関ヶ原の毛利は恨みを買う側であって
恨みを晴らすとか言える立場じゃねーよな 直江兼続なんかこいつのせいで大炎上したのに何で生かされてんだよ >>62
小早川姓なだけでなんか裏切りそうってイメージあるよな 罪の重さというより力関係や縁故のバランスで
潰すことが難しい大名は潰せなかっただけよな >>63
お前んとこの国は語る歴史もなくて可哀想だな >>62
なんでや、広島でもヤクルトでも活躍したやろ! 福島正則や加藤清正まで東軍に付くって
石田三成ってどんだけ嫌われ者だったんだ >>63
金正日、デノミの責任を取らせて部下処刑後に
本人は大往生!ブッヒッヒ 秀吉の子孫も、信長の子孫もいないってなんか哀しいよね なんかやっぱ秀吉も家康もこズルい印象がぬぐい切れないな
信長の天下をかすめ取った秀吉と
秀吉の天下をかすめ取った家康
やっぱ信長が良いな >>74
信長の子孫は余裕でいるぞ
下手したら家康より実子多かったからな >>9
どさくさに紛れて実兄を殺したからな
大人しくしてれば四国以外に転封で済んだかも 現代的な考え方では生き残ったサッカー選手今川氏真は有能 信長の子では一番無能っぽいイメージ持たれている次男の織田信雄が
けっきょく大名に返り咲いて子孫としては一番反映してるのよね
たぶんイメージよりはしたたかだったと思われる >>64
逆恨みってやつだろ
しかしあっさり決着しちゃったな
もうちょいで徳川本陣潰せるまで迫ったのに 黒田如水が天下とった方が面白かったろうな。
家康は凡人 やってることは暴力団だからな
刀で人を斬ったり銃で撃ちころしたり >>13
宇喜多こそ本来切腹
足利の流れで家柄マニアの家康が流罪で許した >>46
これよくいうけど、どっちも殿様の言うこと聞かない人たちの仕事だから、正しいのかどうか 影響力のある大大名表立って処罰したら下に付いてた人間からの反発強いからじゃないか
その後じわじわ絞り上げられて弱体化してるだろ >>74
信長の次男の系統で現代も山ほどいるで
ただし織田信成はエセ子孫 >>74
信長直系は知らんが、信長兄弟の子孫ならいる
江戸時代に大名、明治に華族になってた 嫌われ役の三成だが、西軍の大将に毛利持ってきたり、上杉と示し合わせたり、その他数万の軍勢を形だけでも纏めたんだから、そこまで嫌われてたのか?
豊臣家臣では福島正則や清正なんかの尾張衆と、長浜城主以降に家臣になった三成なんかの近江衆と確執があったように描かれるが、実際はそこまで仲が悪くなかったかもしれないし。 改めて思うんだが、関ヶ原の時点で家康は豊臣家の一家臣に過ぎない。
なのに、改易やら減封やら出来るのか。
秀頼の名前でやったのか。
エロい人おせーて 三成勝ってたら大阪が首都で、とかずっと妄想してた
でもスペインの植民地になってたかも >>72
間違いなく有能なんだろうが、根回しや普段の交流がとんでもなく下手だったんだろうな >>91
関ヶ原前→豊臣政権内最高実力者だけど反対派も多く反対派が糾合すれば上回れる可能性がある程度の差
関ヶ原後→豊臣政権内ぶっちぎりの最高権力者、異論を唱える者がいなくなる(改易もやり放題)→これを踏まえて3年後将軍宣下からの政権樹立
一応将軍になるまでは豊臣家の家臣という立場 >>93
加藤剛が三成やったときはイメージ通りだった >>94
ありがとうございます。
なるほど。関ケ原までは基本一家臣だったわけですな。
関ケ原後にぶっちぎりの実力者になったわけだ。
でも、将軍になるまでの3年間は、実力はぶっちぎりだが
名目上は豊臣の一家臣なんだよね。
一家臣が同僚大名を改易したりは出来ないよね。
やはり改易は秀頼の名前で行ったのかな? >>74
安土城に信長の子孫と地主が争ってるみたいなことが書いてあったし子孫はいるんじゃない? 豊臣は調整役が秀長官兵衛利家くらいしかいなかったのがねえ。秀次処分した段階で詰んでた >>96
秀吉死後の豊臣政権下の家康の政務はあくまで「秀頼の代行者」としての執政だから名前は秀頼なんじゃないかね >>99
汚れ仕事は全部豊臣の名前でやってたのかな 合戦後も譜代だろうと本多家のようなったりな
徳川って北朝鮮の金みたいだよな 家康って人が憧れるような事は何一つやってないが
非凡な信長秀吉に比べて凡人が参考にできる凡人
質素倹約、忍耐、健康、組織作り >>64
本領安堵を打診されていたから動かなかったのに約定違いされて減封されたとも ジャニーズ見ろよ
90〜からの最大功労者のスマップがお仕置き解体処分
これが現実 安国寺恵瓊斬首は意味不明
毛利が減封で済んでるのに >>107
吉川広家という家康の犬が毛利の罪を全てなすりつけた。
「毛利が家康様に背いたらぶっ潰して全部私の領土にして下さい」とも言ってたクソ野郎なので >>90
そりゃ毛利、上杉からすれば五大老筆頭の家康は目の上のたんこぶだからな
三成の性格云々以前に家康を排除する機会が巡って来たって感じだろ
家康排除後に毛利がトップでも輝元と家康じゃ扱いやすさが全然違う >>103
平和な長期政権をつくれるって実はとてつもないことなんだけどな
豊臣への裏切りってのもそもそも秀吉が主君織田を蔑ろにしてるんだからそんなマイナスでもないし >>107
印象悪かったんやろなあ
裏で暗躍してる坊主ウザいし首にしたろみたいな感じで >>90
武闘派でも宇喜多や小西と仲良かったり大谷吉継みたいな名将のマブダチがいたり人によってはとことん好かれてるから人を選ぶタイプってだけなんだろうな 島津は撤退時のアレにビビったからだろ
あまり追い詰めたらイカンと >>110
家康はオランダ人の傀儡として動いてただけ
スペイン没落とともに宣教師の影響力も減った >>113
逃げかえった後に家康にゴメンねって言いながら守り固めてたからな >>96
家康は内大臣です。だから後陽成天皇の直臣でもある 部屋の模様替えと一緒だよ
大物家具は捨てるのも替わりを探すのも大変だから上手に再利用する
小物はいくらでも買い替えできるからとりあえずどんどん捨てる
裁判じゃなく国造りだからな 三成は250年かけて徹底的に悪者にされてきたんだから、人物像に関しての悪評は相当割り引く必要ある
そもそもそんな魅力も人徳もかけらもないのが政権の要職に就くまで出世もできんだろうし天下二分する勢力の枢軸にもなれん
武断派に嫌われて対立してたってのも武断派が勝ち組として後世に残ったから三成が悪し様に言われてるだけで、学級委員が不良グループにてめー気に入らねえんだよと因縁つけられたレベルだった可能性もある >>39
幕末を描くにはまず関ヶ原から!
みなもと太郎先生は正しかった 前権力者の一族を根絶やしにしたのは家康だけかな
清盛も頼朝も尊氏も信長も秀吉もそこまでやらなかったよね 増田長盛
家康弾劾状に名を連ねて西軍主要メンバーとみなされるが
実は家康に内通していた。戦後改易
何がしたいんだ >>102
土佐の主力は、山内に虐げられてた長宗我部系列じゃない?
力士惨殺はドン引きした。
>>63
にっくき秀吉の血脈を断った大恩人に何て物言いw >>120
戦ジャンキーなヤンキー尾張閥が金や米のことを考えないとちくられたって、学級委員近江閥を逆恨みしたのが豊臣衰退の真相らしいね
それを鏡に武断派三河武士を徹底的に干した家康は何だかんだで政治感覚あった 豊臣の滅亡は
中継ぎを嫁と子供まで皆殺してムダに怒りを買って
家中の対立を放置して、外様五人の合議制とかやらかした秀吉の責任
家康がいなくても末路は変わらんかったろうよ >>127
残ってるどころか思いっきり将軍だしなw >>130
木下の姓を好んで使ってるし本当は大好きなんじゃねえの?w >>114
あの時代の
船舶じゃ海軍力で
日本みたいな国抑えきるなんて無理だしオランダ 家康か反家康かで戦ったこの戦いより
秀吉子飼いの武将で光成憎しで東軍に回った奴らの最後が哀れ >>123
頼朝も、池禅尼の恩がなかったら、頼盛もふくめて皆殺しにしてたのでは?
>>120
吉良、明智しかり、悪者扱いされてても領地では名君と慕われてたり。 天下人といっても全員相手にできるだけの力量はなかった
結束しないように働きかけるのが関の山 ご飯に汁を二度かけしただけで親に泣かれた奴は、生き残っててもどっちつかずの小田原評定で改易end。
>>134
朴姓のご先祖様は秀吉かw >>139
木下って姓自体はかなり古くからあるし由緒正しい氏族も多いんだけど、戦後の在日が好んだせいで一気に印象悪くなっちゃったな 真田の父と弟は九度山流しにあったぞ、まー命が助かっただけヨシなんだろうけど 北条は切腹を申し出たけど生かされて
切腹命ぜられたのは家臣ら 狡兎駆逐て、老犬煮らるる
ただそれだけ。
その繰り返しの結果、共同幻想を常に拠り所にする人間という種は、敵が完全にいない状態になると手が届かない場所に敵を作る様になった。 秀吉は常時最前線で働いてるスーパーブラック環境で子供を作る暇も無かったんじゃね? >>75
まあそうなんだが、戦に勝つ力と世を納める力は違うんだよね。
織田政権が続いていたとしても信長以後も
上手く治まったとは思えないな。 サツマイモは中世から収穫量がほぼ同じ、米は江戸時代144kg/反、現代は品種改良・農薬・化成肥料で540kg/反
2017年の鹿児島年間33万tのサツマイモを栽培(石高換算約220万石)同年鹿児島の米生産量98900t(石高換算約65万9333石)
だが中世なら21万9778石程の収穫量と推定、沖縄県は戦前50万t(333万石)以上を生産していたので江戸期も同じと推定
更にさとうきびもあったので、経済力も相当と予想、薩摩の炭水化物石高は600万石近くあったと思われる、倒幕の影に
日本がアメリカと4年戦えた影にサツマイモあり、サツマイモを超える炭水化物はじゃがいも、同じ作付け面積で米の4倍カロリー
は半分なのでカロリーベースで米の2倍、しかも年2回収穫(秋はやや少なめ)出来て遮光して涼しい場所に保管すれば常温で
8ヶ月保存可能、インドネシアには1590年代には宣教師を通じて伝来していたのに、日本伝来が江戸後期と遅かったのが残念 >>150
補足、沖縄県の戦前50万t(333万石)とはサツマイモのこと、薩摩が甘藷を入手したのは琉球が
栽培していたから、しばらく他藩に苗をとられないように取り締まってた。
琉球も甘藷をたくさんつくっていたとなると島津の石高は相当なものだったと思われる 島津はやっぱ最果てだから軽んじられてたんかな
ここでぶっ潰してれば幕末の革命はなかったろうが
それほど警戒されてなかったんだろうな 家康さん、太閤さんほど有能な奉行軍団持って無いので補給が続かないじゃら遠征苦手なんだわ。 秀吉が生きてても結果は同じだったのかな?
あと信長も 本気の島津は4万の軍勢を動員できるから家康は12万の軍勢を用意しなければならない
しかし豊臣家臣の家康にそれだけの動員力はない 関ヶ原合戦跡地とか一度は行けよ。俺は徳川陣営側にに行ったがまさしく。夏草や強者どもが夢の跡。て感じ >>1
長束は家康暗殺を企てて失敗してるから到底許してもらえない 伊達政宗みたいに外様扱いされると
国を転覆させるような一大事起こそうと画策するしな >>153
秀吉もやったが島津を屈服させる事は出来るがぶっ潰すとなると
おそらく家康でも無理
どうせ無理なら気前良く不問にした方が貸しにできると判断したんじゃね しかし、スペインに使節派遣すんのに
どうして家康は普通にゴーサイン出せたんだろうな。
どう考えても危険だろうに。 家康は武力と戦争以外で相手の力を落とす削ぐのが上手だよね
家康が頭いいか参謀が優秀だったんだろう >>155
秀吉生きてたら秀吉勝ってたよ
家康も戦いを挑めない 島津って歴史上ずっと活躍してるのに今の鹿児島の存在感ときたら… >>55
でも結局268年後に徳川滅ぼしてるから結果正解では 関ケ原は天下を分けた大合戦っていうけど実際の所はどう転んでもなびかない
上杉潰しが目的で家康は豊臣臣下内の争いですと秀頼が西軍に付かないように
手はずしてるし豊臣恩顧の武断派を味方に取り入れ
西軍の大大名の内部には内通者を置いて合戦後も別に本家を取り潰しなんてしないよ?
現状維持かちょっと減封だよって騙して毛利を抑え結果大減封してるからね
天下を取った後は東軍に付いた豊臣恩顧の大名にはケチつけて改易してるし
一官僚の三成が集めた西軍が勝つ見込みなんてゼロに近い >>164
脇坂家は大名として幕末まで生き残っていたような
事情子孫の某麻酔医が診療報酬詐欺で捕まったが・・・ 400年間、ずっとアスペアスペと悪口を言われ続けた男
石田三成 >>156
九州は向背が不確実な黒田如水や鍋島家もいたので
あまり時間をかけられなかったんだろうな。 大坂の陣、島原の乱と、関ヶ原の西軍勢力がどんどん都落ちしてったから
徳川260年、天下泰平のド平和過ぎる時代を過ごすことができたんだろ。
幕末になって世界戦国時代に移行するに当たり、海外交易やってた薩摩、長崎を
守衛してた肥前(今の佐賀)、対馬経由の準交易港みたいな地域だった長州と、
全て西側から時代を動かした力が結集して、西軍の恨みを晴らした流れになったんじゃないの。
>>176
徳川外様大名で生き延びた福岡藩の判断は、当然の帰結だった。
官兵衛は最後まで家康暗殺を狙ってたらしいが、息子からはムラッ気が多い、
既に時代遅れと冷ややかに見られてた。 >>155
秀吉は調略の天才だし無理じゃね
秀吉が対峙した陣営には必ず裏切り者が出る
家康にとっても、小牧長久手で戦には勝ってるのにアレよアレよと内部崩壊させられたのは恐怖だっただろう
それを真似た家康が勝ち、三成は負けた >>149
仮にイジメが本当だとしても、抜いたら断絶確定なのにやっちゃう時点でただの〇チガイですわ。 >>168
代わりに長州は安倍で安泰の割に、山口県は5Gどころか4Gもろくにカバーできないクソ田舎 三成も大垣城を出るのはいいが、何故関ヶ原だったんだ?
そのまま大津まで退いて立花宗茂と合流すれば良かった。
大津では立花が勝ってたから。 >>185
維新後に日本の陸軍指導しに来てたドイツ人の参謀が関ヶ原の布陣図見て西軍必勝って言ったぐらいだし、万全の迎撃態勢だったんだろ小早川さえいなきゃ >>185
史実では、小早川秀秋は合戦の後に裏切ったんじゃなくて
松尾山を占拠した時点ですでに東軍入りしてる。
だから大谷吉継は松尾山に向かって防御陣地を作っており
発掘調査でも明らか
大津まで逃げ帰るのは無理 そら家康でも毛利やら元大老とかの有力大名を全員切腹や斬首に出来んしな
地方を治める者が居なくなり再び戦乱時代に逆戻り 南宮山に陣取っていた毛利軍が戦に加わってさえいれば違ってたかもな。 >>185
三成が率いてる直属の兵は佐和山領が食い扶持だろ
領地見捨てて徹底的に蹂躙されたら家臣崩壊しちゃう 戦国時代にコロナが流行ってもいくさは減らんかったんだろうな… 単純に、戦後の残存戦力だろ
ほとんど兵を出さなかった島津はまだ戦う力が残ってる
戦わなかった毛利も兵力が残ってる
上杉は弱小最上と戦ってるだけ
石田、小西、宇喜多、大谷は関ヶ原で壊滅
関ヶ原敗戦の勢いで近くの領地だった長束正家は戦後の処分でなく、その場の処分
増田長盛も、領地が近くて、歯向かっても無駄 >>190
戦に加わらない総大将て、大坂の陣の豊臣秀頼並みに情けない どこの集団にもいる、学校じゃ教師にだけウケが良いヤツ、
会社じゃ上司にだけウケが良いヤツ、それが三成。
同僚や部下には蛇蝎の如く嫌われてるのに、
上司がいる限りは安泰だが、取り立ててくれた秀吉が亡くなったから、
無理やり戦を仕掛けたが、寝返り続出であっけなく負け戦。 戦国武将買い被りすぎなんだよ。
二階とか安倍とか枝野と似たようなもん。 まあ結局は我が薩摩藩が今も政ごとしてんだわ
徳川豊臣雑魚やわ >>186
あの古戦図、明治に作られた地図だぞ
17世紀に作られた古戦図とは全く違うもんだ >>198
薩摩は西南戦争で脱落
長州が唯一の勝ち組 >>174
脇坂家は堀田家の血になって
みなし譜代大名になったよ 中国大返しの立役者
安国寺と宇喜多への処遇を見れば、裏に光秀が介在していたのは歴然 うちの先祖は城持ちの小物だけど関ケ原付近で戦ってて西軍敗戦後に逃げて城奪い取って籠城したけど
城と領地ボッシュート高野山で数年反省しただけで許されたからそんな事はないと思う >>185
だよな。小早川はすでに東軍なのだから兵力で圧倒的に負けてるのに籠城するでも、逃げて味方と合流するでもなく城を出て決戦に挑むって… せめて秀次だけで終わってればね
駒姫が生きてりゃ最上義光を強烈な反豊臣にさせなかったかも >>205
最近の研究では本戦が大垣城攻めで、関ヶ原は撤退戦及び最後の足掻き的な戦だった説
家康も三成も関ヶ原には居なかった >>207
負け戦の最期の足掻きなら、当時名城名高い佐和山城に籠もるだろ
家康の首狙い=勝ち目狙いじゃないと野戦する意味がないんじゃないか? >>197
基本的にヤクザが政治家やってるようなもんだからな 信長が飛び出して行った後に誰も続かなかったらどうなってただろう >>209
ヤクザが政治家やってるようならむしろまだ健全な方
活動家が政治家をやるのに比べれば遥かにマシ 関ヶ原合戦跡地の近くに、天下分け麺どころ 両軍ダシで勝負って看板出してる店あったわ、食ってないけど >>183
実際のとこ薩摩長州であって島津毛利でないのがミソだな
幕末の動きは当の島津毛利にとってもいい迷惑、というか各々の
下層藩士の暴走に申し開きができないところまでおいやられて
腹くくらざるを得なくなったという方が正確 秀吉の自業自得だよ。公家にも顔が効いた身内の秀次を一族郎党惨殺し、金吾に対して酷い仕打ちしたからだよ。
この二人を厚遇してりゃあ没落は無かったのに。それと利休を殺した事も地味に効いてる。 >>190
毛利本家が吉川を蹴散らして参戦すべきだっただろうなw 毛利も島津義弘も実は後世思われているより積極的な西軍への加担だったそうな 政権運営に参加する譜代に大きな領土を与えちゃいけない
その事を鎌倉幕府と室町幕府から学んでいた
外様は領土は大きいけど政権運営には携わらせない ぶっちゃけ西軍が勝ったところで豊臣には暗い未来しかないだろうよ
内乱を起こした時点で豊臣家は終わってた 小山評定で黒田長政に調略された福島正則が一番のアホ
結果豊臣は滅亡、最終的に自家を含めた豊家恩顧の大名も多数が取り潰された
三成と確執があっても尾張閥が健在な限りは取り潰されることはなかっただろうにな >>216
すべて小一郎秀長が生きてたら起きなかったなw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています